鎖国少年が国境を開くまで 排外主義の奥にあるものは 東畑開人さん
東畑開人さんの「社会季評」
昔、排外主義の少年に会っていたことがある。私がまだ20代で、中学校のスクールカウンセラーをしていた頃のことだ。長い間、学校に来ておらず、自室に閉じこもっている生徒がいる、家庭訪問してほしい、と担任の教師に頼まれたのだ。まるで鎖国しているみたいだ、と私は思った。
春の日の昼前、二世帯住宅の大きな一軒家を訪れると、出迎えてくれたのは祖母だった。祖母は申し訳なさそうに、少年は寝ていると謝った。国境封鎖は予測されていたことだったので、ひとまず少年の日々について話を聞くことにした。リビングで紅茶を飲みながら小一時間ほど話をし、帰り際にまた来週来る旨の短い手紙を書き、少年に渡してもらうよう託した。
無論、翌週も会えなかったし、その後もしばらく会えなかった。私は毎週祖母と話し、少年に詳しくなっていった。彼は昼夜逆転していて、毎日長時間お風呂に入り、体を執拗(しつよう)に洗い続けていた。自分を汚いとか臭いと思っているのかもしれない、と痛ましく思った。いいニュースもあった。少年は私が来ていることを意識していて、「会ってもいいかも」と言い始めていた。
果たして、夏には国境が開いた。いつものように、チャイムを鳴らすと、ドアを開けてくれたのは少年だった。私に会うために、徹夜のまま起きていたとのことで、入浴直後なのか、髪は湿っていた。「部屋、きます?」。震える声で少年は言った。「うん、そうしようか」。部屋はひどく清潔だった。
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「あかんやろ、これ」。少年はパソコンを起動し、ピンク色に染まった川や鳥の死骸に埋め尽くされた工場の画像を私に見せた。そして、ある外国でなされている環境汚染を口汚く罵(ののし)った。「こいつらはほんまに汚い、日本人と全然ちゃうねん、迷惑や」
彼は毎晩、空が白むまで、ネットで真偽不明な情報を集め、掲示板に外国人を罵倒する書き込みをしていることを猛然と話し始めた。ひどく差別的で、醜い言葉をまき散らした。私は啞然(あぜん)とし、正直その瞬間、不快に思った。しかし、同時に、そう話す体がこわ張っているのも見えていたし、必死に入浴する彼の姿を思い起こしてもいた。彼の心は「汚さ」と格闘しているのだ。そう思ったから、私は言った。「すごいな、もっと見せてよ」。すると、ホッとしたのか、肩の力が抜け、得意げに笑った。「えっぐいのあんねん」
それから毎週、祖母の出してくれる紅茶を飲みながら、環境汚染の画像を一緒に見た。暴力的なゲームをやることもあったし、少しずつ話もできるようになった。打ち解けていったのだ。夏が過ぎ、秋に入った。経過は詳しく記せない。ただ印象深かった一コマがある。
いつものようにゲームをしていると、不意に空気が変わった。少年は顔をしかめ、緊迫していた。私が戸惑っていると、彼は言った。「靴下、汚れてんで」。見ると、確かに足裏が汚かった。私はひどく恥ずかしい気持ちになった。「ごめん、脱ぐよ」と言うと、今度は彼がひどく慌てた。「いや、脱いだらあかん、スリッパがいい」。そして、言ったのだ。「伝染(うつ)るやん、俺、昔、水虫だったから」
その瞬間、私たちは同時に爆笑した。汚い汚いと言い募ってきたけど、私も彼も結構汚かったのが可笑(おか)しかったのだ。清潔な部屋に、不潔なものを笑える余白が生まれていた。そして外国の話をすることは減った。
鎖国は和らいでいったのだ。少年は幼なじみの誘いに応じて、外出するようになり、担任の訪問も受け入れるようになった。そのタイミングで私は家庭訪問を終わりにして、学校で会うことを提案した。はたして彼は人目を忍んで面接室までやって来た。そして、私はもちろん知っていたが、これまで触れたことのなかった、いじめられた過去について彼は語り始めた。頭には乾いた寝癖がピョコンと乗っていた。
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本当のところ、誰の何が汚かったのか。少年の体か、水虫か、私の靴下か、外国の川か工場か国民か、それを罵る彼の心か、それを聞いて不快に思う私の心か、あるいは彼をいじめた少年少女たちなのか。わからない。そもそもなにかを汚いものだと特定することそのものが汚い、と逆説的で潔癖な教訓を垂れることもできるが、そのような教訓では彼と一緒の時間を過ごすことはできなかっただろう。
私たちは生きていれば、やはり何かを汚く感じるし、身の回りをきれいにしておきたいと思う。誰しも、ある程度は鎖国している。外を排し、内側を守ろうとするのは心の自然な働きなのだ。ただし、鎖国があまりに強まると、それは逆に恐怖を生み出す。汚いものの排除を徹底すると、世界も他者も余計に汚れたものに見えてくるし、自分の中から汚いものが湧き出してくることに耐えられなくなる。
きれいはきたない。シェークスピアが書いていた通り。ゆえに、潔癖な結論なしに、割り切れない不快さを読者の心に残したまま終わろう。汚さと共にあることこそが私たちの課題であるのだから。最後に、臨床家の守秘義務から、今回書いたのは私の臨床経験に基づき、かつ近年の社会のあちこちで見聞きした風景を交えて、再構成した寓話(ぐうわ)であったことを書き残しておく。この寓話にはあなた自身やあなたの隣人の断片が混じっているかもしれないということだ。
東畑開人さん
とうはた・かいと 1983年生まれ。臨床心理士。「雨の日の心理学」「心はどこへ消えた?」など著書多数。近著に「カウンセリングとは何か 変化するということ」。
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