【告発】NO YOUTH NO JAPAN(@noyouth_nojapan)代表 能條桃子さん(@momokonojo)による草津町長に対する名誉毀損と性暴力について組織内で問題提起したら揉み消されました。
※ここにおける「性暴力」とは、一般的な意味の性犯罪やセクシャルハラスメント(セクハラ)に加えて、一般社団法人Springの定義する「性的な噂の流布や虚偽の性加害の吹聴」も指します。
はじめに
私は、2019年8月以降、NO YOUTH NO JAPAN(以下、NYNJ)に所属しています。NYNJは若者の投票行動や政治参加の促進を目的に活動している団体であり、(女性の)人権やジェンダーといった話題に強い興味関心を抱くメンバーが多く集まっています。他のメンバーとは必ずしも政治的な意見や主張は一致しませんが、志の高い多くのメンバーと一緒に活動できることを喜ばしく思います。
このたび、NYNJの創設者であり代表理事である能條桃子さんが過去に行った性暴力の加害について、組織内で問題提起を図るとともに、当事者や関係者に対する謝罪を求めました。しかし、能條桃子さんと共同代表の足立あゆみさんの両名は、組織防衛を優先して当事者や関係者に対する謝罪を拒絶し、事実上の「揉み消し」を図りました。
(主に女性の)人権やジェンダーを重視し、気候変動や政治参加においても「若者の権利」や「世代間格差の是正」を訴えているように、NYNJは社会正義や公平公正といった理念や概念を強く尊重しているはずの団体です。しかし、実際には、組織防衛のためなら、性暴力の当事者や関係者の人権や尊厳を無視ないし蹂躙する「コンプライアンスやガバナンスの欠如した組織」でした。
私は、この経緯を詳細に記して告発し、問題提起を図り、是正を求めたいと考えています。これは、人権や正義といった崇高な理念を標榜する団体が自らの保身のために「冤罪被害者の人権」を踏みにじった悍ましい記録です。
事実関係: 虚偽の性被害と能條桃子さんによる性加害
発端となったのは、群馬県草津町で発生した、町議会議員(当時)による「町長による性被害の被害」の虚偽告発と、この町長に対するリコールに関する一連の騒動です。
Webサイト「Twitter」における能條桃子さんによるツイートの送信
2020年11月16日に、能條桃子さんは、Webサイト「Twitter」(現: X)において、以下のツイート(現: ポスト)を送信しました。
このツイートは、「草津町長が唯一の女性の町議会議員に性暴力の加害に及んだ」という前提事実を断定したまま、被害を訴えた町議会議員が町議会から除名されたことを批判する内容です。このツイートは公開アカウントによって全世界中に送信され、現在でも記録が残っている2023年9月4日までの時点でまで掲載が続き、この約3年間に1,590回リツイートされました。
能條桃子さんは、あたかも草津町長による性暴力の加害が事実であるかのような前提で、町議会の対応を批判する内容を拡散しました。言わば「インフルエンサー」である能條桃子さんの言葉は、草津町長に対する「性加害者」ないし「性犯罪者」という汚名をインターネット上に定着させることに大きく加担しました。
チャットツール「Slack」における能條桃子さんによるメッセージの送信
また、2020年11月16日に、能條桃子さんは、NYNJが組織内で使用するチャットツール「Slack」においても、全メンバーに向けて、以下のメッセージを送信しました。
セクハラ告発したら議会の品位を落とすっていってリコールかけられるのやばくない?
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20201116/1000056258.html
このメッセージは、「町議会議員が町長によるセクハラの被害を受けた(草津町長が町議会議員にセクハラをした)」という前提事実を断定したまま、被害を訴えた町議会議員がリコール(解職請求)を受けたことについて批判する内容です。
司法による「性暴力の不存在」の確定
その後、司法判断の結果として、この町議会議員(当時)の主張していた「性暴力の被害」は完全な虚偽であったことが確定しています。
前橋地裁 2024年4月17日判決
元町議による性暴力の被害の主張は虚偽であり、名誉毀損にあたると認定。
東京高裁 2024年11月7日判決
一審判決を支持し、元町議の控訴を棄却。両当事者間の性暴力の事実は存在せず、元町議の言動が不法行為であると確定。
なお、刑事裁判においても、元町議に対して虚偽告訴罪および名誉毀損罪で懲役2年(執行猶予5年)の有罪判決が言い渡されています。
これらの司法判断により、能條桃子さんが拡散した情報は「事実無根のデマ」であったことが客観的に証明されました。民事および刑事の両面で判決が確定し、当事者や関係者の主張に照らしても、本質的な部分で「まだ明らかになっていない点」が残っているとは考えられません。
能條桃子さんと同じくこの虚偽情報を拡散していた一般社団法人Springは、2025年10月15日に誤りを認め、草津町長に対して公式に謝罪しています。この他にも、社会民主党の福島瑞穂党首を始め、草津町長に性暴力の加害者ないし犯罪者の濡れ衣を着せて叩いていた人たちは、次々に草津町長に対して謝罪しています。まともな人権感覚や社会常識を持っていれば、これは至極当然の対応です。
特に、一般社団法人Springは、草津町長に対する謝罪文で、以下のように述べています。
性的な噂を流すことや、虚偽の性加害を吹聴することは、性暴力の類型のひとつです。害を被る主体は、その性別や、個人であるか集団であるかを問いません。
町長のご指摘されるように、このようなことが生じれば、現に存在する性暴力被害当事者が、社会に向けてより声を上げにくくなるという深刻な負の影響をもたらす結果にもつながります
