できるできないじゃなくて、やれるかやれないか
できるかできないかという話ではなく
やれるかやれないかという話。
いつからそういう精神で育ったのだろうかと
考える時がある。
つまり「やりもしないでできるできないがわかるか」と、幼少期からずっと誰かに言われて育ってきた弊害なんだろうな。その誰かは親然り、学校然り、職場の人然り…会社は仕方がないとは言えど、親と学校がそれはどうなんだろうと歳を重ねて「わかるようになって」考えることが増えてきたなあと想う。過ぎたことは振り返ることはできても、その時、結果的に「やりたくない」と言えることはなかった。「無理できない」は言えるようになってきたものも、結局これは相手に対する拒絶に近くて、具体的にと言われるとわからないが正解で、もっと踏み込んだ言い方をすると、貴方は私に苦痛を与えたからだから私は拒絶する(ブリーチの織姫風に)としか言えないことがまだある。
「やりたくない」という選択肢が私にはないのかもしれないな。これから先もずっと。
なーんて、心は裏腹に「ちゃんと説明して、やりたくないを言えるようになりたい」という気持ちだけはあるけれど、決して立派な意思じゃないし、立派にするにはそれこそ精神的に苦痛が伴うことなので「あんまりやりたくない」のだ。
最近は色んなことをnoteやXで自分の気持ちを語るようにしたりして、交流の幅も広がったし、「海汐さんみたいになりたい」って言ってくださる人もいる。(まあ色んなことを語る人間と化してしまったために、変化についてこれずに一部の人からはめんどくせえなこいつって距離置かれたりもしたけど、そんなもんですよね。)正直こんな精神と根性論なんて、他人に強要だけはしたくないし、私にしかできないと思っているから絶対に真似しない方がいいとは都度色んな人に言っている。やりたいならやればいいけど(あれ?)、その結果、できなかったとしても、私のせいにだけはしないでくれればいい。
自分のことくらいは「やってみなきゃわからない」というままでもいいなと想う。私はそれができる人間だし、そうすることでしか自分を変えることはできないので、これからもずっとやってみて考えて、できましたを繰り返すだろう。


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