『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」二段階革命理論と憲法 田中英道』(第五章 GHQの占領政策をお膳立てした左翼工作集団「OSS」(米国のOSSという謀略組織、OSS設立の経緯))
- 2017/06/17
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「日本は敗れたままでいる」。私が推薦してやまない映画「凛として愛」の名台詞ですが、その最たるものが占領憲法を日本は66年間も後生大事にしてきた、という戦後政治の現実があります。
いまでは、昭和天皇と東条英機内閣が必死に開戦回避に向けた最後の努力を打ち砕いたのが、運命のハルノートであり、それはルーズベルト大統領に食い込んでいたソ連コミンテンルンの手先の仕業、とういうことは広く知られています。
ところが、GHQによる数々のWGIPによる日本人の洗脳も、占領憲法も、元を正せば戦略情報局(OSS)という諜報組織が方針を決めたものだ、という事実を田中英道氏が主張しています。
このOSSは、ナチスに迫害されたユダヤ人社会学者によって構成されていた「フランクフルト学派」のメンバーが中心で、徐々に対象を切り崩し、骨抜きを図っていくソフトな革命理論を志向する集団である、というのです。
田中英道氏の本や論文を見たことがない人が、はじめてこの本「戦後日本を狂わせたOSS日本計画」を見たら、腰を抜かさんばかりに驚くことでしょう。既に発売から一ヶ月が経過していますが、日本人なら読むべき必見の書として、以下でご紹介いたします。
田中氏が平成15年から今日にいたるまで、正論や各誌で発表した論文と、書下ろしを加えて一冊の本としたものです。
なお、氏のHPでこの本の第九章が全文掲載されていますので、購入前の動機つけとしてご覧ください。この本の推薦の言葉、目次、そして第五章からOSSの解説の部分を以下で紹介いたします。
「骨抜きを図るソフトな革命路線」って、いま現在の日本そのものではないですか。「日本人は今も騙され続けている」を実感させる一冊です。
戦後日本を荒廃させたのはアメリカ左翼だった!
アメリカ公文書館から発見されたOSSの「日本計画」により、隠れマルクス主義フランクフルト学派の日本支配構想が明らかになった。
【推薦の辞】
・民主主義化の名で呼ばれ、国民の大半がそれと信じてゐた日本の戦後改革は、実は隠れ共産主義者F・D・ルーズベルトを淵源とする米国戦略情報局の、日本改造計画の実現だつた。
その真相をつきとめた本書により、戦後史の根本的書換へが始まる。(東京大学名誉教授 小堀桂一郎)
・近年、日本の近代史を書き換える新事実が世界中で続々と公表されはじめ、古い東京裁判史観やGHQ史観を清算すべき時が来ている。
本書は戦後史の根源に遡り、なぜ日本が今のような「おかしな国」になったか、その原因を大胆に探る。(京都大学教授 中西輝政)
・いわゆる昭和史家の昭和史はダメである。それは日本の敵が何を考え、何をやっていたか考慮しないからだ。田中英道氏はアメリカのOSS文書を解き明して昭和史の深相=真相を示してくれた。(上智大学名誉教授 渡部昇一)
米国のOSSという謀略組織
戦後憲法は米国から押し付けられた「お仕着せ憲法」であり、日本の伝統的な価値観がそこに反映されていない、というのが保守論壇で多くの識者が指摘してきた見解である。
しかし、日本に憲法を押し付けた時の米国は戦後の米国とは異なり、異常な状態にあったことを忘れてはならない。
すでに述べたように米国には占領政策を進めたGHQより前にOSS(Office of Strategic Service 戦略情報局)という諜報組織があった。
私は、日本国憲法が作成された経緯について論じ、われわれ日本人はGHQばかりに目が奪われがちだが、それ以前に組織されたOSSの方針で方向づけられた点を見失うべきではないと指摘してきた。
戦後レジームの基礎となった日本国憲法は社会主義憲法の第一段階として位置づけられて制定されたものであることが鮮明に見えてきたからだった。
OSSはトルーマン大統領によって解散させられ、日本人にはその実態はいまだよく知られていない。しかし、私はその活動や実態などに目を向け、解明すべきだと考えている。
OSSの組織には米国の左翼、とくに米国共産党や「隠れマルクス主義者」、日本共産党ら共産主義者も深くかかわっていた。
米国はその後、反共主義へ方向を転換し、日本に憲法第九条の改正や再軍備を求めた。しかし日本は憲法を温存した。
左翼が「平和と民主主義」をお題目のように唱え続け、虚構に満ちた戦後思想やそれに基づく戦後レジームが続いたのである。
戦後の虚構の元凶であり、原点であるOSSに迫ることが戦後レジームからの脱却に欠かせないと信じる所以である。
現代史はまだ歴史ではない、とよくいわれる。それはまだ隠されている史料も多く、常に書き換えを余儀なくされる可能性があり、その結果、表面的な分析になりがちだからである。
近現代史家と名乗る歴史家がいるが、それは政治評論家に過ぎない。昭和史家と名乗る人々もそうである。彼らの言論の多くはリベラルな言辞が目立つ。
つまり、自分は常に当事者とは距離を置き、いつも高みに立って確定した結果だけを論じる政治評論家の態度にも似ており、歴史への断罪、糾弾を繰り返すからである。
第二次世界大戦もいまだ現代史の範疇にある。新たな文書が次々と解禁され、それで史実が書き換えられる可能性を秘めているからだ。
OSSの活動をまとめた史料こそ、まさに戦後の日本史を書き換えるのに値する価値をもっている。ところがこうした近現代史家や昭和史家と呼ばれる人々は、このような史料に対して沈黙するばかりなのだ。
これまで述べてきたように戦争責任を軍部に帰する論理も、実はここ十数年、米国公文書館で公表された新しいOSSの資料で明るみに出されている。
戦争責任をめぐり、軍部を糾弾してきたのは左翼だけではなく保守論壇でもなされることがある。しかし、それは戦時中の米国左翼のOSSがつくったプロパガンダであって、その骨格もOSSによって形づくられたのである。
筋書きどおりに、国民はあたかも自分たちは戦争に反対し、軍部が庶民の反対を抑えつけて独走したかのような錯覚にとらわれたのである。
私の研究はワシントンの公文書館を訪れることからはじまったが、その内容の多くは世のブログにも公表され、岩波書店の『世界』や単行本などで左翼学者によってすでに指摘されている。
だが彼らは、OSSの謀略や工作活動を肯定的にとらえ、それに呪縛されてきた戦後を正しいという前提で扱ってきたのである。
OSS設立の経緯
江藤淳氏は、戦後の日本が米国の占領軍が行った検閲による「閉ざされた言語空間」を問題にした。西尾幹二氏はGHQによる「焚書」として歴史の抹殺行為が行われたことを指摘している。
しかし、日本の歴史に対する抹殺行為はそれ以前のOSSが行った、日本を敗北させるための情報謀略戦からはじまっていたのだ。
OSSの組織には完全な米国左翼、とくに米国共産党の面々が集い、切り盛りした。
すでに述べたようにOSSに左翼やマルキストが集ったことから、漠然とソ連共産党の指導を仰ぎ、コミンテルン型のような全体主義による統制形態であるように捉えがちだ。
だが事実は違う。OSSは主にフランクフルト派系の理論によって支配された組織であり、徐々に対象を切り崩し、骨抜きを図っていくソフトな革命理論を志向する集団である。
ヒトラーはナチス結成直後から、自らの政治宣伝のためにいかに諜報活動を巧妙に利用したか。そのことが戦後知られるようになったのは、フランクフルト学派が摘発されたことによるところが大きい。
フランクフルト学派はまさにユダヤ人社会学者によって構成され、ナチスの被害者であったからである。
第一次世界大戦における英国の巧みなプロパガンダ戦略や、ロシア革命のレーニンらの革命戦略からナチスは学んだとされている。
一九三三年に政権を獲得すると、プロパガンダ省をつくり、その大臣にゲッペルスを任命して、諜報活動を一層重視する政策をとったのである。
それを知ったルーズベルト大統領は、ナチスに対抗すべくまず一九四一年七月、OCI(Office of the Coordinator Information情報調整局)を設立。
その責任者にウィリアム・ドノヴァンを指名した。しかし日本との戦争がはじまると翌年、そこからOSSを分離し、敵国に対し謀略を行う諜報機関とした。
そこにドノヴァンを移す一方、OWI(Office of War Information)を立ち上げ情報局としてOCIを残した。
このOSSによって一九四二年から大戦終結までの約四年間、ドイツと日本に対する情報をつかみ「心理戦争」を展開したのである。
ドノヴァン長官は、政治・宣伝工作の諸部門を分け、とくに調査分析部(R&A)をおいて、その拡充に力を注いだ。そのために全米の大学や研究機関から反独、反日の知識人を積極的に活用した。