このように、性的な噂を流すことや、虚偽の性加害を吹聴することは「性暴力」です。実際に、私も「暇空茜」こと水原清晃によって、Webサイト「X」や「note」において、「東京大学の教授や真如苑の信者と幼少期から頻繁な性行為に及び、大学生になってから相手の妊娠と胎児の中絶に至り、これを理由に相手を脅迫しており、その結果として拉致監禁されて行方不明となり、やがて殺されて埋められた」とか「横浜市中区にあるソープランド『英国屋』において、従業員(いわゆる「風俗嬢」)に対する暴行ないし傷害やストーカー行為に及んだ」といった、性的羞恥心を著しく害する虚偽の情報を拡散され続けています。
したがって、能條桃子さんと「暇空茜」こと水原清晃は、どちらも虚偽の性加害を吹聴した「性暴力の加害者」です。
また、私の地元は群馬県であり、高校には草津町出身の同級生もいました。そんな私にとって、この一連の騒動は、決して「他人事」ではありません。
能條桃子さんがSlackで草津の町長や町議会を批判していたときも、「当事者の主張が対立している(町長が否定している)以上、いま決めつけるのは時期尚早ではないか」と苦言を呈していました。その上、2022年12月8日に当事者が「誤報だった」と認めた時点で、私はSlackで訂正と再考を促しました。このように、私は一連の騒動に強い関心を抱いていました。
(しかし、既に述べたとおり、能條桃子さんは少なくとも2023年9月4日まで、約3年にわたって草津の町長や町民を非難するツイートを削除せず、公開した状態を維持していました。)
NYNJ内部における問題提起: 「草津の町長と町民に謝罪しませんか?」
司法判断の確定のほか、一般社団法人Springの謝罪を受けて、私はNYNJの内部において、「草津の町長と町民に対して謝罪しませんか?」と問題提起し、組織としてのガバナンスやコンプライアンスの観点から自浄作用を促そうと考えました。しかし、実際に返ってきたのは、単なる「責任逃れ」と「論点のすり替え」でした。
私からの提言(2025年11月7日)
私は、Slackにおいて、以下の2つの点を中心に、NYNJに対して指摘および要求を送信しました。
・司法判断により性暴力が虚偽と確定したため、能條桃子さんの過去のツイートは法律上は名誉毀損、倫理的ないし道徳的にも性暴力に該当すること。
・被害者である草津町長および草津町民に対し、名誉毀損と性暴力の直接的な加害者である能條桃子さんおよびNYNJとして謝罪および訂正による名誉回復を図るべきであること。
NYNJの不可解な対応
これに対し、名誉毀損と性暴力の直接的な加害者である能條桃子さんと、NYNJの共同代表である足立あゆみさん(通称「しじみ」)は、以下の対応を取りました。
・議論の密室化の試み: 「個人の発信内容に関すること」であるとして、メンバーに公開されたチャンネルでの議論ではなく、ダイレクトメッセージ(DM)への移行
・記録に残らない手段の提案: テキストベースでの議論を避け、オンライン会議ツール「Zoom」での通話
しかし、私は、共同代表と一般メンバーの非対称性(圧倒的な力関係、いわゆる「権力勾配」ないし「権威勾配」)に照らし、情報の透明性を担保するとともに、「言った言わない」の水掛け論を防ぐため、これらを拒否し、他のメンバーにも公開されたチャンネルにおける回答を求めました。
露呈したダブルスタンダード
共同代表2名は当初、「SNSにおいて個人として発信した内容は、あくまで団体の活動とは無関係な個人の問題である」というロジックで責任を回避しようとしました。しかし、この主張はNYNJの過去の行動と矛盾しています。
過去に私が「AbemaTV」の番組に出演した際、あるdirector(幹部)は私にダイレクトメッセージ(DM)を送信し、「個人の活動であっても団体のイメージに影響する」として、私の言動に対して組織として介入および牽制を試みました。
・一般メンバー(私)の場合: 個人の活動であっても、「組織のイメージに関わる」として組織が管理および介入する。
・代表(能條桃子さん)の場合: たとえ組織の名称をアカウントに明記した発言であっても、「個人の問題」として組織は関知せずに放置・黙認。
私はこの明白なダブルスタンダードを指摘し、共同代表のガバナンスやコンプライアンスの責任を追及するべきと考えました。
NYNJからの回答: 「謝罪拒否」
2025年12月14日に、当初の問題提起から1か月以上の遅延を経て、共同代表の足立あゆみさんがNYNJの理事会を代理して、最終的な回答を示しました。その内容は「草津の町長や町民に対して謝らない」という内容でした。
NYNJの主張する「謝らない理由」
NYNJが草津の町長や町民に対して「謝らない」理由は、主に以下の3つでした。
・意図の否定: 「町長を性暴力の加害者と断定および糾弾する目的ではなく、議会の対応方法への批判を目的とするものだった」
・報道への依拠: 「当時は朝日新聞の記事に依拠しており、独自の断定はしていない」
・誤解への懸念: 「現時点で謝罪すると、町長個人に向けた糾弾を意図していたかのような誤解を招く恐れがある」
回答の分析と評価: 組織防衛のための詭弁
この回答は、いずれも法律的および倫理的に破綻しているものです。
・主観的な「意図」は免責理由にならない
最高裁第一小法廷1966年6月23日判決(最高裁民事判例集20巻5号1,118ページ)によると、名誉毀損の免責(違法性阻却事由の成立)には「真実性」が求められます。たとえ公益を図る目的があったとしても、摘示した事実が虚偽であれば、法的責任は免れません。能條桃子さんは「性暴力」という虚偽事実を拡散した以上、主観的な意図に関わらず、客観的な結果について責任を負います。当たり前ですよね。さもなければ、「公益を図る目的であれば誤報も許される」結果に直結します。
(「公益目的を図れば何でも問題ない」らしいので、私も今回の問題提起と告発に至りました。もちろん、能條桃子さんとNYNJのロジックだと、私を処分することは筋が通りませんよね。)
