待っている間に。 ー伊藤詩織氏の元支援者達の批判における倫理的懸念ー
※本稿には有料コンテンツからの引用がありますが、公益性の観点から権利者に断りなく使用します。
ジャーナリストの伊藤詩織が監督し、制作された映画「Black Box Diaries(以下「BBD」)の公開をめぐって大論争が起きている。いや、起きていた、というべきかもしれない。私はこの話題をX上で追っているが、もう論争は山を越えて、今後の成り行きを静観している人が多い。
ある意味「旬」をすぎたと思われるこの話題について、私はいま、この記事を書いて公開する必要を強く感じている。様々な意見が飛び交う中、どうやら立場を問わずこの問題に関心を寄せるほとんどの人が、伊藤が何らかの形で説明するのを待っていると思われるからだ。この記事の第一の目的は、今後伊藤が発言するにあたり、フェアで安全な言論環境を整えることにある。それはつまり、いま伊藤に向けられている「早く説明をするべきだ」という圧力や期待に「待った」をかけることになる。
我々は、伊藤の言葉を待つのであれば、準備をしなければならない。
0.伊藤に何を「言わせる」つもりなのか
去る2月20日、日本外国特派員協会にて、伊藤のいくつもの民事訴訟の元代理人弁護士であった西廣陽子・加城千波・角田由紀子と、西廣・加城両名の代理人でもある佃克彦の4人(以下「元弁護団」)が「伊藤詩織氏のドキュメンタリーにおける倫理的懸念」と題する記者会見を開いた。そこでいくつかの、BBDの製作・公開について伊藤が犯しているとされる倫理的問題が提起された。
佃によるとこの会見は本来2月12日に予定されていたが、それを知った伊藤側が自分達にも説明する機会をもらいたいとFCCJに申し入れ、BBDの上映も合わせてこの日に実施されることになったものだ。しかしながら伊藤の体調不良によるドクターストップがかかり、当日に午後の会見と映画上映がキャンセルされ、元弁護団側の会見のみが行われたことはよく知られている通りである。この日伊藤と、伊藤の現代理人である師岡康子・神原元、両弁護士(以下「現弁護団」)はそれぞれコメントを発表し、その中で元弁護団が提起した問題について一定の謝罪と見解、今後の対応について述べている。
このことを受けて、「元弁護団側が指摘した問題について伊藤側も認めている」という認識が共有されてしまっていて、2月20日以降のほぼ全ての議論はそれを前提に行われている。代表的な一例として中野円佳・浜田敬子・小川たまかによる3月9日付のFRaUの鼎談を挙げておく。編集部はその最後を、伊藤の声明から当該箇所を抜粋した上でこう締めくくっている。(強調は筆者)
2025年3月4日時点では修正したバージョンの映像はどこでも見られないため、修正の確認はできないが、伊藤さんもこのように認めている。元弁護団が指摘した「問題点」は、伊藤さん側も「問題点」と認識しているのだ。
2月20日にドクターストップがかかった後、伊藤さんがメディアの前に現れたのは3月2日(現地時間)のアカデミー賞の授賞式だった。伊藤さん側も認めて修正をすると断言している以上、今後の説明や修正対応が待たれる。関係者が納得をしたうえで日本で上映されることを待ち望む人は多いはずだ。
私はこの前提に、大いに疑問を持っている。
本当に元弁護団と伊藤側の認識は一致しているだろうか。また、伊藤が問題点と認めたとしても、
それらは本当に対応されなければならない「問題点」なのだろうか。
この2点が十分に検討されないままに新しく伊藤が記者会見その他の形で発言すれば、起きることは容易に予想がつく。もし伊藤側が、元弁護団が主張する通りに問題を認め、元弁護団が主張する通りに謝罪し、元弁護団が納得する形で映画を再編集し、すでに上映されている海外の国についても対応する、と言わなければ、期待を裏切られた人々によって再び大バッシングが起きるだろう。そしてどこまでも要求がエスカレートしていくに違いない。「小さな声を聞け」という怒号の大合唱。そして自分の意見を聞かせたい人々が次々と新しい論点を繰り出し、ますます大声を上げる。
果たしてそれは、フェアだろうか。
本稿はまず副題の通り、「伊藤が何をしたか」ではなく、「元支援者達が何をしたか」という問いを立てることから始める。BBDをめぐる議論がもっぱら「伊藤が何をしたか」という、元弁護団が設定した問いに基づいてされていると勘違いしている「論客」達のなんと多いことか。それぞれの瑕疵はそれぞれの問題であり、別々に検討されなければならない。当然のことだ。こんな言うまでもないことすら吹っ飛んでしまっている異常な状況が現状なのだ。だから彼ら「論客」は元支援者たちの問題を告発する人々に対して「伊藤側につく人々」という理解しかできず、どっちもどっち論やものを知らない素人扱いでしか応じられないのだ。現弁護団が立て、封殺されてきたこの問いを、私はオープンディベートの場に立てなおす。
佃は会見で現弁護団について「横から撃ってきて邪魔をしている」と表現している。これは映画制作についての伊藤の代理人が別の弁護士で、自分達が協議するべき相手はそちらだという認識に基づいている。確かに現弁護団は2024年10月21日の記者会見以降の、元弁護団から伊藤への弁護士倫理違反および名誉毀損問題の代理人だ。現弁護団は、元弁護団による告発の内容が伊藤への名誉毀損を含むという前提に基づき、提起されている問題に返答していると思われる。
つまり現状、両者の対話には少なくとも「元弁護団が何をしたか」の分析が必須なのだ。
また、これまで元弁護団の問題を指摘してきた現弁護団は、3月18日に報道発表した資料で、インターネット上で元弁護団と伊藤側の対立が煽られ、結果的に、日本において性加害の多くが放置され、被害者救済がなおざりにされている、というBBDの主題が後景に追いやられていることを危惧している。依頼人の利益のために代理人がこれを危惧するのは当然のことで、2月20日直後にはかなりあった元弁護団への批判がこのところ沈静化しているのは、現弁護団の対応を見守るということもあると思われる。
これを踏まえてなお、私はこの記事を書いている。元弁護団に代表される元支援者達の問題は、一個人や一つの映画に関わるだけの問題ではないと考えるからだ。伊藤は西廣に「底知れぬ悪意を感じます」と言ったようだが、私は一連の元支援者達の言動に一切の悪意を見いだせない。しかしそのことは、彼らに問題がないことを意味しない。元弁護団の問題が温情主義(パターナリズム)にあることは、私を含め、複数の人が指摘してきた。社会常識を分厚くまとっている彼らが体現していること、またそれらの問題が十分に高い知性をもっているはずの人々によってスルーされる現実は、温情主義が蔓延するこの社会の構造的な問題に他ならない。西廣陽子という憐むべき人物の痛みはケアされるべきだが、残念ながらその傷つきに不正義はない。東京新聞記者・望月衣塑子の数々の蛮行が否定されず、むしろそれを止めようとした現弁護団の動きが反発によって封じられたことも、この構造的問題の上にあるとみる。
私は今後まだ数十年はあろうと思われる人生を、このような毒に満ちた社会で生きさせられることが恐ろしくてならない。元弁護団の温情主義についてはすでに深く検討されている方がおられるのでここでは触れないが、本稿が勧善懲悪で個人攻撃をするためではなく、社会構造への危機感から書かれていることはお断りしておく。この記事を公開する第二の目的がここにある。
先の前提に基づき、伊藤及び現弁護団と映画制作チーム(以下「伊藤側」)に対し、「説明・対応・謝罪」を早くしろという圧力が、元支援者達とそれに同調する人々によって、この三か月間絶え間なくかけられている。その筆頭は言うまでもなく、3月19日に佃氏をのぞく元弁護団3人により「伊藤詩織氏の声明から1か月を迎えてのコメント」と題して発表された報道資料だ。
1.伊藤詩織氏が本年2月20日に、FCCJ(日本外国特派員協会)に向けて声明を発してから本日で1か月が経ちました。
上記声明で伊藤氏は、西廣に対して「心からお詫び申し上げます」と述べ、また、映画「Black Box Diaries」について「差し替えなどできる限り対応します」と述べています。
しかしながら本日現在、伊藤氏から西廣に対して直接間接を問わず謝罪はなく、また、映画の修正に関する具体的な相談や提案もなく、修正された映像の提示もありません。
私たちは本コメントにおいてあらためて伊藤氏に対し、私たちが従前から問題としている4点(ホテルの防犯カメラ映像、捜査官Aの音声と映像、タクシー運転手の音声と映像、弁護団の音声と映像)について、所要の削除・修正をするよう求めるとともに、私たちが本年2月20日の会見で提起した問題、即ち、これまでの海外での上映に際して伊藤氏が上記4点についてどのように説明をしてきたのかについて、明らかにするよう求めます。
