❷外債ディーラー
配属されたのは外債のトレーディング部署だった。海外大出の同期はJGBのトレーディング部署に、FEコースで入った同期は債券営業(支店法人課)のマーケティング部署に配属されていた。ジョブローテーションを前提とした、まあ色々と勉強してみい、という配属だったんだろう。
外債のトレーディング部署とは言え、UST、Agency(Mortgage)、欧州債にはそれぞれ外国人ディーラーが配置されており、私の最初の担当はオージー(Aussie)だった。オーストラリア国債(ACGB)のプライシング及びポジション管理がメインだったが、その頃流行っていた売出債の管理も重要な仕事の一部であった。
売出債について。当時、3年債でクーポンが5−6%だったか?オーストラリアの金融機関が発行体となり、豪ドル建の売出債を出せば750−1500milぐらいのサイズで出ていた記憶。値上がりしなれば償還まで持っておけば良いのだが、その頃は明確な円安トレンドが出ており、豪ドル円が債券単価よりも大きく動いていた。従って債券単価が上がっていなくても、為替で10−20円取れていた(円安)ので、償還前の打ち返し(売却)もそれなりの量となっていた。で、ある程度のサイズに纏まったら、それを海外拠点のセールス経由で、多少スプレッドを乗せて海外の金融機関にオファーするのである。
ここまで書くと業界の人は誰でも理解出来ると思うが、誰がディーラーをやっていても儲かるビジネスだった。安く買って高く売れるのだから。確かこの時期に外債のディーリング部署で過去最高の収益を上げていた記憶が。決して自分の実力ではなく、マーケット環境と組織の力である。ただその場所に座っていて上手くビジネスが回っていたという経験は、後に大きくプラスに働いた。
TYA(米債先物)やRXA(独債先物)もこの頃から触っており、時々夜遅くまでやっていた。まあ遅くまで会社にいる、というのは大体アゲンストに行ってる時なんだが。そういえばその頃は仕組債が全盛期だったので、組成チームはとんでもない残業時間になっていた。なので私が夜遅くまでと言っても、彼らからすると全然早かったのだろう。
新入社員には当然インストラクターがつくのだが、そのインストラクターには大変お世話になった。今でもお付き合いがあるぐらいだ。今の優秀な学生とは違い、債券トレーディングどころか「債券」すらも知らなかった。Durationの式を説明されても、文系学卒の私には初めは全く理解できなかった。決して態度も頭も良くは無かっただろう私に、根気強く色々と教えて頂いたからこそ、その後のキャリアが有ったのは間違いない。
また課長も筋が通った人であり、理不尽だったのは今はなき防衛省近くのキャバクラの精算ぐらいしか記憶にない。その後の外債営業でもお世話になるのだが、聞けば丁寧に教えて頂いたし、酒の席での数々の無礼も受け流して頂いた。30代半ば以降は自分も管理職だったが、果たして同じように出来ていたのだろうか。ともかく、配属部署の課長とインストラクターには私のキャリアの礎を築いて頂き、本当に感謝している。
配属2年目?に新しい課長が来たのだが、この方にも非常にお世話になった。なんせ全てにおいて豪快であった。とりあえずやりたい事はやれ、取りたいポジションは取れ、責任は全て俺が取るから、と。六本木後、某所で寝ていて警備員に見つかり翌日部長にドヤされたり、こちらも今はなき上野のダンディに泊まり、朝マックを買って出社、とか今では許されない事案なんだろうが。あれ、仕事の話が・・・。
あっ、そういえばこんな話が有った。なんかのトレードで大損をこいた時だったと思う。色々と理詰めをされている内に徐々にテンパって来て「じゃあアンタがやってくださいよ」と私が逆ギレをした、と。後に色々な人から「アレは酷かったなぁ」と聞かされたが、私は正直覚えていない。まあ今の時代なら即異動案件だろう。流して頂いただけでも感謝である。
これも書き忘れていた。フロアの新人と各インストラクターが集まり、ガード下の居酒屋で新人歓迎会が開催された。どこでどういう風になったのかは不明だが、最終的に東銀座に3人ほど車で運・・・コレは書く必要が無かったか。私もその中の1人だった。まあ昔は何でもアリだった(笑)。
そんなこんなで2年弱、外債ディーラーの部署にいた後、想定通り?のローテーションで外債営業の部署へと異動になった。機関投資家営業である。今までは全て対社内で済んでいたが、対社外の仕事である。当然ながら順風満帆とは行くはずもなく・・・。


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