NYNJの見解は、交通事故を起こしても「ぶつかるつもりはなかった」と言い訳すれば免責になるのだ、と主張しているようなものです。そうすると、あらゆる性暴力の加害者は「合意があると認識していた」「傷つける意図はなかった」「猥褻な動機や目的はなかった」と主観的な言い訳に終始すれば免責されるのでしょうか。しかし、能條桃子さんは、このような加害者の「主観的な言い訳」を厳しく糾弾しており、たとえば大阪地検の元検事正が無罪を主張し始めたときは強く批判していました。
(そもそも、裁判で当事者が自分の有利に戦おうとするのは当たり前だし、どんなに極悪そうな被疑者や被告人であっても、極論を言えば暴力団やテロリストでも、厳格な手続や権利の保障の一環として、自己に不利な証言をしなかったり、無罪を主張したりと、防御権を行使する機会は厳格に守られなければならないのですが……。)
それどころか、冤罪で有罪判決を下してしまった裁判所が「検察官の主張と立証を信じてしまった」、もしくは起訴してしまった検察庁が「警察の集めた証拠や被告人の自白を信じてしまった」と言い訳すれば、冤罪の被害者は救済されなくても構わないのでしょうか。それでは、なぜ袴田事件では冤罪被害者の袴田さんに連帯していたのでしょうか。まったく筋が通りません。
(後述するとおり、人権や正義といった概念や論理ではなく、そのときの感情や気分で都合よく判断している「ダブルスタンダード」を自ら証明しています。)
・「報道の転載」は免責理由にならない
「メディアが報じていたから信じた」という主張についても、最高裁第一小法廷1981年4月16日判決(最高裁刑事判例集35巻3号84ページ、いわゆる「月刊ペン事件」)において、他人の文章の転載や噂話であっても、裏付け取材を行わずに真実であると軽信した場合は責任を免れない旨を判示しています。能條桃子さんは、草津町長側への取材および事実確認を一切行っていません。
民主主義を支える根幹は「正確な情報に基づく政治参加や投票行動」であり、NYNJや能條桃子さんはSNSや番組を通じた影響力ある情報の発信主体としての重大な責任を負っています。それどころか、NYNJはポストでも情報リテラシーの重要性を説いています。これでは情報リテラシーある読者は、能條桃子さんやNYNJの発信する内容を信じなくなってしまいます。それで構わないのでしょうか。
(もし「リテラシーある読者には信じて貰わなくて結構」というスタンスなら、いったい何のためにNYNJを運営して情報を発信しているのだ、となってしまいますが……。)
能條桃子さんやNYNJは、自分たちが加害者になった途端に「記事に書いてあったから」と、子ども染みた言い訳を述べながら思考停止してメディアに責任を転嫁しています。既に司法による「虚偽」との判断が確定した事実について、いまも謝罪や訂正による名誉回復を怠ることは、デマによって草津の町長や町民を踏みつけ続けているのと同じです。それに、「メディアを信じたくないから私(たち)は悪くない!」と稚拙な言い訳に走る人たちによる情報発信や解説を、いったい誰が信用するのでしょうか。
・「朝日新聞を信じただけ」という言い訳の嘘
NYNJは、能條桃子さんの発言した内容について「朝日新聞の報道した範囲内に留まっていた」と主張しています。一方で、能條桃子さんは、ツイートで「草津町長が唯一の女性の町議会議員に性暴力の加害に及んだ」と述べています。
しかし、このツイートでURLが掲載されているニュースには「町議会で唯一の女性議員」である旨が記載されていません。このニュースでは、この町議会議員は、あくまで「新井氏は町長からセクハラ被害に遭ったと告発し、昨年12月に町議会から除名処分を受けた」と取り上げられているに過ぎません。どう読んだら「唯一の」女性議員、となるのでしょうか。
また、後出しで「第三者委員会の設置」を例示しながら「対応の在り方を批判するものです」と言われても、そんな発言は当時の記録から伺えません。第三者委員会の「だ」の字も見当たらないのに、こんな苦しい言い訳が通用すると思っている時点で大間違いです。
以上のとおり、能條桃子さんの発信した内容は「朝日新聞の報道した範囲」に留まることなく、実際には、能條桃子さんがこのURLこそ掲載しながらも、ご自身で情報収集して想像を膨らませてツイートを送信したことが伺えます。
したがって、NYNJが示した「能條桃子さんは朝日新聞をソースに発言しただけ」「朝日新聞の報道をした範囲を逸脱していないのだから問題なし」という稚拙な弁解は、すぐバレる嘘にまみれた言い訳ということです。濡れ衣を着せておいて嘘で逃げようとするのは、いくら何でも酷すぎるのではないでしょうか。
・「被害者不在」の自己保身とダブルスタンダード
「誤解されるから謝らない」という論理は、「自分たちが批判されるリスクを回避するために、冤罪被害者の名誉回復を拒絶する」という呆れた宣言に他なりません。これは、NYNJが掲げる「人権」や「正義」の理念や概念と真っ向から対立する態度です。自分たちが草津の町長や町民に対する誤解を招いたくせに、どの口で「誤解されるかもしれない」と宣うのでしょうか。こんな厚顔無恥な態度も、ここまで開き直って突き通せるなら、もはや一種の現代アートに思えて聞きます。
能條桃子さんは、自分が連帯や興味関心を示す(自称)被害者の声には熱心に耳を傾けて抗議活動にも参加するのに、ご自身によって虚偽情報を拡散された冤罪被害者の人権や尊厳については、冷酷なまでに無関心です。それどころか、草津の町長や町民の人権や尊厳よりも、組織の防衛や保身を優先しています。
もはや、どの口で2024年12月14日に強制性交等被告事件の無罪判決を言い渡した大阪高裁や被告人(医学部の大学生)、もしくは元部下に対する性暴力に及んだとして起訴された大阪地検の元検事正を批判するのでしょうか。「自分たちが気に入った弱者」だけを守り、「自分たちが攻撃した相手」の人権は無視するのは、「人権」や「正義」の概念に真っ向から相反します。それは単なる「ポジショントーク」であり、党派的な政治活動に過ぎません。もはや二度と「人権」や「正義」を口に出すな。
