2023年8月14日10:35 Asagei+
ものまねタレントの広川ひかるが、本名の上島光でエッセイ「竜ちゃんの
ばかやろう」を上梓した。知ってのとおり、2022年5月11日午前0時頃に
亡くなったダチョウ倶楽部・上島竜兵さんの妻だ。
オリコンのYouTubeチャンネル〈oricon〉では、広川が8月10日に
都内で開いた出版会見の模様を見ることができる。
広川の口から明かされたのは、上島さんの生前のエピソードの数々。お風呂の温度設定は45℃にして熱湯風呂の耐性を作っていたことや、おでんは大好物にもかかわらず熱々おでんネタがあるため、外では人の目を気にして注文しなかったことなどだ。
広川は著書出版に際して、本にも書かれているという上島さんが亡くなる前夜の
出来事を週刊誌で明かしていた。「タバコを吸いに部屋から出てきたのですが、
様子がおかしくて。泣いているような状態で『死んじゃいたい』と言い出したので、一人で寝かせるのは心配だな、今日は同じ部屋で寝た方がいいなと思い、
戸締まりして電気を消して、部屋に行ったら…っていう感じでした」
目を離したのは、僅か10分。「一生の不覚というか…」と後悔を滲ませている。
ふと目を離した隙に…といえば、1986年4月8日、アイドル歌手として
人気絶頂時に所属事務所のビル屋上から飛び降り、18歳という若さで
この世を去った、岡田有希子さんを思い出す。
同年1月29日に松田聖子作詞のシングル「くちびるNetwork」でオリコンチャート初登場1位となり大ブレイクを果たした岡田さんは、その3カ月後に自宅マンションでガス自殺を図るも未遂に。当時の所属事務所の福田時雄元専務が岡田さんの希望で
事務所に連れて行き、電話対応でいったん部屋を出た。そして戻ってきたら
岡田さんの姿はなかったと…。
本人の苦しみはいかばかりだったか。
そして、残された人の悲しみは拭いようがない。(所ひで/ユーチューブライター)
この曲の作詞は、松田聖子さん。作曲は、坂本龍一さんでした
上島竜兵さん〝前兆〟なき急死 前日に仕事の話、
関係者は心の病を否定も… 東スポWEB
人気お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」の上島竜兵さんが11日、亡くなった。
61歳だった。「聞いてないよぉ」などさまざまなヒットギャグを飛ばし、リアク
ション芸の第一人者として老若男女から人気だっただけに、芸能界のみならず、
日本中が悲しみに暮れている。いったい上島さんの身に何があったのか?
捜査関係者によると、11日午前0時ごろ、東京都内の自宅マンションでぐったり
しているのを家族が見つけ、119番通報。搬送先の病院で死亡が確認された。
所属事務所の太田プロダクションは公式サイトで「あまりにも突然のことで驚きに
堪えません。今まで上島竜兵を応援して下さった皆様には心から感謝いたします。
葬儀に関しましてはコロナ禍の世情に鑑み密葬とさせていただく予定でおります。
またご家族のご意向により、ご香典、ご供花、お供え物の儀は固くご辞退
申し上げます。何卒よろしくお願い申し上げます」と発表した。
ダチョウの出世作となった「スーパーJOCKEY」「お笑いウルトラクイズ」
(ともに日本テレビ系)で司会を務めたビートたけしは、公式サイトで「上島、
大変ショックです。40年近く前から一緒に仕事をしてきたのに、芸人は笑っていくのが理想であって、のたれ死ぬのが最高だと教えてきたのに、どんなことがあっても
笑って死んで行かなきゃいけないのに、非常に悔しくて悲しい」とコメントした。
シャイで誰にでも腰が低い上島さんは、芸能界の先輩からも後輩からも好かれ、
慕われてきた。周囲のショックはあまりにも大きい。
一部では、いわゆる「コロナ鬱」を指摘する声も上がったが、上島さんと
親しい知人は、それを否定。「いわゆるうつ状態ではなかった。
亡くなる前日も仕事の話をしており、撮影現場に行くことを楽しみにしていました。