ポール・バラン、ポール・スイージーといった名だたる米国共産党員だけでなく、ユダヤ人のフランクフルト学派の社会学者を採用したのである。
四二年の夏、マルクーゼ、ノイマン、ホルクハイマーといった後の六〇年代の「五月革命」で名を残す左翼学者が名を連ねている。
OSSにこのような共産主義者を入れたことは、いかにこの時代、彼らに対するアレルギーがなかったかを物語るが、民主党のルーズベルト大統領時代、大恐慌を受けたニューディール政策など社会主義的な政策を取っていたことが、その原因であっただろう。
ナチス・ドイツよりもソ連と近い関係をもっていたことも受け入れを容易にした。戦後のアメリカの反共姿勢と全く異なっていたのである。
(後略、戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」P100-P103より抜粋)
(http://hanausagifan.web.fc2.com/20110824.pdf)
東京裁判とOSS「日本計画」 田中英道著『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社)が発行さる! OSSを牛耳ったフランクフルト学派(隠れマルクス主義)
『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」―二段階革命理論と憲法 田中英道』
第二章 アメリカOSSの「日本計画」(「戦後日本は「隠れマルクス主義」によって作られた」)
第四章 日本国憲法は社会主義憲法である(渡部昇一編『日本は憲法で滅ぶ』(総和社)に加筆)
第五章 GHQの占領政策をお膳立てした左翼工作集団 「OSS」(『正論』平成二十一年四月号)
米国のOSSという謀略組織
戦後憲法は米国から押し付けられた「お仕着せ憲法」であり、日本の伝統的な価値観がそこに反映されていない、というのが保守論壇で多くの識者が指摘してきた見解である。しかし、日本に憲法を押し付けた時の米国は戦後の米国とは異なり、 異常な状態にあったことを忘れてはならない。 すでに述べたように米国には占領政策を進めたGHQより前にOSS (Office of Strategic Services 戦略情報局)という諜報組織があった。私は、日本国憲法が作成された経緯について論じ、われわれ日本人はGHQばかりに目が奪われがちだが、それ以前に組織されたOSSの方針で方向づけられた点を見失うべきではないと指摘してきた。 戦後レジームの基礎となった日本国憲法は社会主義憲法の第一段階として位置づけられて制定されたものであることが鮮明に見えてきたからだった。
OSSはトルーマン大統領によって解散させられ、日本人にはその実態はいまだよく知られていない。しかし、私はその活動や実態などに目を向け、解明すべきだと考えている。OSSの組織には米国の左翼、とくに米国共産党や「隠れマルクス主義者」、日本共産党ら共産主義者も深くかかわっていた。米国はその後、反共主義へ方向を転換し、日本に憲法第九条の改正や再軍備を求めた。しかし日本は憲法を温存した。左翼が「平和と民主主義」をお題目のように唱え続け、虚構に満ちた戦後思想やそれに基づく戦後レジームが続いたのである。 戦後の虚構の元凶であり、原点であるOSSに迫ることが戦後レジームからの脱却に欠かせないと信じる所以である。
現代史はまだ歴史ではない、とよくいわれる。それはまだ隠されている史料も多く、常に書き換えを余儀なくされる可能性があり、その結果、表面的な分析になりがちだからである。 近現代史家と名乗る歴史家がいるが、それは政治評論家に過ぎない。 昭和史家と名乗る人々もそうである。彼らの言論の多くはリベラルな言辞が目立つ。つまり、自分は常に当事者とは距離を置き、いつも高みに立って確定した結果だけを論じる政治評論家の態度にも似ており、歴史への断罪、糾弾を繰り返すからである。
第二次世界大戦もいまだ現代史の範疇にある。新たな文書が次々と解禁され、それで史実が書き換えられる可能性を秘めているからだ。 OSSの活動をまとめた史料こそ、まさに戦後の日本史を書き換えるのに値する価値をもっている。 ところがこうした近現代史家や昭和史家と呼ばれる人々は、このような史料に対して沈黙するばかりなのだ。
これまで述べてきたように戦争責任を軍部に帰する論理も、実はここ十数年、米国公文書館で公表された新しいOSSの資料で明るみに出されている。 戦争責任をめぐり、軍部を糾弾してきたのは左翼だけではなく保守論壇でもなされることがある。しかし、それは戦時中の米国左翼のOSSがつくったプロパガンダであって、その骨格もOSSによって形づくられたのである。筋書きどおりに、国民はあたかも自分たちは戦争に反対し、軍部が庶民の反対を抑えつけて独走したかのような錯覚にとらわれたのである。
私の研究はワシントンの公文書館を訪れることからはじまったが、その内容の多くは世のブログにも公表され、岩波書店の『世界』や単行本などで左翼学者によってすでに指摘されている。だが彼らは、OSSの謀略や工作活動を肯定的にとらえ、それに呪縛されてきた戦後を正しいという前提で扱ってきたのである。
OSS 設立の経緯
江藤淳氏は、戦後の日本が米国の占領軍が行った検閲による「閉ざされた言語空間」を問題にした。西尾幹二氏はGHQによる「焚書」として歴史の抹殺行為が行われたことを指摘している。 しかし、日本の歴史に対する抹殺行為はそれ以前のOSSが行った、日本を敗北させるための情報謀略戦からはじまっていたのだ。
OSSの組織には完全な米国左翼、とくに米国共産党の面々が集い、切り盛りした。 すでに述べたようにOSSに左翼やマルキストが集ったことから、漠然とソ連共産党の指導を仰ぎ、コミンテルン型のような全体主義による統制形態であるように捉えがちだ。だが事実は違う。 OSSは主にフランクフルト派系の理論によって支配された組織であり、徐々に対象を切り崩し、骨抜きを図っていくソフトな革命理論を志向する集団である。
ヒトラーはナチス結成直後から、自らの政治宣伝のためにいかに諜報活動を巧妙に利用したか。 そのことが戦後知られるようになったのは、フランクフルト学派が摘発されたことによるところが大きい。 フランクフルト学派はまさにユダヤ人社会学者によって構成され、ナチスの被害者であったからである。 第一次世界大戦における英国の巧みなプロパガンダ戦略や、ロシア革命のレーニンらの革命戦略からナチスは学んだとされている。一九三三年に政権を獲得すると、プロパガンダ省をつくり、その大臣にゲッペルスを任命して、諜報活動を一層重視する政策をとったのである。
それを知ったルーズベルト大統領は、ナチスに対抗すべくまず一九四一年七月、OCI (Office of the Coordinator of Information 情報調整局)を設立。その責任者にウィリアム・ドノヴァンを指名した。しかし日本との戦争がはじまると翌年、そこからOSSを分離し、敵国に対し謀略を行う諜報機関とした。そこにドノヴァンを移す一方、OWI (Office of War Information) を立ち上げ情報局としてOCIを残した。
このOSSによって一九四二年から大戦終結までの約四年間、ドイツと日本に対する情報をつかみ「心理戦争」を展開したのである。 ドノヴァン長官は、政治・宣伝工作の諸部門を分け、とくに調査分析部 (R&A) をおいて、その拡充に力を注いだ。そのために全米の大学や研究機関から反独、反日の知識人を積極的に活用した。ポール・バラン、ポール・スイージーといった名だたる米国共産党員だけでなく、ユダヤ人のフランクフルト学派の社会学者を採用したのである。四二年の夏、マルクーゼ、ノイマン、ホルクハイマーといった後の六〇年代の「五月革命」で名を残す左翼学者が名を連ねている。
OSSにこのような共産主義者を入れたことは、いかにこの時代、彼らに対するアレルギーがなかったかを物語るが、民主党のルーズベルト大統領時代、大恐慌を受けたニューディール政策など社会主義的な政策を取っていたことが、その原因であっただろう。 ナチス・ドイツよりもソ連と近い関係をもっていたことも受け入れを容易にした。 戦後のアメリカの反共姿勢と全く異なっていたのである。
フランクフルト学派の拠点、フランクフルト大学の社会研究所からは『偏見の研究』叢書が出された。同研究所ではナチスによる反ユダヤ主義の宣伝が研究対象にされた。 後の戦後左翼思想のひとつの基礎となった、エリートや権威を否定する思想の根拠となる『権威主義的パーソナリティー』の概念も同研究所のアドルノとバークレイら世論研究グループによる研究成果である。この研究は反ユダヤ主義のイデオロギーがラジオや映画によってどのように伝播され、大衆を煽動・操作していくか、メディア・プロパガンダのメカニズムを研究したものだ。
