なぜ技術者はWindowsデフォルトのメモ帳を使わないのか
技術者という生き物は、どういうわけかWindows標準のメモ帳を嫌う。嫌うというより、軽く見下している。もっと正確に言えば、「あれはメモ帳であって、テキストエディタではない」と心の中で線を引いている。口に出すと角が立つから言わないだけで、内心ではそう思っている。実に面倒くさい連中だ。
理由は単純で、メモ帳は何もしないからだ。いや、何もしないこと自体は本来、道具として美徳であるはずなのに、技術者はそこに不満を覚える。シンタックスハイライトがない。行番号がない。文字コードを意識すると急に挙動不審になる。改行コードの違いで事故を起こす。保存したはずのファイルが、なぜか別人の顔をして現れる。こちらは真面目に仕事をしているのに、向こうは「私はただのメモ帳ですから」と責任逃れをしてくる。腹が立つのも無理はない。
だから彼らは、自分の“相棒”を持つ。Visual Studio Codeだの、Sublime Textだの、Vimだの、Emacsだの。宗派の話を始めると不毛なので深入りしないが、いずれにせよ「自分の流儀で世界を整えられる道具」を好む。設定ファイルを育て、ショートカットを身体に染み込ませ、気づけばエディタのほうが自分より賢くなっている。もはや文章を書くというより、儀式に近い。
──と、ここまで言っておいて何だが、そんな彼らも、たまにメモ帳を使う。しかも、あえて、だ。ここが人間の矛盾というやつで、私はこういう瞬間がわりと好きだ。
例えば、文字コード地獄を疑うとき。怪しいファイルを高機能エディタで開くと、親切心が暴走して勝手に解釈を始める。余計なことをするな、と言いたいが、設定を疑い、拡張機能を疑い、最終的に自分の人生を疑うことになる。そういうとき、メモ帳は静かに真顔で現れる。「私は何も考えません」と言わんばかりに。結果、原因が一瞬で判明する。憎んでいた相手が、急に頼もしく見える瞬間だ。
あるいは、誰かにファイルを渡す前。装飾も思想も一切抜きで、「ただの文字」に戻したいときがある。余計な癖が混ざると、相手の環境で爆発する。そういうとき、メモ帳は実に素直だ。裏切らない。期待にも応えないが、失望もさせない。
ここで少し脱線するが、私はこの話を学生にするとき、「技術者は道具に性格を求めすぎる」と言ってしまい、たいてい嫌な顔をされる。だが事実だ。彼らはエディタに理想の自分を投影する。一方で、メモ帳は理想を一切許さない。だから嫌われる。だが、だからこそ必要になる。
結局のところ、メモ帳は敵ではない。無口な同僚のようなものだ。普段は軽視され、雑用を押し付けられ、評価もされない。だが、皆が慌てふためく非常時、最後に残っているのはだいたい、そういう存在だ。
──この続きは、次で少し意地悪に掘り下げようと思う。
技術者がメモ帳を使う場面には、もう少し嫌らしい理由もある。先ほどは「純粋さ」や「素直さ」といった、少し美化した言い方をしたが、本音を言えば「責任を取りたくないとき」だ。
例えば、原因不明の不具合が起きたとする。ログを開く。普段使っている高機能エディタだと、色が付き、構造が見え、妙に理解できた気になってしまう。すると脳が勝手に補完を始める。「ここはたぶん大丈夫」「前も似たようなことがあった」。こうして、思い込みという名の落とし穴に自ら落ちていく。
そこでメモ帳だ。色も構造もない。冷たいほど無表情な文字列が、ただ並ぶ。理解できた気になる余地がない。読みづらい。実に不親切だ。だが、その不親切さが、こちらの思考を強制的に遅くする。行を一つ一つ追い、文字を疑い、改行を数える。結果、エディタでは見逃していた単純なミスに気づく。
