幼い頃習っていたモダンダンスは、童謡や歌謡曲にあわせて踊ることが多かった。その中で、私の心に強く刻まれている曲がある。
「戦争が終わって僕らは生まれた
戦争を知らずに僕らは育った
おとなになって歩き始める
平和の歌をくちずさみながら
僕らの名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ」
北山修作詞、杉田二郎作曲の「戦争を知らない子供たち」だ。9歳の私に、「戦争」という言葉を印象付けるきっかけとなった一曲である。当時は歌に込められた想いも理解せず、小気味よいリズムを口ずさみ、ひらひらと、音楽に身体をゆだねていた。
私は現在、夫と2人の子ども達、身近な人の中では唯一の戦争経験者である祖母と暮らしている。今年91になる祖母は、太平洋戦争が始まる7年前の1934年11月11日に、静岡県浜松市で、織屋の次女として生まれた。身体の弱い父親と内向的な姉とは対照的に、健康且つ社交的だった彼女は、父親に代わって取引先へお遣いするなど、少女の頃から商いの道に親しんだ。嫁入り先は、戦後の復興を下支えしてきた町工場。4人の子どもを義母に託し、自身は仕事に没頭してきた。幼い私が遊びに行っても事務所で電卓を叩き続け、休日にやってきたお客さんのためにシャッターを開けるような人だった。典型的な孫溺愛タイプではなく、幼心に近寄りにくささえ感じたことを覚えている。
その後、私は高校入学をきっかけに実家を離れ、祖父母の家で暮らし始めた。私のために好きでもない料理をしたり、高校の文化祭にきてくれたりするうちに、それまで感じていた距離は、自然と縮まっていた。そして、楽観的で自信に満ち溢れた祖母の姿は、他人と自分を比較しては落ち込んでいた当時の私に眩しく映った。「あんな風に前向きに生きたい!」半世紀以上歳の離れた彼女を羨望し、自己研鑽に励んだ。高校卒業以降、私は殆ど国外で生活していたが、9年前に、縁あって彼女との生活を再開した。2人で始めた生活も、今では私の家族と5人生活。「ばーば、薬飲んだ?」「ばーば、テレビの音大きいから下げるよ!」「ばーば、水分摂って!」そんな言葉が、呼吸をするように出てくる賑やかな毎日だ。