OSSもナチス・ドイツの行った心理戦の様々なノウハウを取り入れ日本に適用しようとした、と考えられる。日本の弱点を知り、それを拡大宣伝して、日本の弱体化を図る方法を模索した。 まずそれは「日本計画」というもので、陸軍省軍事情報部、心理戦争課長であったソルバート大佐によって書かれた。この「四二年テーゼ」については第二章、第三章に書いたので繰り返さないが、そこで意図されたことは、日本の各層の分裂を助長することであった。天皇を「象徴」として残し、平和を願う天皇と、戦争に追い込む軍部とを対立させることも彼らのねらうところであった。ここにあるのは階級史観で、階級の利害が異なれば闘争が常にあると考え、それを助長させれば混乱が起こり、果ては革命が行われるはずだという考え方である。しかし事実は戦争中、ほとんどの日本人の各層を上げて、一致して戦争に協力したのであった。
日系共産党員がOSSを牛耳った
OSSの動きに在米の日本人共産党員が多数加わっていたことが今日明らかにされている。とくに戦争が米国に有利となった四三年以降、日本自体に工作を行うために、日本語をよく知っている要員が必要になった。日系人を利用することをドノヴァン長官に進言したのはハーヴァート・リットル少佐であったが、最初に招集されたのがみな、米国共産党の日本人部の人々であった。 藤井周面は日本人部の幹部であり、戦前、ロサンゼルスで日本の軍部に反対する新聞 「同胞」を発行していた。 その実績を買われて彼はサンタアニータの日系人仮収容所から連れ出され、一員に据えられた。四四年四月までに日系共産党員ばかり十四人がこの組織に参加することになった。彼らがすべて共産党員であったことは、ふつうの日本人であれば米国の機密事項を洩らす危険性があったが、彼らが反軍部、反権力であると考えられたからであろう。この計画は「マリーゴールド・プロジェクト」と呼ばれ、次のことが目標に掲げられた。
1 破壊的な諜報の印刷物やラジオ制作に有能なスタッフを訓練させること。
2 白人スタッフに日系人の心理、態度、反応の仕方を学ばせること。
3 海外の前線に制作物を輸送、配布するとともに、将来的には前線の近くで、諜報活動に当たらせる体制づくり。
この諜報戦のプロジェクトを監督したのが、日本学者のライシャワーの上司にあたるハーバード大学燕京研究所長のエリセーエフ教授で、そのほかに国務省のユージン・ドーマン、海軍諜報部のチャールズ・ネルソン・スピンクス、OWIのジョン・マキなど米国左翼の日本研究者が名を連ねていた。
しかしその中でOSSの重鎮と考えられるのは米国共産党の幹部であるジョー・小出であった。 小出は米国共産党内部でも頭脳明晰と評価され、語学力も抜群であった。本名は鵜飼宣道で、弟は東大教授ともなる法学者の鵜飼信成である。米国からソ連に派遣され、レーニン・スクールで鍛えられた、といわれる。 ソ連ではコミンテルン本部で野坂参三とともに、日本の共産党や労働組合向けの新聞・パンフレットを編集・発行していた。日本船の船員に秘かに神戸、横浜に持ち込ませ、投函させていた。
OSSの要員にハーバート・ノーマンや都留重人がいたことは知られているが、小出はシカゴに亡命していた元早稲田大学教授の大山郁夫 (一八八〇ー一九五五)と接触し、次のような手紙を書いている。《米国も、愈々一世徴用に、手をのばしました。 早晩、先生にわたりがつくと思います。だが、我々とちがって、先生は輝かしい過去と、明るい将来をもっておられます。 戦後の民主日本建設の大事業を考えて、呼び出しの手にのらぬよう、御自重ねがいます》。それに対し、大山は《私も、齢をとりました。 実践は、若い方におまかせしましょう》と返信している。
大山は日本の労働農民党の委員長だったが、一九三二年に米国に亡命していた。小出はOSSの方針通り、日本国民と軍部との離反を工作し、天皇を批判せず、その反軍部的な発言を利用しようと考えた。 野坂参三は延安時代から、天皇批判をなるべく避けるように、という対日プロパガンダの仕方を学んでいたのである。これはOSSの天皇を象徴として戦後残す方針に沿っていた。
米国共産党はルーズベルト大統領との関係が深かった。 ルーズベルトの容共政策については、これまでソ連コミンテルンの影響によるとの見方が広範になされてきた。日本を左傾化させるさまざまな施策についてコミンテルンとルーズベルトとを結びつけて論じる見方が広く取られているが、むしろ、ルーズベルトの容共の基本は、行政機関内部に共産党員を取り込んだことによると考えられる。そして、それは米国の占領政策の基本となった。こうした見方はこれまでなされてこなかった。
OSSの極東部は一九四三年には再編成され、日本全土ならびにその支配地域に活動範囲を拡げていった。極東部が雇った日系人は五十五人であり、その三分の二が一世で、残りは二世だった。同部のリーダーが小出のような一世の米国共産党員であった。ただ一世といっても、小出の本名が鵜飼なのに、この名を使っていたのは米国への帰化ができず、死亡した他人の名前を使わざるを得なかったからである。このような異常事態だからこそ、彼らはある意味で市民権を得たのである。実際は彼らは出国はできても、再入国は無理な法律的立場にいたのである(ジョー・コイデ『ある在米日本人の記録』上下、有信堂、昭和四十五年)。
覚書偽造など謀略の数々
彼らは日本内部に分裂があればそれを助長するというOSSの方針に沿ってさまざまな諜報活動を行った。例えば、中野正剛が激しく東條英機を批判して逮捕され、自殺した事件を利用して、偽造文書をつくり上げた。 OSSファイルの偽造文書に中野正剛の遺稿と称する「大東亜戦争覚え書き(その二)」がある。 中野は昭和十八年(一九四三)十月二十一日に東條英機倒閣容疑で逮捕され、釈放後、自殺した。この政治家の「覚え書き」が偽造されたのである。
覚え書きには「その一」とするものがあったために、偽造された覚え書きは「その二」とされた。そこにはドイツの敗北を早くも想定し、早く米英と平和条約を結ぶべきだ、と書かれている。 《日本は負けると述べていたとされる中野の言葉として、あたかも真実のように語られており、《彼らの要求する無条件降伏に応ずるの止むなきに至るか。 ……私をして言はしむれば、此場合ドイツ敗戦と共に直に米英と平和を締結せよと言ふのである》ともっともらしく書いている。
東條英機批判のために偽『写真情報』誌が発行された。 これも東條政権をおとしめる目的で出された宣伝であるが、終戦の前年に出されたもので、日本国民と軍・政府との離反を画策している。これには写真が付けてあり、特攻隊の敬礼する写真と、東條英機の肖像と芸者の、明らかに合成写真とわかるものが掲げてある。 文章は米国の攻撃がいかに激しいものであるかを強調して日本人を脅し、次に東條首相がいかに国民を欺いているかを語っている。
《米鬼の空襲は本土に来た 神州を護れあわてずに 周到に敵の誇る空の超要塞は何萬来るか 何百萬の爆弾を落とすかも知れぬ用意はいいか》。
《皇軍が、見事に真珠湾を爆撃し、沼南やバターンを陥落した時、吾々はホンタウに東條首相自らが云つた様に、大東亜戦争共栄圏の建設も間近にあると信じ、お上に言はれる迄もなく吾々國民は遊興処か、それこそ、文字通り食ふや食はずで身を粉にして働いて来た。だが上の写真を見てくれ。何百萬と云ふ吾々の兄弟が御國の為だと思つて血みどろになつて戦つてゐる時に、よくもこんな事が出来るもんだ。 待合や藝者屋を閉めろと命令しながら、彼の云ふ事と實際と丸であべこべではないか。
反枢軸國が形勢を挽回して攻勢に出てゐる今日、又我國では上下一致して國難に當らんが為め必死の決戦体制にある時、 首相も自らが此有様では我國の将来は思ひやられる。
我々は果たして東條首相に今日の多難な國事を託すことが出来るであらうか。これでは到底取り返しのつかぬ事になるだらう。 憂國正義団》。
まさに戦後の左翼やリベラルな言動で知られる評論家による軍部批判と同じような内容が、このOSSのブラック・プロパガンダには盛り込まれていたのである。 共産党員の小出らが直接、 こうした文書をつくったかどうかはわからないが、知っていたことは確かであろう。彼らは日本が一丸となって国難にあたり、必死の決戦体制にあることを知っていた。その日本人と東條体制を離反させようと、芸者の中の東條首相という合成写真をつくったのである。 東條首相がまともな肖像写真から取られているので、およそ芸者衆と馴染んでおらず、その猥雑な写真は、逆効果だと思えるほどである。
偽造の斎藤茂吉編の歌集も出され、この人気歌人が反戦的な歌を好んでいるかのように編集されている。 もっとも新しい歌をつくったのでなく、これまで出された厭戦的な歌を選んでいるだけなので、読む人々に意図が通じたかどうかはわからない。《友の死を悲しむに非ず自らが幸くありしと安らかにも非ず/青山星三》とか《たは易く勝てりと記する新聞の或る日の記事をいきどほりしも/小暮勇》などの歌は、かえって戦争にかかわって生きていく素直な感情の歌で、必ずしも反戦的だとは思われない。
