【松本人志問題】同調から生じる笑いと、凡庸なる悪
松本人志の炎上は納まることを知らない。
僕はお笑いについて全く興味がない人間だ。INTJ父がマジでお笑い番組が嫌いで、絶対に見せてくれなかった。そんな僕にこの問題を語っていいのかはわからないけど。一連の騒動を見ていて、単純な性加害問題ではない問題の底の深さを感じたので論考してみる。
※今回はMBTIや恋愛の話は全く関係ないし、怒りが筆に乗っていて過激なので、穏やかな気持ちでいたい人は読まないでください。
同調から生まれる笑い
素人としてテレビバラエティのお笑いを見て感じることは、『同調』によって笑いを誘っているなという事だ。話の内容にユーモアやウィットを利かせるわけではなく、変なセリフ場面を設定し、ここは笑うべき場面だよ!と教えるがごとく権威あるMCが笑い、同様にひな壇の取り巻き芸人たちも笑い、テレビのラフトラック(背景の効果音)も笑う。みんなが笑うからテレビの前の皆も一緒に笑う。良いか悪いかはともかくそういう構造だ。
部外者からは、これの論理的な面白さが全然わからない。内輪だけで通じる、感情の『同調』によってもたらされているように見える。人間って、同じことをやっても仲間であれば笑えるし、他人であれば眉をしかめる。結局これらの笑いは、誰が笑わせるか次第なのだ。つまり、ギャグを言った芸人が有名で権威があるかどうかで、全てが決まっている。
その証拠に、今人前で松本の番組を見て、腹を抱えて大爆笑できる人がいるだろうか?周りの顔色を見て、笑って良いのかわからなくて困惑するんじゃないだろうか?
人間、動物として内輪のノリは大好きだ。仲間に囲まれているからリラックスできて、自分で頭を使わなくていい。仲間に合わせて笑えば自分も楽しくなってくる。
テレビの戦略は、ダウンタウンみたいな芸人のことを視聴者の友達や家族にすることだった。そんな家族が変な事やるから、無条件で笑える!こんな内輪ノリによる同調に根差した笑いが、平成の30年間繰り広げられてきたように思える。
松本人志はお笑いのキングと言われていたようだが、口が悪くて申し訳ないが、「たまたま同調のお祭りの中心となれた、運の良かった芸人」でしかないのだ。
台風の目では何の風も吹いていないけど、周りに行くほど巻き込まれて風が強くなっていく。その同調による大きなエネルギーを、自分の実力だと思ってしまった哀れな「キング」に見える。
男にとって最も簡単な同調はセクハラだ。
松本人志は、なぜ同調の中心になれたのだろうか。ごめんマジで詳しくないのできっと間違ってるのだろうけど、彼の番組を見返して調べるつもりもないので、風聞や事件後の状況から類推して推測する。
これは、男が最も簡単に同調しやすいのが下ネタやセクハラであり、公共の電波を使って大々的にそれを打ち出した第一人者だったからではないだろうかと思っている。しょうもない話だが。
人の信念や性格はタイプごとに違うし、食の好みも十人十色だ。誰に言っても共感される話題なんてなかなか見つからない。
…のだが、無条件でおよそ大多数の男性に共感される話題が下ネタだ。個々の知性のレベルや性格タイプに関わりなく、男性であればほとんどが、(悲しいかな)下ネタに本能的に同調してしまう。男性は頭や心より先に下半身で考えるからだ。一部のストイックな人を除く世の男性の9割は無条件で巻き込まれてしまうだろう。
多分僕も若い時分にテレビを見ていたら同調していた側だ。
これはより古い時代の話なので輪をかけて推測だが、戦後の堅苦しいネタばかりだったテレビに対して、バブルの乱痴気騒ぎを背景に、下ネタを中心とした不謹慎なギャグを真正面から投入したのが、松本グループなのではないか。彼らはファーストペンギンとしてブルーオーシャンの人気をかっさらい、それを台風の目として、芸能界が、日本全体が巻き込まれていったのだと思う。
そして、視聴者として若い男性を取り込んでしまえば、同調圧力を帯びてそれはどんどん広がっていく。ファン達は徐々に芸人たちを身内だと思ってくれ、その渦が権威になっていく。権威が増えていけば、有名人や流行りが好きな若い女性もそれに乗っかる。後はテレビ局が上手くプロデュースして、「松本は笑いの天才!」って打ち出せば、それを否定できる人はいなくなる。(中田敦彦くらいだ。)わざわざ否定したって得もないし。
かくして、メディアは下ネタという産業革命を起こした「天才」芸人を中心として、同調による巨大な台風を作あげた。そして、これは芸能界全体を巻き込んで巨大な集金装置となり、権力装置となった。