1941年12月8日、日本軍による真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争が幕を開けた。開戦当時、祖母は7歳。その後3年8カ月間にわたる戦争体験は、衰えゆく認知機能とは裏腹に、彼女の脳裏に鮮明に焼き付いているらしい。ことあるごとに、私の幼い子どもたちに、当時の様子を語っている。
「農家の子どもだけは”銀シャリ“持ってきていて、羨ましかったやぁ。私らはヒエとか粟とか。お昼の度に家に帰って、イモのツルまで食べたよ。」
「学校から帰っている途中に、空襲警報が鳴るの。その度に丸くなってドブに隠れた。上をアメリカの飛行機がブンブン飛んで行って、本当に怖かった。」
「私のお父さんは身体が弱かったけど、軍につれていかれてね。銃も担げないような人だけど字が上手かったから、兵隊さんの代筆をしていたの。」
兵士から家族への手紙と言えば、10年以上前に訪れた、広島の原爆資料館(正式名称:広島平和記念資料館)で読んだことがある。あの中に、私の曽祖父が代筆したものがあったかもしれない。展示スペースにびっしりと貼りだされた手紙の一枚一枚。時にタオルに顔をうずめながら、滲む視界の先にある言葉を、ひたすらに読んだ。「お国のために」身を呈して戦うことが称賛されていた時代ではあったが、兵士たちの手紙は国への想いではなく、家族への愛と平和への願いに溢れていた。もう二度と会うことはない家族の幸せな人生を心から願い、そこにいられない自らの無念に歯を食いしばりながら、私の曽祖父に語ったのだろう。
戦後80周年の記事を書こうと戦争について調べていた折、あるデータを発見した。終戦時5歳に達している世代、即ち、1940年以前に生まれた人々を戦争経験者と定義づけ、彼らの人口中に占める割合の推移を示したものだ。それによれば、2020年時点で、戦争体験者の人口中の割合は1132万人、9.2%。2025年には720万人、5.9%となっている。2040年には0.3%であるが、この時点で生存している人々の殆どは終戦時に幼児であり、私の祖母が持つような鮮明な戦争記憶はないに等しいだろう。
―戦争経験者が日本から消える。
それは、日本で平和が継続してきた証だが、このことに警鐘を鳴らす人は実に多い。歴史の風化が加速するからだ。同じ過ちを繰り返さないためには、戦争がいかに愚劣で、人類にとってマイナスな行為であることを認識する必要がある。それを達成する最も身近で効率的な方法は、学校教育だろう。そこで、戦後の歴史教科書における戦争記述、特に「日本による加害行為」の記録の変遷を辿った。
1950~60年代は、日本国内の被害に重点が置かれ、加害行為については紙幅を割かれていなかった。日本軍の活動に対しては、「侵略」ではなく「進出」と記載されるなど、肯定的である。ほんの数年前まで、アジア諸国を西欧列強から開放する為の聖戦をプロパガンダに掲げていたのだから、当然だ。
1970年代、特に、1978年以降は、教科書検定基準改訂の影響を受けて、「南京事件」「従軍慰安婦」「強制連行」など、日本の加害行為に関する記述が増えた。これは、当時教科書検定の透明性と検閲に関する社会議論を巻き起こした「家永教科書訴訟[1]」や、中国・韓国に関係する戦史記述に対する、近隣諸国からの批判が強まったことが背景にある。国内外の圧力により、日本が目を背けてきた己の過ちに真摯に向き合うべきだ、という風潮が高まった時代だ。
そして1982年11月、文部省は「近隣諸国条項」を検定基準に導入した。「近隣アジア諸国との歴史的事象に対し、国際理解と国際協調の見地から配慮すべき」という条項が明記されたのだ。これにより、教科書に書かれる内容が外交的配慮を前提として検定される枠組みが形成され、1980~90年代の歴史教科書には、加害・反戦記述が拡充していった。(頁数の都合もあるかもしれないが、それでも、この記事にあるように、教科書における日本の戦争史は限定的だ)
しかし2000年代に入り、教科書の内容に変化が起き始める。従軍慰安婦問題など、日本の戦争加害に言及することなく責任を曖昧にし、むしろ美化した記述を採用した右派系教科書が登場したのだ。現在の制度上、事実と異なる歴史観が内容に含まれていても、重大な誤りや学習指導要領に明確に反する記述がなければ、承認はおりる。右派系教科書の採用率は全国1%に満たないとされているものの、今もその教科書で学んでいる子ども達がいることは、事実だ。彼らは、歴史を学んでいるのではなく、歪曲した事実を教え込まれていると言える。
更に、2014年~2016年の教科書基準改訂では、「政府見解準拠」が義務化された。言葉の通り、事象に対する基準や語句は、政府の見解と同じではならなければならない、ということだ。政府が過去の過ちを認め、責任を果たす姿勢ならば良い。しかし実際、そうではないようだ。この改訂をきっかけに、最近の歴史教科書検定では、「従軍慰安婦」を「慰安婦」へ、「強制連行」を「徴用」とするなどの修正が行われた。「記述が強制性を薄める方向に変更された」と、諸国からの批判があがったことは、当然の結果である[2]。
日本は、過去の過ちと向き合うことができているか。
戦争を知らない子ども達は、人類にとって大切なことを学ぶ機会を奪われていないだろうか。
日本はこのままで、平和を保つことができるのか。
これからの世界に、平和は訪れるだろうか。
これらの問いに、首を傾げずにはいられない。

戦争は、国と国の争いだ。しかし、戦いで破壊されるのは国ではなく、そこに属する人々と彼らの日常、そして、幸せに他ならない。今日も我が家では、背中の曲がった祖母が、本日5度目となる「ドブでアメリカ軍の飛行機から身を守った話」をしている。7歳の娘は「もうその話何回もしたよ!」と、遮りながらも笑顔だ。4歳の息子は、「飛行機いっぱいだった!?」と、話の要点を得ずも喜んでいる。
この穏やかな毎日を守るため、私にできることは、なんだろう。
紛争地の人々の幸せな日々を取り戻すため、ADRAにできることは、なんだろう。
生まれてきてよかった、と思える世界を作るために、人類は、何を大切にしたら良いのだろう。
「青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔のすてきな人なら
誰でも一緒に歩いてゆこうよ
きれいな夕陽が輝く小道を
僕らの名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ」
北山修の詩(うた)は、あなたに何を語りかけるだろう。
戦後80周年を迎える今年、あなたは何を思うだろう。

(文責:守屋 円花)
[1] 沖縄戦での住民集団自殺や日本軍による虐殺・強制行為等が記述されていた教科書が文部省による検定で不合格となったことに対して、筆者の家永氏が国を相手に起こした訴訟。