2.なお、伊藤氏が西廣らを相手方とする紛議調停申立を取り下げた旨の報道に、私たちは昨日接しました。私たちは伊藤氏が申立てを取り下げたことについてはこれを多(原文ママ)としますが、伊藤氏側は、報道機関に昨日配布した声明においてなおも、西廣らを「弁護士倫理的には看過しえない」などと非難しております。しかし、西廣らが弁護士倫理に違反した事実はなく、よってかかる非難は前提を欠くものであることを申し添えます。
本稿は、これらの圧力を暴力とみなし、その社会的影響を無効化することを目指す。
1.元弁護団による「論点」
2月20日までに元弁護団により提起された論点は次の通り。
ジャーナリストとして守るべき取材源の秘匿、及び公益通報者の保護がされていない
元弁護団から指摘された人権に関わる問題を、ドキュメンタリー作家として説明し、対処する責任を果たしていない
関係者から許諾を得るなどの手続きが疎かにされたことによる当事者の苦しみ
昨年10月の会見以降に何件か来た、承諾なく自分の映像が使われているという「声をあげられない声」の存在
伊藤の責任以外を権利当事者別に分けると、次のようになる。
・ホテルの防犯カメラ映像の許諾
・西廣との協議内容の無断録画・録音、およびその使い方
・捜査官Aのプライバシーの秘匿と、映像や音声の許諾
・タクシー運転手のプライバシーの秘匿と、映像や音声の許諾
・女性ジャーナリスト勉強会参加者の映像と音声の許諾
ここで注意が必要なのは、元弁護団は、ホテルや捜査官Aやタクシー運転手という権利当事者から依頼をうけた代理人ではない点だ。ホテルには別に代理人弁護士がおり(後述)、あとの二人は連絡がつかなくなっていることが伊藤により明かされている(東京新聞2024年10月21日)。勉強会参加者についても代理人といえるかどうかが不明。彼らは基本的にこれらの「権利侵害」について、西廣のケースを除けば、たとえどんな崇高な目的を掲げていようと何ら特別な権限を持たず、ただ私見を披露しているにすぎない。
2月20日には伊藤と現弁護団もこれらの点についてコメントを発表している。それらは以下のサイトで全文を読める。
何にせよ、現在までに伊藤側代理人として声明などを発表しているのは神原・師岡の両名なので、これら公表されている資料を参照しながら、元弁護団が何をしているのかを見ていくことにする。
懸念1:捜査員A、およびタクシー運転手の音声・映像 「代理人の主張が意味不明」
この点で元弁護団側と伊藤側の認識が全く一致していないことは、両者が公表している資料を一読すれば簡単にわかる。
佃以外の元弁護団3人は、三月に改めて、ホテルの防犯カメラ映像、捜査官Aの音声と映像、タクシー運転手の音声と映像、弁護団の音声と映像について「所要の削除・修正をするよう求める」根拠として、伊藤が2月の声明で「差し替えなどできる限り対応します」と述べていることを挙げている。
では、伊藤は具体的にどういう点を「差し替えなどできる限り対応します」と言ったのだろうか。
また、映像を使うことへの承諾が抜け落ちてしまった方々に、心よりお詫びします。最新バージョンでは、個人が特定できないようにすべて対処します。今後の海外での上映についても、差し替えなどできる限り対応します。
ここでいう「承諾が抜け落ちてしまった方々」にタクシー運転手と捜査員Aが含まれないのは明白なことだ。タクシー運転手とは連絡がつかなくなっており「実家とも連絡が取れず、亡くなったのでは」と伊藤は言っている。承諾の取りようがなかったのであって抜け落ちてしまったのではない。捜査員Aについても連絡がつかなくなっているようだが、本当に公益通報者なのか、また取材源といえるのか、などの点で、元弁護団と現弁護団で明確に主張が対立している。Aの発言の利用については、代理人である現弁護団が「公益性が明らか」と主張している以上、伊藤本人もこういう認識でいると推定される。以上により、この部分は勉強会参加者の女性ジャーナリスト達のことを言っていると考えるのがもっとも合理的である。
つまり伊藤はこの二人の音声と映像について、「所要の削除・修正」など別に約束していないのだ。
しかし本稿のテーマは「元支援者たちが何をしたか」だ。元弁護団が彼ら二人の権利を代弁するにあたり、特段の権限を有していないことはすでにみた通り。二人の音声や映像をどう取り扱うのが正しいのかの検討は他の方に任せるとして、元弁護団側の主張をもう少し詳しく見てみよう。なぜ代理人でもないのにこの二人について修正を求めるのかをメディアの取材で問われ、西廣はこう答えている。(強調は筆者)
目の前で殴られている人を見たときに、そのまま通りすぎていくことができるのか。人権を擁護することが使命とされている弁護士としては、まさにそういう場面なんです。
すでに映画が世界各国で上映されていますが、当人自身は自分の顔や声などを流してほしくないと思っているであろうということを訴訟中に感じて分かっている。そんな人権上の問題を見逃していいのかという気持ちです。
私たちの会見を批判する人たちからは二言目には『本人たちはなにか言ってきたんですか』と聞かれますが、本人たちが言えるわけがありません。そんなことを言えばもっと大ごとになりますから。本人が声を上げなければそれで問題ないのかとも思いますし、それは性被害者が声を上げられないのと構造は全く同じです
権利の当事者がその事案に詳しい弁護士達に相談するだけで「もっと大ごとになります」とは、どういうことなのだろうか。実際、勉強会参加者達は元弁護団に相談してきており、そのことを佃が会見で明かしている。それとどう辻褄が合うのだろう。
性被害者が声を上げられない原因の一つが証拠が少なく起きたことの証明が難しいことにあるのは、西廣自身がホテルの防犯カメラ映像の取り扱いについて主張していることなのだが(後述)、この二人の音声と映像がBBDの中で使われている事実は世界中で数えきれない人々が見ており、何度も確認できることだ。この件が本当に人権侵害なのであれば、むしろそれを弁護士に相談しなければどうしようもないではないか。二人の大人をその程度の合理的判断ができない人とみなす根拠はなんなのか。弁護団の主張に沿うのであればすでに捜査員Aの職務上の立場が危うくなることやタクシー運転手のプライバシー侵害は起きていることなのであって、それ以上の「大ごと」とは何を想定しているのだろう。
要するに元弁護団は、勝手にこの二人をものを言えない弱者扱いし、「他の性暴力事件で協力者を得にくくなる」という自分たちの都合(後述)の正当化に利用しているのではないだろうか。
懸念2:ホテルの防犯カメラ映像 「代理人が依頼人の基本的人権を侵害している」
この点で、契約違反を主張する元弁護団と、公益性を重視する伊藤側の主張が食い違っていることに、誰も異論はないだろう。本稿のテーマはあくまでも元支援者側の問題なので、防犯カメラ映像を公益性の観点から使用することの妥当性は議論しない。ここではホテルの防犯カメラ映像の使用が問題視されていることを通して、元弁護団がしていることを考察する。
現弁護団により2月20日付けで発表された「本作映画に関する経緯」という資料によると、2018年4月4日づけで伊藤は西廣と連名で、映像を裁判手続き以外に使わないことなどを約束し、これらに反してホテルに損害を及ぼした場合にはその損害を賠償する旨が書かれた誓約書にサインし、ホテル側に提出している。元弁護団の主張の一番の根拠はこの誓約書の存在だ。
防犯カメラという無許可撮影の映像の権利は誰にあるのかという問題はさておき、とりあえずは映像の権利者とみなされるホテルは、誓約書を交わして以降2月20日まで、三度の問い合わせ(加城一回、伊藤二回)に対しいずれもホテル代理人を通して映像の使用を許可できない旨、回答している。
しかしここで疑問なのは、この代理人はどの法人の代理人なのかということだ。このホテルは現在、マリオット・インターナショナルグループに属している。佃は会見で、マリオット・インターナショナルに直接取材した記者から「ホテルは映像の公開に問題がないと言っているが直接ホテルと話しているのか」と問われ、「ホテルの日本の代理人弁護士」と協議していると言っている。これは常識的に考えて、国内の運営会社である近鉄・都ホテルズ(もしくはその親会社の近鉄グループホールディングス)の代理人ではないだろうか。
ともかく、ホテルの現在の経営形態からすればマリオット・インターナショナルが最上位の意思決定機関になるはずだ。マリオット・インターナショナルは、BBDでのこの映像の使用を認識しているにも関わらず特に意見表明していないことが、複数の海外メディアによって指摘されている。
しかしながらこういったことを確認するまでもなく、元弁護団の主張はバカけている。
誓約書は、一体誰と誰の間で交わされたのか。それは当然、伊藤とホテルの二者間でしかありえない。防犯カメラ映像を使用するのは伊藤であって代理人ではないからだ。伊藤自身が、ホテルに損害を及ぼした場合に賠償請求される可能性を踏まえた上で「人生をかける覚悟で」使用するのであれば、たかが代理人に何を言う権限があるというのだろう。それとも西廣が賠償請求される可能性があるのだろうか。もしそうなのであれば、そんなデタラメな誓約書を作り、サインしたのは誰の問題なのか。
