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松下哲也さんに「炎上した理由」と「批評というものの本当の価値」を教えてあげたい

批評家の松下哲也さんが、Twitterで『シン・ウルトラマン』を批評したところ、炎上してしまった。それでTwitterが嫌になった松下さんは、アカ消しをした。いわゆる「松下シンウルTwitterアカ消し事件」である。

では、なぜ松下さんは炎上したのか?
それは、彼が「批評というものの本当の価値」について、よく分かっていなかったからだと思う。しかも、彼はそのことすら分かっていない。自分が炎上した本当の理由も、今もって分からない状態だと思う。

そこで今日は、松下さんに「炎上した理由」と「批評というものの本当の価値」というものを教えてあげたい。

まず、これは松下さんに限らず日本の批評家に多いのだが、批評を「自分の知識を披露する場所」と考えている。そういう人は、どんな批評においても必ず「過去の文献」や「過去の作品」を持ち出して、それとの関連で語ろうとする。

特に、哲学や精神医学など、一見関係なさそうな小難しいものを持ち出して、それとの関係で語る。よくあるのが、「これって結局デリダじゃん」というやつである。フーコーとかレヴィ=ストロースなども持ち出されがちだ。

しかし、これは批評においては基本的にアウトである。批評は、自分の知識をひけらかす場所ではない。批評する人がどれだけ知識があるかというのは、批評を聞く人にとっては無関係だ。なんなら「鼻につく」ということもあるので、かえって害悪であるとすらいえる。

批評も含め人に向かって何かを発言をするときは、まず「聞く人」を中心に考えなければならない。聞く人に利するものでなければならない。そのため、発言する自分の利は極力後回しにしなければならない。

そうなると、「自分の知識をひけらかす」というのは、極力避けるべき行為となる。だから、『シン・ウルトラマン』を語るときにも、「結局これって○○じゃん」と言ってはならないのだ。松下さんは、それが分かっていなかった。だから炎上してしまったのだ。

では、批評はどのようにすべきなのか?
それは、「聞く人の中に新たな気づきを与える」ということである。そしてその「気づき」とは、その人の中にそれまでなかった「面白がり方」のことだ。

批評の世界には、絵画におけるダ・ヴィンチの『モナリザ』のような、「最高峰」の存在がある。それはミハイル・バフチンによるドフトエフスキー批評だ。バフチンは、ドストエフスキーの小説がなぜ面白いのかということを「ポリフォニー」という言葉で説明した。

「ポリフォニー」という魅力は、他の小説にはなかなかないものだ。他の多くの小説では、出てくる複数の登場人物が、それぞれたいてい作者の分身となっている。だから、それらを寄せ集めると、たいてい作者という一個の人格になる。そのため、それぞれの登場人物は、あまり複雑な個性を持たない。

例えば、これはマンガだが『ドラえもん』においては、のび太、ドラえもん、静香ちゃん、スネ夫、ジャイアンは、それぞれ作者である藤子・F・不二雄の分身だ。だから、彼ら同士が対立することはあるけれども、彼ら自身の中での多面性というのはあまりない。終始一貫したキャラクターだ。

こういうと、反論する方がいるかもしれない。
「いや、のび太の中にも多面性はある。普段はいくじなしだが、いざとなると勇気を出す」
確かに、それは多面的といえよう。『ドラえもん』のキャラクターは、実際はかなり多面的なのである。だから、例としては適当ではないのだが、多くの人が知っているので、あえて用いた。

ただ、そんなのび太にしろ、「いくじなし」と「勇気」という、いくつかの定型的な性格を行き来するにとどまる。例えば、「スネ夫のお母さんと楽しく話す」というところまでは逸脱しない。程度の問題ともいえるが、そこまでの振れ幅はない。

しかしドストエフスキーの場合は、その振れ幅が極端に大きいのだ。しかも彼は、登場人物全てにその振れ幅を与えた。登場人物一人一人の中に、のび太的側面、ドラえもん的側面、静香ちゃん的側面、スネ夫的側面、ジャイアン的側面がある。その多面性を持った登場人物同士が絡まり合うので、さらに関係は複雑に、予測不能なものとなる。『ドラえもん』で言うなら、のび太とスネ夫のお母さんが楽しく話すということも、自然と行われるのだ。それが面白いと、バフチンは説いた。これがポリフォニーである。

バフチンのこの批評には、多くの人が喜んだ。なぜなら、それまで悩まされていたドストエフスキーの小説に対するモヤモヤを、解決してくれたように感じたからだ。

というのも、多くの人にとって小説の登場人物というのは、性格の役割が分担されていることが当たり前だった。そのため、ドストエフスキーの小説を読むと、「よく分からない」という気持ちを抱えていたのだ。
「なぜ、のび太とスネ夫のお母さんが会話するのだろう?」
そんな疑問を抱えていた。

そんなところに、バフチンが「ポリフォニー」という手がかりを与えてくれた。それで、多くの人が「のび太とスネ夫のお母さんが会話することの意味」も理解でき、一気にドストエフスキーの小説を面白く読めるようになったのだ。