この権力が暴走して、無辜の女性に牙をむいたのが今回の事件である。
同調と馴れ合いは同根である
今回の騒動で最も目についたのは、周辺の芸人やテレビコメンテーターの擁護発言と、報道に対して消極的なテレビ局の姿勢だ。皆一様に「裁判の結果が出ていないからわからない」とか「俺の知ってる松本サンがこんな事するわけない!」みたいな擁護をする。
更には、逆に週刊誌叩きが起きているのも特徴だ。松本擁護の文脈で、やけに「報道のモラル」みたいなものを上から語りたがる人らがテレビに出てくる。
今まで、政治家の汚職や企業の不正、芸能人の不倫や高校生のやらかしに対してまで、推定有罪で上から目線でご高説を垂れてきたのが芸人コメンテーター達であり、テレビ番組だったと思うのだが、どうして今回はこんなに報道に「思いやりがあふれている」のだろうか。
…これはまあ、みなまで語る必要もなく、松本をはじめとしたエコシステム全体が、自分たちの内輪だからだ。松本人志と芸人、テレビ局も、スポンサーも、同調によって一体化した内輪の一部であって、利益共同体なのである。
人間とは弱い生き物で、客観的に正しい事よりも、現状維持と自分達の利益確保をどうするか最初に考えてしまう。しかし、今回は恐らく多数の被害者の出ている社会的問題だ。知性ある人間であればどこかでそれにブレーキをかけ、公正に判断しなければならない。特に社会の木鐸たるメディアならその模範であるべきなのだ。
自分たちの上下関係が崩れたり、仲間の仕事がなくなったり、自分の目先の利益が脅かされるのなら、なれ合いを優先し、原理原則や公益性など二の次にする!なんていう報道姿勢は、自分で自分の顔に泥を塗ることだ。ジャニーズ問題に続いて今回の騒動で、日本のマスコミの顔はもう泥だらけだ。
そして、馴れ合いは、同調の延長にある。同調は思考停止して周りに合わせる事であり、馴れ合いは原則を無視して周りに便宜を図ることだ。
同調による扇動を弄んできたマスコミ業界が、問題が起きた時に反射的に馴れ合いの反応をするのは、彼ら的には非常に自然の反応なのかもしれない。
「視野狭窄の善意」と「凡庸なる悪」
また、周辺の芸人たちに目を向けると、自分の身内にのみ向けられた優しさがすごく目につく。
例えば、小沢の弟曰く「兄は自分を傷つけ、悪者にすることで、ほかの人を守ろうとしているんですよ……」とのこと。先輩思いの優しい後輩、兄思いの優しい弟で、美談のようにも見える。
松本を擁護する文脈で、東京ダイナマイトのハチミツ二郎は「芸人が裏で何やってても、あなたたちの生活何も変わらないでしょ。全員やってますよ」と言ったそうだ。(なんだそりゃ、擁護なのか?そんな事言われたら全員名前出して告発してほしいけど。)
その他、芸人がコメントを求められたら、皆「松本さんにはいつもお世話になってて~」みたいな感情論で煙に巻こうとする。
お世話になっている先輩や後輩に忠義を通すことは、困っている時に助けの手を差し伸べることは、確かに美徳だ。実際に、彼らのこれらの行動には、悪意や害意がある訳ではないと思うし、結構な割合で松本への恩義や思いやりで動いていると思う。
しかし、それが善意だったとしても、そこに潜む想像力のなさ、視野の狭さにこそ本質的な問題が潜んでいる。善意の有無ではなく、善意の狭さにこそ着目するべきだ。
彼らの優しさは徹底して身内にしか向いていない。広げたとしても、せいぜい実際に被害を告発した女性に対して、程度である。
実際は、報道されていないが心に傷を負った被害者が山の数ほどいるだろう。自分が女衒していなくても、グループの他の後輩に騙された女性もいるだろう。その女性の家族も悲しんだし、その事実を知って別れを選んだ交際相手もいるかもしれない。目の前にいないこれらの被害者は、彼らにとっては善意を注ぐ相手ではない。
これはいわば、視野狭窄の善意である。
この逆に、彼らが女性をだましていた時も、彼らには際立った悪意がなかったと思う。「先輩に頼まれたから」、「全員やってるから」、「芸能界の慣習だから」、「どうせ女性も喜んでるから」という風に言われて思考停止し、システムの歯車に徹することで、良心の呵責なく女性をたぶらかしてきたのだ。考えることを放棄した善人の悪意、これが凡庸な悪である。
目に見えるものに対して善意を注ぎ、忠義を貫いて、目に見えない相手の苦しみを見ない、考えない。「視野狭窄の善意」は、「凡庸な悪」の裏返しの構造にあるのだ。