佃は2月の会見で「BBDの法的問題はどこにあると考えるか」という質問に、この件について「(ホテルに対する)債務不履行」と答えている(1:42:02~)。同会見で佃はホテルに発生しうる損害を営業利益の侵害としているが、いまだホテルが営業利益の損失を訴えておらず、おそらくそんなものは発生もしていない(まさかホテルが声を上げられない小さな存在だとは言うまい)。しかるにまだ債務は存在しておらず、従って不履行もない。全体に、BBDについての元弁護団の批判はこのレベルでずさんである。
元弁護団を代表して誓約書を作り、サインした西廣の主張を詳しく見てみよう。
こちらが作成したホテル宛ての誓約書には、伊藤さん本人と、弁護士を代表して私が署名押印をしました。依頼者の代理人である弁護士が本人として署名押印を求められることは余りありませんが、それは、ホテルからの要望でもありました。つまり、代理人である弁護士も誓約したからこそ、その誓約書は信用できるものと判断され、ホテルは当該映像を裁判所に提出してくれた、そう私は理解しています。
「本人として」とはどういうことなのか。さらに署名は「ホテル側からの要望でもありました」。「でも」とは、他に誰からの要望なのだろうか。誰からのどういう要請によって、どのような立場に基づき、伊藤の代理人であるはずの西廣は誓約書に署名したのだろうか。
もう一つ、西廣はいったい何を誓約したのだろう。伊藤の行動に対して責任を負う、ということを誓約したのだろうか。だとすれば、依頼人の利益に基づいて行動するべき代理人が、依頼人の行動を制限する側に回っていることになる。
とはいえ、この誓約書の一番の目的はホテルから映像を裁判所に提出してもらうことにある。そこを鑑みれば、自分が署名したからそれが可能だった、そのことは依頼人の利益にかなっている、という西廣氏の立場に一定の理はあるだろう。しかしすでに提出され、裁判も終わっている今、どういう道理で彼女は誓約書を持ち出すのか。
もう少し見てみよう。
そういった意味で、この映像が裁判以外に使われることは、私の職務上、容認できないことです。「本人だけでなく、弁護士が誓約しても、約束は破られる」という前例ができてしまえば、今後、性被害の現場となった関係各所から防犯カメラ映像を提供してもらうなどの協力が得られなくなるおそれがあると懸念するからです。性被害は、証拠が少ない事件です。
防犯カメラ映像の提供は、極めて重要な証拠です。今後も発生してしまうであろう性被害のためにも、誓約は守らなければいけません。
異様だ。
佃も同様の主張を何度も繰り返しているのだが、仮に他の性被害の証拠提供が行われにくくなったとして、それは伊藤が責任を問われるべきことだとでもいうのだろうか。そんなものは当然、提供しない側の倫理的問題である。参考までに、性暴力の証拠の防犯カメラ映像は、裁判所から文書提出命令があれば提出に応じざるを得ない、というのが現弁護団の解釈だ。また、まだ発生もしていない他の人の性被害のために実際の被害者である伊藤が行動を制約されるなら、それは全体主義に他ならない。
この全体主義は、何を利しているだろうか。
2月15日、つまり元弁護団の最初の会見から2ヶ月後の東京新聞は次のような、ホテルの公式コメントではない言葉を別の関係者(もちろん近鉄・都ホテルズの社員ですよね?)から引き出している。
このホテルの担当者は取材に「コメントできない」とするが、ホテル関係者は「このようなことがあったので、今後、同じような性加害事件で画像提供を求められても防犯カメラの映像を提供することは相当に難しくなる。他のホテルも同様の措置を執るようになるだろう。なぜ、許諾なくあのように防犯カメラの映像を一部CG処理しただけで使うのか理解に苦しむ」と打ち明ける。
ここでこの「関係者」は、ホテルの実害について一言も触れていない。そしてなぜか自分が何の権限も持たない他のホテルの措置について語っている。つまり元弁護団の主張は、今後の性加害事件で防犯カメラ映像を提供しないことを正当化する理屈を、実害の発生を待たずにホテルに提供してしまっているのだ。
防犯カメラ映像使用の許諾をめぐる一連の顛末は、開けられるべきBlack Boxの一つである。日本の恥部だ。
望月衣塑子はこの取材を自分がしていることを共同ホストを務めるYouTubeの番組で明かしている。「自分はこうなると思う」という憶測に基づき取材をかけ、都合よく「自分もこうなると思う」と答えた匿名の無責任な関係者の言葉をホテル側の本音として取り上げるその姿勢は、報道の体をなしていない。なお、望月はこのホテルには民事訴訟で伊藤のために証言をしたドアマンがいたことを承知した上でこういう「関係者」を選んでいることも付記しておく。
話がそれた。西廣の言葉に戻ろう。(強調は筆者)
弁護士として誓約した以上、その誓約が破られれば、誓約が守られるようにできることをしなければいけません。それが弁護士として誓約書を提出した者の義務だと思っています。
これを放置することの方が、弁護士として倫理的に問題だと考えます。(強調は筆者による)
西廣自身が、自分が何を誓約したつもりでいるのかはここで明白だ。やはり伊藤の行動を管理することを誓約したつもりでいるのだ。そのために弁護士という立場の社会的信用を差し出しますよ、ホテル様。確認しておくが、この人は伊藤の代理人である。いかなる正当性で自分のことを管理者と勘違いし、ホテルの利益を保証しているのか。
現弁護団は、元弁護団が二回の記者会見で依頼者の秘密を暴露したことを弁護士倫理違反であるとしており、これを受けて元弁護団は弁護士倫理に違反した事実はないと反論している。
私はここに、「代理人が依頼人の行動を制限している」という元弁護団による別の弁護士倫理違反を指摘する。という以上に、これこそ行動の自由という基本的人権の侵害だろう。信じがたいことに、西廣は2月20日の会見で、自分が弁護士としての信用を失い被害者救済をできなくなるという理由で防犯カメラ映像を使わないよう伊藤に圧力をかけたことを、被害者として話している(動画の33:59~34:15)。この倒錯を、元弁護団全員が共有しているのだ。そして国際社会に訴えて通用すると思っているのだ。
開いた口が塞がらない。
ついでながら、会見で西廣及び佃が説明している事の経緯と同日に現弁護団が配布した経緯には、肝心なところで矛盾がある。メールのログを確認すれば簡単に事実が判明するであろうことですら両者の認識がずれている。その点が少なくとも日本語で報道された様子は見つけられなかった。
伊藤さんと話し合いの場を持った昨年7月末、彼女から、「西廣先生には悪いけれど、この映像はこの映画に必要なんです」と言われました。私が弁護士として懲戒をされる危険があっても、映画のためにはそれは仕方がない、という意味です。
依頼人の主体的な行動の結果、本当に「弁護士として懲戒される」のであれば、そもそもそんな文書を作ってサインしていることがおかしい。ホテルから懲戒請求されることを恐れているのだろうが、いったい西廣は文書により、実際に何を誓約したことになっているのか。ありえない思い込みに基づき、伊藤に責任のない「危険」におびえ、怒っていると考えざるを得ない。
私がこれだけの時間とエネルギーを注いできたのは、彼女の背後にいるであろう多くの「性被害者」にとって、彼女がたどった道を「光」にしたかったからです。被害に遭い声をあげても損しかないという「闇」ではなく、それでも声を上げることにより真実が明らかになり、性被害に対する社会の理解が広がる「光」になってほしい、それを「光」にするのは私のミッションである、と信じていたからです。
西廣はいつからか、日本社会全体から性暴力被害をなくすことについて、伊藤と共闘しているつもりになっていたらしい。しかしそのためにどういう手段を取るのが適切と考えるのかはそれぞれの主体的判断による、ということを理解していなかったようだ。
懸念3:西廣の声 「代理人による台本の存在」
この点では、元弁護団と伊藤側の認識は一致しているだろうか。結論からいうと「していない」。順番に見ていこう。
元弁護団の3人は3月19日のコメントでこう言っている。
伊藤詩織氏が本年2月20日に、FCCJ(日本外国特派員協会)に向けて声明を発してから本日で1か月が経ちました。
上記声明で伊藤氏は、西廣に対して「心からお詫び申し上げます」と述べ、また、映画「Black Box Diaries」について「差し替えなどできる限り対応します」と述べています。
しかしながら本日現在、伊藤氏から西廣に対して直接間接を問わず謝罪はなく、また、映画の修正に関する具体的な相談や提案もなく、修正された映像の提示もありません。