ところで、この草津の町長や町民に対する態度に照らすと、今後これらの被告人が無罪判決を言い渡されたり、その判決が確定したりしても、能條桃子さんは名誉毀損の加害者として謝罪する意向はない、ということでしょう。そんな無責任な態度で性被害を糾弾することは許されるのでしょうか。というか、そんな無責任な態度のまま、自分たちの主張を聞いて貰えると思っているのでしょうか。
(いっぺん訴えられてみて、この稚拙な言い訳が裁判所で通用するのか試してみたら、と思ってしまいます。)
また、もし草津の町長と町議の性別が逆だったら、どうでしょうか。ある男性が無実の女性に対して「彼女は枕営業をしている」「売春をしている」というデマを拡散し、裁判で嘘だと確定した後に「信じていただけだ」「攻撃するつもりはなかった」と謝罪を拒否したとします。
この構図は、まさに能條桃子さんが強い問題意識を持っていた伊藤詩織さんと山口敬之さんのケースを想起させます。山口敬之さんは裁判(第一審: 東京地裁 平成29年(ワ)第33044号 損害賠償請求事件・平成31年(ワ)第2458号 謝罪広告等反訴請求事件、控訴審: 東京高裁 令和2年(ネ)第472号 損害賠償、謝罪広告等反訴請求控訴事件・令和2年(ネ)第2593号 同附帯控訴事件)において、伊藤詩織さんから「就職活動について自分が不合格であるかを何度も尋ね」「自分からベッドに入ってきた」などと主張し、あたかも伊藤詩織さんが就職のために身体を使った(枕営業をした)かのようなストーリーを展開しました 。しかし、東京高裁はこれらの山口敬之さんの供述を「信用できない」「不自然」と断罪し、性暴力の事実を認定しました。
もし仮に山口敬之さんが敗訴確定後にも「私は彼女が誘ってきたと本気で信じていたから枕営業だと言いふらしたことに悪意はないし、謝罪もしない」と無責任に言い放ったら、能條桃子さんはどう反応するでしょうか。能條桃子さんは、きっと「セカンドレイプだ」「加害者の身勝手な論理だ」と激昂するはずです。
また、その伊藤詩織さんでさえ、法的責任からは逃れられていません。伊藤詩織さんは著書『Black Box』の中で山口敬之さんが「デートレイプドラッグ」を使用したと記述しましたが、東京高裁は「真実とは認められない」「真実と信ずる相当な理由もない」と判断し、伊藤詩織さんに対して名誉毀損およびプライバシー侵害として55万円の損害賠償を命じました 。自身の性被害が認定された当事者である伊藤詩織さんでさえ、客観的な証拠なしに「ドラッグを使われた」と発信したことについては、賠償責任を負わされているのです 。 それにもかかわらず、当事者ですらない第三者の能條桃子さんが、事実確認もせず「新聞を信じただけ」という稚拙な言い訳で、無実の町長を「性犯罪者」扱いした責任から逃れられると考えているなら、それはあまりにも甘ったれた「特権意識」ではないでしょうか。
ここには、能條桃子さんの「男性に対する加害なら許される」という、歪んだ差別意識が見え隠れします。「性暴力」というセンシティブな事象を利用して他者を攻撃しておきながら、それが虚偽だと判明しても責任を取らない態度は、本当に性暴力に苦しむ人々に対しても、極めて不誠実です。
それに、この態度は「もしNYNJで男性メンバーが女性メンバーから性暴力やセクハラの被害を受けても取り合って貰えない」「それどころか男性メンバーが濡れ衣を着せられても保護や救済を受けられない」という恐ろしい可能性や蓋然性に直結します。代表者による加害や冤罪を頑なに認めない姿勢というのは、組織内の不和や心理的安全性の欠如に直結します。これはこれで、NYNJは、また新たなコンプライアンスやガバナンスの問題を露呈したとも言えます。
結論: どの口で「人権」や「正義」を謳うのだろう?
以上の経緯から明らかになったのは、NYNJという組織の以下の実態です。
・司法軽視: 確定した司法判断よりも、自分たちの過去の正当化を優先する。
・人権の二重基準: 自分たちが支援する属性の被害は重視する一方で、冤罪被害者(草津町長)の人権は無視する。
・ガバナンスの欠如: 代表者の不始末に対して自浄作用が働かず、組織全体で隠蔽および擁護に走る。
私は、NYNJという組織に自浄作用を期待していましたが、その希望は組織の保身や防衛によって打ち砕かれました。無実の人間を「性暴力の加害者ないし犯罪者」扱いして社会的に抹殺しようとした加害責任に向き合わずして、いったい何が「人権」や「正義」なのでしょうか。
名誉毀損と性暴力の直接的な加害者である能條桃子さんおよびNYNJが草津の町長や町民に対する謝罪から逃げ回り続ける限り、能條桃子さんおよびNYNJの標榜する「人権」や「正義」は「空虚な詭弁」のままです。なぜなら、名誉毀損と性暴力の直接的な加害者である能條桃子さんおよびNYNJこそが「最も卑劣な形で草津の町長や町民の人権を侵害し続けている張本人」だからです。
また、謝罪や訂正による名誉回復を拒否したり、お仲間で正当化し合ったり、それどころか嘘をついてまで言い訳して惨めに逃げ回る行為は、虚偽の性加害を吹聴される形で性暴力を受けた草津の町長や町民に対する「セカンドレイプ」ではないのでしょうか。どの口で性犯罪や性暴力を騙っているのだろう。
私は、このような実態をNYNJの内部で是正することが不可能と判断したため、ここに事実経過および証拠を公開して問題提起し、社会的な議論を求めます。私は、名誉毀損と性暴力の直接的な加害者である能條桃子さんおよびNYNJが草津の町長および町民に対して誠実な謝罪を行うまで、私はこの問題を追及し続けます。
追記1: そんな稚拙な態度だから、被選挙権訴訟で負けるのでは?