過去にもそのような状態になったことはありません」と明かした。
上島さんは〝師匠〟の志村けんさんが新型コロナウイルスに感染し、2020年に死去したこともあり、誰よりも気を付け、できるだけ外に出歩かないようにしていた。
上島さんを慕う後輩芸人によって「竜兵会」が結成されたことからも分かるように
飲み会は好きだったが、コロナ禍でそれも控え、オンライン飲み会などに
切り替えていたという。
最近は芸人としてだけではなく、役者としても4月クールの「恋に無駄口」
(テレビ朝日系)、「やんごとなき一族」(フジテレビ系)に出演。
もともと俳優志望で、まだ発表になっていないものも含めて役者としてオファーが
舞い込んでいる状況を楽しんでいたという。持病の糖尿病のために通院は
していたが、心療内科などの病院には通っていない。それだけに上島さんに
近い距離にいる人ほど、今回のことを今でも「信じられない」と語っている。
2019年12月24日に、フジファブリックのヴォーカル志村くん29歳が
同じ首吊りで亡くなっていました
上島竜兵さん「お酒飲んでも寝られない」と吐露…
死去2カ月前に目撃されていた “現場で放心状態” の異変
2022年5月16日 06:00 SmartFLASH [光文社週刊誌]
5月11日、突如飛び込んできた訃報が日本中を驚かせた。
お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」のメンバー・上島竜兵さん(享年61)が、
自宅で亡くなっているところを発見されたのだ。日本を代表するお笑い芸人の一人
だけに、悲しみの声が多数寄せられている。特に親しかった芸能人たちの嘆きは、
筆舌に尽くしがたい。本誌は10名ほどに取材を申し込んだが、「気持ちの整理が
ついていない」との理由で、誰もがコメントを差し控えた。
それでも、生前の上島さんを知る人たちは、揃って彼が楽しそうに飲んでいた
様子を記憶に留めていた。「若手の芸人さんと3人で来られたのが最初ですが、
すぐに常連になってくれて。来るのはたいてい深夜0時過ぎ、
フォアローゼズをロックで、朝まで飲み続けていました」
そう語るのは、東京・中野にあるバー「ルーキーs」のマスター・伊藤実さん。
上島さんは、居合わせた客に対してもサービス精神旺盛だったという。
「テレビでもイジられているのに、店でもほかのお客さんにイジられる。
それを全然嫌がらないのがすごいと思いました。ただ僕が見る限り、上島さんは
寂しがり屋だったんですよ。だからみんなを楽しませてくれていたのでしょう」
ダチョウ倶楽部のヘアメイクを担当していた加納ひろみさんも、
思い出を語ってくれた。「シャイな方でしたけど、酔っ払うとすぐに裸になるん
です。おなかがポコンと出ていて、幼児体型でかわいいんですよ。フィルムカメラの時代に、全裸でフィルムケースを股間にかぶせて “俺のサイズ、ピッタリ!” と
言ったり。そういう下ネタも明るくて楽しくて、お笑いの神様でした」
上島さんと親交が深かったキー局プロデューサーも、鮮烈な記憶がある。
「キャバクラに連れて行ってもらった際に、突然 “空襲警報!” とアナウンスが流れて室内の照明が落ちるのをウリにしていた店だったんですが、照明が戻るまでの間に、上島さんはいつのまにかパンツ一丁でテーブルの下に這いつくばっていた。
死ぬほど笑わせていただきました」
「ルーキーs」での1枚。左から肥後、伊藤さん、右端が上島さん
テレビで見るままの天性のエンタティナーを思わせるエピソードが
本誌の取材に多数寄せられたが、上島さんが出演したあるCMの演出を担当した
映画監督によると、2カ月ほど前、上島さんは気になる様子を見せていたという。
「撮影の合間、放心状態のようになって部屋の隅のほうでじっと目をつぶって
いたんです。ヘアメイクの子が直しを入れようと近づくと、ハッとした様子で
慌てて取り繕いながら、“最近寝つけなくてね、歳なのかなあ。お酒を飲んで