では2月20日、伊藤側は実際、西廣の声について何を「心からお詫び申し上げ」、どう対応すると言っているだろうか。
映画には当初、ドアマンの証言を直接聞けた直後に連絡した、西廣弁護士との電話の「ホテルが止めに入るかもしれない」というアドバイスの音声が入っていました。ご本人への確認が抜け落ちたまま使用し、傷つけてしまったこと、心からお詫び申し上げます。
他方、西廣弁護士との電話の会話は、伊藤氏がセルフ・ドキュメンタリーの手法をとり、毎日すべての行動を撮影・記録していたことから、電話の相手方の声として録音されたものです。しかし、映像がなかったため、事前の確認が抜け落ちてしまったものです。それは伊藤氏のミスであり、すでに2024年7月31日の西廣弁護士らとの協議において、伊藤氏は謝罪し、その部分を削除するなどの提案をしています。西廣弁護士からはその提案について反応はありませんでしたが、すでに昨年8月には削除しています。
つまり、
謝罪されているのは「事前確認が抜けたまま西廣の声を使用したこと」。
間接の謝罪は2月20日に、直接の謝罪は昨年7月31日にしている。
7月に西廣氏に当該箇所削除の提案をしたものの反応がなく、8月に削除を済ませた
元弁護団はこれを受けて3月のコメントを出しているはずなのだが、いったい伊藤にこのうえ何を謝罪させ、どういう対応をさせ、何の相談や提案をさせたいのだろうか。そこに正当性がなければ、これは暴力ということになる。
この件もまた西廣が被害当事者なのだから、西廣の主張=元弁護団の見解になる。2月20日の彼女の言葉を確認しよう。(強調は筆者)
◆私との通話の無断録音・録画について
(中略)
映画の終盤に、彼女と弁護団との方針が対立する場面があります。映画では、弁護団は彼女の意向に従わず、彼女が孤立していくような流れに観客が感じる場面です。
この場面において、私は、彼女と自分との会話が無断で録音録画されていることを、映画を見て初めて知りました。そして、弁護団が彼女の意向に従わず、彼女が孤立したと見せるそのストーリーにショックを受けました。
なぜなら、実際の訴訟では、ドアマン(ベルボーイ)の証言を書面化して、一旦結審した訴訟手続の再開を求める手続きをとり、彼女の意向を尊重したからです。
この場面は、私が昨年10月21日の司法記者クラブでの会見時に、この映画を見て私の心が「ズタズタにされた」と言った理由のひとつです。
それは、この映画を見るまで、自分と依頼者との会話が無断で録音録画されているとは知らずに、何年も彼女の権利を守ろうと必死にやってきたからです。弁護士と依頼者との関係は信頼関係に基づいています。私は彼女との信頼関係のもと彼女を守らなければいけないと思い、弁護士活動をしていました。しかし、何年も前から、無断で録音されていた。そして、その無断録音が切り取られ、彼女が孤立していくストーリーに利用されている。
つまり彼女が2月に配布文書で問題にしているのは
・無断での録音・録画
・その使い方(ストーリー)
の2点である。
まとめると、西廣が「無断の録音・録画」とその「使い方='usage'」を問題にしているのに対し、伊藤側は「確認が抜け落ちた使用='use'」を謝罪し、その対応が済んでいると言っている。つまり元弁護団が提起した問題と、伊藤側が謝罪し対応した問題が違うのだ。
この両者のずれは、おそらく「問題発覚」直後からずっと続いている。
西廣が自分の声が使われているのを知ったのは、昨年7月11日に東京大学で開催された試写会でのことだ。私はこの当時から少なくとも10月の会見まで、元弁護団は西廣の声の問題を、基本的には「無断使用」という意味の表現で伊藤側に伝えていたのではないかと推測する。実際、2月の会見動画でも西廣はまだ「無断使用」という表現も使っている。これをどうも伊藤側(この時はまだ現弁護団はついていない)は「声そのもの」の無断使用という、容貌で言えば肖像権侵害のようなものを問題視されたと解釈していたようだ。そう考えなければ、伊藤が10月21日の元弁護団の会見前に東京新聞の電話取材に応じ、「(捜査員Aや西廣の)声は変えた」と反論していることに説明がつかない。西廣の声の削除は8月に済ませているのだから、これは海外で公開されているバージョンのBBDで既に西廣の声が変えられていることを意味している。
映画を実際にみた西廣本人が、自分の声が加工処理されていることに気がついていないはずがない。つまり、西廣の傷つきや怒りのポイントは声そのものの無断使用ではないのだ。そうすると、やはり「使い方」が問題視されていることになる。
元弁護団側からの申し入れと要請により、7月31日に佃・西廣・加城と伊藤・映画制作チームで面談が実施されている。この紛糾したらしい協議で西廣は「伊藤さんのしていることは人権侵害で山口のしたレイプと同じ」と発言したようだ。ここからは具体的に何がレイプと同じレベルの人権侵害とされているのか、見ていこう。
無断録音・録画
自分が写っていない「録画」について、西廣に何を言う権利があるのだろう。元弁護団全員がそこを何とも思っていないらしいことがいろいろと象徴的なのだが、それは横に置くとして「録音」についてはどうだろうか。
これまで、無断での録音や録画がドキュメンタリー作家としてどうなのか、という議論が他のドキュメンタリー作家達によって量産されている。しかし本稿で検討されるのは「元弁護団が何をしたか」、つまり西廣がどういう理由でそれを問題にしているか、だ。(強調は筆者)
弁護士と依頼者との関係は信頼関係に基づいています。私は彼女との信頼関係のもと彼女を守らなければいけないと思い、弁護士活動をしていました。しかし、何年も前から、無断で録音されていた。そして、その無断録音が切り取られ、彼女が孤立していくストーリーに利用されている。
弁護士と依頼者は信頼関係がないと仕事ができません。それが、何年も前から崩れていた。
信じたくはないけれど、それが事実なのかとショックをうけたのです。
彼女は「無断録音によってショックを受け、信頼関係が崩れた」ではなく、「信頼関係が崩れていたから無断録音され、それを知ってショックを受けた。」と言っている。さて、ここでいう崩れていた信頼関係とは、誰から誰への信頼を差すだろうか。それは伊藤から西廣への信頼でしかあり得ない。録音していたのは伊藤なのだから。西廣がショックを受けたのは昨年7月であり、信頼関係が崩れていたと彼女が判断しているのは「何年も前から」なのだから、西廣から伊藤への信頼が崩れたという話ではないのだ。
代理人が依頼人から何年も信頼されていなかったと知って、ショックをうける。それ、誰の責任なのでしょうね?どんな仕事でも顧客の信頼を得ることは職務のうちなのですが。本当に信頼関係が崩れていたのであれば、代理人の力不足にすぎない。
そもそも、依頼人が会話を録音していたことを信頼関係の破綻とする根拠がない。7月の上映会で伊藤は西廣をハグしているのだから、別に信頼は壊れていなかったのだ。伊藤側の説明によると彼女はただ記録をとっていただけなのだが、そこに何らかのディレクションがあり、西廣は何か都合の悪い言質を取られたのだろうか。ただしその場合も、職務で話しているのは西廣なのだから取られる方が迂闊、というか無責任だろう。西廣はいったい何を依頼人と代理人のあるべき信頼関係と考えているのか。依頼人が自分の意思で行動したことを「恩を仇で返してはいけない」と叱りつけるような人と仲間なのだから、そこはわざわざ考察するまでもあるまい。
ストーリー
こちらはどうだろうか。
基本的には、素材の使い方は作家が決めることだ。伊藤によるドキュメンタリーなのだから、もちろん伊藤の見方に沿ってストーリーが組み立てられる。しかしながら、フィクションと違ってドキュメンタリーというのは見た人はそれが事実であると考えがちなのだから、明らかに事実と違う描写をされたのであれば、西廣が名誉毀損を訴えることは可能だろう。(参考までに、元弁護団は誰もこの件が名誉毀損事案だとは言っていない)
もう一度、西廣の言葉を確認しよう。(強調は筆者)
そして、弁護団が彼女の意向に従わず、彼女が孤立したと見せるそのストーリーにショックを受けました。 なぜなら、実際の訴訟では、ドアマン(ベルボーイ)の証言を書面化して、一旦結審した訴訟手続の再開を求める手続きをとり、彼女の意向を尊重したからです。
最終的に代理人が依頼人の意向に従うのは当然のこととして、問題視されているストーリーはどういうものなのだろうか。伊藤の言葉はこうだ。(強調は筆者)
映画には当初、ドアマンの証言を直接聞けた直後に連絡した、西廣弁護士との電話の「ホテルが止めに入るかもしれない」というアドバイスの音声が入っていました。
再び、唖然とするしかない。西廣は、ホテルと誓約書を交わしてから一年以上経ってまた、頼まれもしないのにホテルの判断を先読みし、依頼人の行動を止めにかかっている。当然である。自分は伊藤を管理する責を負っていると勘違いしているのだから。実際にどのような場面だったのか前後の文脈がわからないものの、出てきている情報からは「弁護団が彼女の意向に従わず、彼女が孤立したと見せるそのストーリー」は事実に反していないとしか言いようがない。伊藤は孤立していたのだ。