戦争末期にはOSSによって「新国民放送局」が編成され、日本の軍部批判、敗戦必至を訴える戦局情報が勢いを増した。米国軍はサイパンに放送局を設け、そこからブラック・プロパガンダを展開した。それが効果を上げたかどうかはさておいて、私が重要視しているのは、こうしたプロパガンダで流された情報が戦後の占領体制の基本情報になったということである。その中に軍部の横暴を示すために、「従軍慰安婦」の問題が取り上げられている。 よく読むと、戦後のこの問題が、この頃つくられたひとつの捏造事件であったことをいみじくも露呈しているので、取り上げてみよう。
「従軍慰安婦」問題の発端
これはOSS宣伝関係資料の番組台本に書かれていたもので、実際には五十七回目の放送で流されたものである。その物語は、ある日本人兵士がビルマ戦線に向かう船の中で、ある朝鮮人の若い女性と出会うところからはじまる。その女性が前線での看護婦の仕事はどんなものであるかを聞くと《慰安婦が看護婦の仕事もするとでもいうのかね》と答えたので、《なんですって。私が朝鮮人だと思ってバカにしているのではないか》と怒って聞き返す。 この女性は慶尚北道の生まれで、日本の憲兵隊支所の特殊看護婦募集 朝鮮人のみ」という張り紙を見て、是非看護婦となって兵士を看護したいと思い、自ら募集に応じたという。
そして一九四三年の十月二十五日に二百円のお金を与えられ、釜山の憲兵隊本部に出頭した。 そこには十五、六人の朝鮮人女性がおり、ともに広島の宇品の輸送隊に連れて行かれ、そこからビルマ戦線に送られたと語られる。そこではじめて自分が兵士の売春婦になることを悟らせられたという。
よく朝鮮人の若い女性が「強制連行」され「従軍慰安婦」にされた、という説がここ二十年ほど、まことしやかに流れ問題となったが、戦時中流れたこのブラック・プロパガンダでさえ、「強制連行」などではなく、「看護婦」として従軍しようとした例として出されているのである。いかに戦後誇張されて持ち出された問題かがわかる。 この女性がその後、「慰安婦」にされたかどうかもわからない。
しかも、戦後行われた「慰安婦」の調査で、看護婦募集の名で慰安婦を募った例はない。もともと「看護婦」の経験がない女性を船に乗せ、どうしたらいいかは採用された後に指示されるなど、看護婦の職制を考えればいかにおかしなものか。ともあれ、雑役婦の仕事だとか、女子挺身隊としてとか、人狩りの如く連れ去られたという「従軍慰安婦問題」は、OSSの反日捏造レポートでさえも、もっと穏やかな内容だった。戦後の従軍慰安婦問題がいかに荒唐無稽であるかを示すものだと思う。
ちなみに、このOSSの戦時中の反日プロパガンダには、一九七〇年代以降問題となった「南京大虐殺」がひとつも出てこないことにも注目しておきたい。 OSSのプロパガンダには満洲事変、支那事変など、日本軍の残酷さを暴こうとしたレポートがたびたび盛り込まれている(第四十二、六十一、七十四、八十七、九十二回など)。 しかし三十万人も死んだとされるあれほどの事件が事実であれば、持ち出されないはずがない。にもかかわらず、 一行も触れられていないのである。
秩父宮殿下を利用
では、 OSSがもち出したものは何か。それは軍部によって監禁された秩父宮殿下のニュースで、日本国内の分裂を助長することをねらった情報である。すなわち秩父宮殿下が和平派として登場し、軍部と対立して監禁されたというものだった。もともと天皇を象徴とし、皇室は温存させる方針であっあろう。権力者による日本人民への支配は強固なので、諜報活動の範囲の広がりは遅滞し、困難であろう。活動は空襲による混乱や人々の疎開といった支配機構の弱体化を利用して展開されなければならない。日本本土の情報は不足している。一方、共産党は健在であるため、この工作は危険を冒してまで決行されるべきである》(OSS資料一九四五・七・六)。
あたかも共産党が戦時中活発であったかのような書きぶりであるが、実際共産党の内実は脆弱だった。この情報をもたらしたのは岡田文吉という共産党員で、一九四三年夏、徳田球一の指令で延安にやって来たという。この計画は、OSSが日本への働きかけを情報戦というレベルから一歩進め、日本潜入という大胆なプロジェクトを進めようとしていたことを示している。
連携相手が諜報活動に精通したソ連の諜報機関ならいざ知らず、日本の共産党とその力を過大評価していた米国という組み合わせでは、その行く末は火を見るよりも明らかだろう。この潜入計画は、結局、具体化しなかった。終戦直後の野坂の帰国に期待が集まることになったのである。野坂は一九四五年十二月十九日付の北朝鮮の平壌から米国軍のソウル駐屯司令官にあてた手紙を書き、そこで、いかに共産党が米軍と協力してきたかを語っている。
《私は華北で日本人解放同盟や日本農学校を組織し、日本の侵略に反対し、民主日本を樹立する闘いを展開してきました。私は日本共産党中央委員会の元委員です。……昨年七月に延安で米軍軍事視察団が設立されて以来、日本軍国主義者の心理戦争について、その使節団とずっと関係をもち、日本軍や日本国内の情勢についての情報や材料を提供してきました。……私は他の日本人三人とともに、日本人民解放連盟JPELの指導者ですが、米軍事使節団にお願いし、延安の米当局者の許可を得て、他の乗客と延安を発ち、モンゴル、 満洲経由で九月十三日朝鮮の平壌に着きました》とそれまでの経過を述べ、そして日本に帰国できるように要請をしている。《私たちは日本に帰国すれば、今までのように日本の軍国主義の絶滅、日本民主主義の樹立、太平洋の恒久平和のためにあらゆる努力をする所存です》と述べている。 日本共産党は野坂を中心にいかに米国と内通していたか、これほどのことがあったかどうかははじめて明らかになったことである。
米陸軍のCIC(対敵諜報部隊)は直ちにソウルで野坂参三と会い、東京行きを許可している。驚かされることは、米軍のこの諜報部隊がまるで彼ら自身、同じイデオロギーの同志であるかの如く、今後の野坂の政治予定、政治目標を記しているのである。
《今後の予定、東京に向い、共産党指導者の徳田球一、志賀義雄と接触する。 社会党の指導者の松岡駒吉、鈴木文治とも会う。……彼の今後の政治目標、1 日本の民主化、2 大企業の国営化、3 民主原理に基づく憲法改正、4 あらゆる勢力の糾合、 5 ポツダム宣言の実行、 6 生活状態の改善、7 四つの自由の達成、 8 現在の日本支配体制の解体》と、ここで戦後の日本の占領軍の方針が、すべて語られているのである。かえってこれらの方針が、達成の困難になる障害として《1 社会主義、自由主義指導者による拒否、 2 人民説得に要する時間の長さ、 3 現在不明の連合軍の政策、 4 軍部の若い将校、判事、内務省の役人などの抵抗運動、 5 神風特攻隊や武勇隊のような組織による地下運動やテロ》 (C資料、 Nosaka.. 一九四六・一・三)が挙げられている。
こうした社会主義的な政策が、かえって社会主義者、自由主義者の妨害に合うのではないかと危惧しており、まだ連合軍の政策が固まっていないことに不安を抱いている。また一部の軍部の抵抗、役人の反対を恐れ、右翼やテロさえ警戒しているのである。 野坂の帰国によって、あたかも左右の動きから反対されるのではないか、と考えているのである。
彼の「回想記」によると、野坂は平壌に来る前にモスクワ訪問をしており、コミンテルンの指示を仰いでいることが明らかにされている。そのことを述べていないのは、それでは米国の支持を得られないと思ったからだろう。しかしそうであっても、この方針自体が、共産党の路線に沿っており、それに米諜報機関が同調していたことに驚かされる。
野坂は帰国後も米国から支持され、歓迎されることを期待していた。確かに四六年に戦後憲法が成立するまでの米国の方針はそうだった。しかしOSSは新しく就任したトルーマン大統領の命で解散させられる事態となり、GHQが新たに編成されてマッカーサーが日本統治の実権を握ると、共産党の役割は小さくなっていった。
ソ連との冷戦がはじまり、あらたな諜報組織、CIAが準備された。 最近出された『CIA秘録』(ティム・ワイナー著、文藝春秋刊)もこのOSSについてはほとんど書いていない。 ドノヴァン長官の行為はなきに等しい扱いにされてしまっている。しかし日本にとっては、米国のGHQの政策も、東京裁判の帰趨も、天皇を象徴とする戦後憲法の制定も、 すべてひとつの共産主義路線に影響されたOSSのお膳立てによってつくられ、占領体制が形成されていったことを忘れてはならない。
第十章 世界のメディアを支配するフランクフルト学派(『正論』平成十五年八月号「日本のメデ 支配する”隠れマルクス主義”フランクフルト学派とは」改題)
愛国女性のつどい花時計 OSSの日本改造計画について
「OSS」とは何ですか?
