戦略と純粋さ ― ふたつの「いい人」が問いかけるもの
はじめに
学校という閉鎖空間
学校って、すごく特殊な場所だ。私は卒業してようやく、大きく息を吸えるようになった。春になって、学校について思いを馳せる度、戻れない切なさと、戻らなくていい安心感にほっとする。
私にとって一番窮屈だったのは、中学校。田舎の小さな学校だったので、それはそれは濃い人間関係が築かれていた。そして、その狭い世界で、いじめや嫌がらせは起こり続けていた。こんな経験をしたのは、私だけではないだろう。学校は総じて、窮屈で苦しい。それを思い出したのは、吉野万理子著「いい人ランキング」を読んだからだ。
この物語は、文化祭で開催予定だったミスコンが中止になった代わりに、「いい人ランキング」を開催しようとクラスの中心人物である女子が言い出したことから始まる。クラスの「いい人」に選ばれた主人公の木佐貫 桃(きさぬき もも)は、自分の存在価値をそこに見出すようになり、次第にエスカレートする要求に過剰適応していくのだ。
見えない序列と空気の圧
いい人ランキングを行おうと言い出し、桃を追い詰めていく人物は、いわゆるスクールカーストのトップ1・2の2人だ。取り巻きの女子も、男子のイケてるグループも、2人の機嫌を損ねないように気を遣い、それ以外のクラスメイトはもちろん逆らえるはずもなく、言いなりになる。そんな中学生の教室の空気が見事に描写されていて、読んでいると自分もそこにいるような気持ちになってくる。
特に、桃があるはずもない教室の鍵を探していて授業に遅れていくシーンは、胸がヒリヒリする。授業が始まったのに、自分だけ授業に参加していない焦燥感、結局見つけられないまま授業中に教室に入っていく気まずさ、先生に𠮟られているときの周りの目と空気。私自身は同じ体験をしていないが、桃の微妙な心情が痛いほど伝わってくる。その息苦しさを、静かに、しかし確実に感じ取らせる描写だった。そして、それが悪意によって仕組まれていたのだと知った日には、、、桃がふさぎ込んでいくのは無理もない。
いじめとは空気を操ること
学校で起こるいじめは、始まりが曖昧だ。桃の場合も、善意で行っていた日常の小さなことが、どんどんエスカレートしていじめに変わっていく。いい人がらみのからかいが増え、いい人だからと雑用を押し付けられる。最初は小さな違和感だったものが、次第にあからさまな態度に変わっていき、桃はもともと「そういう扱われ方をする人間だった」という空気が教室を覆う。
いじめの正体は、いじめの主犯格が操る空気だ。いじめの主犯格は、大抵スクールカースト上位で、クラスでの発言権がある。その人が黒と言えば白も黒になり、その人がいじめると決めたら誰も逆らえない。先ほどの鍵を探して授業に遅れていくシーンでは、それがよく表されている。「日直である自分の代わりに、教室に置き忘れた鍵を探してきてほしい」と頼んだのは、例の主犯格2人。桃がいない状態で授業がスタートしても、誰も先生にそのことを伝えないのは、余計な口出しで2人の機嫌を損ねたくないからだ。これから2人がやろうとしている作戦を潰しかねない行動は、誰も起こさない。そして、何も知らない桃が遅れて授業に参加し、先生に𠮟られている時には、忍び笑いや茶化した横やりを入れることで、クラスの全員で「桃が変な行動を取ったせいで𠮟られている」という空気感を作り出す。こうして皆が「空気を読む」ことで、いじめている側がクラス全体の雰囲気を意のままに操れるようになっていく。
いじめに反発したり、先生に告げ口したりしないのは、自分が次のターゲットになりたくないからだ。たとえいじめのターゲットが仲の良い友達であっても、その子とはもう関わらない。本当は悪いことをしていると感じても、保身を優先してしまう。そうでもしなければ、学校という閉じた社会では立ち行かないのだ。次第に孤立していった桃は、学年の人気者で別クラスのいい人に選ばれた尾島 圭機(おじま けいき)との関わりを通じて、打開策を模索していく。
戦略的いい人
同じようにクラスの「いい人」に選ばれたのに、どうしてこうも境遇が違うのかという桃からの質問に対して、尾島はこう答える。
『いい人』には二種類いるんだよ。心底いい人と、いい人を演じてる人と
桃は前者だ。本当に人が良くて、他者を思いやる力があって、純粋で。だから、人の悪意に鈍感で、自分がなぜいじめられているのかにも気が付けない。尾島は真逆の存在で、他者の感情の機微に敏感で、場の空気を読む力があって、それを自分の望む方向に動かすことができるタイプだ。尾島はその能力を「いい人」を演じることに使っているが、同じ能力をいじめに使う人間もいるのだ。それを尾島は「いじめ遺伝子」と呼び、原始時代に人間が生き残るために必要だった能力だが、平和になった今の時代にはそぐわないからひっそりと隠して生きるべきだと説く。尾島は自身の狡猾な能力(いじめ遺伝子)を持っていないふりをして、いい人を演じることで学校という狭い世界を上手に生きている。
いい人として生きていく
一般的には、尾島のようなタイプが「生きるのが上手」で、桃は「生きづらさそう・不器用」と表現される。だが、私はどちらが良い悪いということはないと考えている。
桃にとって尾島のような考え方や戦略は、到底理解しがたいものであり、その心理的葛藤が丁寧に描写されている。例えば、いじめられている理由を言い当てる尾島に、桃は「どうして」と繰り返す。どうしてそんな酷いことを考えるのか。どうしてそんな理由で貶められなくてはいけないのか。どうして尾島はそんなやり方でいじめを解決しようとするのか。桃は初めて人の悪意に触れ、大いに戸惑う。しかしそれは、純粋に人を信じ、打算なく人と関わってきた証でもある。
いい人を演じてきた尾島にとって、人間関係は打算だらけで、悪意も善意も操作して自分の印象を作り上げていくのが普通だった。バカなふりをして人の下に回ることで、いい人を演じながらも誰かの脅威にならないように立ち位置を工夫する強かさがある。だからこそ、尾島にとって桃ような人は、鈍くさく感じると共に、心が救われる眩しい存在なのだ。
死ぬまで一生やりきれたら、『いい人を演じた』んじゃなくて『いい人だった』と言えるんじゃないかな
桃にそう言われた尾島は、小さな声で「もしも、いい人がおれのまわりに居続けてくれたら、あるいは、な」と呟く。尾島がいい人を演じられているのは、桃のように真っ直ぐに自分を信じてくれる人がいるからだ。不器用な桃は桃なりに、その温かい心を持って解決に向けて一歩を踏み出していく。
おわりに
いじめに抗うのはとても難しい。気が付いたら始まって、それが当たり前になって、学校という小さな世界の中でターゲットを変えながらずっと続いていく。「いい人ランキング」は、そんなゲームに巻き込まれた桃が、苦しみながらも鎖を断ち切ろうともがく物語だ。現実はそう上手くいかないかもしれない。それでも、誰かの小さな勇気が、空気を変えていじめのない教室に変えられるかもしれない。それぞれが持つ能力(性格や特性)をどう使って人と関わっていくのかを考えるのが、いい人ランキングを読んだ読者としての責任ではないだろうか。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
まだまだ拙い文章ですが、定期的に更新していくつもりです。
スキを押していただけると大変励みになります!


コメント