❹JGBディーラー第一期
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JGBディーラーについては、こちらもご参考頂ければ幸いです。
JGBディーラーという職業について①〜④
https://note.com/jgb_js146/n/nfb83289ae7b0
https://note.com/jgb_js146/n/nf57b87b8ecd4
https://note.com/jgb_js146/n/n7c1b6ad604fd
https://note.com/jgb_js146/n/n72ef5da62228
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2007年1月から、だったか。入社前に配属面談を担当して頂いた方が、トレーディングサイドの部長だった時期であり、引っ張って頂いた事は後に知った。今となっては感謝しきれない。
いきなり中期債担当となった。当然最初の頃は色々な罠に引っ掛かった。HFからの償還手数料銘柄の対先トレード(JN銘柄(2年債)出し、先物取り)にあっさり騙されたり、レポが激締まっている銘柄をつい出してしまったり、5年債入札前場の先物売買で1億近くやられて「もう入札する余力無いです」と宣ってみたり・・・。
ただボラティリティが高く、取り返すチャンスは幾らでもあった。メガ勢も中期債が主戦場の時代であった。5年債入札では何度も良い思いをさせて頂いた。あの頃は発行額が1.5兆円ぐらいしかなかった記憶。決して私の力ではなく、組織の力、セールスの力であった。
貴重な利上げ及び利下げ局面も、中期債ディーラーとして最前線で体験した。先物にサーキットブレーカーが掛かっている最中、店頭で数千億の売買が為される事もあった。そう、確かにあの頃は売り買いが有った。誰かが売ればそれを誰かが買い、誰かが売ればそれを誰かが買う。当然1wayになる事も時には有ったが、売り買い交錯、という局面の方が多かった気がする。
1wayといえば忘れる事が出来ないのが6年債だ。4桁の売りが飛んで来て、ヘッジの先物成売りが届かない。意味が分からない人が多いだろう。システム改修前で、現在の様に瞬時に出合う事はなく、信じられないかもしれないが、目視出来る様な速さで約定処理が行われていた時代である。同じようなフローが間違いなく出ており、皆先物を売りに行くので、自分の番が中々来ないのである。ようやく自分の売りが出来たのは数十銭下である。で、そこから「オカワリ」が来る。流石に袖机を蹴り上げた記憶が・・・。
その翌日だったか、1週間後だったか、先物限月交代で当限月に強烈なスクイーズが掛かった。先物が強烈にラリーしても6年債のOfferは全く微動だにしなかった。当たり前である。ほぼ全員が6年ロング先物ショートなのだから。現在はその様な展開を想定出来る経験値があるが、当時はまだ青かった。
当時のセールスはベテラン揃い、ディーラーは中堅・若手揃いという構成だったのだが、よくセールスとはヤリあった。「なんで(BBの)板(の値段)が出ねぇんだよ」と言われ、「もっとマシなフロー持って来てくださいよ、いい加減」と言い返した事も有った。今振り返るとよく撲殺されなかったな、と思う。
セールスはコミッションだけを追い求め、ディーラーは収益だけを追い求める。そこに相容れるものは殆どなかった。給料もボーナスも大差は無く、テーブルで若干の強弱が付くだけであった。と書いていてふと思ったのだが、私が未熟だっただけなのかもしれない。ガス抜きで上の人が仕方なく付けているトレードも有ったので。ただセールス&トレーディングという考えは、当時は浸透していなかった様にも思う。それが本格的に変わったのは、買収後に人事給与体系が変更された後だったか。
本題に戻ろう。その利上げ局面で2年1.1%、5年1.6%、10年2.0%まで金利上昇を見せた後、強烈な金利低下・ブルフラット局面に入った。ベアスタショック・リーマンショックを経験し、メガ勢が本業ではなく、債券運用で稼がなくてはいけない局面となった。イールドカーブも相当立っていた。同償還には大体3銘柄ずつ並んでおり、損益調整ニーズも旺盛だった。2000年代後半はまさしく中期債の全盛期だった。
その後、5年債が0.5%だったか、0.4%だったか、の時に裏方(バックブック、今はなきプロップ)に回った。超長期債がやりたかったのと、チームの今後の展望、後輩の育成、等々を考えた総合的な判断だったと記憶している。同業他社の方からは何故自分から対顧客ディーラーを降りるの? そこに一番マーケットバリューが有るのに、とよく言われたが、個人的にはあまり気にならなかった。
そういえばその前に、中期債ディーラーとして外資系に転職しようとした事が有った。ちょうどそのタイミングで人事給与体系が変更され、外資系と日系のハイブリッドの様な形に変更され、それなりに待遇も変化した事もあり、結果、残る事を決めたのだったと思う。
次に海外の話となるので、小ネタを。これはもう時効だろう。部全員でTOEICを受ける、というイベントが有った。部の平均点は800点を超えていた記憶。当然ながらJGBのトレーディングデスクが一番平均点が低かった。私ともう1人のスコアが600点台、最後の1人は500点台だった。その方が海外拠点のセールスに、Your welcomeと返信してるのを見たのは、確かその後だったか...
その後4年間はバックブックでやっていたのだが、その頃にSwitterというレポートを書き始めた。ベースは今思い返すと、外債営業の時にLDN Japan deskで誰かが書いていた「ロンドンの目」というレポートだった様に思う。A4・1枚の上半分にチャートを貼り付け、日足の上下している部分に、そのタイミングでのイベントや材料を書き込んでいた。下半分には各市場のモニタリングと、自分自身のポジションや相場展望を、大きいレースがある時には競馬のGI予想も執筆していた。
セールスサイドに相場に興味を持ってもらいたい、ディーラーは普段こんな事を考えながら売買していると知って欲しい、という気持ちが半分。対顧客ディーラーではなくなりプライスを出していないので、トレーディングで損した際に「何かしらはやってますよ」というアピール兼ヘッジで書き始めたのが半分。幸い相場環境も良く、その言い訳を使う機会は結局無かった。
2013年後半だったか、それとも2014年に入ってからだったか。米国がTaperingを始めるという話が盛り上がって来た。今となっては信じられないが、日本でも近い将来、Tapering及び利上げ局面が来る事が予想されていた。ではそれを学びに行くのも1つだよな、という事で私のNY異動が決まった、という記憶が正しいかどうかは定かではない。ただそれは間違いなく理由の1つでは有ったと思う。かくして「俺は海賊王に、ではなくマクロトレーダーになる!」という事で、2014年4月に勇んでNYへ飛び立った。果たしてその結果は・・・。
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