名誉毀損と性暴力の直接的な加害者である能條桃子たちが原告となって国を訴えていた「被選挙権年齢の引き下げ」を求める訴訟(若年成人被選挙権剥奪違憲確認等請求事件)について、2025年10月24日に、東京地裁は原告らの請求を退ける判決を言い渡しました。つまり、能條桃子さんたち原告の「敗訴」です。
被選挙権訴訟の判決概要
この判決において、東京地裁は地方議員や都道府県知事の被選挙権年齢が選挙権年齢(満18歳)より高く設定されている現状について、以下のように判示して合憲性を認めました。
「地方議員として公職に就いた者が複雑多岐な公務に携わり、誤りのないようにするためには、相当の知識や豊富な経験ないし社会的経験に基づく思慮と分別を必要とする」
「政治のこのような局面において、一定の社会経験を有することは、なお軽視し難い意義を有するものと考えられる。そして、一般的には、社会経験の多少は年齢と比例関係にあるといえる」
つまり、東京地裁は「政治家には、社会経験に基づく思慮と分別が必要であり、それは未熟な若者には不足している可能性がある」という判断を下したのです。
能條桃子さんの言動が「若者リスク」を証明していないか
もともと私は、被選挙権年齢の引き下げには賛成する立場です。民主主義の理念に照らせば、政治参加や投票行動は可能な限り多くの人に認められるべきだと考えています。しかし、草津の町長や町民に対する一連の言動に照らすと、この判決理由には、一定の説得力があるように感じられるようになりました。
なぜなら、能條桃子さん自身が草津の町長や町民に対する言動において、まさに「社会的経験に基づく思慮と分別」の欠如を露呈し続けているからです。能條桃子さんは、事実確認も行わずに「町長による性暴力」という虚偽情報を拡散し、草津の町長や町民に対する名誉毀損に及びました。また、確定判決によって性暴力の存在が虚偽であると確定した後も、「当時は新聞を信じた」「攻撃する意図はなかった」という幼稚な言い訳を繰り返し、嘘をついてまで被害者への謝罪を拒否しています。
・事実確認を怠る軽率さ: 東京地裁の示した「相当の知識や豊富な経験」があれば、一方的な情報を鵜呑みにすることの危険性を理解できたはずです。
・責任転嫁する無責任さ: 自分の過ちを認めず、メディアや「意図」に責任を逃がす態度は、東京地裁の示した「思慮と分別」ある大人の振る舞いとは対極にあります。
東京地裁が懸念した「思慮と分別のない人物が政治家になるリスク」は、原告である能條桃子さん自身が身をもって体現してしまっているのです。
能條桃子さんたちは、「若者でも政治を担える」「年齢で差別するな」と主張して裁判を起こしました。本来なら一理あるかもしれません。しかし、そのリーダーである能條桃子さんは、冤罪被害者の人権を踏みにじりながら「謝ったら負け」といわんばかりの態度で開き直っています。
このような人物が首長や地方議員になっていたら、どうなっていたでしょうか。誤った情報に基づいて無実の市民を公権力で攻撃し、それが間違いだと判明しても「意図はなかった」と言って責任を取らない政治家が誕生することは必至です。このような事態を防ぐためにこそ、現行の年齢制限(という名の見識のフィルター)が機能しているのだと、皮肉にもこの裁判と一連の騒動が証明してしまっている気がします。
(もちろん、昨今の政界やニュースを見ると、年齢によるフィルタリングが機能していない、という問題は非常に多く散見されますが……。)
社会通念を補強する皮肉な結末
東京地裁は、被選挙権の年齢要件の設定について「国会の裁量権の限界を超えるものとして、これを是認することができないとされる場合に当たるということはできない」と結論付けました。能條桃子さんのような「責任能力の欠如した若者」を見れば、国会が年齢制限を立法裁量で維持している判断は、あながち間違っていなかったと言わざるを得ません。能條桃子さんの言動、とりわけ間違いを犯した際の不誠実な対応が「若者にはまだ政治を任せられない」という社会通念を補強してしまったのではないでしょうか。
追記2: 「被害者の言い分を一方的に信じない」リテラシーこそ必要ではないか
能條桃子さんは、当初、「性暴力の被害者に連帯する」ために、当初のツイートを送信なさったのでしょう。その崇高な意図や目的は、決して咎められるものではありません。一方で、有罪判決が確定する以前の被害者支援は、どうしても「冤罪の被害者を生む」とか「虚偽の告発に加担する」リスクと表裏一体という構造があるはずです。
性犯罪や性暴力に特有の「密行性」
特に、性犯罪は「密行性」から、証拠や証言による裏付けのハードルが高く、被害者の心情や心理としても、犯罪の発生から警察や支援機関の相談までの時間が長く掛かってしまうことも不思議ではありません。どうしても捜査機関の立証に限界があります。
一方で、もし濡れ衣だとしても、疑いを掛けられた立場の人物が必ずしも疑いを晴らせるとは限らないし、もし成功しても疑いを晴らせるまでの時間や費用のほか、失われた名誉や信用は、誰も返してくれません。
処罰感情と比例して高まる「冤罪で人生を破壊されるリスク」
また、性犯罪やセクハラといった性暴力は、市民社会や世論における処罰感情が強く、刑事司法における厳罰化のみならず、職場や学校における調査の徹底や処分の強化が進んでいます。特に、ひとたび疑いを掛けられれば、その真偽に関係なく(=たとえ濡れ衣であっても)、逮捕の実名報道によって職業や地位を失ったり、名誉を毀損されたり、ともすれば友人や恋人や家族を失ったりと、人生を木っ端微塵に破壊される蓋然性もあります。誤認逮捕による実名報道も、裁判上は救済が不十分です。
(この点について、まだ刑事司法であれば裁判所と検察庁が分かれており、お金がなくても国選弁護人が付く時点で適正手続が一応は保障されていますが、職場や学校による内部の対応は、調査する主体(刑事司法における検察庁の役割)と判断主体(刑事司法における裁判所の役割)と執行主体(刑事司法における刑務所や労役場の役割)が一致しているとともに、疑いを掛けられた立場の人物が自分で防御できる限界もある一方で弁護士に依頼すれば完全に自腹ですから、明るみに出ていないだけで構造上の問題は実は「より深刻」と言えるのかもしれません。)
「虚偽の被害申告」が生まれやすい構造上の特徴