大東亜戦争に負けたあと、日本は7年間GHQ(連合国軍最高司令部)の占領下に置かれました。しかし、戦争開始時のアメリカ大統領、ルーズベルトは1942年に早くも将来の日本占領に備えた諜報・謀略機関を作っていました。それがOSS(米国戦略情報局 Office of Strategic Service)です。OSSの方針はGHQに影響を与え、戦後はCIAに引き継がれました。
アメリカは政治的には自由主義で民主主義、経済的には資本主義の国、というイメージを私たちは持っていますが、それは時の政権が民主党か共和党かによります。民主党の左派が政権を握った時、日本は危険な状態に陥ることが多いです。大東亜戦争の開戦時がまさにそうでした。
ルーズベルト大統領はユダヤ系で人種差別主義者でした。「日本人の侵略行動は、おそらく頭蓋骨が白人に比べて未発達だからだ」とイギリス公使に語ったという記録が残っています。彼は戦争が始まるとすぐにアメリカに住んでいた12万人の日系人を砂漠の中の強制収容所に閉じ込めました。そして、ルーズベルトが実は共産主義者だったという説も最近、出版された本で明らかにされました(田中英道『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』展転社)。
OSSには日本だけでなくドイツ、イタリアに対する工作のために、惜しみない予算と人材が注ぎこまれました。終戦時の工作員は3万人いた、と言われています。諜報専門家だけでなく心理学、医学、地理、語学、科学など、あらゆる分野の学者が集められました。その中に、ナチスの迫害をのがれてアメリカに来て、ニューヨークのコロンビア大学に集まったフランクフルト大学のユダヤ人の社会学者たち(フランクフルト学派)がいました。
フランクフルト学派の人々はソ連型のマルクス主義ではなく、新しいタイプのマルクス主義者でした。ソ連型のマルクス主義は労働者が搾取されて階級意識が生まれ、階級闘争が始まる、という単純な図式でした。しかし、これは貧しい後進国にしか通用しません。そこで彼らは労働運動ではなく文化活動や人間心理全般を通じて階級意識、差別意識を作りだす運動を起こさなければならない、と考えました(構造改革路線)。これが戦後日本のさまざまな制度改革に影響を与えることになりました。
日本国憲法は誰が作ったのですか?
5月3日は憲法が制定されたことを祝う憲法記念日です。日本国憲法は新しい時代にふさわしい、国民主権の憲法だと学校の授業では教えていますが、実は憲法の原文が英語だったことは教えていません。GHQによって押しつけられた、占領憲法だということを隠すためです。
1945年10月、マッカーサーは近衛文麿に日本の新憲法の作成を命じました。しかし近衛文麿は戦犯として逮捕される直前に自殺します。その後、さまざまな憲法草案が出されましたがマッカーサーは満足せず、GHQの民政局長に憲法草案の作成を命じました。
1946年2月4日、GHQの17人のメンバーが8つの小委員会を作って憲法作成に着手しました。しかし、このメンバーの中に憲法の専門家はいませんでした。責任者だったチャールス・ケーディスはユダヤ系で、ハーバード大学で法学を学んだ弁護士でした。しかしOSSが戦争中からいち早く明治憲法の分析を行っていたので、新憲法はわずか9日間で作り上げることができました。
GHQの中にも左派と右派の対立がありましたが、日本国憲法作成に中心的な役割を演じたのは左派でした。マッカーサーは左右の対立にうとく、占領初期には左派を自由に行動させていました。共産主義に対してマッカーサーが警戒心を持ったのは戦後2年ぐらい経って、米ソ冷戦の風が日本に吹き付けてきてからでした。
このような経緯で作成された憲法に正統性がないことは言うまでもないでしょう。占領国が相手国の憲法を作るのは国際法違反です。それに憲法というものは本来、その民族のアイデンティティーを示すもののはずですが、日本国憲法はむしろ日本人のアイデンティティーを壊す要素があるからです。
日本国憲法は民主的な憲法ではないのですか?
日本国憲法は戦後日本の民主主義の柱となったと言われてきました。しかし憲法には「民主主義」という言葉はなぜか一回も使われていません。憲法に何度も繰り返し出てくる言葉は「権利」です。これこそがこの憲法の正体を表しているのではないでしょうか。
例えば憲法第11条の「基本的人権の尊重」ですが、人権という概念はもともと日本にはなかったものです。しかし、だからといって戦前の日本人が抑圧されていたわけではありません。天皇を中心に一つの家族のような国家を理想としてきた日本では互いを尊重することは当たり前のことで、わざわざ人権などという言葉を使う必要がなかっただけです。第18条の「何人も、いかなる奴隷的拘束は受けない」も日本の歴史を知らない人間が作ったことが分かる条項です。日本は歴史上、奴隷を持たない国でした。古代には奴婢(ぬひ)がいましたが、奴婢にも土地が分け与えられていたのです。
第20条の「いかなる宗教団体も国から特権を受け、又は政治上の権利を行使してはならない」は「宗教は阿片である」という共産主義の考え方の反映ではないでしょうか。
第24条の「家庭生活における個人の尊厳と両性の平等」は、男女共同参画法案などに結びついた条項です。しかし、これが却って男女の対立を煽り、離婚増加の原因を作ったのではないか、と思います。
第25条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」は非常に問題です。本来、まず「労働の義務」を述べてからその対価としての「権利」に触れるべきなのに、義務には触れずに権利だけが述べられているからです。世界一真面目で勤勉だった日本人が、今や生活保護を当てにするほど堕落したのはこの条項が関係しているのではないでしょうか?
第26条の「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」は、労働者や農民は学校に通えないような国をイメージして作られた条文でしょう。日本では明治以来、教育の機会均等が奪われたことはありませんでした。
このように、今の憲法には日本にはなかった西洋起源の、抽象的な概念を表す言葉が多く使われていますし、日本の歴史を踏まえて作られていません。このような憲法は一刻も早く破棄し、日本の文化、伝統に沿った憲法を制定すべきです。
憲法はなぜ天皇を「象徴」と謳っているのですか?
天皇の戦争責任は問わず、天皇は「象徴」という位置づけで温存する、というGHQの方針はこれまでマッカーサーの判断だと思われてきました。このことで戦後の日本人はマッカーサーに感謝してきました。しかし、これはOSSの情報工作の一つだったことが最近、明らかになりました。
OSSは中国共産党を支援していました。中国と同様、日本も共産化しようという意図はあったはずです。しかし1942年の段階で皇室を温存する方針はほぼ固まっていたようです。日本人の大多数が天皇を敬慕していたからです。そこで天皇と国民は平和を願っていたのに軍部に騙された被害者だ、悪いのは軍部だ、という宣伝をすることによって国民と軍部を切り離し、日本人を互いに争わせ、社会を混乱させるという戦略に切り替えたのです。
違う階級の間には利害の対立があり、それを煽れば混乱が起こり、やがては革命が起こる、というのが共産主義の「階級史観」です。しかし、実際には戦後の日本人は協力し合って復興を遂げました。日本に革命が起きなかったのは日本の歴史と伝統の厚みであり、皇室のご存在によるものと言えるでしょう。
しかしもし1942年の段階で皇室を温存する方針が決まっていたというのが事実なら、アメリカはなぜそれを日本に伝えなかったのでしょうか? もし伝えていたら日本はもっと早く降伏して、広島・長崎への原爆投下は必要なかったでしょう。原爆投下は日本を降伏させ、戦争を早く終結させるためのやむを得ない措置だったというアメリカの主張が嘘だったということがこのことからも分かります。
「第三国人」とは何ですか?
