「人権先進国」フィンランドで繰り返されたアジア人ヘイト――なぜ差別は「なかったこと」にされるのか

原田隆之
筑波大学教授
写真:アフロ

フィンランドで続発しているアジア人ヘイト

 多くの人はフィンランドという国に、どのようなイメージを持っているだろうか。豊かな自然と湖の国、教育水準の高さ、社会保障の充実、治安の良さ――そうした肯定的な印象を思い浮かべる人は少なくないだろう。近年では「世界で最も幸福な国」として国際ランキングで繰り返し紹介され、日本でも理想的な北欧社会の象徴として語られることが多い。

 同時にフィンランドは、民主主義、法の支配、ジェンダー平等やマイノリティの権利を重視する国として国際的に高い評価を受けてきた。政府自身も外交や国際協力の場で人権の尊重を中核的価値として掲げており、「人権先進国」としての自己認識を持つ国家であると言ってよい。

 そのフィンランドで、最近起こったアジア人差別に対し、SNSなどでは「炎上」と言ってよい状態となっている。

ミス・フィンランド代表の「吊り目」ジェスチャー

 発端となったのは、フィンランドのミス・フィンランド代表が、いわゆる「吊り目」と呼ばれるジェスチャーをした写真をSNSに投稿したことである。この行為はアジア人の身体的特徴を揶揄する人種差別的表現として国際的に強い批判を浴び、最終的にミス・フィンランドの称号は剥奪される事態に至った。本人は「頭痛でこめかみを押さえていただけ」などと釈明したという。

 さらにその後、この剥奪措置をめぐる議論の中で、一部の国会議員が同様のジェスチャーをSNSに投稿し、物議を醸した。

 報道によれば、その中には与党に所属する議員も含まれている。これらの投稿について、本人たちが「ミス・フィンランド剥奪への抗議」を目的としたと公式に表明したかどうかは必ずしも明らかではないが、結果として、差別的表現と受け取られかねない低俗な行為が公的立場にある政治家によって繰り返されたことは事実である。

「冗談」だったで済まされるのか?

 これらの投稿に対して、当該の国会議員らは、差別的意図を否定し、「冗談のつもりだった」「深刻に受け取られるとは思わなかった」「支持や連帯を示す意図だった」といった趣旨の説明を行っていると報じられている。

 つまり、少なくとも本人たちの認識においては、アジア人を侮辱する行為であるという自覚は乏しく、差別の指摘そのものが過剰反応であるかのように扱われた側面がある。

 しかし、ここで注目すべきなのは、意図の有無ではなく、行為がどのように受け取られ、どのような歴史的文脈を持つ表現であったかという点である。国際的には差別的ジェスチャーとして広く認識されている行為が、「冗談」や「軽い表現」として正当化されるとき、そこには個人の認識を超えた心理的・社会的メカニズムが働いている。

差別と差別の矮小化の心理

 では、なぜこのような行為が「冗談」や「表現の自由」として処理され、差別だという指摘に対して防衛的な反応が生じるのだろうか。

 差別的行為が批判された際、当事者がしばしば口にするのが「悪意はなかった」「冗談のつもりだった」という説明である。心理学では、これは「道徳的無効化」と呼ばれる心理過程として説明されている。

 自らの行為が他者を傷つけているという事実を突きつけられると、反射的にそれに反発し強い不快感が生じる。その心理的負荷を回避するために、行為の意味を矮小化し、責任を曖昧にするのである。

 「吊り目」という表現は、アジア人を外見的特徴で一括りにし、嘲笑や劣位化の対象としてきた長い歴史を持つ。国際的には差別的ジェスチャーとして認識されており、無自覚であったという説明が通用する余地は極めて限られている。

 百歩譲って、当初は理解不足があったとしても、指摘を受けた後に説明や反省ではなく、沈黙や矮小化が選ばれたとすれば、それは「知らなかった」のではなく、差別の問題と「向き合わなかった」と評価せざるを得ない。

 そしてそのような態度は、問題を「なかったもの」として扱うだけでなく、現状を追認するメッセージとして機能する。差別は、行為そのものだけでなく、それが否認され、軽視される過程で再生産されていく。

 さらに重要なのは、この問題が個人の問題にとどまらない点である。フィンランドは長年、民主主義や人権、平等を重視する国家として国際的に高い評価を受けてきた。この評価は事実に基づく側面を持つ一方で、心理学的には集団ナルシシズムと呼ばれる現象を生みやすい。

 すなわち、「自分たちはすぐれた人権意識を持っており、世界の先頭を行っている」「自分たちは差別をしない側であり、人権を侵害するはずがない」という強固な自己像である。

 当事者がミス・フィンランド代表や国会議員といった象徴的・公的立場にある人々であれば尚更である。

 この自己像が強いほど、外部からの差別の指摘は、反省や改善の契機ではなく、「不当な攻撃」や「嫌がらせ」として知覚されやすくなる。結果として、差別行為そのものよりも、それを指摘する側の動機や態度が問題視され、「過剰反応」といったラベル貼りが行われやすくなる。

人権を尊重する社会とは

 この一連の出来事は、フィンランドという国家や特定個人の本質を断罪する話ではない。日本人はとかく北欧を美化しすぎる傾向があるが、特定の国が理想郷であるかのように美化しすぎるのも間違いであるし、この一件だけであたかも「差別国家」のように断罪するのも間違っている。

 ここで問われているのは、「真に人権を尊重する社会とは」という問いである。

 真に人権を尊重する社会とは、差別が起きない社会ではない。残念なことであるが、そのような社会は現実的に存在しない。

 だとすると、人権を尊重する社会とは、差別が起きたときに、自らの差別意識を認め、それに直面し、反省し、修正できる社会である。否認や矮小化ではなく、内省と修正を選べるかどうか――いま問われているのは、そういうことなのである。

 差別を指摘する声を無視し、「冗談」で済ませようとしたとき、その社会は人権の言葉を語りながら、人権の実践から一歩も二歩も後退した姿を世界に示したと言わざるを得ない。

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筑波大学教授

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筑波大学教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春新書)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

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