伝説の名プロデューサー(『男はつらいよ』『白い巨塔』…)の「ドラマ馬鹿」人生

現在「彩の会」の代表を務める小林浩司さん。「渥美さんからは自宅にもよく電話がかかってきていました」

「昨年11月に79歳で亡くなったあとで分かったのですが、父は自分で設立した、この『彩の会』という番組制作会社の1億円超の支払いを個人で立て替えていたんです。その債権を私が個人的に相続することも、会社が立て替え金を返済することも難しく、今年9月に会社を一度清算し、再出発することにしました」

こう語るのは制作会社「彩の会」代表・小林浩司氏。浩司氏の父で、『男はつらいよ』(’68年)『白い巨塔』(’78年)など日本を代表するドラマを手掛けてきた小林俊一氏は、テレビ史に名を残す名プロデューサーだった。

小林氏は’59年、フジテレビに1期生として入社。クレイジーキャッツが時事問題をコント仕立てで見せる『おとなの漫画』をはじめ、バラエティ番組のAD、助監督を経験した。コメディ担当となったのは、同期にのちに吉永小百合と結婚する岡田太郎氏などドラマ制作の名手がそろっていたからだという。その後、小林氏もドラマプロデューサーに転身する。

『男はつらいよ』のテレビドラマ版(’68年)で演出、プロデューサーを、映画版(全49作)4作目では監督を務めた小林氏はいわば同作の生みの親。「渥美(清)さんでおもしろいことができないか」と企画はスタートした。

-AD-

「父は大学時代、劇団をやるため、浅草の四畳半に7人で暮らしていて、いろんな人と面識があった。その関係で渥美さんと知り合い、惚れ込んでいたみたいです」(前出・浩司氏)

同作の舞台を決めるため、山田洋次監督と渥美、小林氏の3人で関東の町を歩き回った。一度は浦安に決まりかけたが、柴又を歩いているときに、「ここ、渥美ちゃんがふらっと出てきそうだよね」と盛り上がり、作品の舞台が決まった。

車寅次郎の、帽子にハラマキという〝テキ屋スタイル〟は小林氏が美術担当と話し合って隅から隅まで決めた。小林氏は、「寅次郎のバカバカしい性格は自分が作り、エスプリが利いたところは山田さんが作った」と言っていた。

「本人も寅さんみたいな人でした。監督(小林氏)はオヒョイさん(藤村俊二)と仲良くしていたんですが、オヒョイさんが車を買ったすぐ後、友達とその車をかついで隠してしまったことがあったそうです」(「彩の会」関係者)

右が渥美清、左が小林氏。小林氏は渥美の演技を信頼し、演技についてほとんど口出しはしなかったという

浩司氏が言う。

「家にはほとんどいませんでした。母が『男はつらいよ』の撮影中に亡くなったのですが、父は、母が亡くなる4日前に『3日間だけ休ませてくれ』と言って、看取ったそうです」

寅次郎の妹・さくら役で同作に出演した女優・長山藍子さんが言う。

「小林さんは、いつもニコニコしていて、怒鳴るところなんて想像できない。お友達であり、お父さんという感じの方。実力は抜群で、気づくと小林さんの思っている方向に演技が導かれているんです。

-AD-

渥美さんが亡くなった’96年、ドラマ版『男はつらいよ』を見て『藍ちゃん、1話と最終話しか映像が残ってないんだって。悲しいねえ』とぽろぽろ泣いていらっしゃいました。本当にドラマが大好きなんだと思いました」

「これがかっこいいんだよ」

’78年には、田宮二郎主演(財前五郎役)で最終回視聴率31・4%を記録した『白い巨塔』のプロデューサーを務めた。

「監督はリアリティを追求するため、実際の『噴門がん』の手術現場を何度も訪れて勉強したそうです。『白い巨塔』は病院のスキャンダルを扱っているので、断られることも多かったと聞きました。

原作、脚本、演出方針が書かれた『秘密ノート』には万年筆でびっしりと書き込みがされていました」(前出・関係者)

『白い巨塔』撮影時。田宮二郎(右)と小林氏(左)。田宮は撮影終了後、最終回を見ることなく自殺した
SMAPの中居正広出演ドラマを制作。泉ピン子主演『腕まくり看護婦物語』も作った

撮影終盤には、躁うつ状態にあった田宮のモチベーションを維持するのに苦労した。田宮にトイレの個室に連れて行かれ、「セリフが頭に入らない」と延々と愚痴られたこともあったという。

その後、フジテレビから管理職に就くことを求められたが「現場に残りたい」と退社を決め、「彩の会」を立ち上げた。ここでも「浅見光彦シリーズ」など名作をいくつも手掛けた。

「とにかくタフでした。『いい番組を作るためには、いいものを見ることだ』と言って、膨大な量の芝居や映画を見ていた。ロケが早く終わって3時間空きができたときにこっそり新作映画を見ていて、私たちが『監督、いつの間に見てたんですか』と驚くと『こういうのがかっこいいんだよ』とうれしそうにしていました」(同前)

最後の最後までドラマ馬鹿を貫いた。

-AD-

「晩年は腎臓を患っていました。亡くなる半年前に、現場に出ようと、友人に両脇を抱えられて病院を抜け出した。事務所でビールを飲みながら『おう』って。最期も京都の現場。その日も『早く現場に入りたくて仕方ない』と予定より1時間早く出発したんです」(前出・浩司氏)

しかし、撮影中に心不全で倒れ、搬送先の病院で亡くなった。あの数々の名作の背景には、稀代の名プロデューサーがいたのだ。

「フライデー」2013年11月22日号より

おすすめ記事