つまり、西廣は人権を侵害されていない。
とはいえ、彼女が「レイプと同じ」と言いうるほどのショックを受け、怒っているのは厳然たる事実だ。どういうことなのだろうか。でもこの点は難しくない。すでにみた西廣の2月20日の言葉をもう一度引く。
私がこれだけの時間とエネルギーを注いできたのは、彼女の背後にいるであろう多くの「性被害者」にとって、彼女がたどった道を「光」にしたかったからです。被害に遭い声をあげても損しかないという「闇」ではなく、それでも声を上げることにより真実が明らかになり、性被害に対する社会の理解が広がる「光」になってほしい、それを「光」にするのは私のミッションである、と信じていたからです。
西廣には自分の台本があったのだ。その中で演じる役割を自らの使命と信じていたのである。そういう自己イメージが反故にされたから傷つき、怒っているのだ。勝手にストーリーを描き、その中に他者の人格を押し込め、実際に行動を制御しようとしてきたのはむしろ西廣の方だった。それがどうにもままならなくなり、他の弁護士達も巻き込んで伊藤を抑え込みにかかり大苦戦している、これが2023年12月以来の事の真相だろう。十二分なキャリアを持つベテラン弁護士達がよってたかって、温情主義の毒を何とか伊藤に染み込ませようと必死なのだ。
伊藤さん、よく耐えたね。
本稿はBBDを見ずに書いているし、それは「BBDを実際に見た人の方が問題をより理解できる」という議論の前提へのアンチテーゼでもある。一方、映画の中で西廣が何を言った様子が使われているのかは、確かに映画を見なければ詳細はわからない。ここで伊藤の民事裁判をすべて傍聴し、長年の支援者であったフリーライター・小川たまかによる解説を検討することは、より公正な議論に資するだろう。彼女は元弁護団の主張を支持する立場から、西廣の声の件をこう説明している。(強調は筆者)
映画の中では、結審間近のギリギリのタイミングでドアマンから証言を得ることに成功した伊藤さんが、それを弁護団に伝えたところ「今から証言を出すと裁判が延長される。そうすると(判決までに年度末を挟むことになり)本人尋問を聞いた裁判官が交代してしまう可能性があるため、やめた方がいい」という趣旨で反対される場面がある。
(中略)
また、上記の通り本人尋問が非常に成功していたのだから、弁護団は本人尋問を聞いた裁判官のまま判決を得たいと思うだろう。
これまで映画を見た人から何度か「散々尽くしてきた弁護団が伊藤さんと対立しているように見える場面だけ使われている」という感想を聞いたが、この指摘の背景は、説明するとこういうことである。
代理人弁護士が裁判での勝訴のために戦略を立て、その筋書きを実行する、これは職責であって真っ当なことだ。しかしそこに代理人の自己実現のストーリーが乗っていたのであれば、話は別になる。
確かにこの電話のあと西廣は伊藤の意向に従い、ドアマンの陳述書を作成し裁判所に提出、弁論再開も申請している。そのことが依頼人の利益に反すると考えていたのであれば、西廣のこの行動はむしろ代理人弁護士として無責任ではないだろうか。まともな医者は患者の言うがままに診断書を書いたりはしないし、まともな会計士はクライアントの要求のままに粉飾に加担したりはしない。士業の者が依頼人の利益のために働くとは、合理性のない要求に隷従することではないはずだ。彼女はなぜ断って、場合によっては代理人を降りるという選択をしなかったのだろうか。
私は再びここで、西廣が持っている弁護士倫理に疑問を抱かざるを得ない。それと同時に、やはりこれは彼女の台本があるからこその話なのだと考える。
懸念4:勉強会に参加した女性ジャーナリスト達の音声と映像 「ジャーナリストがジャーナリズムの倫理を踏み倒している」
この点では、元弁護団の指摘を伊藤側が受け入れて対応すると表明しているように思える。「思える」というのは、この点の言葉が両者共に簡素なので、断定を避けるという意味だ。強いていえば、対応にあたって伊藤側が元弁護団を関与させるつもりがなさそうなことには注意喚起が必要だろうか。まぁ当たり前の話だ。本来関係ない人たちなのだから。
該当すると思われる両者の言葉を拾っておく。日付は1つ目が1月14日、残り2つが2月20日。
この弁護士(筆者注:西廣)側の代理人となった佃克彦弁護士は「非公開で性犯罪被害などを話し合う場に参加する聴衆の姿を許諾なく使うことは、肖像の使用に関して受忍限度を超えている可能性が極めて高い」と指摘した。
佃:他にも昨年10月に記者会見して以降、私たちのところには「承諾なく自分の映像が使用されている」という訴えが何件か来ました。私たちのところに届いたその声については、私たちは特段具体的に声を上げませんでしたが、それは「自分は名前を出してもらわなくていい」「自分は表に出たくない」、そういう人たちだったからです。本日お手元にお配りの資料の中には、この問題、この映画について問題点が4点あるということを指摘しておりますが、まぁ実は今申し上げた通り、声を上げられない声の問題点、そういうものも実はあった、ということが私たちは知ったということです。
第五に、無許可使用で問題となった第三者の方々の映像・音声については、新しいバージョンでは個人の特定がされないよう適切な処理を施すとともに、すでに関係ある方々と接触して問題の解決にあたっています。今後同様の問題が発見された場合にも、代理人を窓口として、誠実に問題の解決に当たっていく所存です。
この問題が公になったのは1月14日の東京新聞の記事が最初だが、そこで佃がコメントしている以外に元弁護団による明確な言及は記者会見も含めて確認できず、3月の元弁護団コメントにも登場しない。おそらく元弁護団としては、10月の会見以降に把握したこの点は何ヶ月も問題視してきたポイントに比べたら付帯的な問題という認識なのだろうと思われる。
しかし一人、おかしな動きをしている奴がいる。再び、望月衣塑子である。
望月による1月14日の記事については、伊藤側の抗議により一度公開された記事が訂正されており、現在読めるのは訂正後のものだ。この件で伊藤側が望月個人を名誉毀損で提訴し、それを伊藤の支援者であるはずの人々の反発により後日取り下げていることは周知の通りだ。私はここで、現弁護団が問題にした点については議論しない。本稿は極力一次資料に基づいて検討することを心がけているが、修正前の記事を確認できない上、現弁護団による訴状もそう簡単には手に入れられない。様々な二次資料と「訴訟及び紛議調停取下げに関する弁護団声明」で判断する限り現弁護団の主張は筋が通っており、特に調べなおすべき点を見出せない。ここでは訂正後の記事でその他の問題を見ていく。
当該記事の件を含め、望月をはじめとする元支援者達(元弁護団にしろ望月にしろ提訴に反対した連中その他にしろ今も支援者のつもりなのだろうが、私はこれらを決して現支援者として扱わない)は何をしたのだろうか。この検討を私は別の記事の分析から始める。望月は勉強会に参加した女性6人に取材し、2月25日の東京新聞でその声を紹介している。当該部分を引用する。(強調は筆者)
伊藤さんが対応を表明した点や映像の無断使用などについて、集会に参加した女性のうち6人が、匿名を条件に取材に応じてくれた。その声を紹介する。
◆「もっと冷静な議論を」「修正見なければ納得できない」
Aさん 指摘を踏まえて修正を表明した姿勢は評価できる。許諾なしで映像を使用した理由を伊藤さんは「公益性があるため」と考えているようだが、抽象的に「公益性」というだけでは理由にはならない。映画の製作では、彼女自身が監督という権力を持つ存在だ。声明に「承諾が抜け落ちた方々におわび」とあったが、「承諾が抜け落ちた」人々を、承諾を得なくていい存在として扱ったということではないか。
Bさん 伊藤さんは、ジャーナリストとしてではなく、ドキュメンタリーを手がける映像作家として新たな領域を打ち立てた。日本で上映されるべきだとまでは思わないが、海外を軸にして賛否両論の評価が出る作品を作った。彼女の倫理観や作品の是非を問うまで踏み込むべきではないと思う。日本では伊藤さんを批判する文脈や質問が多く、追い詰められないか心配。もっと冷静な議論があるべきだ。
Cさん 声明を読んだが、映像などの無断使用で傷ついた人々に対して不誠実だ。許可なしでも映像を使うべきだとの思いがあったのかもしれないが、一線を越えており、取材先との信頼関係に泥を塗る行為だ。何を正義と思って映像を無断使用したのか、きちんと説明してほしい。
Dさん (問題の一つとなった取材源の秘匿について)「取材者として常識」ということに異論はないが彼女はあのような事件があり、組織ジャーナリズムで「基本の基」を学ぶ機会を奪われ、一人でマイナスからのスタートを強いられた。集会に関して説明を求めるのは酷だと思う。