東京都の石原知事が韓国人を「第三国人」と呼んだということで差別主義者という批判を受けました。しかし「第三国人」は決して差別語ではありません。戦前の朝鮮や台湾は日本の一部でした。ですから日本が戦争に負けたことによって独立したとはいえ、韓国や北朝鮮や台湾は戦勝国ではありません。戦勝国でもなく敗戦国でもないから「第三国人」なのです。
戦時中、独立運動をした朝鮮人や共産主義者は投獄されていましたが、GHQは彼らを釈放してしまいました。そして日本の法律に服す必要はない、と彼らに告げたのです。彼らは早速、駅前の土地を不法占拠し、そこに市場を開きました。いわゆる「朝鮮進駐軍」です。地主は彼らの乱暴狼藉を防ぐ手段もなく、泣き寝入りするしかありませんでした。殺人、強盗、強姦など、やりたい放題だった「朝鮮進駐軍」に敢然と立ち向かったのは戦地から帰ってきた若者たちと日本のヤクザでした。
血で血を洗う抗争の末、徐々に縄張りが決まってゆきました。1946年11月、「朝鮮進駐軍」の危険性をようやく認識したGHQは警察の取り締まりを許可しました。しかし、時すでに遅く、駅前の一等地がかなり「朝鮮進駐軍」に奪われてしまいました。今、駅前にパチンコ屋があるのはそういう経緯からです。
憲法第9条の目的は何だったのですか?
民主党の仙石由人が自衛隊を「暴力装置」と言ったことはまだ記憶に新しい出来事です。仙石由人は元社会党の党員で、「暴力装置」はマルクス主義の用語です。国家を転覆させることが目的の共産主義革命の最大の障害となるのが軍隊であり、警察だからです。
護憲派は、憲法9条があるから日本は戦争に巻き込まれないのだ、と主張しますが第9条「戦争放棄」には、別の側面があると見るべきではないでしょうか? 第9条には他国に対する戦争を放棄する、という意味だけでなく、暴力革命を弾圧する軍隊は放棄すべき、という意味が密かに込められていたと思われます。
東日本大震災で被災地に長く留まり、被災者の支援に献身的な努力をした自衛隊の活躍をマスコミはほとんど報道しませんでした。このようなマスコミの報道姿勢は、自衛隊を敵視していると考えない限り、理解できるものではありません。では自衛隊を敵視する勢力とは一体誰なのか、私たちは考えなければならないと思います。
「ピューリッツアー賞」とはどのような賞ですか?
日本でも話題になる「ピューリッツアー賞」は新聞などのジャーナリズム、文学、音楽に与えられるアメリカでもっとも権威のある賞です。毎年21の分野を対象に選考され、そのうち20の分野の受賞者に1万ドルの賞金と賞状が贈られます。
この賞の運営をしているのはルーズベルト大統領の母校でもあるコロンビア大学のジャーナリズム学科です。この賞ができたのはロシア革命が起きた1917年で、ハンガリー系アメリカ人ジャーナリスト、ジョセフ・ピューリッツアーの遺志によって創設されました。選考委員はコロンビア大学学長を理事長とする19名で、うち4名はコロンビア大学関係者です。これほど有名な賞が特定の大学の特定の学科の関係者によって選ばれているということは驚くべきことです。コロンビア大学というのは一体どういう大学なのでしょうか?
コロンビア大学はもともとフランクフルト学派の牙城だった大学です。労働運動や経済闘争で革命を起こすことに限界を感じたフランクフルト学派の人たちは文化人やインテリ、メディアを対象に工作をする戦略に切り替えました。これまで「ピューリッツアー賞」を受賞した作品を見てみると、ある傾向がはっきりしています。例えばW・ダワ―の『敗北を抱きしめて』やH・P・ピックスの『昭和天皇』などは日本でもよく読まれましたが、いずれもマルクス主義史観で書かれています。
自由の国、反共の国、アメリカの知識人が未だに共産主義に対する幻想の中にいることは私たちにはなかなか理解できないことです。しかしこれはコロンビア大学に限らず、アメリカの大学の人文学部に多く見られる傾向です。アメリカに留学した日本の外交官や学者の卵が共産主義に洗脳されて帰ってくるのも決して珍しいことではありません。
農地改革や財閥解体、公職追放などの目的は何だったのですか?
戦後、行われた農地改革や財閥解体、公職追放などのGHQの政策は封建的で遅れた日本の制度を近代化するためだとか、民主化するためだとか言われてきました。また日本の国力を弱めるという側面もあったでしょう。しかしGHQの後ろにOSSがいたことを考えると、これは日本の共産化への道を開くという側面もあったのではないでしょうか?
1946年1月26日、中国から戻った共産主義者、野坂参三の帰国歓迎大会が日比谷公園で3万人を集めて開かれました。この大会のために作られた「英雄還る」という歌が熱唱されたそうです。戦時中は非合法組織だった日本共産党も合法化されていました。1947年2月1日にゼネストを行うことを日本共産党は予定していました。この時、日本は革命前夜といえる、非常に危機的な状況だったかも知れません。しかしルーズベルトの死後、後任の大統領、トルーマンによってOSSは解散させられ、ゼネストはGHQの指令によって中止させられました。
やがて米ソの冷戦が始まり、アメリカは反共に政策を変えましたが、時すでに遅く、日本の戦後の方向は決められていました。教育界では約20万人が公職追放され、大学に左翼教師が入ってきました。その後、GHQのレッドパージで6千人が追われましたが、残った19万人以上の人たちが社会の中枢部に入ったことで戦後の教育はおかしくなってしまいました。ソ連が崩壊したにもかかわらず、共産主義の幻は日本社会を蝕んでいます。
参考文献:杉本幹夫『大東亜戦争はルーズベルトの錯覚から始まった』(展転社) 田中英道『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社)
社会崩壊を企む恐ろしき「フランクフルト学派」:田中英道論文要約
ソ連崩壊で共産主義の脅威は去ったと安心していたらトンでもない、雑誌正論8月号の田中英道氏の論文「日本のメディアを支配する”隠れマルクス主義”フランクフルト学派とは」は実にショッキングな内容だった。 以下に要約を。平凡社「大百科辞典」も参考にした。
西欧では1917年10月のロシア革命以後ドイツではミュンヘン、ベルリンで革命が試みられたがドイツ軍にまたたく間に鎮圧され、ハンガリー・ブダペストでは1919年一旦革命政権が成立するが数ヶ月で崩壊し、その後どこにも革命騒ぎは起きなかった。 ハンガリー革命に参加したルカーチはソ連に亡命し、革命が成功しない原因を分析した。 結論は人民の伝統文化即ちキリスト教的思考が染み付き真の階級利益に気付かないのだ、従って革命を起こすには伝統文化を根底から破壊することだとなった。古い価値の根絶と新しい価値の創造を主張した。 彼を中心に1923年ドイツ・フランクフルト大学にマルクス主義研究所が設立されフランクフルト学派の誕生となる。
その後マックス・ホルクハイマ―が同学派の中心となり労働者階級は革命の前衛とはならないと考え、古臭い闘争マニュアルを捨て、新しいマニュアルをつくった。 敵は資本主義ではなく西洋文化。政権転覆は暴力によるのではなく長期に亘る忍耐強い西洋文化・キリスト教精神の破壊により行え。その為文化教育制度を握れ。 となり、この根拠となる「批判理論」を提唱した。 そしてM.ホルクハイマーを始めT.W.アドルノ,W.ベンヤミン, H.マルクーゼ,E.フロム,ノイマン、J.ハーバーマス,シュミットなどの学者が輩出した。
この学派のユダヤ人学者(ホルクハイマ―も含め)達はナチスの台頭と共にアメリカに亡命し、コロンビヤ大学の援助を受けアメリカでフランクフルト学派を設立した。 彼等は表立ってはマルクス主義を表明せず、マルクス主義の用語も使わないので政治的には共産主義が根付かないアメリカでもこの思想が知識人に受け入れられ流布した。先の「批判理論」である。
「広辞苑」によればこの理論は《現代の技術的合理性が、自然支配と社会支配という二重の疎外を惹起していることを批判し、独自のユダヤ的ユートピア意識(革命、メシア思想)のもとに理性の復権を目指す》とある。
現代人の社会からの疎外を否定することは、即ち文化の主な要素を完全否定することになる。 その批判・否定対象は「キリスト教、資本主義、権威、家族、家父長制、階級性、道徳、伝統、性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、相続、自民族中心主義、因習、保守主義」など何から何まで全てと言った具合。
よく見るとこれらは戦後の日本人が批判してきたもの全て(キリスト教以外)が含まれている。 そうですマッカーサー司令部の中にもこの学派の影響を強く受けた連中がいて憲法制定を始め戦前の日本を全否定する所謂東京裁判史観を植え付けていったのだ。
