伊藤詩織監督『Black Box Diaries』をめぐる噛み合わない議論の本質。「10ヵ月後の会見」で見えた食い違い
過去数年を総括したとは言い難い記者会見
本記者会見で、伊藤詩織監督から繰り返し語られたのは、制作の動機や、日本公開で両親や近しい友人にようやく映画を見せることができた感傷など、主に当事者性にもとづく説明だった。一方、同席したプロデューサーであるアクヴィリン氏からは、正義を追求するコストの高さや、スウェーデンと東京の性暴力救援センターの数の比較が語られ、「だからこそ個人のストーリーを描くことが公益性を持つ」と、作品の社会的意義が強調された。しかし、それらは昨冬のキャンセルされた記者会見時に配布された資料や、伊藤詩織監督がホームページで公開してきた資料ですでに伝え続けてこられたものでもあり、対立する論点に対しての見解が、整理の上に述べられていくような記者会見とは言い難いものであった。 会場に最も緊張感が走ったのは、「なぜ、警察官のアイデンティティがわかるような描き方をしたのか、ジャーナリストとして聞きたい」という質問に関するやりとりだった。伊藤詩織監督は、「なぜいけないのか、わからない」「名前は出していないし、声と姿は加工し、一般視聴者には彼を特定することはできない」と回答。質問者は映画内に登場する会話から、警察内部の同僚は人物を特定できてしまうと説明したが、伊藤監督は、”警視庁の上が止めたのだ、サバイバーとして知る権利がある”と、それ以上の質問を寄せ付けない緊迫した面持ちで回答し、その瞬間はその日一番緊張感が会場に走った。 ジャーナリストとして向けられた質問に、サバイバー当事者としての回答があり、論理的な質問は、感情的な答えだけを引き出した。記者会見を待っていた世間と、会見全体の「噛み合わなさ」の象徴であるかのように見える瞬間であった。
司会者の中立性には疑問
疑問に思ったのは、FCCJの会見の仕切り方であった。冒頭には、司会を務めた人物が次のように語った。「弁護団は、弁護士会の倫理規定に抵触する行動をしており、通常弁護士は依頼人の評判や秘密を守る義務がある。しかしながら、我々は弁護士にどう仕事をすべきかレクチャーする立場にはおらず、また、弁護士らにジャーナリストがどう仕事をすべきかレクチャーされる所以もない。調査報道は、しばしば同意なしになされねばならないものだ」続けて、同作品が放送界の権威であるピーボディ賞を受賞したことに言及し、公共の利益は文書の同意よりも重要だと説明をした。 また、質問は全部で10問程度取られたが、、日本で問題視されてきた事柄に関して聞けた記者はほとんどいなかった。そのような状況で、何問かはオンラインで寄せられる質問から、司会者が選んだ質問を、彼が代理で読み上げる形で行われたことにも深い違和感を覚えた。質問こそが記者会見の場を作るものである。何を聞くかを開催者側と同一化しているように見える司会者が選ぶのであれば、それはPRイベントの一種であり、記者会見であると言えるのだろうか。 司会者の選任プロセスや、司会者の言葉はFCCJとしての見解であるかを外国人記者クラブ(FCCJ)の委員会に求めところ、「FCCJは任意団体なので、記者会見の司会者は挙手制となっています。司会者の言葉は彼の私見であり、FCCJの立場を代表するものではありません。私たちは、司会者は中立で公平であるよう求めています」と回答があった。 また、オンラインで寄せられる質問を、その内容を把握した上で司会者が選んで代読するという慣習はFCCJで通常行われているものかという質問には、「記者会見を生中継で配信し、加盟メンバーのジャーナリストからも質問を受け付けるシステムがあります」と説明があった。一方、昨年の西廣弁護士らの記者会見では、そのようなシステムは使われなかった。 伊藤詩織監督は、記者会見に先んじて、4種類の資料をホームページに公開。その一つは、「事実に基づいた冷静な議論と、性暴力の被害者が安全に声をあげられる社会づくりに向けて、対話の扉を閉じずにいたいと思っています」という言葉で終えられていたが、記者会見は、残念ながら対話の架け橋になるものではなかった。
蓮実 里菜(文筆家)