バフチンは、そんなふうに多くの人に「ドストエフスキーの楽しみ方」を教えてくれた。だからこそ、批評界の『モナリザ』となったのだ。

このように、「批評の本当の価値」というのは、人々に「作品の楽しみ方を教える」というものだ。『シン・ウルトラマン』を見たなら、「『シン・ウルトラマン』の楽しみ方を教える」ということが批評である。けっして、「結局これって○○じゃん」と言うことではない。

しかしながら、多くの批評家は、それができない。なぜかというと、多くの人がバフチンのように、「構造を読み解く力」がないからだ。バフチンは、ドストエフスキーの中にある「ポリフォニー」という構造を読み解いた。それを伝えることで、多くの人にドストエフスキーの楽しみ方を教えることができた。

『シン・ウルトラマン』の場合も、「『シン・ウルトラマン』の中にある構造」を読み解かなければ、その面白さを教えることができない。そして、それができないと、ついつい衒学的な「結局これって○○じゃん」という禁じ手に走ってしまうのだ。

だから、まずは「作品の中にある構造を読み解けること」がだいじになる。
では「作品の中にある構造」とは何か?
これについて、ぼくには深く考えるようになった、ある一つのきっかけがある。それは、『カールじいさんの空飛ぶ家』を劇場で見たときのことだ。

(ここから『カールじいさんの空飛ぶ家』のネタバレを含みます)

ぼくは、『カールじいさんの空飛ぶ家』を公開直後の休日に、ほぼ満席の劇場で見た。すると、その冒頭、作品の中で主人公であるカールじいさんの妻が、いきなり死んでしまう。

そのとき、それは起こった。一人の観客の女の子(たぶん小学校低学年くらい)が、こんなふうに声を上げたのだ。

「え? 死んじゃったの!?」

その女の子は、カールじいさんの妻が死ぬという展開にびっくりし、思わず隣にいた親に、大きな声で尋ねてしまったのだ。その女の子の声は、遠くにいたぼくの耳にもはっきりと届いた。ということは、劇場中に響いたのだ。

そして、興味深いのはここからだ。そんな女の子の声に、劇場中の誰もが笑わなかった。もちろん怒ったりもせず、しかも無視さえしなかった。みんな、ハッとしたように息を飲んだのだ。

なぜ息を飲んだかと言えば、それは、劇場中のほとんどの人が、その女の子と同じ驚きを、その瞬間に共有していたからだ。
(え? 妻の人、死んじゃったの!)
と、みんなが心の中で叫んでいた。その瞬間に、まさにその女の子の声が聞こえてきたのだ。

だから、みんなハッとした。なぜならそれは、自分の心の声を代弁してくれていたからだ。

それに気づいた瞬間、ぼくにはもう一つ、ハッとさせられることがあった。それは、映画館の中で思わず声を上げてしまうくらいの小さな女の子でも、「カールじいさんの妻が死ぬとは思っていなかった」ということだ。だからこそ、予想を裏切られ、驚いたのだ。

では、女の子も含め、観客はなぜ、カールじいさんの妻が死ぬとは思わなかったのか? 実は、それこそが映画の持つ「構造」の力である。映画の構造が死ぬようになっていなかったから、予想を裏切られたのである。

そんなふうに、映画の構造は、普段は意識しないけれども、みんな無意識にそれを受け取っている。『カールじいさんの空飛ぶ家』だったら「この展開だと、この後カールじいさんと妻とのストーリーになるのかな?」と思わせられる。みんな、その構造を把握しているのだ。

だからこそ、それが裏切られたと分かり、驚く。そんなふうに、観客は映画を見るとき、ストーリーや映像や音声だけではなく、無意識に「構造」もしっかりと受け止めているのである。

バフチンがしたのは、この構造を読み解くということだ。ドストエフスキーの作品に内在する「ポリフォニー」という構造を読み解いた。彼が『カールじいさんの空飛ぶ家』を見たら、「なぜ観客は、カールじいさんの妻が死ぬことに驚いたのか」という、その構造を読み解いたであろう。

松下さんがすべきだったのは、そんなふうに『シン・ウルトラマン』の構造を読み解くことだった。こういうと、「いや、松下さんも構造を読み解いていたよ」と言う人がいるかもしれない。しかし彼が読み取っていたのは、作品に「中」にある構造ではなく、「外」にある構造についてだ。つまり、ほとんどが過去作品との関係性なのである。「作品の中にあるもの同士で構築される構造」については言及していない。

その象徴的な例が、『シン・ウルトラマン』において、登場人物の一人、浅見弘子が他者のお尻を触るシーンに対する、彼の意見だ。彼は、それは「セクハラ」で「見たくない」と言った。なぜなら、世間には今、セクハラを許さない風潮があるからだ。