寝ようとしたんだけど、なかなか寝られないんだよ” と洩らしたそうです。
とても繊細な方だったので、いろいろなことがこたえていたのかもしれませんね」
この話を裏づけるように、昨今の世相について上島さんがあれこれと
思い悩んでいたことを偲ばせる別の証言もある。
「リアクション芸人にはやりにくい時代です。コロナ対策を徹底すれば芸のリアルさが失われるし、“熱湯風呂”もコンプライアンスの観点からできなくなってきている。このご時世にダチョウ倶楽部の芸のおもしろさをどう伝えるか、上島さんは頭を
悩ませていたようです。4月におこなわれたイベントで、アクリル板越しですが
久々に “キス芸” をやれたときは、嬉しそうでしたよ」(芸能事務所関係者)
本誌が初めてダチョウ倶楽部を特写した1994年の記事でも、自らの「イジられ芸」について、「いくら上手な芸人でも俺には敵わないはず」と自信を見せていた上島
さん。しかし、コロナ禍で彼もまた生きづらさにとらわれていたのかもしれない。
ところで上島さんといえば、故・志村けんさんとの交流がよく知られている。
今年3月、本誌の「寄港めし」に登場した際も、志村さんが行きつけにし、一時は
上島さんと連れ立って毎日のように通っていたという東京・麻布十番の鉄板焼き店「三と十」を訪れて、「志村さんとの間では、“おネエちゃん” の話で盛り上がる
けれど、最後はいつもお笑いの話になっていた」と懐かしそうに語っていた。
「志村さんの入院中は面会にも行けなかったので、亡くなった実感もなかった
けれど、三回忌を経てようやく事実として受け入れられるようになったと上島さんは言っていました。志村さんが亡くなったことで、コントをやる機会もなくなって
しまうと、喪失感にかられていたようですね」(前出・芸能事務所関係者)
そんな上島さんは、前出の映画監督とくだんのCMの発表会で3月に対面した際、「上島竜兵が主演の映画ってどう?」と監督に話を持ちかけていた。上島さんは、
もともと俳優を目指して上京し、後にお笑いに転じたという経歴の持ち主。
監督が「ぜひ。いつならやれますか?」と逆に聞き返すと、上島さんは急に
真顔になって、志村さんのことを語りはじめたという。
「本当は、志村さんのやるはずだった、『キネマの神様』の役がやりたかったんだよな。俺が代わりに演じられたら、志村さんへの供養にもなったんじゃないかなって。ま、そんな大役を俺が演じるのは無理だろうけどね」
そう言って寂しげに笑う上島さんを見て、「この人は本気で芝居がやりたいんだ」と思ったのだと監督は言う。
「上島さんが本当にやりたかった仕事は、個性的な俳優だったそうです。
遠藤憲一さんみたいな独特の味のある役者に憧れているとも言っていましたね。
コントで売れた人ですが、役者への思いが本物だとわかり、
本気で実現させようかと考えていたんですが……」
前出のプロデューサーは、最後に上島さんと酒席をともにした
昨年暮れのことを鮮明に記憶している。
「ずっと僕のことを “重役” と呼んでいました(笑)。帰りのタクシーに先に乗せて
くれて、振り返ると直角に頭を下げていました。お礼のショートメールを送ると、『また行こうね』の一文と、慣れないからか不思議な絵文字が送られてきました。
その『また』がかなわなくなるなんて……」
「聞いてないよォ」の気持ちで喪に服しながらも、人々の心には優しい
上島さんの姿が刻まれている。
追悼・上島竜兵さん 担当編集が明かす “半裸写真” 秘話
「京都の満開の桜の下で撮影、気に入ってくれました」
公開日: 日刊ゲンダイ
ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんの訃報から一夜明け、悲しみが広がっている。
上島さんは、11日午前0時ごろ、東京都内の自宅で、家族が異常を発見し、
緊急搬送されたが、午前1時前、搬送先の病院で死亡が確認された。
自殺とみられる。61歳だった。