Eさん 伊藤さんが体調不良で会見に来られなかったとしても「日本版」や「海外向け再編集版」を示せないのはおかしい。製作会社やプロデューサーが説明すべきだった。声明では謝罪していたが、実際にどう修正されているのか、見なければ納得できない。集会は、伊藤さんに皆で協力し連帯を示す気持ちになった場なのに、問題として指摘されるのはとても残念だ。真摯(しんし)に説明し、削除や修正に応じてほしい。
Fさん 海外での公開前に伊藤さんから通知は来ていなかった。集会の撮影時は「後ろ姿のみ撮影。英BBCで放送予定のドキュメンタリーで使うかも」といった説明を受けたが、今回の映画で使われていて驚いた。伊藤さんを応援したい気持ちは変わらないが、ジャーナリストとして手法を支持できない。
これまた奇妙だ。
伊藤から被害を受けた1当事者として「声なき声(佃)」を拾われているはずの人たちの言葉が、どうしてこんなに評論家風なのだろうか。自分の被害についての思いや意見以上に、なぜ伊藤の振る舞い全体を論評しているのだろう。
この6人は「集会に参加した女性」としか紹介されておらず、実際に元弁護団に自分の被害を訴えた人々なのかどうかわからない。そもそもBBDに無関係な人々である可能性が若干あるわけだが、記事の文脈上、これらのコメントが被害当事者の言葉として提示されていることは自明である。そして「応じてくれた」とある以上、これは声を上げたがっている人の声を拾ったのではなく、望月の側から依頼して行われたインタビューである。つまりこれらの「声」は、匿名でいいからとお願いしてまで望月が取りたがった声なのだ。彼女がどういう質問を投げた結果、こういう答えが返ってきているのかは、容易に想像がつく。
これが一般の人であれば「望月がかましてきた戦略に乗せられてしまった残念な人」ですむだろう。しかしこの6人はジャーナリストである。ジャーナリストが「声を上げにくい、か弱い1被害当事者」「当然耳を傾けられるべき存在」というお面で自らを隠し、伊藤の行為全体の論評に及ぶことが許されるだろうか。そしてそういう記事が出たあとに沈黙し続けることが、どういう倫理にかなっているだろうか。
昨年7月に開催されたBBDの上映会の主催者であるジャーナリスト・浜田敬子は、同じくジャーナリスト・津田大介が運営するYouTubeチャンネル「ポリタス」でBBDの問題に触れるにあたり「自分はこの問題の当事者だから発言を控えてきた」と冒頭で断っている(1:32:48~)。当事者と第三者を分ける、これがジャーナリズムの倫理ではないのか。
当事者に問題全体の論評をさせている望月はもちろん論外だが、私はこの6人のジャーナリストも今すぐに名乗り出て、自分がどういう経緯でBBDに肖像を使用されていることを知り、その後どのようなプロセスを経て東京新聞でコメントするに至ったのか、実際のところ自分の被害をどう捉えているのか、事実を証言するべきだと考える。少なくとも、BBCが撮影した映像の二次使用でイベントの参加者として写っている程度の肖像権侵害を匿名の被害者としてマスコミで訴え、自らの当事者性の範疇を超える論評をしたジャーナリスト達が、弁護士が止めるのを振り切ってまでレイプ被害と国家権力の問題を記者会見し、20代の若さでジャーナリストとして国際社会に訴えた伊藤にジャーナリズムの倫理を説くのはまことに滑稽、失笑ものである。
この記事を見た上で、問題となった1月14日の初報を見直してみる。
◆「受忍限度を超える可能性が高い」
この問題は、伊藤さんの民事訴訟で代理人を務めた弁護士が2024年10月に明らかにした。伊藤さんと元記者が乗ったタクシー運転手の姿や証言、刑事や伊藤さんの代理人弁護士との会話も無断で使われていると問題視している。
この弁護士側(筆者注:西廣)の代理人となった佃克彦弁護士は「非公開で性犯罪被害などを話し合う場に参加する聴衆の姿を許諾なく使うことは、肖像の使用に関して受忍限度を超えている可能性が極めて高い」と指摘した。
望月は、利害関係のど真ん中にいる当事者を専門家として登場させ、相手を批判させているのだ。しかも女性ジャーナリスト達の話をさせるのに、別人である西廣の代理人として紹介している。こんなコメントの依頼を引き受ける佃克彦は本当にどうかしている。あまりのむちゃくちゃさ加減に、私は当初この記事を「元弁護団側が望月を利用して仕掛けたプロパガンダではないか」と疑っていたくらいだ。まったく報道の体をなしていない。
この部分に限らず、この記事はすべてが異常である。そもそも報道価値のないことを扱っているのではないだろうか。冒頭からこうだ。(強調は筆者)
ジャーナリストの伊藤詩織さん(35)が監督を務め、自身の性被害を調査したドキュメンタリー映画「Black Box Diaries」の中で、日本の女性記者たちが性被害などを語った非公開の集会の映像が、一部の発言者の許諾がないまま使われていたことが分かった。該当部分の削除を要求した女性は、昨年末に伊藤さんから「最新バージョンでは削除する」と伝えられた。だが、1月上旬から米パラマウントプラス(有料購読者・約7200万人)で公開された映画を確認すると、削除されていなかった。
この「確認すると」の主語は誰か。字面通りに読むなら書き手の望月である。つまりこれは、「昨年末までに被害を訴え当該箇所の削除を伊藤に求めて返答を得ていた女性が、年明けに始まったアメリカの配信を確認したら削除されていなかった、伊藤に言っても埒が明かないのでメディアに訴えた」という事案ではない。年末までにこの女性と伊藤の間に映像の許諾に関する問題が発生していたのを何らかの事情で望月が把握しており、望月が(おそらく勝手に)アメリカの配信を確認したのである。これは民事の揉め事なのであり、まず当事者間で解決を図るのが当然のことではないか。望月はなぜこの女性に、アメリカの配信ではまだ修正されてなかったと個人的に伝えて様子を見なかったのか。わざわざ新聞で報道する公益性がどこにあったというのだろう。
伊藤さんの代理人の神原元弁護士と師岡康子弁護士は取材に「悪質な人格攻撃を続ける相手方に対する回答義務は存在しないと思量しており、今後とも、その理解を前提に行動してください」と文書で答えた。
望月のような、問いそのものがおかしい人の取材に答えて相手の土俵に乗ってはいけない。現弁護団はそこをよく分かっているのだろう。戦うのであればそれは東京新聞の紙面上ではなく、司法の場でなければならない。望月を問われる側に立たせなければフェアではないのだ。
フリーライター・小川たまかによるとこの勉強会は「薔薇棘」という、著名なジャーナリストも複数参加している会らしい。やはり2月25日の記事にならなかった者も含めて望月に被害者として何か話した者は全員、匿名の被害者ヅラに甘んじていないで、自分がぼやーっとしたまま何に乗せられ、いかなる加害に加担したのか、ジャーナリストとして総括するべきだろう。このでたらめな報道によって伊藤は再び自死を考えるところまで追い詰められたのだから。
あと一つ、先ほども少し触れたがこの女性ジャーナリスト達の件でどうしてもわからないのは、彼女達がどういう経緯で自分たちの映像や音声が使われていることを知ったのか、だ。望月は2月の会見後に行われた雑誌「創」からのインタビューでこう言っている。
というのも、私が提訴された記事のきっかけは、映画に出てくる集会に参加した、女性記者達の驚きと怒りでした。伊藤さんは集会で発言した4人からは許諾を取っていました。でも、別の発言者や映り込んだ女性たちには連絡も許諾もなしでした。配信映像を観て自分が映っているのを初めて知った人が、ショックを受けて怒るのも当然だと思いました。
被害者とされる人が複数いる以上、知り得た経路も複数の可能性はあるわけだが、それはともかく昨年末までに「配信映像を観て自分が映っているのを初めて知った」とは何を意味するだろうか。いうまでもなく国内での配信サービスはなく何らかの方法で海外のものを見るしかないわけだが、昨年末までの段階で配信されていたチャンネルを見るのは相当にハードルが高いはずだ。ただ映画に興味を持っていて観てみたら自分が映っていて驚いた、こんなことがどれくらいの確率でありうるだろうか。
― いろいろと映像の無断使用が問題になっているあの映画で、あなたの映像が使われていますよ ―
こう耳打ちした人物の存在を否定できない。もっとも、この会の主催者は伊藤からの問い合わせに対し、映っている人に許可をとることを条件に映像の使用を事前に許可しているらしいので、どこかのタイミングで主催者が参加者に連絡したのかもしれない。参考までに、望月は2月16日にYouTubeの番組で、「許諾の部分どうなのかなってところは実はまだ他にも私自身が気になるところがあるので取材を続けてるんですけど」と話している(47:57~)。
さて、「ホテルの関係者」「女性ジャーナリスト達」に続いて、この次に現れる匿名の無責任な「被害者」は、誰でしょうね?