どうしても性暴力には、捜査機関(警察や検察)には「どうしても証拠が乏しい」ハードル、疑いを掛けられた立場の人物には「人生を完全に破壊される」リスクが、それぞれ存在しています。もちろん大半の被害(申告)者は違うと信じていますが、アリバイ工作や保身(不貞行為の隠蔽、妊娠・性感染症(STI)の弁明、門限・規則違反の正当化ほか)、報復・私怨(関係のもつれ、社会的信用の毀損ほか)、金銭的・実利的利益の追及(美人局、親権・離婚訴訟ほか)、同情・注目の獲得といった動機による意図的な虚偽の被害申告は容易に想定できます。実際に、日本に限らず外国でも、虚偽の性被害を申告した悪質なケースが散見されます。
この他にも、被害申告者の故意のように悪質なケースでなくとも、たとえば「満員電車で混んでいた」とか「被害を受けてパニックになっていた」という理由で被害者が犯人を誤認してしまうような、やむにやまれない過失も考えられます。当事者間のコミュニケーション不全や、薬物・アルコールの影響による妄想や幻覚も、理論上は可能性を否定できません。
捜査機関による誘導尋問やカウンセリングにおける暗示によって、実際には起きていない記憶が形成されるとか、細部が変容するパターンも理論上はあり得ます(人間の記憶なんて、大抵は意外とあやふやです)。もっと深刻かつ日本に特有な事情として、捜査機関による被疑者に対する人質司法や自白強要も、きちんと考えなければなりません。
このように、性犯罪や性暴力の被害を訴えたからといって、必ずしも性犯罪や性暴力が実際に存在したとは限りません。
「かわいそうな被害申告者」でも批判的に話を聞くリテラシーが必要ではないか
したがって、たとえ被害者に連帯する崇高な意図や目的が存在したとしても、当事者の主観的な主張や認識だけで、特定の人物を性犯罪や性暴力の加害者や犯罪者と一方的に断定して貶める言動には、とても大きなリスクが存在しており、適切な「被害者支援の在り方」は今後の新たな課題と言えるでしょう。むしろ、結果的に「性犯罪や性暴力の濡れ衣」という新たな性暴力を生んだり、言い訳して冤罪被害者に対するセカンドレイプに及んだりする恐ろしい蓋然性があるからこそ、濡れ衣を着せられた人に対する性暴力やセカンドレイプも、性犯罪や性暴力と同様に、未然に防ぐ厳格な体制が必要です。こういうことを言えば、いまは「セカンドレイプ」と言われるかもしれませんが、被害者の支援に携わる人たちには「性犯罪や性暴力の被害を訴えた人物の主張や認識を鵜呑みにしない」リテラシーが求められるはずです。
追記3: 冤罪やネットリンチ被害者の救済や権利回復も課題
被害者を支援する活動を円滑かつ協力に進めるには、どうしても被害者や支援活動に対する同情や共感を集めなければなりません。事件によっては、被害者が自ら目撃証言や、厳罰な処罰を求める署名を集めなければならない場合もあるでしょう。その過程で、加害者とされた人物を糾弾ないし批判したり、事件について可能な範囲で明らかにしたりすることも考えられます。実際に、能條桃子さんも、特定の事件について、被告人に対して処罰を求める署名運動や集会ないしデモを主催していました。
(草津町長に対して謝罪しないまま、控訴審で無罪判決を言い渡された医学部の大学生や、まだ有罪判決が言い渡されていない元検事正を糾弾する行為は「まるで草津町長に濡れ衣を着せた言動を微塵も反省していない」と厳しく評価されても仕方ないでしょう。)
やはり犯罪行為の断定には慎重になるべき
しかし、特定の無罪判決について抗議したり、特定の被告人に対する厳重な処罰を求める署名を集めたりする行為は、その裁判における被告人を「犯罪者である」と名指しで糾弾するのと実質的に同じ意味を持ちます。一方で、いかなる被疑者や被告人であっても、理論上は無罪の可能性が一応は存在し、少なくとも裁判手続においては「推定無罪」が約束されていなければなりません。実際に、草津町長による女性議員に対する性暴力は存在が否定されており、かかる判決が確定しています。この他にも、起訴便宜主義によって起訴された場合の有罪率が高い本邦においても性犯罪の無罪判決は多く存在します。
そうすると、犯罪事実を否認している被疑者や被告人について、あたかも確実に犯罪に及んだ加害者であるかのように断定する行為は「時期尚早」との指摘を免れません。やはり特定の人物を「間違いなく犯罪者である」と断定する行為は、特に証拠関係のあやふやな性犯罪においては、どうしても慎重になるべきでしょう。
それでも断定せざるを得ないなら、重大な責任を覚悟せよ
そうは言っても、有罪判決が確定するまで「加害者」とされた人物を批判できないのは著しく不合理とも言えます。犯行から時間が経過すれば世論の関心は薄れるし、判決にこぎ着けるまでに被害者に対する手厚い支援が必要なケースも考えられます。「推定無罪だから一切の批判は許容されない」と杓子定規に言い切るのも、およそ現実的ないし合理的とは言えません。しかし、そうであれば、濡れ衣を着せてしまった主体(今回であれば能條桃子さんや一般社団法人Springほか)には、冤罪被害者の人生を原状回復する(濡れ衣を着せる前の状態に戻す)重大な責任があるはずです。具体的には、濡れ衣が晴れた相手に対する真摯な謝罪と反省を重ねたり、謝罪や訂正による名誉の回復に務めたり、ともすれば損害賠償に応じたりしなければならないはずです。
少なくとも、能條桃子さんのように開き直ったり、嘘をついてまで逃げ回ったりするのは言語道断だし、そんな人に「加害者」とされた人物を批判ないし糾弾する資格は最初から存在しません。
未成熟な社会は誰かに刑罰を下す資格はない
また、刑事補償の相場が安かったり(勾留や拘禁でも1,000円~1万2,500円/日、死刑執行では3,000万円)、国家賠償請求で捜査機関の違法性を立証するハードルが高かったりと、そもそも国家が冤罪被害者(や、その家族)にとって満足できる水準の責任を果たしていると言い難い現状についても、きちんと考えなければなりません。失われた時間やキャリア、名誉や信用、人間関係や平穏な生活といった多大な損失や甚大な被害に照らせば、「高くても1日あたり1万2,500円」(時給換算で約520円)というのは「安すぎる」との指摘を免れません。