今田耕司の「ただの飲み会がどうしてこんな事になったかわからない」…、まあわかってトボけてるのかもしれないが、そうでないのならば、この発言は想像力のなさ、視野の狭さを象徴しているだろう。
そして、視野狭窄の善意は身内だけではない。一般人の中でも松本を擁護する人は多く見受けられる。確かに、松本は今までテレビを通して楽しい時も辛い時も笑わせてくれてきた身内であり、叩かれたら味方になってあげたいという気持ちはわかる。しかし、反射で目に見える仲間に手を差し伸べる前に、その後ろにどのような構造があるのか想像力を働かせてほしい。
日本では、ともすれば「悪意がなかったのだから大目に見てやろうという」温情論がでてくる。しかし、僕はこちらにこそ真の邪悪が宿っていると思う。悪意を持った殺人鬼が殺せる人数はせいぜい数百人だ。しかし、ナチスによる殺戮システムは、国民の支持の下で600万人のユダヤ人被害者を出した。
善意によって行われる悪こそが、真の邪悪なのだ。
今回の松本人志問題は、日本人の、というよりホモ・サピエンスの持つ、「同調」と「凡庸なる悪」という、通底した二つの問題、を改めて我々の前に見せつけてくれたと考えている。
コンプライアンスとは抗がん剤である
令和はコンプライアンスの時代だ。
自由と平等という正義の元で、世界規模で自由化が進み、均一化されていく。慣習や文化は『漂白』され、色や味を失う。そんな時代である。
コンプライアンスに対して言いたいことはいろいろあるが、この唯一の良いところは、徹底的で見境いがないという事だ。高校生であれ、経営者であれ、政治家であれ、芸能界のキングであれ、見境なく同じ基準で裁かれる。
コンプライアンスは無機的で冷血だが、それ故に構造化した馴れ合いと、そこに巣くう凡庸な悪を断罪することができる。
今回の松本人志騒動は、昭和もしくはそれ以前から連綿と続く巨大な日本の悪習に対する、令和のコンプライアンスからの一針だと思う。
故に、「ただ単に松本が下品な女遊びしてた、情けない」「被害女性がかわいそうだ」という矮小な話ではなく、その後ろの松本人志、吉本興業、芸能界、テレビ、世論の動きにこそ、見つめるべき巨大な構造問題があるのだ。
我々は何を批判すべきなのか
今回の松本人志騒動において批判すべきは、松本人志個人ではない。これは、彼個人をたたいて転落する人生を笑ったところで、気持ちは晴れるのかもしれないが、社会はよくならない。
そもそも、我々は一度、ジャニーズ問題を通じて同じことを体験してきたのだ。コンプライアンスという原則に基づき、本質的な問題全体に光を当てなければ、同様の問題は永劫続くことになる。
故に、今回の問題を奇貨とし、権力への馴れ合い構造全体にこそ目を向けなければならない。コンプライアンスという原理原則をもって、関係する凡庸なる悪全てをあぶりだす必要がある。
「性暴力を図った」と告発されている、松本人志本人
松本人志のために女性を献上するシステムを構築してきたすべての芸人
このシステムを知っていたのに告発せず黙っていたすべての関係者
このようなタレントを所属させていたにも関わらず「その素行を把握できていなかった」吉本興業の経営体制
自分達の利益のために問題を矮小化しようと図った番組プロデューサー
問題が飛び火しないように口をつぐむ芸能関係者
一体となって権力構造を形成してきたテレビ局や行政機関
今まで幾度も問題発言があったにもかかわらず、まあいいだろと流してきた視聴者(僕も含め)
それぞれに、思考停止し、権力に同調してきた罪があり、反省する義務がある。
今後、吉本興業やテレビが信頼回復をするためには、問題を矮小化させようとせず、自ら大きな構造問題を調査し、明るみに出し、謝罪する姿勢が求められる。令和のコンプライアンスを語るに足ることを、その身をもって示さなければならない。
でなければ、日本の芸能界は散発的なスキャンダルに曝され続け、国民に嘲笑されるだけの道化に成り下がることだろう。


コメント
3コメント失礼いたします。
私の父もINTJなのですが、お笑い番組が嫌いなのが一緒だ・・・!になりました。
松本人志さんも今回の報道で初めて知ったくらいなのですが、珠音さんの深い洞察、勉強になりました。
埃さん
コメントありがとうございます!
同じ境遇ですね!でも松本人志をはじめて知ったのなら僕よりも隔離されてそうです笑
勉強だなんてとんでもないです。自分なりのお気持ち表明です😅
あと、就職おめでとうございます~✊
「隔離」…!そうかもしれません笑
わ〜ありがとうございます✊😊✊