フランクフルト学派という名称が生まれ,広く脚光を浴びるようになったのは 50 年代以降,ホルクハイマーとアドルノが帰国して研究所を再建してからである。とくにアドルノの各方面にわたる多彩な批評活動, 60 年代の学生反乱の時期でのマルクーゼの言動,学会でのハーバーマスの理論活動によって,国際的に評価を得たといえる。 1968年の「5月革命」や日本の全共闘の動きもこの学派の影響である。
この思想は日本には戦後アメリカから入ったのだが第二本家アメリカより(?)日本において大成功したとも言える。 日本のあるフランクフルト学派学者は「この思想は”理性的なものををつぎつぎと破壊していく”という思想である。あるいは”現在私達が持っている人間性を完全に破壊したところで初めて何か新しいものが始まる、というラディカルな思考”というも のだ」と言っている。 その先はテロの肯定に至ることになる。
この学派とは別にムッソリーニにより投獄されたイタリア共産党の書記長グラムシがロシア革命の実態に絶望して書いた「獄中ノート」がルカーチの理論と酷似していたことと若死にしたこともあってカリスマ性を高め、新しいマルクス主義の教典となりフランクフルト派学者によく引用されることになった。
先のルカーチはハンガリー革命政権で教育人民委員代理として文化教育制度の実権を握り、家族否定の実践として従来の道徳を否定する性教育制度を実施した。 それは、自由恋愛思想・セックスの仕方の教育、中産階級の家族倫理や一夫一婦制の否定、人間の快楽の全てを奪う宗教の否定などであった。 つまり家族・家庭の否定が目的だ。幸いこの政権は半年で挫折したので目的は達成しなかったが。
日本に置ける最近流行りの男女共同参画社会とかジェンダーフリーなどというのは完全にこの一派の亜流である。
一教師の勝手な判断で過激な性教育を校長に内緒でやっている小中学校学校があるというから恐ろしい。 彼等は小中学生にまでセックスの仕方や避妊方法を教え、セックスは快楽であるとまで教えていると言うし、道徳教育は一切しないのだから学校がフリーセックスを奨励しているわけだ。
その根源は過激な左翼活動家の主張する「性の解放」にあり、子供を生むか否かの決定権は女性にあるなどと主張し、結婚制度/一夫一婦制を否定するものだ。 それは田中論文で紹介された左翼(フランクフルト学派)の真の狙い,、即ち共産主義社会実現のために伝統文化の全てを否定する一貫としての家族制度の破壊にほかならない。 尤も学校でこんな教育をやっているオッチョコチョイな教師はこの真の狙いは知らないのだろう。
自分の孫達がこんな教育を受けたらと思うと実に恐ろしい。いや絶対に受けさせてはならない。 ここであることを思い出した。 別項「男らしさ女らしさの追放」 で述べたように、男女共同参画社会基本法制定の審議会が極端なイデオロギーを持つフェミニストたちに牛耳られ、本来とかけ離れた危険な法律となってしまったが、審議会終了後そのフェミニスト同士の対談で、如何にして自分たちが何も知らない事務局の人間を手玉にとって、この基本法のうちに自分達のイデオロギーを巧みに盛り込んでしまったかを「ふりかえったら『そんなことやってしまっていたボクちゃん』(笑)ということでしょうか」と彼女らは法案にかかわった男性役人を嘲笑していた。
田中論文でこの嘲笑の意味が完全に理解できた。
現場の教師も官僚も恐ろしい真の狙いを知らない訳だ。
兎に角恐ろしいフランクフルト学派。 知識人をとらえているものだから学者、政治家、官僚そしてマスコミの中に蔓延しているから益々恐ろしい。 上述の教師や官僚も含めて、この学派の真の狙いには気がつかず表面的な思想を過激に実施しているのも多いのだろう。 真の狙いとは「マルクス主義というのは、資本主義下でつくられた人間を破壊したうえでないと共産主義にいけない」という考え。
論文中に出てこないが左掛かった人がお好みらしい「敗北を抱きしめてー第2次大戦後の日本人」の著者ジョン・ダワーもフランクフルト学派の影響を受けていると思われる。
田中論文は更に言う。 保守派はいつのまにか文化的な教養も感受性も失っていると。 保守派は経済と政治しか話題にしない、自民党の大部分を見れば明らかというの尤もだ。 実に手厳しい指摘ではないか。
しかし例外も有った。 文芸春秋8月号に石原慎太郎と中曽根元首相との座談が載って入るが(他に石原・安部、石原・野中対談も)、そこで中曽根氏は「政治は権力の為にあるのではなく、文化に奉仕するためにあると考える。国の歩みは結局文化です。そし政治家たる者歴史の法廷に立たされているということを常に意識すべきだ」と語っている。 やはり中曽根氏は戦後の首相の中で秀逸な人だと思う。
それは兎も角我々は強敵フランクフルト学派一派の狙いを理解し闘わねばならないことを肝に銘ずる必要がある。
『戦後、なぜ日本で左翼運動が活発になったのか(東北大学名誉教授 田中英道氏)』(「日本国憲法」は「共産主義革命」の第一段階だった、日本を共産化に導いたOSS「日本計画」、日本内部の分裂と混乱を狙った行動指針、共産化したアメリカによる情報戦、「二段階革命」がなぜ戦後日本で起こったのか、「人民に訴う」に酷似した日本国憲法、今の憲法があるから平和なのではない)
なんとルーズベルト大統領は社会主義者であり、スターリンの友人でもあった。そしてそのルーズベルトが創設したOSS(戦略情報局)の構成要員のほとんどが米国共産党、フランクフルト学派(名乗らない共産主義者)であった。そのOSSで1942年前半に日本に対する二段階(共産主義)革命を計画していたこともOSS文書で分かった。かつまたOSS、フランクフルト学派の多くがユダヤ人であった。日本国憲法の草案にもっとも大きくかかわったGHQ民政局次長ケーディスもバリバリの共産主義者でありユダヤ人でもあった。1945年から2年間はGHQ内部の共産主義者たちがあらゆる日本の精神的、制度的解体を策略した期間でもあった。後にレッドパージされるまで日本国憲法をはじめ、ほとんどの諸改革が断行されてしまった。すべては二段階革命の布石(特に憲法九条)であったのだ。結果的に革命は行われなかったが、そのつけは大きく、戦後左翼の台頭、あらゆる階層にフランクフルト学派が跋扈し、日本を蝕んできた。
ルーズベルトは、1945年4月に急死した。急遽、大統領に昇格したトルーマンはOSSの存在をまったく知らされておらず、驚愕した彼はこれを廃止した。やがて蜜月時代は終り、米ソ冷戦の時代となった。それとともに赤狩りが始まった。
フランクフルト学派は、名乗らないが共産主義である。文化的共産主義だと言ってもいいだろう。体制を批判するためにあらゆる社会矛盾を糾弾し、攻撃してくる。個人の人権を主張し、封建的だとして家族制度や、ひいては国家の弱体、解体まで展開してくる。しかし、そこからは生まれてくるものは自己中心であり、なんら建設的なものはない。ジェンダーフリーを展開し、家族制度を否定する。愛国心を削ぎ落とし、国家の弱体を図ってきた。伝統や秩序の破壊はあっても人間の不幸を助長するだけである。左翼思想の本質とはそういうものであろう。虚偽意識である。
それにしても、体制としての共産主義は崩壊してきたが、ユダヤ人たちが考え作り出したフランクフルト学派理論の脅威は戦後70年経っても続いている。ディアスポラのユダヤ人たちは世界でもっとも嫌われた民族として生きてきた。その人々が味わった苦難の中から、国を持たないが故に金融や経済で、思想の世界で隠然たる力を持ち続けてきた。田中英道氏は歴史から見た視点から、こういう世界との思想的闘いを展開してこられた。
『世界のメディアを支配する“隠れ共産主義”フランクフルト学派』(体制の内部に入り、その中から、「体制否定」の理論を繰り返すことによって、社会の内部崩壊をもたらそうという理論 田中英道)
このフランクフルト学派の代表的な論者《マルクーゼの『一元的人間』は、「右翼に対する不寛容、左翼に対する寛容」を要求し、そこに「教育的専制」を行い、一方で「開放的寛容」を要求した。これが一元的態度である。逆ファシズムである。
ベトナム戦争で、戦争擁護派を黙らせ、戦争反対で、そのくせベトナムの旗を振る過激派を支持した。右翼の暴力は許さないが、左翼なら何でも大目に見る。これでなぜ左翼がテロを行い、右翼に対しては絶対に許さない態度をとることが当然であるかがわかる》とブキャナンは述べている。一見フェアのような学者の理屈も実をいえば党派的なものなのだ、と。
こうした思想を大学時代に教えられると、その破壊的な傾向が、大学に残った学者にも報道機関や出版社に就職していったジャーナリストにも受け継がれていくのである。
『日本を滅ぼす! フランクフルト学派』(皇室典範改正(悪)案は、共産革命の総仕上げ!文化テロリズムの実践が批判理論。今の日本は「白色共産革命」に侵されている)
