体とは裸である
今週は外に出ることがなかった。
朝から夜まで、夜から朝までひたすら家にいた。どこかに出かけたかな、と考えてみたけれど、そんな記憶はなかった。ひたすら家にいたということになると思う。家で何をしていたか考えたけれど、同じように記憶はなかった。
外に出ることは新たな発見につながる。
こんなところにお店ができたんだ、あるいはこのお店潰れたんだ。お店に行けば、新商品が発売されていることや、旬の野菜が並んでいるところも見ることができるかもしれない。季節は冬だけれど、咲いている花もあるかもしれない。
家にいると新たな発見は難しい。
しかも基本的にはずっとパソコンの前にいる。パソコン前の椅子に座っているのだけれど、根が生えてしまったのかと思うほどに、ずっと座っている。そうなると新たな発見は難しい。どれも見慣れたものばかりなのだ。
自分から新たなる発見をしようと能動的にならなければ、部屋の中では新しい発見は難しい。もっとも外に出かけることが一番能動的なわけだけれど、外には出ないので、部屋の中で能動的にならなければならない。
それはそれで難しい。
家にずっといると頭の回転は悪い気がする。もちろんずっと外にいれば頭の回転がいいわけでもない。大切なのはそのメリハリであり、メリハリが新たな発見を生むのかもしれない。そのメリハリがなく、新たな発見、新たな発見と考えることで焦りが生まれ、新たな発見は難しいものになる。
ただ私は家にいることが多い。
このような状況に慣れている。ずっと家にいる状況でも、頭をフルに回転させ、自分がまだ知らなかった事実に気がつくことができるのだ。自分が知らなかった新しい事実こそが新しい発見なのだ。
体と裸は韻を踏んでいる。
私が今週見つけた新しい発見だ。この事実に気がついた時、私は愕然とした。同時に世界は広がり、光に満ちた気がした。韻を踏んでいるのだ。「からだ(体)」の母音は「あああ」であり、「はだか(裸)」の母音は「あああ」なのだ。
つまり一緒なのだ。
体とは裸であり、裸であるからこそ体なのだ。裸はいけないことだと思っていた。しかし人類は体を持つ。その体は裸なのだ。裸でもいいのだ、という素晴らしい発見なのだ。
もちろんわかっている。
母音が一緒なだけで裸が許される理由にならないことは。しかし、体と裸にはそのような密接な関係があるということだ。裸を発見した人は体を見て、それに近い音にしたのかもしれない。あるいは体を発見した人は裸だったのかもしれない。祖先は体とは裸なのだよ、それが正しい行為なのだよ、と我々に伝えなかったのかもしれない。
さらに朗報だ。
私はずっと家にいる。裸でも許されるのだ。誰かに何かを言われることはない。なぜなら私はずっと家にいるからだ。問題があるとすれば、寒いことだ。季節は冬なのだ。家の中も十分に寒い。裸で過ごすには厳しい環境にある。
それでも体とは裸なのだ。
体を持つ我々は裸であることが求められるのだ。裸にならなければいけないのかもしれない。そのような時代なのだ。私に言えるのは、そのような時代ということだけだ。



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