東京新聞さん、クオリティ・ペーパーとして、このままでいいのですか。
小括
最初の問いに戻ろう。
本当に元弁護団と伊藤側の認識は一致しているだろうか。
それらは本当に対応されなければならない「問題点」なのだろうか。
1については、かなりの点で一致していないことが明らかになった。2については、以上のようなそもそもの問題提起のおかしさ加減を踏まえたうえで、改めて論じなおされるべきだろう。最終的に作品をどうするのかは伊藤が判断することだが、個人的にはもう海外で上映されているバージョンをそのまま国内公開してもよいのではないかと思っている。ホテルの防犯カメラ映像はもとより、西廣の声のシーンも元々声を変えてあった以上、削除も事前確認も必要なかったのではないかと私は考える。伊藤自身は決してBBDにそういう意味を込めなかったと思うが、映画のテーマである「その後の社会」において、西廣は告発の対象になってもおかしくないことをしているからだ。そして告発の対象になってもおかしくないのは捜査員Aも、民事裁判中から連絡が取れなくなっていたタクシー運転手も同じである。人権は、守ってあげるという温情で守るのではなく、社会人それぞれが社会正義の実践という責務を果たすことによって守られるべきだからだ。
また、西廣への人権侵害がない以上、元弁護団が更なる謝罪や説明、相談、提案を要求することはもちろん暴挙である。むしろ彼らが訂正、説明、謝罪をしなければならない。
これで元弁護団側が挙げた論点はすべて検討した。異なる言語圏で伊藤の説明が違っている件は、元弁護団が設定している問題がおかしいのであれば労力を割いて検証する意義が見当たらないので割愛する。
2.その他の元支援者たちの主張
懸念5:同業者 「検討に値しない」
この論争では2月の会見以降、とにかく大量のジャーナリストやドキュメンタリー作家が伊藤の倫理的問題について批判し続けている。私はこれらをほとんど見ていない。多少目に入ってきたものだけを取っても検討に値しないからだ。彼らは何を根拠に、「ジャーナリストだから」「ドキュメンタリー作家だから」自分は特別なことが言えると考えているのだろう。人権上の問題が、立場で変わるとでもいうのだろうか。ただ記録をとるだけの録音・録画が性暴力サバイバーならよく(これもまたかわいそうだから見逃してあげようという温情主義だ)、ドキュメンタリー作家なら許されない、そんなばかばかしい主張が大手を振ってまかり通っている。百歩譲って、確かにタクシー運転手については伊藤がインタビューを仕掛けているのだろう。しかしその内容は書面にされて本人が署名・捺印し、裁判所に提出されているものなのですよ。公表することが人格権侵害なのであればそれは別に形態を問わないのであって、「自分のシマには常人には窺い知れない人権についての特別な掟があるのだ」と言い張る連中、それをまたありがたがって拝聴する連中の気がしれない。これもまた権威主義という構造的な問題だ。
そしてこういう奴らは自分の理解の辻褄が合わない隙間に根拠なく伊藤の意図を読み込み、浅はかで傲慢な人格攻撃のジャブを打ち続ける。「モンスター」「ドタキャン」「逃げた」「嘘をついている」「最初から踏み倒すつもりで誓約書を交わした」「取りやすい人を選んで許諾を取っている」「言論弾圧」、もうすでに二万字以上書いているので一々を取り上げないが、はすみとしこがやったことと何が違うというのだろう。そしてだいたい異口同音に言うのだ。「私はBBDの上映を望んでいる」、と。
佃克彦さん、「石に泳ぐ魚」出版差し止め事件で原告の被害者Aさんの代理人として作家の純文学論と対峙したはずのあなたは、自分が引き起こしたこの惨状をいまどう見るのですか。あなたはきっとあの時のAさんの立場に西廣さんを重ねてしまったのでしょうね。そうとでも考えないと、あなたがこれほど支離滅裂な建て付けの理屈に年単位で固執し続ける理由がわかりません。4月18日号の週刊金曜日でわざわざ読者投稿してまで「”元弁護団が指摘している点に人権上の問題はない”という反論であるなら議論の実益はあろうが」(p.60)とおっしゃっていますが、もし本稿がお目に止まったのであればいろいろと再考されてはいかがですか。
懸念6:女性支援者 「温情の共同体」
すでに見たように1月14日の東京新聞記事と同日の望月によるSNS投稿について、伊藤は現弁護団の法的判断に従い2月10日に望月を名誉棄損で提訴し、3月18日に取り下げている。この取り下げの経緯について現弁護団は、「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」(以下「女たちの会」)をはじめ各方面から取り下げを求める複数の声が寄せられたことを挙げている。
すでに現弁護団が取り下げという対応をしている以上、今ことさらに取り上げるべきことではないのかもしれないが、私はどうしてもこの一件に強い危機感を覚えざるを得ない。これは、取り下げるべきではなかったという意味ではない。そこはむしろ現弁護団の実務家としての判断力に脱帽している。しかしそもそもなぜこんな声が上がってしまったのか。そこを考えずにはいられない。「女たちの会」は2月16日付けで、「Black Box Diariesについての私たちの考えと要望」という声明を日本語と英語で出している。全文はここで読める。
基本的には元弁護団が10月以降提起してきた認識を踏襲しており、別途詳細に検討する必要のないものだ。ダメだなとは思うものの、日付があの少なからぬ人が違和感を口にした2月の会見の4日前であることを考えれば、こういう認識も仕方がないのかなと思う。
しかし最後のこの部分は別だ。
2 ジャーナリストとして批判を率直に受け止め、前述の問題(筆者注:複数箇所で情報源の許諾を取らずに映像化されたこと)に関する署名記事を書いた望月衣塑子記者への訴訟をただちに取り下げてください。
2025年 2 月16日
平和を求め軍拡を許さない女たちの会
代表 田中優子
日付からも内容からも、この声明は望月の提訴という突然の事態に対応するために急遽出されたものとして間違いない。しかしながら田中優子はこの声明に、おそらく訴状を読まずにサインしている。あるいは読んでいてもまともに読めていない。望月が提訴されたのは、情報源の許諾を取らずに映像化された人がいたことを書いたから、ではないからだ。
私も訴状を読むことはできていないが、提訴の理由は提訴取下げについての弁護団声明に書かれており、この説明は実際の東京新聞の訂正対応と照らし合わせても矛盾はない。提訴の理由は、望月が「伊藤が性被害者であるにもかかわらず、他の性被害者が自らの性被害体験の公表を望んでいないにもかかわらず、自己の映画に使用したいという利己的な動機に基づいて、他の女性の許可なく、無断でその映像を公表し、かつ、削除要請にも応じなかった」というデマを流して名誉を毀損し、伊藤が「今まで支援してくれた人々からも誤解に基づいて非難され、孤立し、絶望し、眠れず、食べられず、自死も過ぎるほどに苦しんだ」という甚大な実害を発生させたからだ。
繰り返すが、本稿ではこの現弁護団による望月の記事の評価が妥当かどうかは議論しない。しかし、提訴の「理由」というのは提訴の「原因」ではないのだから、提訴された側ではなく提訴した側にしか存在しないのであって、提訴についての望月の解釈(=「言論弾圧」)をもって「理由」とすることはできない。提訴がおかしいということであれば、その「理由」のどこがおかしいのかを批判しなければならない。「女たちの会」の声明はそれをせず、まるで伊藤がジャーナリストとして許諾問題に関する批判を無視し、それを報道した記者を黙らせにかかっているかのように非難している。つまりこの声明そのものが十分に名誉毀損である。
田中さん、私はあなたが望月の記事のおかしさに気づけなかったことは無理もないと思うのです。あまりに人間関係が近すぎて、疑うきっかけすらなかったのでしょう。しかしです。学者が何事か公言するのであれば一次資料を確認する、これが倫理ではないですか。あなたの立場であれば、現弁護団が司法記者クラブで撒いたとされる報道資料を手に入れることは難しくなかったはずです。あなたは一体いつの間に知的誠実さを捨て、凡庸な活動家に堕したのですか。どうして資料を取り寄せて事実関係を確認するというプロセスを放棄し、感情的な拒否反応の渦にのまれたのですか。あなたがこの著名な運動体の代表を務めている、その価値はなんなのでしょう。理解が追いつかないのであれば、わかるまで距離をとって様子を見ればいいだけです。
現弁護団に寄せられたという声の中で私が入手できるのはこれ一つなので、ここからは推測になる。これは団体の声明なのだから前提として当然内部での協議があったはずだ。それらも含めて、公にならない「声」はこういうことではないだろうか。
ー 伊藤さん、あなたの成したことは素晴らしいです。私たちも応援してきました。だから訳のわからないことで私たちを混乱させないでください。仲間を傷つけないでください。あなたには、私たちの支援が必要ではないのですか ー