技術者は理性の生き物だと言われがちだが、実態は錯覚と勘違いの塊である。その自覚がある人ほど、メモ帳を最後の審判として使う。
もう一つある。環境が信用できないときだ。初期設定のPC、借り物のPC、妙に管理が厳しい社内端末。勝手にソフトを入れると怒られる。設定を変えると怒られる。怒られる理由はよく分からないが、とにかく怒られる。そういう場所では、技術者は急に従順になる。
そして気づく。「あ、メモ帳は最初からいるな」と。
ここで彼らは、少し複雑な感情を抱く。普段は見下している存在に、助けられているという事実。これは自尊心に微妙なヒビを入れる。だから、「仕方なく使っているだけだ」「一時的な措置だ」と心の中で言い訳をする。実に往生際が悪い。
脱線ついでに言えば、私はこの姿勢に、どこか中年男性の健康診断への態度を重ねてしまう。普段は医者を信用しないのに、数値が悪いと急に言うことを聞く。サプリを買い、酒を控えたと言い張る。似ている。非常に似ている。
技術者にとってメモ帳とは、「理想の自分」を映さない鏡だ。そこに映るのは、スキルでも工夫でもなく、ただの文字と、それを読む不完全な自分だけだ。
だから嫌われ、だから捨てられず、だから今もWindowsの片隅に居座っている。
さて、次はもう少し厄介な話をしよう。
なぜ彼らは、そんなメモ帳を「あえて」選ぶ瞬間に、妙な誇りすら感じてしまうのか。そこには、技術者特有のややこしい美学が潜んでいる。
技術者が「今日はあえてメモ帳でいく」と口にするとき、その「あえて」には余計な感情が詰まっている。謙虚さの皮をかぶった自負、達観したふりをした虚勢、そして少量の自己陶酔。面倒くさいが、否定もしきれない。
高機能なテキストエディタを使いこなしている人ほど、最終的に「何も足さない」選択に価値を見出したがる。若い頃は機能を積み上げることに酔う。プラグインを増やし、設定を詰め、起動に数秒かかっても満足する。しかし歳を取ると、だんだん気づく。便利さは、思考を代行し始める、と。
そして、何もしてくれないメモ帳が、妙にまぶしく見えてくる。これは成長か退化か。本人にもよく分かっていない。
「あえてメモ帳を使える自分は、本質を分かっている」
この勘違いは、技術者界隈では割と頻発する。道具を選ばないことが実力の証、という考え方だ。確かに一理ある。だが同時に、それは「自分はもう道具に振り回されない段階に来た」という自己申告でもある。第三者が評価する前に、自分で免許皆伝を出してしまう。これもまた、人間らしい。
それでも、完全に的外れとも言えないのが厄介だ。メモ帳は逃げ場を与えない。補完も修正もしてくれない。エラーも親切に教えてくれない。だからこそ、そこに書かれた文字は、書いた本人の責任になる。技術者が本当に恐れているのは、難しい問題ではない。自分の理解が浅いことが、はっきり見える瞬間だ。
メモ帳は、それを容赦なく突きつけてくる。
私はよく、「メモ帳で十分と言い出したら、だいたい厄介な人間だ」と言ってしまう。これは半分は冗談で、半分は本気だ。なぜなら、その言葉の裏には必ず「君たちはまだ分かっていない」という含みがあるからだ。自分も散々若い人に嫌われてきたので、よく分かる。
それでもなお、メモ帳は今日も起動される。派手さもなく、進化もほとんどせず、Windowsの片隅で黙って待っている。技術者が一周回って、疲れ果てて、余計な装飾を嫌い始めたときの、最後の受け皿として。
結局、技術者がメモ帳を嫌う理由も、使う理由も、同じところに行き着く。
「自分は賢いと思いたい」という、どうしようもなく人間的な欲求だ。
面倒くさいが、少し面白い。
そして残念ながら、私もその一人である。
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