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ケースバイケースなどと仰られておる方がいますが、全てのケースにおいて「私刑」です。 この断定は感情的な断罪ではなく、むしろ近代社会が長い時間をかけて積み上げてきた法秩序と、市民性の成熟という観点から導かれる必然的な結論です。 法治国家において、違法性の判断と制裁の行使は、個人から切り離され、制度に独占されています。これは国家権力の肥大を正当化するためではなく、誰かの怒りや正義感が、別の誰かの人生を恣意的に破壊することを防ぐための安全装置です。SNS上で行われるさらし行為は、この安全装置を意図的に解除し、個人が自らを裁定者の位置に置く行為です。そこには、反論権も、証拠の吟味も、制裁の相当性を検討する過程も存在しません。制度を経由しない制裁は、その内容がどれほど「もっともらしく」見えたとしても、構造的に私刑以外の何物でもありません。 しばしば「悪事を白日の下にさらすことは公益にかなう」「被害者が声を上げる手段が他にない」といった反論が提示されます。しかし、公益や被害者性は、制裁権の正当な主体を個人に移譲する理由にはなり得ません。仮に制度が不完全であったとしても、不完全な制度を迂回して無制限の制裁を行うことが正当化されるならば、法治は単なる建前に堕します。制度が不十分であることと、制度を破壊することは、まったく別の問題です。 デジタルシティズンシップの観点から見ても、SNSさらしは市民的行為ではなく、未統制な権力行使です。デジタル空間では、発信は瞬時に拡散し、半永久的に残り、検索可能な形で個人に貼り付けられます。この環境下での「さらし」は、単なる批判や告発ではなく、社会的評価を恒久的に毀損する制裁として機能します。しかも、その影響範囲や持続時間について、行為者は一切の責任を負わないことがほとんどです。これは、市民としての責任ある発信とは正反対の態度です。 また、SNSさらしは正義を装いながら、実際には「集団による道徳的優越の確認」という性格を強く帯びます。誰かを悪として可視化することで、参加者は自らを善の側に位置づけ、安心と高揚を得る。しかしその過程では、行為と人格、過失と悪意、是正可能性と不可逆的制裁の区別が消失します。これは近代刑法が否定してきた見せしめやリンチの論理であり、媒体がデジタルに変わっただけの私刑です。 「結果として問題行為が止まった」「社会的注意喚起になった」という主張もありますが、結果の偶然的な成功は、手段の正当性を保証しません。もし結果が良ければ私刑が許されるのであれば、法は常に後景に退き、声の大きさと拡散力を持つ者だけが事実上の裁定者となります。その社会は、弱者を救うどころか、より脆弱な人間を次の標的として差し出す構造を内包します。 結局のところ、「ケースバイケース」という言葉は、私刑であるという不都合な事実から目を逸らすための緩衝材にすぎません。動機が善であろうと、対象が非難に値する行為を行っていようと、制度を経由せずに制裁を加える行為は、常に私刑です。 デジタル社会において求められるのは、怒りや正義感を即座に可視化する衝動ではなく、それを制度と熟議に委ねる自制です。その自制を放棄した瞬間、SNSさらしは正義の仮面を被った私刑となり、例外なく、すべてのケースにおいて私刑であり続けます。
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【「SNSさらし」正義か私刑か 議論】 news.yahoo.co.jp/pickup/6563088