伊藤詩織監督『Black Box Diaries』をめぐる噛み合わない議論の本質。「10ヵ月後の会見」で見えた食い違い
溝が埋まるチャンスがなかった記者会見
12月15日、伊藤詩織監督らによる、ドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』に関する記者会見が行われた。本作は多くの国際映画賞で上映され、日本人監督によるドキュメンタリー映画として初めて米アカデミー賞のノミネート作品となった。2024年10月に元代理人弁護士らからさまざまな問題点が指摘されていたが、その問題点は改善されないまま海外で上映されていた。この会見は、「修正版」が2025年12月12日に日本でも上映されたあとの会見だった。 【写真】問題点を指摘されたときは世界中で上映されていた 出席者は、エリック・ニアリ氏(プロデューサー)、ハンナ・アクヴィリン氏(プロデューサー)の3名である。制作会社であり、また日本での共同配給会社であるスターサンズからの出席者はなかった。当日は、上映会+記者会見というスケジュールで伊藤監督の体調不良により当日にキャンセルが発表された会見が、10ヵ月越しに実現した形となった。 文筆家の蓮実里菜さんは、日英バイリンガルの視点から、伊藤詩織監督の説明が言語圏で異なるという提起を日本で最初にメディアに行った。映画の問題をきっかけに伊藤監督の裁判資料にもすべて目を通したという蓮実さんが今回の記者会見に参加し、見たものは。
HowとWhatの対立
映画をめぐっては、昨年冬からさまざまな報道がなされてきたが、疑問を呈し、そのやり方を批判している人と、高く評価する人に二分されている。あらゆる物事は究極的にはそうかもしれないが、この件に関して、それらの二極はほぼ対話できないほどの溝があるのが特徴のように思える。長く待たれた記者会見は、溝を埋める役割が期待されたが、残念ながらその一助とはならなかった。 映画に懐疑を呈する人たちの意見は、観点は様々あれども、究極的にはその「手法」、つまりは「やり方」に収斂される。 たとえば、裁判限定で使用すると誓約書を交わした上で提供された防犯カメラ映像を、許諾を得ることなく映画に活用した点。伊藤詩織さんの裁判に協力した人物らに対する隠し撮りで作品が構成されている点。それらを防犯カメラ映像を入手した際の連名の誓約者であった元代理人から記者会見で告発された時にとった手法(謝罪広告の要求や、弁護士の懲戒請求への言及)。許諾関係に問題があることを認識しながら上映を先行させた海外で、映画が日本での上映が未定な理由について、性暴力に無理解な日本社会やそれについて語ることをタブー視する日本の文化の問題として説明してきた点。 2月に記者会見をキャンセルした際の声明文では、許諾がないまま映像や音声を活用した出演者らへのお詫びと一部差し替えの意向が表明されたが、その後も海外では「オリジナル版」の上映・配信が続き、DVDとして発売されたやり方。記者会見が映画の公開前に開催されることはなかった、やり方──。 一方、評価する人たちは、「社会にとっての作品の価値」というwhatの意義と、そして誰によってそれが作られたものであるかというwhoを根拠にすることが多い。 その作品には社会を変える「公益性」があるのだから、その公益性の実現のために不可欠だった防犯カメラの無許諾使用は土台問題にされるべき事柄ではなく、また、映画内で登場する他者の人権侵害と声高に叫ばれてるものはちょっと使われる程度なのだから、そういう“少々の不手際”を過剰に批判するのは社会を変えようとしている果敢なサバイバーに対する配慮を欠いたことだ。実際に、海外ではこんなに高く評価されている。伊藤さんがこんなにも責められてしまうところが、この非凡な作品の意味を理解できないところこそが、性暴力に愚鈍な日本社会の問題なのだ──というものだ。