しかしそれは、あくまでも「セクハラを許さない」という、作品の「外」にある事象との関係だ。作品の中には、そういう価値観やエピソードは出てこない。

では、このお尻を触るシーンと関連する、「作品の中にある事象」とは何か?
それは、「女が女の尻を触る」あるいは「女が男の尻を触る」というシーンである。そういうシーンはあるのに、「男が女の尻を触る」というシーンが存在しないという「構造」だ。これこそが、「中にある構造」である。そして、この構造は一つの意味やメッセージを持つのである。

それは、「お尻を触る行為にも、アウトとセーフがある」ということである。引いては、「アウトとセーフは、恣意的に決まっている」ということが、この構造からは読み取れる。

実は、そういうメッセージは、また別の作品内構造からも読み取れる。それは、浅見弘子が田村公男が既婚者であることに言及するシーンだ。

自分が既婚であることを調べてきた浅見に対して、田村はちょっと微妙な顔をする。そこには、「個人情報を調べた浅見に対する否定の気持ち」が見て取れる。つまり、作品世界の中で「個人情報を詮索することに否定的な態度」を示しているのだ。

ところが、そんな田村の指には、結婚指輪がキラリと光っている。しかも、それが適度に強調されている。つまり、個人情報を詮索することを否定しながら、自分からアピールしているのだ。このことも、作品に内在する「アウトとセーフは、恣意的に決まっている」というメッセージとなるのだ。

「女が尻を触るのはセーフで、男ならアウト」
「結婚しているかどうか調べるのはアウトだけれど、自分からアピールするのはセーフ」

そういう、世の中には恣意的に「アウト」と「セーフ」があるということを、『シン・ウルトラマン』は構造的に、むしろくどいくらいに提示している。

では、なぜそれを提示したのか?
おそらく、作者である庵野さんの中に、この「アウトとセーフは、恣意的に決まっている」ということこそが、『ウルトラマン』の最大の魅力=最も面白いところ——と思ったからではないだろうか。

というのも、実は元となった初代『ウルトラマン』にも、一つ、とてつもなく巨大な「アウトとセーフは、恣意的に決まっている」という構造が内在されているからだ。その構造こそ、『ウルトラマン』の本質だと、庵野さんは読み解いた。だからこそ、それを『シン・ウルトラマン』にも移植したのだ。

では、その『ウルトラマン』における「アウトとセーフは、恣意的に決まっている」という構造とは何か?
それは、「ウルトラマンが倒した怪獣が、しばしば街やビルを破壊する」ということだ。当時、それを見た多くの子供たちが、「これ、ビルの中にいた人、何人か死んでない?」と疑問を抱いた。もっというと、「これって、ウルトラマンが人を殺したことにならない?」と疑問に思った。

しかし、『ウルトラマン』の作中で、それに言及されることはない。ウルトラマンは、あくまでも正義のヒーローで、彼が壊したビルや、殺したかも知れない人には誰も触れない。

つまり、「ビルは、怪獣が壊すとアウト、ウルトラマンが壊すとセーフ」なのである。あるいは、「人は、怪獣が殺すとアウト、ウルトラマンが殺すとセーフ」なのだ。

そんなふうに、初代『ウルトラマン』の中では、かなりはっきりと「アウトとセーフは、恣意的に決まっている」ということが構造として提示されているのだ。
だからこそ、それは見ている子どもたちの心にモヤモヤとして残った。そして庵野さんは、そのモヤモヤこそ、『ウルトラマン』最大の魅力だと読み解いた。だからこそ、その構造とメッセージを『シン・ウルトラマン』にも移植したのだ。

そう読み解ける根拠が、もう一つある。それは、『シン・ウルトラマン』の最初の方で、二度目に現れたウルトラマンが、倒した怪獣の保有する放射能が地表に漏れないよう、わざわざ別次元に運んでいって処理していることだ。つまり、ここでは逆に、元の『ウルトラマン』が提示していた「これって、ウルトラマンが殺したことにならない?」という疑問を、あえて抱かせないようにしているのだ。

しかも、それを強調するように、『ウルトラマン』が人を殺すというシークエンスは、あえてストーリーとして「明示」されている。そうすることで、逆にその構造の存在——つまり「『ウルトラマン』ってモヤモヤしませんか?」ということをメッセージとして投げかけているのだ。これが、『シン・ウルトラマン』に内在する構造である。

そんなふうに、『シン・ウルトラマン』におけるお尻を触るシーンには、「見た人にモヤモヤした気持ちを残す」という構造的な意図があった。そのような意図を読み解かず、単に世間との関係で「セクハラにおれはモヤモヤした!」と言うだけでは、とてもではないが批評とは言えない。だからこそ、炎上したのだ。

松下さんに限らず、これは全ての批評家の方にお願いしたいのだが、これからはぜひ、バフチンのように作品に内在する構造を読み解き、「なぜ面白いのか?」を多くの人々に伝えていってもらいたい。そうすれば、Twitterはもう少し平和になり、今回のような事件も未然に防げるようになるはずだ。

おしらせ

今度、「第8回岩崎夏海クリエイター塾」という私塾を開講します。こちらでは、『シン・ウルトラマン』や批評についての議論もしていますので、ご興味のある方は、よろしければこちらの記事をご覧ください。


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