上島さんは兵庫県出身。肥後克広(59)、寺門ジモン(59)と1985年「ダチョウ倶楽部」を結成。「熱湯風呂」「アツアツおでん」などのネタで “リアクション芸” を確立。「聞いてないよ~」「くるりんぱ」「キス芸」など、数々のギャグで
お茶の間を沸かせた。同時に、「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!」(89~96年)、「志村けんのバカ殿様」(97年に初登場)に出演し、ビートたけし(75)や志村けんさんなどの大物に可愛がられた。
特に上島さんより10歳ほど年上で “師匠” と慕っていた
志村けんさんとの蜜月は有名だった。ある芸能関係者はこう話す。
「志村さんが40代、上島さんが30代の頃は、週に4日は飲むほど仲が良かった。
上島さんは志村さんの彼女との別れ話の場にも呼ばれて同席しています。志村さんが亡くなる数年前には、50代後半になった上島さんは涙もろくなっていたようで、
『この前、竜ちゃんと飲んでたら“師匠、ありがとうございました”って、竜ちゃん
急にエンエン泣き出したんだよな~(笑)』と志村さんは話していました」
無名の後輩芸人の話をしきりに入れたがって…
一方、東高円寺や中野の居酒屋で開催されていた「竜兵会」では有吉弘行(47)、劇団ひとり(45)、土田晃之(49)といった多くの後輩芸人に慕われていた。
2005年に発売された著書「これが俺の芸風だ!!」(竹書房)の担当編集者で
現在は作家の松永多佳倫氏はこう話す。
「当時、『芸人本』がブームで、やるならこの人しかいないと思ってオファーした
ところ、一発OKでした。とても繊細で周囲に気を使う優しい方でしたね。
本の中には『竜兵会』の話も出てくるんですが、すでにブレークしていた有吉さんやひとりさんだけでなく、インスタントジョンソンさんなど、まだ無名の後輩芸人の
話をしきりに入れたがって、後輩思いなんだなと思いました」
先輩や後輩だけでなく、松永氏もその優しさを感じている。
「僕は著書の構成もやったのですが、初めてのことでテンパってたら、『 松永クン、本当はボクのこと嫌いでしょ? 』なんておどけて和ませようとしてくる。
原稿チェックの時も、僕が多少誇張して書いたところは全部OKで、そうじゃない
ところに赤が入ったりしていました(笑)。表紙は京都で撮影したのですが、
満開の桜の下で哀愁を帯びて半裸でたたずむ写真をいたく気に入ってくれました。
後で聞いた話ですが、“ヤー”のポーズはダチョウ倶楽部3人のものなので、
上島さんとしてはこちらの方がいいと思っていたようです。また、帯のコメントを
お願いすると、志村けんさんも、松本人志さんも二つ返事で快諾。
上島さんの人望を感じましたね。心よりご冥福をお祈りします」
心優しい人柄で、先輩、後輩問わず周囲から慕われ、多くの人に愛された
希代のコメディアンがまた一人この世を去ってしまった。
「ダチョウ倶楽部」はこれからも 上島竜兵さんの密葬終え、メンバー2人がコメント「悲しいことあっても
クルリンッパ!」 2022年5月14日 19時35分
イベントで「ヤーッ」ポーズを決める(左から)寺門ジモンさん、上島竜兵さん、
肥後克広さん=2019年9月、東京・六本木で
人気お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」のメンバー上島竜兵さんが、11日未明、
61歳で急死したことについて、メンバーの肥後克広さんと寺門ジモンさんが14日、
密葬を終え、所属事務所の太田プロダクションを通じてコメントを発表した。
リーダーの肥後さんは、冒頭でファンや仕事関係者への謝罪すると、
「皆で突っ込んで下さい。『笑えないんだよっ!』と地面も蹴って下さい。
上島は天国でジャンプします」と3人のギャグを引き合いにし、
「ダチョウ倶楽部は解散しません」と、2人で芸を続けていくことを宣言した。
寺門さんは「これからもダチョウ2人のそばで見守って」と呼びかけた。
◆どんな悲しい事があっても、みんなでクルリンッパ!
