フィルター
昔から私は私のことが
あまり好きではなかった。
絵を描いても下手だなと思っていたこと。
ゲームもずっと上手くいかなくなったこと。
熱病の如く追っていた作品も追えなくなり、その作品が長寿となり、都心の広告やガチャガチャで見かけたり、誰かが話しているのを嫌でも見かけるようになることが辛かったこと。
誰かに好意や興味を持たれても、彼ら、彼女らは一時の気の迷いで私が好きなだけで、どうせ飽きたらすぐにいなくなるものだと期待できなくなってきたこと。
思い返せばずっと、私は誰かに雑に扱われても気づいたことはなかったし、それに甘えて過ごしてきたわけだから、仮に私がほぼ悪かったにせよ、相手は私よりも深く物事も言葉も考えることはできるはずで、どっちもどっちな争い事も多かったと思う。
いつからか無意識に自分をこれ以上傷つかないように、誰かに期待したりしすぎないようにと「自分と貴方は違う世界にいる」というフィルターをかけて、身を守る癖がついていた。
海汐として活動して10年くらいは経つが、今こうして自分を語ることができるようになるまでに、「それだけ」の年月と損を繰り返してきた。私は自分がやらかしたことも全てきちんと覚えているし、それが学びと反省にちゃんと繋がっているからこそ、私を大事にしてくれる人達には大事にしようと想える人間になれた。
人の言葉や行動には何かしら意味や意図がある。ないなんて有り得ない。どうでもいい人間にわざわざ絡むなんてことは有り得ない。何かしら微々たる「この人いいな」が絶対にあるからこそ、話しかけたいと知りたいと思えるのだ。それを定義付けれない、自覚してない人も中にはいるだろうけど、始まりは絶対に「人として好きかもしれない」だと思っている。
でも、それに軽んじて甘えてしまい、相手を傷つけたことで、私が傷ついて、また何も出来なくなることが怖くてと、フィルターをまた、かけるのだ。
「こんな私を好きにならなくていい。」
「こんな私に話しかけないでほしい。」
「こんなわたし」が「誰か」を
「好きになる必要などない」
というフィルターをかけ続けていくのだ。
『もう、こんな私にうんざりだ。』と想った。
誰かを疑いながら、
誰かの好意を軽んじながら、
向き合わない。
やらかしたことを精算しない。
責任を取ろうとしない。
「こんな私を捨てよう」と想えた。
そうすると、前よりかは視界が開けた。そうかと納得した。そうなんだ。私はずっとこうしたかったんだとわかった。
ちゃんと私は人を好きになりたいし
ちゃんと私は勉強がしたいし
筋トレもして、友達も作って
色んな人や作品をちゃんと好きで
ありたかったと理解した。
フィルターを捨て、
疑うことを手放した。
後は身を守るやり方を見つめ直すだけだ。
がんばろう。


コメント