しかも、たとえば袴田事件で元死刑囚となった袴田巖さんのケースだと、2014年3月の釈放から2024年10月の無罪判決までの10年間は、身体拘束されていないため「1円も」刑事補償はありません。再審請求審の鑑定費といった実費は約2800万円だそうですが、これも「費用補償」の対象外です。
国家権力が「無実の市民」の自由を奪い、人生を破壊したにもかかわらずその回復を十全に行わないのであれば、市民が国家に刑罰権を信託する「社会契約」としての根拠は「崩壊している」も同然です。治安や平穏といった公共の利益を享受するために捜査機関による権力行使を是認しながら、その誤作動によって人生を破壊された冤罪被害者に対して満足なコストを支払っていない構図です。
「濡れ衣で誰かが犠牲になっても、秩序が保たれれば問題ない」というのは「未成熟な功利主義」に他ならず、これでは「私たちの社会は、誰かに対して捜査権や刑罰権を行使できるほどに成熟していない」と言わざるを得ません。もし誰かが冤罪で人生を破滅させられる悍ましいリスクが残るとしても、それでも治安や平穏といった公共の利益のために捜査機関による権力行使を是認するのであれば、その公益のための「特別の犠牲」となった冤罪被害者には、公的なリソースを惜しみなく投入して、徹底的かつ網羅的な「人生の原状回復」を図る他ありません。それが冤罪を生みかねない捜査権や刑罰権を行使する上での「唯一の解」のはずです。
「市民社会による制裁」としてのネットリンチの原状回復は新たな課題
さらに、草津町長のように、刑事司法によって勾留や制裁を受けたのではなく、インターネットで大勢から加害者や犯罪者として私的制裁(リンチ)としての誹謗中傷を受ける「ネットリンチ」の場合は、もっと厄介です。
刑事手続であれば一応は厳格な手続保障が法令で規定されており、冤罪であれば救済の責任を負う主体が明確に国家と特定されています。強制捜査のためには一応は第三者である裁判所の判断を経る必要があるし、捜査や裁判の過程で少なくとも形式的には弁護士を頼ることもできます。事実認定は概ね証拠に基づくことになっているし、直観的には悪そうな行為でも可罰的違法性や量刑の議論も存在します。国家が犯罪者に対して刑罰権を行使するまでには、幾重ものプロセスが存在し、たとえば「怪しそうだから処罰されて制裁を受ける」ことは少なくとも建前上はありません。
あやふやな噂でも「怪しい」と決めつけられれば人生終了
しかし、インターネットでは、あやふやな噂が根拠であっても、たとえ証拠がなくても、なんとなく「怪しい」とかパッと見で「悪そう」というだけでも、容易に即座の私的制裁(リンチ)が発動し、まったく悪くなくても、もしくは大して悪くなくても稀代の極悪人のように扱われ、一生ずっと消えないデジタル・タトゥーを強制的に刻み込まれます。草津町長の事例はもちろん、手前味噌で恐縮ですが、先ほどの「東京大学の教授や真如苑の信者と幼少期から頻繁な性行為に及び、大学生になってから相手の妊娠と胎児の中絶に至り、これを理由に相手を脅迫しており、その結果として拉致監禁されて行方不明となり、やがて殺されて埋められた」とか「横浜市中区にあるソープランド『英国屋』において、従業員(いわゆる「風俗嬢」)に対する暴行ないし傷害やストーカー行為に及んだ」といった性的羞恥心を著しく害する虚偽の情報が好例でしょう。たとえ嘘や無理筋でも、ひとたび放火されれば炎上し、それを見た人たちが「火のない所に煙は立たぬ」とデマを信じ込んでしまいます。
往々にして反論や反証の機会は与えられず、必ずしも誰かが庇ってくれるわけでもありません。必死に反論ないし反証しても聞く耳を持たれず、あっという間に誹謗中傷の津波や土石流によって社会的な評価や信用は毀損され、人生を滅茶苦茶に破壊されます。「表現の自由」や「通信の秘密」を野放しにした結果が「このザマ」ではないでしょうか。
いざ加害者を特定しようにも、被害者の行く手を阻む「通信の秘密」と「表現の自由」
かといって、いざインターネットで濡れ衣を着せてきた相手を被害者が特定しようにも、インターネットを介した権利侵害であれば「通信の秘密」が立ち塞がります。軽微な表現や同定可能性を満たさない場合であれば「表現の自由」の観点から開示請求が認容されないこともあるし、電子メールやダイレクトメッセージ(DM)は発信者情報開示請求の対象になりません(情報流通プラットフォーム対処法2条1号における「特定電気通信」の定義を参照)。もしIPアドレスが開示されても、プロバイダが接続ログを保存していなかったり、CGN(LST)によるIPアドレスの重複により発信者を特定できなかったりするケースも多々あります。
そもそも「表現の自由」も「通信の秘密」も、本来であれば国家権力による規制や検閲や盗聴を防ぐための権利なのに、いつの間にか他人を自由に傷つけたり、隠れ蓑を得たりする卑劣な口実として転用されている実態があります。誹謗中傷やネットリンチが「通信(一対一の秘密のやり取り)」ではなく、不特定多数への放送や演説ないし流布に近い性質を持つ以上、これに表現の自由や通信の秘密を厳格に適用して保護するのは「街宣車や拡声器を使って相手を匿名で罵倒できる」構造であり、あまりにもバランスを大きく誤っています。
被害者に突き付けられる「理不尽な二者択一」
それどころか、被害者が大勢の加害者について発信者情報開示請求を講じることは、実務的にも経済的にもハードルが極めて高く、決して現実的ではありません。もし特定できたとしても、私がそうであるように、加害者の人数や誹謗中傷の回数だけ訴訟を提起すれば、ネットリンチの被害者は「毎日が裁判漬け」です。毎日まともに眠れません。
一方で、被害者は、発信者情報開示請求を講じなければ加害者を特定できないし、加害者に対して訴訟を提起しなければ損害の回復を受けられずに、人生を破壊されたのに「泣き寝入り」を余儀なくされます。
このように、発信者情報開示の技術的なハードルや、対等な個人間の紛争を想定している民事訴訟制度の限界によって、誹謗中傷やネットリンチのような「非対称な暴力」に対して、被害者はSNSでも法廷でも、往々にして「多数に無勢」の闘いを強いられるのです。
今回の事例で言えば、草津町長が大勢な加害者に対して訴訟を提起していないのは、自発的に「法的措置を講じていない」というのみならず、そもそも「法的措置を講じるためのハードルが高すぎる」という実情も、決して無視できないのではないでしょうか。