全国のダチョウ倶楽部ファンの皆様、今回は、このような事になってしまい、
申し訳ありませんでした。
仕事関係者の皆様申し訳ありませんでした。
何をやっても笑いを取る天才芸人上島が最後に誰も1ミリも笑えない、
しくじりをしました。でも、それが上島の芸風です。
皆で突っ込んで下さい。
『それ違うだろ!』『ヘタクソ!』
『笑えないんだよっ!』と地面も蹴って下さい。
上島は天国でジャンプします。皆様もジャンプして下さい。
そして、上島の分、3倍笑って下さい。
皆にツッコまれる、それが上島の芸風です。
ダチョウ倶楽部は解散しません。
二人で、純烈のオーディションを受けます。ヤーッ!
どんな悲しい事があっても、みんなでクルリンッパ!
ダチョウ倶楽部 肥後克広
◇
ダチョウ倶楽部上島竜兵を愛してくれた皆様本当に申し訳ありません
こんな形でのお別れです
僕は竜ちゃんと出会って40数年
苦しい時も楽しい時もいつもそばにいてくれました!!
本当にありがとう竜ちゃんがいたから僕はあります!
大好きなお酒を今も飲んでいるんじゃないかな?
これからもダチョウ2人のそばで見守ってください!
ずっと忘れないよ!ずっと一緒だよ!
ダチョウ倶楽部 寺門ジモン
有吉弘行 恩人・上島竜兵さんを涙声で追悼
「『バカだな』と突っ込んでやろうと思ったけど、」
お礼の言葉しか出なかった」
お笑いタレント、有吉弘行(47)が15日、ラジオ番組に生出演し、11日に急死したお笑いトリオ、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さん(享年61)を追悼した。
故人を慕う「竜兵会」のメンバーである有吉は涙で言葉を詰まらせながら、
通夜・葬儀の様子について笑いを交えて報告した。
持ち前の毒舌が出ないぐらい、ショックが癒えていなかった。密葬から一夜明けたこの日、パーソナリティーを務めるJFN「有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER」(日曜後8・0)に生出演。上島さんへの思いを語った。
「元気が出たつもりだったけど、落ち込んだりを繰り返すね」と心境を吐露。
「亡くなった日の夕方に顔を見せてもらい、2人で…」と一瞬、涙で言葉を詰ま
らせ、「特別に2人きりにしてもらったとき、『バカだな』とか突っ込んでやろうと思ったけど、お礼の言葉しか出なかった」と声を絞り出した。不遇だった2001年から「竜兵会」のメンバーとして面倒を見てくれた先輩芸人への感謝だった。
家族だけで営むはずだった通夜・葬儀には「俺も家族だ」と多くの芸能人らが
参列したといい、出川哲朗(58)を「(遺体に)キスした方がいい」とイジるなど
にぎやかに送り出したと告白。喪主を務めた上島さんの妻でタレント、
広川ひかる(51)やダチョウのリーダー・肥後克広(59)と寺門ジモン(59)に
ついては「3人が一番辛いはずなのに、気丈に声をかけてくれた」と明かした。
会場には生前に贈った腕時計が飾ってあり、広川から「上島さんが毎日この時計を
つけて枕元に置いていた」と聞いた。「お返しに(有吉の)誕生日(今月31日)にグラスをプレゼントしようとしていたみたい」とうれしそうに報告し、
「せめてプレゼントを渡してから死んでほしかった」と、この日唯一の
毒舌を絞り出すのがやっとだった。
生前、「涙をこぼすのは上島さんの葬式だけ」と語っていた有吉は、
「まだまだ感謝を伝えきれない。古典落語ぐらいネタがあるから、
上島さんのことを忘れずに話していきたい」と宣言。変わらぬ絆を胸に前を向いた。
◆加藤茶も密葬に参列 上島さんと親交があったザ・ドリフターズのメンバーもこの日、上島さんを追悼した。加藤茶(79)はブログで密葬に参列したことを告白。