現弁護団は、寄せられた声の性別を特に明かしていない。とはいえ声明を出したのは「女たちの会」であり、その他の声もBBDを評価している人々の声ということだ。現弁護団はBBDの主題として「日本において性加害の多くが放置され、被害者救済がなおざりにされている、という深刻な問題」を挙げており、それがこの訴訟の評価をめぐる対立によって後景に追いやられてしまうことを懸念している。ということは、寄せられた声に女性によるものが多かったから無視できなくなったとみてよいのではないかと考える。私は別にフェミニズムの活動家ではないし、東京の社会運動の人間関係はわからない。ただこのセクションを書くにあたり、伊藤と日本の女性差別反対運動がどういう関係にあったのか少し検索してみた。そして彼女が#MeToo運動のバリエーションとして日本の仲間と#WeTooという独自の運動を立ち上げていたことを知った。日本で要請されたらしいこの「We」という共同性はなんだったのだろう。
すでに三週間分の自由時間を費やしている本稿で、この運動を調べて論じるところまではしない。しかし望月のでたらめな記事を信じて仲間だった伊藤を後ろから撃ち、望月が告訴されたことに感情のオーバーフローを起こした人々の行動原理、それがこの共同性の質を表してはいないだろうか。私はここに、またしても温情主義をみる。「一人では発言することのできない弱き者が温情によって心を斟酌されること」を人権の尊重だと思い込んでいる人々が、伊藤の大健闘に圧倒される一方で元弁護団や望月が「小さな声」「声なき声」と設定した人々に感情移入し、拒絶反応を起こしてしまったのではないだろうか。
あなたたちは、なぜそんなに庇護されたがるのですか。あるいは、なぜそんなに誰かを庇護したがるのですか。
伊藤は2月20日の声明で、BBDのテーマはレイプ被害そのものではなく「その後の社会」だと言っている。また「女たちの会」は声明でBBDについて、「女性に対する重大な性加害をドキュメンタリーとして世界に提示した、極めて重要な、社会を変える可能性をもつ作品」と評価している。そして現弁護団もまたその評価を共有しつつ、別件の論争を続けることで作品の公開が進まなくなることを憂慮し、しかるべき対応をとっている。海外の評価を見ても、BBDは単に私的な物語ではなく社会構造を問う作品である、という認識がこれほどの高評価につながっていると言ってよい。制作会社のサイトで紹介されている一例を挙げておく。(強調は筆者)
「注目に値する。伊藤詩織の監督デビュー作である本作は、緊迫した、胸に迫るドキュメンタリーであり、長きにわたって労苦してきたひとつの性的暴行事件というプリズムを通して、システム化された不正の世界を浮き彫りにする。その生々しい一人称の視点は、他の映画作家の興味に邪魔されることなく、伊藤監督のジャーナリスティックな手腕によって物語に厳密さを与え、『Black Bok Diaries』を現代日本における家父長制的な権力構造の忌まわしい分析としてだけでなく、サバイバーとして生きることで生じる日々の心理的な揺れや綻びを鮮やかに喚起している。」
BBDを観ていない私にはなんともいえないが、どうやらパターナリズムが取り上げられているらしい。ここでは家父長制と訳されているが温情主義と同じ言葉だ。確かに伊藤はかつて山口敬之のこんな言葉を書き留めている。
「今まで出来る女みたいだったのに、今は困った子どもみたいで可愛いね」
BBDが描き出した日本の社会構造の一つがパターナリズムであるならば、それを評価していると言いつつ同じ構造でその公開にブレーキをかける人々のありようは、告発されなくてよいのだろうか。社会構造を問う者は、同じ刀で自らの在り様も問われる、これが倫理ではないだろうか。ミイラ取りがミイラになってはいけないのだ。
多くの助言をいただいた支援者の方に、心より感謝します。「適切な対応をした上で、映画を公開してほしい」という声は、大事な支えになりました。
「女たちの会」の声明から4日後、確かに伊藤はこう言っているのだし、あとはもう当事者同士で話して決めればいいのかもしれない。しかし私はやはり支援者たちのパターナリズムをこの映画だけの話にとどめるわけにはいかない。それに彼ら彼女らの納得に合わせる形で再編集したとして、それは本当に作品の価値を損わないのだろうか。
元弁護団の主張に添い伊藤を批判し続けているジャーナリスト・尾形聡彦は自らが主宰するYouTubeチャンネルでBBDを「伊藤詩織さんのエモーショナル・ジャーニー」と評している(27:54~)。私はこのエモーショナル・ジャーニーという言葉を他で聞いたことがないのだが、文学でいえば私小説というところだろうか。もしBBDが伊藤の感情という「わたくしごと」の物語なのであれば、そこに公益性は発生しないだろう。社会構造を穿っていればこそ、音声や映像の使用についての公益性の議論が成り立つのだ。この尾形、及び横に座ってうなづいている望月衣塑子による評価は、国際的にも、国内的にも特殊である。
この検討に値しない論評をここで取り上げる理由は、伊藤がこのまま元支援者たちに気を使い、彼らが受け入れられる形に合わせて再編集することはBBDが持っているはずの社会的意義を損ない、ただ「私たちの感情を代弁してくれる物語」という評価に甘んじざるを得なくなるのではないかと危惧するからだ。すでに日本むけの再編集は終わっているとのことだが、発端になった元弁護団の告発と望月の記事がここまでおかしいのだから、関係者は全員、もう一度ゼロから考えなおすべきだと私は考える。
3.「叩け。そうすれば開かれる。(マタイ7:07)」
温情主義は、思想や価値観ではなく習性である。日本社会にあまりにも馴染みすぎているそれをいつまでも相対化できずにいるのが私たちなのだ。伊藤詩織という際立った他者との邂逅によってその習性を阻まれた元弁護団の4人に欠けていたものは、知識でも経験でもなく、まして頭のよさでもなく、自らのcognitionの構造を相対化するリベラル・アーツだったのではないだろうか。
だから田中優子さん、私はあなたに問いたい。人間のcognitionの構造を問うことは人文学の使命ではないのですか。それを忘れた人文知は、好事家の退屈しのぎやクイズ番組のネタ以上の何かでありうるのでしょうか。折しも日本学術会議への政治的介入が懸念される法改正が国会を通ろうとしています。自由な学問の社会的価値が問われ続けている。そんな状況で、あなたがいま犯している罪は重いのではないですか。あなたにとって教養とは、我々が何から自由になるための術なのでしょうか。
BBDがなぜ日本で公開されないのか、本当のところはわかっていない(これがわかっている前提の主張ばかりはびこっていますね)。それはもう、ビジネスというのは売り手と買い手がいて初めて成立するのだから、買い手がつかない事情は売り手にはわからないし、わかったところでオープンにはできないだろう。しかし少なくとも第三者による解釈よりは、一方の当事者である伊藤側の認識を採用することには合理性がある。
伊藤は言う。
この原稿を執筆している現時点ではまだ、日本での上映は決まっていない。評価もされていない。いまは、公開へと進めない難しさこそ、この映画が光を当てたかったことなのかもしれない、と考えている。 この映画を取り巻く状況、日本で起きていることをBlack Dox Diaries Part2(原文ママ)として観たい、と言われたこともあるが、再度自分自身にカメラを向ける、その痛みを共有するほどのエネルギーは残っていない。
「公開へと進めない難しさ」、つまり伊藤はこれを書いた一月の時点で、それは自分が許諾問題に対応していないからではないと認識している。「この映画が光を当てたかったことなのかもしれない」、こういうからには伊藤もそこに日本の社会構造を見ているのだろう。そこに光を当てる作業を伊藤だけに期待してしまうことは、社会をその構成員としてではなく観客として見ていることになる。私が「伊藤さんの支援」に興味がない理由はそこにある。彼女は関係ないのだ。この社会で私が/あなたが「どう在るか」。問われているのはそういうことだ。
どうだろう。ここまで3万字ほど書いてきたが、少しは光を当てることができただろうか。
さて、本論はここまで。ここからは、どうでもいいことを書く。
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購入者のコメント
3最近の?かわからないけど長い文章は読めない、とかXで抜かしてるヤツが結構います。それぐらい読めよ、といつも思います。その私でもこのnoteちょっと長くて大変です。長いと全部の内容を覚えていないと通じない部分があって整理するの大変です。興味深い話で世の中の多くの人に読んでいただきたい内容なので、例えば区切りのいいところで締め、複数の記事にするとか、でも今後も頑張って読みます。応援します。
こんにちは。
この話はそんなに急いで多くの人に理解される必要はないので、どうぞゆっくりじっくりお読みください。執筆者としておすすめするのは、使っている資料はすべてリンクを貼ってあるので、読む部分の資料をプリントアウトして見比べながらちょっとずつ読むことです。
まだ全部読ませて頂いていないのに高評価をポチってしまった粗忽者です、はじめまして、こんばんは。これからじっくり拝読させていただきたいと思います。
冒頭(公益性の観点から権利者に断りなく使用します。)のキップの良い文を読ませて頂いただけで、ひょっとして気の合う方なのではないかとドキドキしています。
失礼しました。