したがって、被害者は「莫大な負担を覚悟で大量の裁判を提起する」か「人生に発生した甚大な損害を甘受する」という、あまりにも理不尽な二者択一を強いられています。もっと言えば、いざ訴訟を提起して判決を勝ち取っても、加害者に資力が存在しなければ、弁済を受けられません。
理不尽な「被害者負担」とでも言うべき非対称な構図
このように、現状では、市民社会がインターネットによる自由な言論空間や迅速な情報伝達という莫大な利益(メリット)を享受している一方で、その暴走した言論による被害(デメリット)は運悪く標的となった被害者が単独で負担させられている、あまりにも非対称な構図が存在します。この「受益者負担」ではなく理不尽な「被害者負担」とでも言うべき、莫大な公益の副作用として甚大な苦痛を受ける被害者に対する公的な救済や権利回復の欠落ないし欠如は、言わば国家および市民社会による被害者に対する「犠牲の強要」に他なりません。
これは幾分かポジショントークとしての要素も孕みますが、自由かつ迅速な情報通信による多大な公益を享受し、ともすれば凄惨な被害が発生するリスクを是認しながら、その誤作動や副作用によって甚大な被害を受けた被害者や犠牲者に一切のコストを支払わない既存の構造は、そろそろ限界を迎えているはずです。プロレスラーの木村花さんや兵庫県議会議員の竹内英明さんを始め大勢の犠牲者が生じたり、私や草津町長のように甚大な被害を受けながらも満足な救済や権利回復を受けられない大勢の被害者が苦しんだりする現状に照らせば、この被害者にとって理不尽すぎる構図を大きく変えなければ、次々と犠牲者が生まれ続けることは必至です。
この社会こそ「共同体による救済への転換」と「当事者に対する責任追及の徹底」を選ぶべき
私たちの社会は、(1)通信の秘密や表現の自由を守る代わりに被害者を公的なリソースで徹底的に救済する「共同体による救済への転換」と(2)通信の秘密や表現の自由が後退するとしても被害者が加害者を容易に特定して法的措置を救済できる環境を整備する「当事者に対する責任追及の徹底」の二者択一を迫られています。現状では(3)通信の秘密や表現の自由のために加害者の特定も中途半端に阻むが、公的なリソースによる救済や権利回復は一切なく、結果的に被害者は放置されて皺寄せを受ける「被害者への過剰な負担と犠牲の集中」の構図ですが、これが制度的に限界に達しつつあるのは、先述のとおり、多くの犠牲者や被害者の存在が証明しています。
現実的な被害救済のスキームが存在しない以上は「私たちの社会は、インターネットやSNSを使ったり、表現の自由や通信の秘密や知る権利を享受したりできるほどに成熟していない」と言わざるを得ません。「誹謗中傷やネットリンチで誰かが犠牲になり、しかも救済や権利回復を受けられなくても、インターネットやSNSが便利ならば問題ない」という無秩序の容認は、これも冤罪を放置ないし黙認するのと同じ「未成熟な功利主義」に他なりません。
「通信の秘密」「表現の自由」を断固として維持するなら、これらの「受益者」たる市民社会による被害者救済と権利回復が必要
もし社会がこのインターネットやSNSという「凶器」を適切にコントロールできるほどに成熟していないなら、たとえ「移動の自由」や「財産権」があっても道路交通法や道路運送車両法があるように、インターネットにおける表現の自由や匿名性についても、強力な規制(免許制や実名制、厳格なトレーサビリティの確保)を導入せざるを得ません。そうすれば、被害者は救済や権利回復のために、加害者を容易に特定して提訴できます。草津町長も、もっと大勢の相手に対して責任追及できたのではないでしょうか。
徒歩や公共交通機関でも「移動の自由」を行使できるのに、それでも敢えて自転車や自動車を使えば、一定の責任やコストが伴うのは当然です。同じように「表現の自由」は紙とペンで、「知る権利」は書籍や新聞で、それぞれ行使できるのに、敢えてインターネットを使うのであれば、相応の責任やコストが伴うのは当然のはずです。むしろ、いままでインターネットの使用について発生する責任やコストが低すぎたとすら形容できます。その結果として、能條桃子さんやNYNJのように、なり振り構わない無責任な人たちが野放しになっているとも言えます。
しかし、これらの措置を「自由な言論を後退させる」「通信の秘密が脅かされない」ととして反対するなら、その代わり、被害者救済のためには公的なリソースによる救済や権利回復が当然です。これ以上の「被害者ほったらかし」は容認されない以上、「共同体救済主義への転換」と「当事者救済主義の徹底」のどちらかを選ばなければなりません。
現実的には、SSLやCGN(LST)のほか、VPNやTorの存在に照らせば「当事者救済主義の徹底」には自ずと限界があります。また、現実的には加害者の資力の問題もあるし、加害者に対する損害賠償請求は損害論や因果関係論の観点から満足な金額の慰謝料が認められないのが通例ですから、どうしても公的なリソースを用いた被害者救済や権利回復によって「共同体救済主義への転換」を図る他ないように思えます。莫大な利益(公益)を享受する主体たる市民社会として、その一員が甚大なデメリットを受けたときに救済や権利回復にリソースを割くのは、共同体主義の観点からも合理的なはずです。つまり、どんなに能條桃子さんやNYNJが嫌がっても、草津町長が救済を受けられる仕組みを社会として構築する、ということです。
たとえ誹謗中傷やネットリンチによって重大な権利侵害や不可逆的な被害が発生するとしても、それでも「表現の自由」や「知る権利」といった公益を享受するとともに、ともすれば「通信の秘密」によって加害者の特定すら阻むのであれば、その莫大なメリットを享受する市民社会として、デメリットを一方的に負担させられる被害者に対して、公的なリソースによる救済や権利回復を講じる議論を、いますぐ始めるのは至極当然です。それこそが「人権」や「正義」の観点から強く求められるのではないでしょうか。
参考資料(Slackのログ)
参考資料としてSlackのログを以下のとおり公開します。ただし、当事者間の直接的なやり取りを無制限に公表するのも憚られるので、有料販売します。もし1次ソースに触れたかったら、適宜ご購入ください。
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