「肥後(克広)さん、(寺門)ジモンさん、竜兵会のメンバー全員に見守られ天国に旅立ちました」と報告し、「僕達にとっても、上島竜兵君は大きな存在でした。
竜兵君 ありがとう」と感謝。高木ブー(89)はインスタグラムに故人とのツーショット写真を添えて「今頃、志村と飲んでるかな。またね。ありがとう」と悼んだ。
★悩みなどの相談窓口 厚労省は、生きることに悩んでいる人々に、電話などで相談してほしいと呼びかけている。HPで紹介している主な電話相談窓口は次の通り。
SNSの窓口の紹介とQRコードも表示している。
▽こころの健康相談統一ダイヤル (0570)064556(対応の曜日・時間は自治体により異なる)
▽日本いのちの電話 ナビダイヤル=(0570)783556(午前10時~午後10時)、
フリーダイヤル=(0120)783556(午後4~9時、毎月10日は午前8時~翌日
午前8時)
故・上島竜兵さんの愛妻・広川ひかるが初めて語る「当日」のこと「目を離したのはたった10分。いまも後悔が」
FLASH編集部 記事投稿日:2023.08.08 06:00
【写真】2016年9月、旧知の芸人を訪ねて鹿児島県を訪れた際の上島さん夫妻
1994年8月、広川との結婚を発表した際の上島さん。肥後克広、寺門ジモンも
会見に駆けつけた(写真・白木護)
ダチョウ倶楽部・上島竜兵さん(享年61)が亡くなったのは、2022年5月11日の
こと。人気芸人の突然の死は、社会に大きな衝撃を与えた。
死去から1年、上島さんの妻でタレントの広川ひかる(52)が、上島さんへの
思いをつづった『竜ちゃんのばかやろう』(KADOKAWA)を上梓する。
妻が初めて明かす「その夜」の上島さんの様子とは――。
「本のなかでも書いていますが、5月10日の夜、11時すぎくらいでした。
タバコを吸いに部屋から出てきたのですが、様子がおかしくて。
泣いているような状態で『死んじゃいたい』と言い出したので、一人で寝かせるのは心配だな、今日は同じ部屋で寝たほうがいいなと思い、戸締まりして、
電気を消して、部屋に行ったら……っていう感じでした。
携帯電話を手に持っていたので、すぐ119番して、心臓マッサージをして、
マウストゥーマウスで人工呼吸をしました。その時点で息が止まっていたかどうか、私にはわかりませんでしたが、意識はなかったです。
そこから一度も意識は戻りませんでした。
見つけてからの動きに無駄はなかったし、異変を感じてから部屋に入るまで、
10分もたっていないと思います。本当に、一生の不覚というか、後悔ですね。
こんなことになって……」
上島さんはふだんから、睡眠導入剤とアルコールを一緒に摂取していたという。「その夜」もそうだった。
「20年くらい続けていました。もう、ずっと注意してたんです。それをしていたら、鬱状態になるから、いけないよって。よくお酒と睡眠導入剤を飲んで、部屋を
うろうろするんです。それで転んだり、何か食べようとして火傷したりとかして、
年中、注意してたんです。たいへんなことになるよって。でも、酩酊しているときに言っても、覚えていなくて。それで、昼間のまともな状態のときに言うんですが、『うるさい、うるさい!』っていう感じで。聞く耳を持たない人だったんです」
この雑誌の取材に答えている時に「一生の不覚」やラジオで有吉くんが
「亡くなった日の夕方に顔を見せてもらい、2人で…」と一瞬、涙で言葉を
詰まらせた時に「2人で・・・」と言ってますが、本当は言わされたんです
純ちゃんも時々、薬をお酒で飲む時がありますが、今までそんな飲み方をしなかったので何か変だと思っていました。そして、1回だけ、タバコを反対側にくわえ食べ始めた時は、本当にビックリして「あんた、何やっているの!」と言ってタバコを口の
中から取り出しました。ハイボールを作って持って行った時でした