マックス・ホルクハイマー(左)。右はテオドール・アドルノ。
男女共同参画は、変種マルクス主義の内部破壊工作のひとつ(『グローバリズムの罠 国難の正体 馬渕睦夫』カウンターカルチャー、LGBTとか、そういうムーブメント、これらを仕掛けている人達というのは全部根っこは同じ)
◉マイノリティとマジョリティ
日本の社会が分断されているひとつの例として投稿ブログの問題を取り上げましたが、実はこれだけではありません。
「ヘイトスピーチ抑止法案」を自民党が作りました。このヘイトスピーチ抑止法案というのも日本の社会を分断するものです。
例えば、マイノリティを否定するとヘイトスピーチなる。しかし、マイノリティがマジョリティを否定してもヘイトスピーチにはならないのです。つまりこれは、日本社会をマイノリティとマジョリティに分断する工作なのです。 人道主義でも人権主義でありません。 「社会を分断するための政治工作」なのです。
こういうことを推進している人たちはたくさんいます。 「人権擁護法案」もそうです。幸い民主党政権時代にこの法案は潰れましたが、いつ蘇るかわかりません。 人権擁護法案とはマイノリティの人権だけを守ろうという話です。 マイノリティは守ってもマジョリティの人権は守らない。平等に反しているではないですか。 そこに、マイノリティとマジョリティを分断しようという意図が透けてみえます。
また、これは日本国憲法が保障している 「法の前の平等」に挑戦している法案です。この法案を提案したのが民主党(現民進党)です。彼らは自分たちの党を何と言っていますか。立憲主義政党と言っているのです。「憲法に基づき憲法を護る」と言っているのですが、嘘が過ぎます。本当の立憲政党であるならば、「二度と人権擁護法案を提出しない」と党の綱領に書くべきです。こういうことが人道、人権主義の名のもとに、巧妙に行われている。それこそが、政治工作なのです。
何度も言うように、私は世界大戦はすでに始まっていると思っています。 中東やヨーロッパだけの話ではなく、日本でもすでに始まっています。日本国内を分断するという工作から始まっているのです。
今、日本は内部崩壊の危機にあります。今は内部崩壊を画策している人たちと一般国民との戦争状態にあるわけです。しかし、彼らの意図を見抜きさえすれば、この戦争に私たちは勝つことができます。「人権」「人道」を謳った美しい言葉に騙されてはいけません。
そんな「美しい言葉」のひとつが、「男女共同参画」です。 こんな日本語は本来ありません。一見すると反対する点がないような言葉を作って騙すというのが、日本に政治工作を仕掛けている者たちの常套手段なのです。日本政府も官僚もあまり危険を意識せずに推進していますから、私たちはより注意深く見ていく必要があります。
こうした日本社会の分断というのは、今に始まったことではありません。これは一種の「マルクス主義」なのです。 「変種マルクス主義」と言ってもいいかもしれませんが、今までの共産主義革命は暴力革命だったのですが今は違います。戦後、特に冷戦終了後に顕著になったのは、体制のなかに入って、その指導的な文化を内部から壊していくやり方です。
アメリカでは「東西冷戦」の時代(特に「ベトナム戦争」の時期)に始まりました。 ヘルベルト・マルクーゼをはじめフランクフルト学派と呼ばれる人たちは、とにかく既存の秩序を批判し、「破壊しろ!」と言っています。その後のことはどうでもいい、ただ破壊しろと言うのです。
そういう洗脳工作は、戦後から現在までずっとあったのです。先ほどの「子供を産まなくてもいい」というのもそのひとつです。
しかも、それが工作であると気づけないように私たちは教育されてきている。何をや「日本社会を「分断」 させてはならない
ってもいい、それは個人の権利であるという教育を受けてきているのです。
『リベラルの自滅 馬渕睦夫』(「リベラル」という破壊思想(フランクフルト学派の「批判理論」による「既存の伝統秩序を破壊する活動」、国連は世界をグローバルに統一するための機関)『アメリカ人が語る日本人に隠しておけないアメリカの“崩壊” マックス・フォン・シュラー』(姿を変えたマルクス主義“言葉狩り"(ポリティカル・コレクトネス)が国を滅ぼす)
『リベラルの自滅 馬渕睦夫』
◆ 「マイノリティ重視」こそ“偏見”である
では、このような偏見、つまり、野党やマイノリティを重視する偏見は、どこから出てくるものなのでしょうか。それは、前述しましたがフランクフルト学派の「批判理論」です。
私たちは、フランクフルト学派という言葉にあまりなじみがありません。ですから、フランクフルト学派が実際に何を狙っているのかについて、つい等閑視してしまうことになるのですが、じつは、とんでもないことになっているのです。
東北大学名誉教授の田中英道氏が、著書『日本人にリベラリズムは必要ない。「リベラル」という破壊思想』(KKベストセラーズ) の中で、「批判理論」について詳しく述べておられます。
「批判理論」とは、「伝統的な秩序を破壊する」ということです。存在している秩序をすべて破壊するための理論が「批判理論」です。 今、国連がやっていることが、まさにそうなのです。
私たちは、今まで「国連信仰」を、強すぎるほど持っていました。国連は、世界平和のため、世界から貧困をなくすために活動していると思っていました。
しかし、そうではありません。特に、人権、人道といった社会分野を扱う国連の機関は、世界の秩序、つまり「既存の伝統秩序を破壊する活動」を行っているのです。 それはなぜかと言えば、ブレジンスキーが言った通り、「国連は、世界をグローバルに統一するための機関」だからです。国連は、グローバリズムの推進機関なのです。
国連の隠された目的を私たちは知り、それに対応する必要があります。 社会的な問題として各国各所で様々な紛争が生じているわけですが、その背景には、必ずフランクフルト学派がいると言っていいと、私は思います。
日本では、ヘイトスピーチ対策法ができました。 男女共同参画、 ジェンダーフリー、それから、LGBT、 つまり性的少数者を保護するための法律ができる危険性もあります。
そのバックには、すべて同じ流れがあります。それは、ポリティカル・コレクトネスという綺麗事のもとに、私たちになかなか気づかれない形で推進されています。
しかし、一旦、彼らの戦略を見破ってしまえば、彼らはもう何もできないはずなのです。ここに、私たちの自衛の秘訣があるわけです。
『日本人よ、歴史戦争に勝利せよ GHQ洗脳史観への決別宣言 若狭和朋』(思想解体されてしまった日本人、NHK騒動の真相、現在の日本の政治家やマス・ゴミニストが、あのGHQに潜伏していた共産主義・フランクフルト学派の変態した「日本解体計画の嫡出子」ルカーチの亡命とフランクフルト大学社会研究所、敗戦後の破壊、GHQの愚民化政策とゆとり教育、GHQの洗脳政策を支えた日本人の一群)
日本占領軍は、日本固有の憲法を廃棄したり、制定したりする権限を国際法上、または条約上持つものではない。だから、日本の正当な憲法は大日本帝国憲法以外には存在しない――これが法理的に正しい唯一の解釈だ。占領軍が作りえたのは、占領管理条約までだ。日本国「憲法」という占領条約の作成目的は、要約して箇条書きにすると、次のようになると、私は思う。
エッセンスは日本国民の純度を落とすということだ。
『歴史戦争の正体 日本を滅ぼす自虐史観とマルキシズム 若狹和朋』(先進国型のマルキシズムの誕生―フランクフルト学派、ロシア革命型を目指した“暴動”は、実は革命蜂起、いまの日本政治家マス・ゴミニストがあのGHQに潜伏していた社会主義者・共産主義者たちの集団であるフランクフルト学派「日本解体計画の嫡出子」)
『歴史戦争の正体 日本を滅ぼす自虐史観とマルキシズム 若狹和朋』
911-311 真実を求めて(OSS日本本土に対する地震心理戦計画、米軍の投下ビラ「地震の次は何をお見舞いしましょうか」、NHK 長谷川浩解説主幹の変死(死亡記事))
戦前、戦後も隠れ共産主義者が暗躍する日本(戦後は家族制度、伝統文化破壊に移行、究極の破壊目標は、天皇の存在(二段階革命論))
共産主義思想はそのままでは受け入れられませんから、権力を握った共産主義者は、表と裏に分かれ日本の伝統社会を破壊するという巧みな共産主義運動を展開していきます。マルクスによる共産主義は、暴力革命論です。しかし、国民のモラルが健全で、伝統文化の香り高い安定した国では、暴力革命が不可能です。そこで、革命を起こしたい国の伝統・文化を徹底的に破壊して国全体を不安定にします。そのうえで選挙で共産主義革命を起こすという二段階革命論を考えた学者たちがいます。ドイツのフランクフルト大学を拠点としていますのでフランクフルト学派といいます。