「とにかく、コロナにはかかりたくないんだ」
上島さんの心を追い詰めたのは、新型コロナウイルスの流行も大きかった。
「コロナと、志村けんさんが亡くなったこと、怪我で腰痛がひどくて、
イライラしていたことも関係するかもしれません。
まずいことが全部、重なってしまったっていうか……。
コロナ禍に入ってからは、なんか、気力がないというようなことは言ってましたね。映画を2時間、観られないとか。真剣に話の筋を追わなきゃいけないものだと、
観ていられないって。家にいるのが嫌いなのに、自粛しないといけない。
仕事もできない抑圧に耐えられない感じでした。
それでも、人さまに迷惑をかけられないと、絶対に飲みには行かなかったです。
少しずつ行動制限が緩和されて、『 4人までは大丈夫になったんだから、
行ってくれば?』って言っても『 いや、迷惑をかけるから 』って。
コロナになったら、たくさんの人、スポンサーさんにも迷惑がかかるから、
とにかく、かかりたくないんだって言っていました。
実際、コロナには1回もかからなかったんです」
広川によれば、亡くなる2カ月ほど前にも、上島さんに “異変” を
感じたことがあったという。
「3月の頭くらいに、私が、久しぶりにテレビの収録があって、帰りが夜9時ごろに
なったことがあったんです。帰ったら、竜ちゃんがテラスでタバコを吸っている
後ろ姿が見えたんですけど、『ただいまー』って声をかけたら
『お帰り、どうだったの?』って。それがすごく寂しそうだったんですよね。
だから私、仕事をして家を空けるのはよくない、家にいてあげようと思ったんです。
それと、(米国人俳優の)ブルース・ウィリスさんが引退するっていうニュース(2022年3月)を見て『 自分も引退したい 』って言い出したんですよ。
ふだんから、ニュースにからめて『 僕も○○しよう 』って、ギャグっぽく言う
ことがあったのですが、ちょっと本気めいた感じだったので『 いま、コマーシャル
とかドラマとかお仕事が入ってるから、とりあえず、そこを終わらせないと、
人さまに迷惑をかけることになっちゃうから。やってから、仕事ストップさせて
もらったらいいんじゃないの? 』って言って。そしたら、ふーんって感じで部屋に
入っちゃったんです。でも、次の日はケロッとして、元気になっていて。落ち込む
のと元気になるのと、その繰り返しの状態を、私が理解していなかったんです」
あの三女に憑依されて、引退したいと思わせられたんだと思います
鬱も無力感も、持って来られていたんです
永遠に封印された「ケンカしてチュー」
上島さんの葬儀は5月14日に営まれた。当日は、多くの芸人仲間が参列。
芸人がそれぞれの出演番組で、葬儀でのお笑いエピソードを語ることもあった。
「おもしろい人でしたから、自然に葬儀の間も笑いが起こって。それでまた、しくしく泣いて……の繰り返しでしたね。長年、お世話になっていたスタイリストさんが、赤いタキシードで最後のスタイリングをしてくれて、それがまた竜ちゃんらしくて。
肥後(克広)さんが、草履はここ、帽子はここ、おでんはここって、
入れてくれて。おでんも、竜ちゃんに話しかけながら、真空パックを2袋入れて。
2人の絆をすごく感じる瞬間でした。
出川(哲朗)さんは、肥後さんに『チューする? しない?』ってけしかけられていたんですが、『それはもうやめよう』と。それで、2人の『ケンカしてチュー』は、永遠に封印されちゃったんだなっていう空気になって、また、みんながシーンと
静まり返って……」
広川も、「竜ちゃん」を「寅さん」と呼び間違い、笑いが起きる一幕があった。
「夫婦のなかで、コロナ禍を(映画の)『寅さん』シリーズで乗り越えていた、
というところがあって。寅さんは、亡くなったのではなく、旅に出ているっていう
形で終わっているんで、竜ちゃんもそれにちなんで『旅に出てると思いたいんです』と、うまく締めくくりたかったんですけど……。
最初に『寅さんが亡くなっちゃって。ああ、違った。竜ちゃんが亡くなっちゃって。私たちは寅さんが好きなんですけど……ゴニョゴニョ』ってなって(笑)。
みんな、ドカーンって大爆笑になったんですよ。本当に間違えただけです」
今回、広川が上島さんのことを振り返る本を執筆した思いを聞いた。
「亡くなったあと、葬儀社からもらう冊子に『悲しい感情のあとに、怒りが出て
きます』と書いてあったんですよ。最初はただただ、落ち込みます。泣きます。
そのあとに、怒りがきますって。本当にそうなるんです。なんで私がこんなこと
やらなきゃいけないのよ! と。で、また、泣きたくなって。
ひとつの感情じゃないですね。こっちは病院へ連れて行かなかった、
本当にすまないっていう気持ちもありますし。
いろいろな感情が日々、1日のなかでも来る感じです。
時間がもし戻せるなら、1回、病院に連れて行きたい。本人が嫌だって言ったら、
自宅に来てくれる先生を連れてくればいいんだって。そういう努力を、なぜしな
かったのか。人の目が気になる商売ですから、病院の待合室に連れていくわけには
いかないとか思っていたことも、いろいろなやり方があったはずなのに……。
この本を手に取ってくださる方も、当事者、家族になりうると思うんです。
そういう人たちに、同じような後悔をしてほしくないです。
なにより、家族を大事に、自分を大事に、人生を大事に生きてほしいです」
「キネマの神様」に志村けんさんが主演予定が沢田研二さんになって、上島竜兵さんが冗談で主演で出たかったと山田洋次監督に言ったのが関係しているのかな?
妻の光さんが「竜ちゃん」と言うところを間違って「寅さん」と言ったのは、
あの三女に言わされたんです
光さんが「すまない」なんて言わないから、また言わされた
そして、いろんな感情が出たのも、そうされたと言うのが正しいと思います
本人が病院へ行くのを嫌がったり、努力をしなかったんじゃなく、
考える余裕がなかったり、そういう考えにさせてもらえなかった
もし家族に少しでもおかしいと思ったら、すぐに病院で診てもらって下さい
故上島竜兵さん妻広川ひかる、父の死を報告
「お父さんの子供に生まれて良かったよ。ありがとう」
広川は「お疲れ様でした」のタイトルでブログを更新し、「長い間、老人施設に
暮らしていた父が、昨晩亡くなりました」と報告。「昨年末に身体が老衰の準備に
入ったということで『あとひと月くらいでしょう』と家族は、お別れの時期を聞か
されていました。そんな状態で父は、2カ月近くも頑張ってくれました」という。
「来月で83歳になるところでしたので誕生日が迎えられなかったのが残念でしたが、83年ということでいいでしょう 83年間お疲れ様でした」と、ねぎらい、
「お父さんの子供に生まれて良かったよ。ありがとう。と伝えました」とつづった。
インスタグラムのストーリーズでも「鮎釣りを教えてくれた父が昨晩亡くなりました」と報告し、「私の友達が遊びに来て一緒に飲んだり 楽しい思い出いっぱい」と、しみじみとつづった。
最愛の夫である竜ちゃんを亡くし、今度は、お父さんを1年9か月後に亡くしたのは
本人しか分かりませんが、あとひと月くらいと言われ心の準備(覚悟)は、していても、やっぱり、その時になって見ないと分からないことがあったと思います
今まで辛い事があったと思いますが、でも、それ以上に竜ちゃんと一緒にいて
楽しかった想い出が多かったと思います。これからは家族仲良く、
自分らしく、人に頼って楽しく生きていって欲しいです
竜ちゃん、お父さんの、ご冥福をお祈りいたします。
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました