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『岬の兄妹』 主観的な幸福に寄り添うこと

これ 書いてるとき 私 見たままを書いてて 馬鹿みたいって おもってた
ためしに AIに読んでもらって 直してもらったら おとなしくなった
馬鹿みたいな文が 手術されて ちゃんとなっちゃった ポイっ

ですます調の文って書かない 長さが無駄だから
でも もう 今 人間に残された価値って 無駄しかないとおもう

生きている身体から生成されたノイズを どうぞ


2025-01-03 02:48

あー、あー、スペースですね。録音が最初の方がちょっと切れちゃうような気がするんで、ここの部分が聞こえているのかどうか、ちょっとよくわかりませんが。

普段、ぜんぜん声を発していないので、今日一人で喋るということで、ちゃんと喋れるかどうか不安なんですけど。原稿の方も特にあるようなないようなってかんじで、大丈夫なのかなとちょっと心配があります。

一応、配信の方は生なので、コメントとかで質問とかをいただいたら回答できるかもしれません。よろしくお願いします。

今日ですね、年末にまず映画を見た、と。見た映画というのは『岬の兄妹』という映画でした。これがなかなかすごかったので、それについて話したいというふうに考えたわけですね。

この配信を始める前に、かなり、この時間にこういうことが起きて、こういったことを言ったっていうのを全部メモを取って、結構繰り返し何回も見たんですけれども、やっぱり不正確だったり思い違いっていうこともありますんで、ちょっとミスがあるかもしれないですけど、そういったことがあったら指摘していただいて、後でですね、またもう一回直そうとおもいます。

概要

さて、『岬の兄妹』です。
この映画の基本情報ですが、2019年の映画です。時間は1時間半で、割とコンパクトにまとまってます。

監督は片山晋三さんという方で、韓国のポン・ジュノ監督の助監督なんかを務めて、この映画『岬の兄妹』が長編初監督ということになるそうです。

なんで私がこのスペースをやろうと思ったかというと、まずは、この映画がかなりすごかったからなんですね。
結構、私、映画の評価が厳しいというか、何様だってかんじですが、あんまり深い感銘を受けることってないんですけど、この映画に関しては、本当に「ここが悪かったよね」みたいなところが見当たらなくて、真正面から感動しました。
おもしろい要素が時間内にギュウギュウに詰まってて無駄がない。綿密な伏線とかだけじゃなくて、セリフもすごいし、カメラもすごいし、演技もすごいし、ほんと5年、10年に一本というレベルの映画だ!とか興奮して、これについて語ることが目一杯ある、言いたいことがたくさんあるということで、このスペースになりました。

あともう一点は、この映画のレビューっていうのを、結構いろんなサイトで見たり、Amazonで見たり、Filmarksで見たり、noteのブログなんかを見たんですけども、なんか芯を食ったというか、ちゃんと正確にこれを理解して語ってくれてるものがなかったというのがあります。
この世界の片隅に取り残された、孤独な二人。この二人について、ちゃんと理解してあげている人がいないということを、とても寂しいとおもったんですね。それで、それについて誰かが話さなくてはいけないんじゃないか、っていう義務感がありました。私がちゃんとこの映画について話さないといけないんじゃないかって。だからこのスペースをやることにしたんですね。それがうまく話せて、聞いた人に伝わったらいいなとおもいます。

さて、そういったことでスペースを始めたんですけど、『岬の兄妹』ですね。
兄妹「けいまい」って書きますが、映画のタイトルの読み方の方は「きょうだい」のようです。

Amazonの概要の方を、まず読んでいきたいとおもいます。

また、真理子が居なくなった・・・自閉症の妹のたびたびの失踪を心配し、探し回る兄の良夫だったが、今回は夜になっても帰ってはこない。やっと帰ってきた妹だが、町の男に体を許し金銭を受け取っていたことを知り、妹をしかりつける。しかし、罪の意識を持ちつつも互いの生活のため妹へ売春の斡旋をし始める兄。このような生活を続ける中、今まで理解のしようもなかった妹の本当の喜びや悲しみに触れ、戸惑う日々を送る。そんな時、妹の心と身体にも変化が起き始めていた…。ふたりぼっちになった障碍を持つ兄妹が、犯罪に手を染めたことから人生が動きだす。

岬の兄妹 | Amazon Prime Video

と、このような概要になっています。

これを聞くと、あらやだ、兄が妹を使ってお金儲けに走ったりとか、妹が危険な目にあうんじゃないかしら、すごいこわい、恐ろしい、殴ったり、暴力だったり、殺人だったり、つらいことが起きるんじゃないかしらって思ったりするかもしれないんですけど、この映画は、きちんとした透き通った目で見れば、胸クソみたいな後味の悪い要素や、ひどいことっていうのはあまりない。いい人は、いい人のまま、きちんと、そのまま世界の中で在り続けるし、そういった倫理というものがちゃんとある、まっすぐな映画だっていうふうに私は思ってます。
たぶん最後まで聞いていただければ、なるほど、そういうことでそうなのかって分かってもらえるとおもいます。

なお、真理子役の和田光沙さんは以下のように言っています。

本当に1人でも多くの人に見てもらいたいということだけですね。女性にも、ぜひ見て欲しい。子供を産むとか産まないのを選ぶみたいな、どうやって生きるかという権利を、ちゃんと(女性も)持っているんだという主張…固く言っちゃうと、女性の権限みたいなものも描いている。受け取って、プラスの気持ちになってくれる女の人がいてくれたら、うれしいですね。

和田光沙が「岬の兄妹」で考えた、女性と障害者の性 - シネマ : 日刊スポーツ

ただ、売春をしていく話なので、この配信、セックスですとかオナニーですとか堕胎ですとか、いろいろ性的なことがたくさん出てくるんですね。ですから、そういうのを不快に思われる方は、なるべく聞かない、というのもありかもしれません。

概要の方を押さえましたが、今日、配信がすごい長いんですね。話したいことがいっぱいあるから。
まず、前見たけど忘れちゃってる人もいるだろうから、「あらすじ」でどんなことがあったっけってところを再確認します。
そして次に「詳細検討」ということで、このシーケンスでは、このシーンでは、このショットでは何があったかということを詳細に見ていく。このセリフはどういう意味だったのかということを、細かくずーっと見ていきます。
最後に、どういったポイントがあったかというのを通しで見ていって、共通要素を抜き出して「振り返り」というのを行います。
そして「まとめ」フェーズで、補足情報などを交えて、もう一回最後にですね、全体的にこの映画というのはこうだったのではないか、ということを考えて総括をしたいというふうにおもっています。
「あらすじ」、「詳細検討」、「振り返り」、「まとめ」、この流れになります。

あらすじ

それでは、まず最初に「あらすじ」を見ていきます。忘れてしまった人向けですかね。

主な登場人物は、かなり少ないです。4人しかいないんですね。
まず、兄と妹です。良夫と真理子といいいます。
そして、その兄の友達で警察官の肇くん。あと、妹と仲良くなる中村という青年です。
この4人だけです。だから、ぜんぜん分かりにくかったり混乱することはないです。シンプルです。

  • 兄 良夫

  • 妹 真理子

  • 肇くん

  • 中村

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

お話の時代は、スマホで撮影する場面があるので、比較的最近、2010年代くらいだとおもいます。でも、寂れた町や貧乏な室内の雰囲気、兄の使うパカパカ開く携帯電話などから、かなり昔の日本のようにも感じられます。

ロケ地は、神奈川県三浦市の三崎です。港があって、急な斜面や崖もあり、造船所や倉庫や油槽所なんかもあって、ちょっと寂しい地域です。ラストの岬の場面は、三浦層群という層理が縦になって海へ突き出した特徴的な地形で、やはり三崎や長井周辺で撮影されたように見受けられます。

片山:三浦半島の三崎港で撮影を行ったので、最初は「三崎の兄妹」と書いていたんです。この字をPCで作業しているときに変換ボタンを押したら「岬」が出たので、こっちのほうがいいなと。本当は、『デメニギスの夜』というタイトルにしたかったんです。でも、スタッフ全員に断れました(笑)。

『岬の兄妹』片山慎三監督、デビュー作に込めた人間の生きる力 「観る人の心を動かす作品を」|Real Sound|リアルサウンド 映画部

映画全体を通して起承転結があって、いろいろ物事が起こって、転機が訪れて、結末があるというような、割としっかりしたお話です。一つの町で1年強を掛けて撮影されていて、最初が冬で、夏になって祭りに行ったり、そして秋になって、また冬になって、1年を通じて一回転する。元に戻る、行きて帰る。夏で盛り上がって、秋でちょっとメランコリックになって冬になる、というかんじで、ちょうど起承転結の感情の起伏と季節がマッチしています。構造として美しいですね。

撮影を開始したのが今から3年前の2016年2月。季節ごとに何日かずつ撮影を重ねていき、翌年3月、1年の間に繰り広げられる兄妹の物語を撮り終えた。そこから編集にさらに1年をかける。

「助監督時代は、時間がかけられないことに常に疑問を感じていたんです。今回は自分の1本目だし、撮影にはできるだけ時間を作って、好きなようにやろうと。気に入らないところを撮り直したり、音楽を細かく修正してもらったり、一つ一つ終わらせていくと、これくらい時間がかかってしまった。

『岬の兄妹』:自主製作で映画界に殴り込む片山慎三監督 | nippon.com

さて、本題の「あらすじ」です。

兄と妹が一緒に住んでいますが、妹が家を出てしまう。兄は、それが心配で探しますが見つかりません。夜になったら妹を保護してくれた人から電話がかかってきて、引き取りに行くんですね。
「ありがとうございました」って言って家に連れて帰りますが、妹の衣服からお金が見つかって「この金どうしたんだ」ってことになります。どうも妹は性行為をして、それの代償のお金のようなんですね。それで、兄は激怒して、妹とばったんばったん大喧嘩になる。
一応、お金を貯金箱に入れて一段落する。ここまでが導入部です。
いなくなって、そして妹が結果的に売春に近いことをしてしまった、というところまでです。

次の展開は、兄が失業してしまうんですね。そして、どんどんどんどんお金が無くなって貧乏になっていく。お友達にもお金を借りようとしますが、それもうまくいかない。ゴミを漁ったりしても、とにかくお腹が減って、本当にひどい空腹になってしまう。
もうどうしようとなって、家賃も払えない。ティッシュだって食べる。そしてもうどうしようとなって、最終的に仕方がないので売春に出かけようということになります。ここまでが次の展開ですね。

兄と妹は暗い夜の町に売春に出かけるんですけれども、なかなか簡単にはうまくいかない。
その途中で町でチンピラに目をつけられてしまって、危険な思いもしますが、結果的にではありますがそのチンピラ相手に売春が成立して、お金をもらって、なんとかうまくいって急場をしのぐことができた、というのが次の流れになります。

それで、まあちょっとそのまま売春というのを続けてみるか、ということになり、老人ですとか学生ですとか、いろんなところに行って、いろんな人に妹がその売春をすると。その中で中村という青年に出会います。この中村という青年は、小人症、低身長症なわけですね。人よりも体が小さかったり、手が小さかったりする。その青年と出会って、妹は心を通わせていく、仲良くなっていきます。ここまでが次の流れですね。
途中、友達の肇くんとかに売春行為を叱られたり、病気になってお休みをしたりもしますが、中村との交流を深めて、全体的にはうまく進んでいきます。

ただ次の、起承転結の「転」の段階で大変な事態になると。
妹が妊娠していることが分かるんですね。
妊娠してしまって、これをどうしたらいいんだろうというふうに悩むことになります。その時に、中村だったら結婚してくれるんじゃないのかということで頼んでみますが、なかなかそれはうまくいかない。なので、やっぱり仕方がないということで堕ろすことになります。
仕事の方も、前のクビになった職場に戻れることになって、堕胎の件もありましたし、もう潮時なので売春もやめようということになります。最初の状態に戻るわけです。

でも、その最後の最後で、やっぱり最初と同じく妹が家を飛び出していってしまいます。また_それを探す兄。妹は見つかりますが、なぜか崖、岬の上にいるわけです。あぶないです。そして兄はそれを呼び止める。
妹はどうなってしまうんだろう、なんでこんなところにいるんだろう、死んでしまうんじゃないのか、どうしてなんだろう、というところで携帯電話が鳴って、それに出る兄。そこで映画が終わります。

この後、兄妹はどうなるのか、そして電話は誰からの電話だったのか。そういったいろいろな謎を残して、この映画は終わるわけですね。それが一つのあらすじになります。

ラストはやっぱりかなり謎ですが、先に私の見解を言っておくと、その電話というのは、たぶん売春の客からの電話なんだろうと。再度定職に就くことができたんですが、また売春に戻る、という選択肢を取るのではないのか、そういうラストなんじゃないのかなというふうにおもっています。

それが正しいのかどうなのか、合っているのかどうなのか。これは、詳細検討をしていった中でだんだんと見えてくるとおもいます。最後「なるほど、だからそういうふうにラストは解釈するのか」というふうに思ってもらえるんじゃないのかなとおもいます。

以上が、「あらすじ」の確認でした。

詳細検討

ここからは「詳細検討」を行っていきたいとおもいます。ちゃんと聞こえてるのかな、大丈夫なんだろうか。ぜんぜんもう本当に聞いてなくて、寝ていただいて大丈夫ですから。録音で聞いていただいても、聞かなくても。
まあ、映画を見たまま、そのままを、だらだらと細かく話すので、あまりおもしろくないかもしれないんですけど、おもしろかったんですよね。どっちなんだっていう。

ということで、これから詳細検討を始めますが、その中である共通した事柄というのが出てきて、それがポイントになります。

まず、「閉じてる人」「開いてる人」。自閉症ということで、真理子さんが「閉じてる人」かな?と思いがちなんですけど、いろんな「閉じてる人」と「開いてる人」「開く人」というのが出てきます。
それと同じように、この映画ですね、全般を通じて、もう開けたり閉めたり、開けたり閉めたりを繰り返す、とにかく開けて閉める映画なんですね。
また、その開けたり閉めたりを制限するものも、いろんな形で出てきて、そこも一つ見どころかとおもいます。

あともう一つのポイントは「逆転」ということです。
いろんな先入観を私たちは持っていますが、その先入観ですとか、いろんなものが逆転されていきます。「こうだと思っていたものが、実際はこうだった」というふうに裏返っていく。
これが随所に現れてくるというところも注目のポイントなのかなとおもいます。

詳細検討 「起」

ここから詳細検討なんですけど、映画を見た人じゃないと、ちょっとわかりづらいところもありそうです。なるべく伝わるように話そうとおもいますが、これを聴いた後に見てもらってもいいかもしれません。

まず、ファーストシーンです。ファーストシーンから、もうすごい。
私は映画見るとき、とにかく最初の場面で何があったかっていうことを意識して見るようにしてます。必ずメモします。
『映画の授業』という本の中で、映画『ダーティハリー』が教材として取り上げられています。
『ダーティハリー』は、ハリーが屋上に登って、十字架を発見するシーンから始まります。十字架というモチーフは、映画全編を通して登場する。その最初の場面を「そこをちゃんと見ときなさいよ」って書かれてます。視力の問題ですね。この本を読むと、映画の何を見ればいいのかということが理解できるとおもいます。ちゃんとした映画って、ファーストシーンにいろいろなものが込められています。考えられています。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

『岬の兄妹』のファーストシーン、壊れた鍵がまず映っているんですね。これもまず不穏です。
この映画、カットがすごく適切で、長いカットもあれば短いカットもあって。まずファーストシーン、すごい長いカットです。
扉に付けられた壊れた鍵が映る。そしてドアを開けて男が出てくる。足を引きずっている、その足だけが映ってる。これは何か障害がある人なのかな。次に、ちょっと貧しいかんじの家が映っていく。これ、ワンカットです。ずっとその男の後ろをカメラが追っていく。最終的に男が振り返る。ヒゲの男が出てくる。「こいつか、」ってかんじでキャラクターが初めて見える。すごい、かっこいいですよね。ぐーっとついていって、最後、男が振り返る、かっこいい。振り返るって、ラストの岬の場面もそうですが、決定的な瞬間です。やっぱり、顔、顔面の力ってすごいです。
最近見た、マックス・オフュルス監督の『たそがれの女心』なんかも、冒頭、宝石、ワードローブ、聖書、ウィッグと背景を説明するアイテムが映っていって、最後に鏡に写る顔が見えるみたいなかんじで、すごく美しかったんですが、こういう形式ってあるのかもしれませんね。

主人公は電話してます。「俺だけど、晴海町の道原です」って言います。
神奈川県三浦市の晴海町です。ロケに使われた長屋のような家々は、現在はもう取り壊されて駐車場になっているようです。
電話の先は、たぶんグループホームや障害者の方が集まる居場所「どんぐりハウス」の「ミキ先生」という人です。
「そっちに真理子行ってない?」消息を訊ねます。妹は見つからない、心配です。慌てています。

ファーストシーンの壊れた鍵。これから新しく付けられたり、また壊されりするわけですが、それがまず壊れています。この「鍵」というのは、制約ですとかルール、そういったものを象徴しています。これを壊したのは真理子なんですけれど、真理子はそういった制約とか規範を壊す存在、その外に出る存在であるということを示しています。

次、近くの海へ、港へ妹を探しに行きます。
逆光のシルエットのカット。この映画は、海岸の町だから当然なんですが、海と陸の間の場所に人が立つという場面が、すごくよく出てきます。自然と人間の間、生と死の間とか、間ですね。
船が通り過ぎ、波の音、汽笛、鳥の声が聞こえます。世界の重さと大きさを感じます。海を覗き込んだりして、死の気配があります。海って怖いですね。
海面に浮かぶ靴を見つけて、警察の友人に電話をして来てもらいます。網で掬って確認しますが、真理子さんのじゃなかった。よかったです。

その警察官の友人は、肇くんって言います。数少ない主要登場人物の一人です。
警察の帽子をかぶって、眼鏡をかけてます。この映画を通じて、眼鏡をかけてる人は、よく物が見えないところがある気がします。道徳などの制約の記号です。「閉じてる人」ですね。
また帽子という小道具が、キャラクターの社会性を視覚的に表しています。

肇くんは、妹は「居場所で、トランプでもやってるんじゃないの?」って軽く考えてます。あまり心配してない。
まっとうなところで、警察官らしく「失踪届出す?」って聞いてくれます。でも、兄は「肇くんに何がわかるんだよ」って言い返して申し出を断ってしまう。
「とりあえず失踪届出しときゃいいじゃん!」って思いますよねー。なんか、この兄っていう人は、福祉とか公共のものに頼らないんですね。社会保障、生活保護、障害年金とかに頼らない。実際にホームレスの方でも、そういう人はいらっしゃるようですが。
映画や小説って、時間を掛けて、ゆっくりとその世界に入っていく、その世界のルールを分かっていくものですよね。やっぱり、最初のあたりですし、現実世界の道徳や常識と照らし合わせて「なんだ、この兄貴は」って反発心を感じながら見てしまいます。

兄が「肇くんに何がわかるんだよ」って言う。そうすると肇くんは「何もわからないよ」って言います。
このセリフも、すごい。肇くんっていうのは、この後、最初から最後までずーっと何も分からない人なんですね。それを最初に言う、宣言するんですね。「何もわからないよ」って。
で、その後に肇くん「俺もその辺探してみるから、大丈夫だよ、大丈夫」。
道徳観もあって、すごくいい人なんだけど、基本的には無責任なんですね。親身になって、一緒に探し回ってくれたり、付き添ってくれたりはしません。

そして、兄は、本当に妹想いなんですね。めちゃくちゃ心配してる。
その後、高低差がある険しい港町を、障害がある足を引きずって探し回ります。捜索と舞台となる町の紹介を兼ねてます。走り去る子供と、不自由な主人公みたいな対比もあって、見応えがあります。

最後、見つからないまま、もう一度港の海岸に立ちます。探し始めた時は昼だったのに、もう夕暮れになっている。
この先どうなるんだろう、寂しく暗い気持ちの場面、でーんって『岬の兄妹』のタイトルが出る。
ここまでが最初のシーケンスになります。なかなか暗い始まりですね。どんよりしてる。妹がいなくなっちゃった、見つからないという導入です。


次は、妹が発見されて、そしてお金をもらってたことが分かるまでのシーケンスです。

妹が見つからず、兄は落胆して家に帰ってきます。
黄色のロープが千切れて廊下に落ちてます。妹の足に括り付けて、外から鍵を掛けて監禁してたんですね。ひどいです。でも、兄は昼間働きに行ってて、そうするしかなかったのかもしれない。
狭い家の中は汚い、乱雑に散らかりまくってます。そして、なぜか窓全体に段ボールで目張りしてある。なんか「この家やばいぞ、普通じゃないぞ」っていうのが伝わってきます。
ストーブもついているから、段ボールは防寒のためかな?と思ったりもしますが、また別の理由があるんですね。後ほども出てきます。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

そして、写真立てを見ます。お母さんと、小さい頃の兄と妹、3人の写真です。お父さんは、ずっといなかったようです。
兄は、不満げな顔で写真立てを倒します。見えなくします。兄は、いろいろな葛藤があるようです。妹を残して遠くへ行ってしまったお母さんに対してですね。

公衆電話から携帯に電話がかかってきて、港へ妹を引き取りに行きます。
停まっていた車から男が出てきて言います「釣りをしてたらさ、妹が、じーっと見てきてさ」って。ちょっと、へんですよね。
この男と妹が出会った場所って、街中ですとか、お店とかコンビニですとか、そういう適当に人がいそうな場所じゃないんですね。「釣りをしてたらさ」つまり、海岸なんですね。
男は海にいたし、妹も海に行ってたということです。ここは一つポイントになるとおもいます。妹は、なぜか海に行く癖があったんですね。ですから、やはりラストシーンでも海に向かうわけです。
こういう、細かい部分が繋がっているのがおもしろいです。

妹は、後部座席から出てきます。これもへんです。普通、車に二人で乗るとしたら助手席ですよね。
たぶん、真理子さんが助手席にいると危なかったんだとおもいます。映画の途中でも、何回もセックスをしようとして男に絡む場面がああります。
おしまいが分かりづらくて、ちょっとしつこいところがある。おとなしくして、運転を邪魔してほしくなかったから後部座席に座ってもらってたんじゃないかなと私はおもいます。細かいです。

妹が「かいせんどん、海鮮丼」って食べさせてもらったものを言って、別れ際に「また会おうね」って手を差し出します。
すごい楽しかったみたいです。嫌なことはなかった。男と女の、二人の良好な関係が伝わってきます。

そして兄と妹は、夜の町を歩いて帰っていきます。
「なんで勝手に出て行ったんだよ。3回目だぞ」って、兄は怒ってます。3回目、だから拘束のロープも鍵もあったわけですね。
そうすると、妹は、なんて返すか、「出てないよ」って言うんです。「出たよ、鍵壊しやがって」って、兄。
「出てないよ」って言い方、、違和感ありますよね。へん。ちょっと知的な障害もあって、言葉が独特なのかな?というふうに思ったりもします。
映画を見ながら思います。「出たじゃん。出たのに、なんでこの人は出てないって言うの?」って。「出たよ」って、兄と同じようにおもいますよね。でも、妹は「出てないよ」って言います。この時、妹の心の中ではどういうことが起こってたんでしょうか。

「出た」「出てない」というのは、ある領域が定まって、その制限がまず最初に作られる。その制限から出たときに、人は「出た」ということになります。
例えば、私たちが道を歩いていて、急に現れた人が自分の周囲にチョークで円を描いて、「ここから出ちゃダメだよ」って言われたとします。
でも、たぶん私たちはそれ聞いた時には、「は?何言ってんの、この人」って、歩いて出て、どっか行こうとしますよね。
その時に、人から「出たぞ」って注意されたとしても、「いや、出てないよ。そもそも自分は自由だし、何が出ただよ。お前に、制限される筋合いないよ」っていうふうに、普通思うわけじゃないですか。
つまり、「出た」「出てないよ」というやりとりは、制限する人と、その制限の有無を了解する人の主観、そこの食い違いから起きているわけですね。
障害者の人たちは、どこか制限されて当然だっていう漠然とした暗黙の理解があるから、「出たよ」って最初に思ってしまうんですね。それが、何気ないこの会話から気づかされます。反省します。

妹は、トレーナーにジャージの姿で、ちょっとおしゃれじゃありません。この映画を通じて、真理子さんのファッションは、ジャージから短パンなどへ変化していきます。それはとても意味があることなんですが、ここの場面では、まずジャージを着てます。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

家に帰る。真理子は風呂に入る。頭にうまくお湯を掛けれなかったり。お芝居がうまい。
風呂の間に、兄が服をチェックすると、お札のお金と、パンツについた体液が見つかります。お金と体、売春まがいのことがあったことを察するわけです。

兄は何があったか問い詰めますが、真理子はお金を持って逃げてしまう。「お兄ちゃん怒るよ」って、茶碗をバリンって叩き割って、もう激昂して追いかけます。
兄は、道徳や常識がある人なんですね。ふしだらなセックスや、その対価としてお金をもらうなんて、いわゆる間違ったことが許せない人なんです。最初から常識が壊れた狂った悪人のようなキャラクターでは、ぜんぜんないんです。

「なんでもらったの。真理子、お兄ちゃんに話してごらん」詰め寄っていきます。そうすると真理子は、ちょっとはしゃぎながら「ぼうけん、冒険」って言うんです。これもすごいセリフですよね。
「冒険」、外の世界へ出て外部と接続し、お金をもらってきた、と。この「冒険」は、また後ほど出てきます。

兄とお金の取り合いになる。兄が「お金返せよ」って言います。でも、真理子の金なので、「返せ」は、ちょっと違う気がしますが。妹はお金を渡しません。兄の手を噛んで抵抗します。この手を噛むのも、また後で出てきます。
兄の怒りはピークに達しちゃって、これはいけないことなんですけども、真理子さんの頭を叩いたりとか、暴力にいってしまうんですね。
ただ、兄の身になってみると、働いて帰ってきて、動かない足を引きずって探しに行って、妹は悪びれもせず浮かれていて、腕を噛まれて、そして毎日身の回りの世話などで疲れて、精神が限界になっている。そういった兄の背景を想像してみると、目の前で繰り広げられる暴力という良くないことも、なんか分かってくるものがあります。物語の中の登場人物たちは、この毎日が、ずっと続いて今日になってるわけです。

「だいたい、その金何に使うんだよ」兄は聞きます。たしかにです。その時、真理子は言います。「シゲル、シゲルに入れる」って言うんです。見ていると「今、なんて言ったの?」ってなります。シゲル???。
すると、兄が貯金箱を渡します。ダンって机に置いて。その置くときに「はい」とかじゃないんです。「シゲル」って言って置くんです。
これもすごい、いいですよね。妹が「シゲル」って呼んでるものを、兄も、きちんと同じコードで「シゲル」って言ってくれます。ちゃんと分かってる、理解してくれてる。そういうことが一つ一つが、すごく良いなあっておもいます。妹の言葉と合ってるんですね、きちんと。

「シゲルに入れる」って、その貯金箱にそっとお札を入れます。
妹はお金を頑なに渡しませんでした。すごく大事そうです。なんででしょう。お金なんてそんな使う予定ないのに。不思議です。
実は、この映画の中で、この貯金箱というアイテムは、とても大切なものを示しているんです。後々になってわかってくるんですが、こで先に言ってしまいますと、この貯金箱は、真理子の子供などを象徴しています。
真理子さんは、本当は子供に対する憧れみたいなものがあるんですね。その子供ですとか卵子のようなものを「シゲル」は表しています。
「シゲル」に、お金を入れるということは、子供に食事を与えたりですとか、子供を育てて大きくしたりすることです。そのように、非常に大切な存在なんですね、「シゲル」っていうのは。だから、妹はすごく暴れて抵抗して、お金に執着していたんですね。おもしろいです。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

風呂場の中の真理子さんを問い詰めて、逃げて、茶碗を割って、追いかけて、ケンカになって、貯金箱を置く、ここまでが1カット、長い長い一つながりになってます。ストーブなんかもあって、狭い室内で危険な撮影、すっごい迫力です。こわすぎます。ドキュメンタリーみたいな、もうほんとの本当の出来事みたいです。

ここまでで、真理子が見つかって、帰ってきて、そして大喧嘩になる、そんなシーケンスでした。


そんな波乱はあってから、続いては、困窮して追い詰められて、最終的に売春に向かう、つらいつらいシーケンスになります。

最初にまず、鍵が付け直されます。真理子の家出で壊れてしまいましたからね。
あと、足の拘束が、紐から、切れないように鎖に変更されます。チャラチャラと引きずられて、不穏です。そして兄は仕事に行く。
監禁は悪いことです。でも、変な男についていったり、妹が死んだりしないように、基本的には妹の安全を想っての行動です。道徳的には悪いけれども、他に手は無いんでしょうか、すごいむずかしいところです。道徳と倫理、最後にまた検討したいとおもいます。

真理子は倒されている写真立てを見つけ立て直します。「困ったな、お母さんどこ行ったんだろう」というような表情です。
どうも、お母さんは亡くなっている。でも、それを理解していないようです。
写真立てを倒したり直したりすることで、兄妹が、それぞれ母のことをどう思ってるのか、ここで示されます。小道具を使って、細かな演出でさらっと見せる、上手ですね。

次のシーンは、職場の造船所です。兄がクビになってしまいます。
会社はリストラを行ってて、足が悪いから真っ先にクビになるんですね。
この先どうやっていけばいいんだろう、茫然自失で海を眺めます。工場の音がカンカン鳴り響きます。無常です。
この映画では主人公が難しい問題に直面したとき、機械的な無慈悲な音が心にのしかかってくる、そんな決まりがあるようです。

兄が家に帰ってくるなり、まず、いきなりブロックで鍵を壊しちゃうんですね。これもすごい、おもしろいですよね。早い。
これからは、ずっと家にいるから、鍵なんていらねえよってことなんですかね。この行動で、兄の怒りが可視化されます。
また、このコンクリートブロック、後でまた登場しますが、このブロックの恐ろしさも、ここで印象付けられます。ごつごつして、重そうで、こわい存在です。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

そして次に、鍵を道に投げます。鍵が道路に転がって、アップのカットになる。
鍵が外れる、鍵が壊れる、つまり社会的な常識ですとか、ルールや規範というものが、これから壊れ始める、そういうことが表されています。すごく大事なカットです。

妹の鎖も外します。妹は、手を叩いたりして、なんだかすごい嬉しそうです。自由になれましたし、兄がいることも嬉しいのかもしれません。
鍵も壊れて、鎖も解かれて、どんどん制約が無くなっていく。ここから、いろいろなものが開いていきます。閉じてたものが開いていく物語です。

家は、どんどん貧乏になっていくんですけど、真理子さんは世界との接続の機会を得て、どんどん楽しくなっていく。なんか世間的な尺度からすると買春とかして不幸になっていくんですけども、真理子さんはどんどん楽しくなっていくという、不思議な逆相関になっていたりします。これは最後に考える映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と共通しています。


兄は、ポケットティッシュの内職かなんかする。そんなでは、二人の大人が生活するのは苦しいですよね。全然お金が足りません。
「1個作って1円、じゃあ100個でいくらでしょう?」「100万円!」妹は、ふざけるのが大好きです。そして、止め時が分からない。「100万円!」繰り返し言い続け、終いには兄に「違うって言ってんだろ!」って大声で叱られてしまいます。かわいそうです。でも、ずっと一緒に生活していると、うんざりしちゃうのかもしれません。
真理子のキャラクターの参考になった映画『ちづる』でも、「何人(なにじん)ですか?」「巨人、美人」のように、ダジャレを言ってふざけています。明るくって、おもしろい人です。

そして妹は、チョコパイを食べて「食べすぎるとニキビになるぞ」なんて注意されます。
妹は、すごい甘いものが好きなんですね。この映画を通じて、甘いものは、一つのキーポイントになります。チョコパイですとか、オレンジジュース、ティッシュ、プリン、スコーン、とにかくいろん甘いものが繰り返し出てきます。真理子にとって甘いものは、すごい価値があるものなんですね。その甘いものをあげる、渡すことで、真理子の大事な気持ちというものを可視化しています。

大家さんが、やって来て、ドンドン扉を叩きます。家賃か何かの催促でしょう。
外から見ても、窓にも玄関にも段ボールが貼り詰められてます。居留守を使うためですね。
扉を叩く人、開けようとする人、でも開けない人たち、「閉じてる人」です。

内職も終わっちゃったし、前借りもできない。困りました。そこで、友人の肇くんにお金を借りに行くことにします。
肇くんは夫婦で葬式に行こうとしてる。「お金貸してくんない?」「いくらよ?」「3万」「高いよー」値切ってきます。
兄は仕事をクビにしたやつらを思い出しながら「ちくしょう!あいつら、ぶっ殺してやる」なんて、暴れて揺さぶりをかけて、なんとか5000円は借りることができます。
3万円必要なのに5000円しか貸してくれない。肇くんは、本当に親身になってはくれない。ちょっと不真面目な様子の、兄を見ると、仕方ないかというかんじもちょっとしますが。

肇くんの奥さんも、兄妹を、ちょっとやっかいな人たちとおもっているようです。顔をしかめて、距離を取りたがっているように見受けられます。
奥さんは妊娠していてお腹が大きい。奥さん「もうすぐ生まれるのよ」って。
そして真理子は、その大きなお腹に興味があります。お腹に耳を当てています。真理子は、妊娠して、お腹が大きくなって、中には赤ちゃんが入ってて、子供が生まれるっていう、そういうことを分かっているんですね。そして、すごくそれに興味がある。それが示されています。
これは後の自身の妊娠や、貯金箱の「シゲル」と繋がっています。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

結局、肇くんからお金が、ちょっとしか借りれなかった。
次のシーンでは、貯金箱が割れて、真理子が号泣しています。「あらあら、大事なものを壊されちゃって、だから泣いてるのね」っていう簡単なことじゃないんですね。今まで子供として大切にしてきた「シゲル」という存在が殺されてしまった、本当に深い悲しみの中に真理子さんというのはあるわけです。だから大泣きしてる。

ここで一つポイントがあって、後でもまた振り返りたいんですけれど、妊婦さんの後に貯金箱のシーンが来る。これは後半で、貯金箱が割れた後に堕胎をするというように逆の対比の場面となって表れます。

その貯金箱の中のお金を使って、とりあえずどうにか飢えをしのいだんでしょう。
でもまた大家さんが来て、今度は電気を止められてしまう。
家の中、照明は消えるとすぐに真っ暗になりますが、電熱ストーブはちょっと熱が残っていて、完全に消えるまでに少しだけ時間がある、オレンジの光が残る。
ここはビジュアルとして、とても美しいですよね。見てて、ハッとします。こんなもの見れるんだ、こういう瞬間を見たかったんだ映画の中でって、つくづく思いました。かっこいいです。

狭い部屋で暮らす貧乏だけど親密な家族というと、やはりポン・ジュノ監督の『グエムル』や『パラサイト』を思い出します。とてもよく似た手ざわりだとおもいます。

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『グエムル 漢江の怪物』(ポン・ジュノ監督)

真っ暗なので、懐中電灯で生活することになります。ゴミを漁って、ソースを見つけて妹にあげたりします。優しい兄です。妹想いです。
家の中のゴミでは足らないので、外のゴミまで漁りに行きますが、浮浪者とゴミを奪い合いになったりして、これもまた、うまくいきません。
もう最底辺の争いです。どん底です。本当にどうしたらいいんだか分からなくなってくる。困ってくる。

家に帰ってくると、兄がトイレで唸ってる。「出ない」って。
どうも絶食ですとか断食みたいなものをすると、便意はあるけど、うんこが出ないっていうことがあるようです。つらい。

空腹の果てに妹がティッシュまで食べだして、兄も「ダメだろ、ティッシュなんて食べちゃ」って一応止めるんです。でも、妹が「甘い」って言うから「本当か?」って、兄も食べ始めちゃったりする。悲惨なコメディです。
甘いティッシュ。妹は、真理子さんは、とにかく甘いものが好きなんですね。

妹が「ご飯、7時!お母さん!お母さんは?」って言います。
お腹が減ったら、お母さんが来てくれるって思ってる。
でも、兄は「遠くに行っちゃったんだよ。だから俺が帰ってきたんだろ」って言います。

ここも、すごい悲しい。「遠くに行っちゃった」。これはたぶん、お母さんは死んでる、亡くなったんだろう。
「だから俺が帰ってきたんだろ」ってことは、それまでどこか別の場所で、働いたりなんとかしながら暮らしてたけど帰ってきたわけですね。以前は、たぶん母と妹、二人でどうにか暮らしてた。
でも母が亡くなったから家に帰ってきて、妹と二人暮らしで、言い方は良くありませんが、映画のセリフのままで言うと、面倒を見なくてはならなくなった。

障害者というのは、障害者ご自身も大変ですが、その兄弟も大変、「きょうだい児」問題というのがあります。学校の中で波及的にいろいろな苦労を強いられたり、家庭の中でもいろいろを我慢しなくてはいけなかったりする。障害者のケアと併せて、その「きょうだい」のケアも忘れてはいけない。
この兄は、「きょうだい児」なわけですね。実家に帰ってきて、自分自身の足の障害もある中で、妹のケアもしなくてはいけない。貧困、介護疲れ、限界。
兄は兄で、すごく苦労してきた人なんだろうなって、理解を寄せるのも大事なように私はおもいます。

そして妹は、「死」というものを理解しづらい人なんですね。この人は「おしまい」「終了」ってことを、すごく理解しづらい。だから、ここの場面では、まだ、お母さんがいなくなった「おしまい」を完全には分かってない。

さあ、真理子と良夫はどん底のピンチになってくる。真理子は外へ行こうとする。
「どこ行くの、真理子、どこ行くの!?」「外」「外、何しに行くの?」と兄は言う。
そうすると、真理子は「冒険」って言います。どきっとします。

真理子にとって「冒険」というのは、あの時のあれですね。つまり、男と会う、交わる、お金をもらう、そういうことですよね。誰か外部と接続する。海鮮丼食べたりですとか、セックスしたりすることができた。あれだったら道を開けるんじゃないのか、真理子は感覚的に分かっているようです。

「冒険」って、なんなんでしょう。南極大陸を目指したり、ジャングルに分け入ったり、安全な場所から、未開の外部へ移動する。価値を求めて、可能性を求めて、危険を顧みず勇気を持って行う行為。それが「冒険」とおもいます。この映画は冒険映画なんですね。
「一夏のアヴァンチュール」、ゆきずりだったりの短い恋愛をアヴァンチュールなんて言ったりしますが、あれもフランス語のaventure、つまり「冒険」から来ています。avoir une aventure(火遊び/浮気)のように、本国でも性的なニュアンスを含んで用いられたりする。真理子さんも、性的な体験、アヴァンチュールを求めてる。
「冒険」という短い言葉の中に、たくさんの意味が込められて発せられています。切実です。

ちょっと一点補足ですが、この映画の批判レビューの中で「障害者が聖人として描かれすぎではないか」というのがありました。聡明な弱者という紋切り型表現ですね。ちょっと的確な行動をしすぎている、というのは、ちょっとわかる気がします。『裸の大将』みたいなものでしょうか。まあ映画なので、多少のフィクションや誇張はあるでしょう。

さて、ここで懐中電灯が切れてしまいます。
真っ暗です。もう終わりです。懐中電灯が切れたら、さすがに家の中で生きられない。本当の真っ暗の中では暮らしていけない。おしまいです。
妹は「冒険する」って言います。そして、兄は「冒険するか」って言うんです。

電灯の明かりが消えて、ストーブのオレンジの光が消えて、懐中電灯の光も消えて、全ての希望も消えてしまった。
ゴミを漁って、ティッシュを食べて、何をやってもだめで、できることはなくって、真っ暗になって、絶望の果てに着いて。常識というものがあって、道徳があって、しっかりしていた人なのに、最後の最期、ここに至って葛藤で迷いながら、全てを諦めて「冒険するか」って言葉を発します。
安易に、ちゃらちゃら「そうだ、妹で金儲けしょうっと♪」みたいな軽い話では、全くない。追い詰められた末のギリギリの状況で、そういった選択肢が出てきてしまった。
そして、その選択肢というのは、まず妹によって提案されました。

この映画は、ここから主導権が、どんどん変わってくる。妹が物語をぐいぐい引っ張っていって、兄はそれに引きずられるようについていって、それを手助けする。主従の関係が「逆転」していくんです。
これは、最初に言った「逆転」というポイントですね。

ここまでが、貧乏になっていって、最終的に「冒険」に至るシーケンスになります。大変つらいシーケンスでした。

詳細検討 「承」前半

次です。売春というものをやってみるけど、ちょっとうまくいかないという流れです。

冒険に出かけると、すぐ次、バスに揺られる二人のカットです。3秒くらい、すごい短い。背後からちょこっと映されるだけです。
並んだ二人を正面からじっくり映して、歌舞伎の「道行き」みたいなメランコリックなカットにはなりません。
映画の中で車に揺られる二人というのは、けっこう特別な意味がありますよね。移動する閉鎖空間で並んで会話したり、ある所へ向かって二人で運命を共にして進んでいくみたいなことを表す記号として出てくる。
でも今回は、すごい湿度のないあっさりしたカットで。粋ですよね。空間やシーンの切り替えが早い。手際がいい。

二人はどこに向かったのか。高速道路のパーキングエリアみたいなところに着きます。
妹が「ふんふん」と鼻歌を歌って、「止まりません、止まりません」って言ってます。バスのアナウンスを真似てるのでしょうか。きっと、事態は始まってしまった、もう止まらないってことを言ってる気がします。前向きです。

パーキングエリア、兄は、ここでトラックの運転手に妹を売ろうとおもってます。これもおもしろいですよね。いきなり町に行ったりしない。
まず、停車中の運転手は暇があります。働いてるからお金もある、長距離トラックだからベッドもある、都合が良い条件が揃ってます。
そして、運転席はガラス張りです。先にどんな男なのかチェックできます。これは、飛田新地などの風俗街と逆パターンなんですね。
飛田新地は、よく見える所に売り手である女の人が並んでいて、客である男が歩いて品定めします。パーキングエリアは、その逆で、ガラスの中に買い手である男たちが入ってる。視覚的にも美しい。
いろいろあってパーキングエリアが選ばれています。工夫がありますよね。

トラックの運転手と交渉します。「いい娘がいるんですけど、いかがでしょう?1時間1万円で、6000円でもいい」って。運転手は、その言葉を無視して、妹をチラッと一瞥して、窓をぐーっと、電動窓を閉めてっちゃう。
最後、兄は窓ガラスにぶら下がって食い下がるけど、ドアをドーンッと開けられて、弾き飛ばされてしまう。

この最初の運転手さんっていうのは、注意深く見ると、運転席にアニメの抱き枕カバーみたいなものを置いてるんですね。おもしろい。
アニメって、対人関係とかありませんよね。会話などは不要です。その中で閉じてる。この人はちょっと「閉じてる人」なんだということが見えるように、ちらっと示されています。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

また運転手は、いくらと言われても、何も返事をしません。「いらねえよ!」とかの反応を全く示さない。そういうように、コミュニケーションも閉じてるんですね。

そして、運転手はドアをバーンって開けて、そして閉める。次に、パワーウィンドウ、窓を閉める。最後に、シャってカーテンを閉めるんですよ。これめちゃくちゃおもしろいですよね。
『悪魔のいけにえ』という映画の中で、大変恐ろしいホラー映画ですけども、人がさらわれていって、足をばたばたして抵抗するんだけど、家の奥まで運ばれていっちゃって、怪人によって扉がガシャン!って閉められます。その時点で、もうすごい「終わったー」ってかんじがする。重い扉を閉めることで、絶対的な絶望が示されるわけです。
でも、『エクソシスト3』っていう映画では、扉がガシャンって閉まった後に、面会室の小窓がもう一回ガシャンって閉められるんですよね。2回閉め。1回でショックだったなら、2回だったらもっとショックだろう、っていうのが『エクソシスト3』なんです。
そして、この『岬の兄妹』では、扉が閉まる、窓が閉まる、カーテンが閉まる。3回閉めです。絶望の可視化を、3回重ねてくる。しつこくてくだらなくて、ほんといいですよね。

このように、「閉める人」が出てきます。後でもですね、客の男ですとか、中村ですとか、いろいろな人がコミュニケーションの途中で、コミュニケーションを終了しようとして戸や窓を閉じようとします。その初出のシーンです。


最初の運転手で失敗しましたが、次、カップ焼きそばを湯切りしてる男と交渉し成立します。トラック内のベッド部分に入って、セックスが始まります。なんか生々しくて、どきどきします。
兄は、心配そうな表情で外で立って待ちます。少し涙目で、罪悪感を感じているのでしょう。

妹の服が脱がされていき、胸などを舐められたりしても、あまり嫌がる様子はありません。
でも、途中、首から下げているぬいぐるみを、ジャラジャラしたかなり大きなものなので邪魔だったんでしょう、ぬいぐるみを取ろうとすると、妹は突然に、すごい抵抗しだします。「これ、外さない」って。
取られまいと必死に抵抗して、男の腕に噛みついて、突き飛ばされてしまう。「おまえ、なにしとんねん」男が怒って、行為は途中で終了することになります。
「噛まれたやんけ!」兄は、男に怒られて、突き飛ばされて道に転がります。金も返します。こうして、最初の売春の試みは失敗に終わります。
この映画、兄はけっこうひどい目に会いますよね。天罰なのかな。視聴者感情を考えると必要なのかもしれませんが。

妹にとって、首から下げたぬいぐるみというのは、とっても大事なものなんですね。
ここで一つ押さえておきたいのが、片山監督のインタビューの中で、この映画を作るにあたって、自閉症の女性を撮ったドキュメンタリー、『ちづる』という映画が大変参考になったというふうに言っています。『ちづる』の予告編を見ると、「なるほど、こういったものが真理子のキャラクター造形に深く関わってきているんだな」というふうなことがわかります。
その『ちづる』の中でも、首から下げたぬいぐるみを非常に大事にしていた。それを参考にして、このシーンというのは組み立てられているんだよ、と言われています。
実際の自閉症の方は、何かに固執する、「こだわり行動」というのをとられたりします。「こだわり行動」の一環として、ぬいぐるみを外すことができなかったということなんでしょう。

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『ちづる』(赤﨑正和監督)

失敗して、夜の町に座り込む二人。車が行き交う音がします。
「もう帰ろうか」って、兄は言う。これは「もう死のうか」みたいな、不吉な気配を孕んでいるような気がします。帰ったら、この人たちは終わってしまいそうです。

妹は「帰らない」って言います。首を横に振ります。妹は、前

の場面でひどい目にあってるのに、これをやり通すって、はっきりと意思表示をします。「帰らない、やる」って、意識と想いがあります。
主従が逆転しています。妹が物語を主導しています。


さあ、パーキングエリアでうまくいかなかったので、兄妹は次の行動に移ります。
街中で客を見つけて売春をしよう、と。
次のシーケンスは、チンピラに会って、そしてお金をもらって、どうにかなる、貧乏を脱するというところまです。

そのまま町に立っても、また失敗するんじゃないかってことで、妹に口紅を塗ることにします。
「やる、真理子、やる」って。真理子さんは口紅にすごい興味がある、口紅を自分で塗りたがります。でも、今回は、兄が塗ります。
んーぱって唇をやって馴染ませるのも、この時点はかなりぎこちないです。このんーぱっは、後ほど、また出てきます。

その次のシーンは、スローモーションになります。オルガンかアコーディオンか何かの音楽が流れる。
この映画の中で、スローモーションってすごい少ないですね、本当に大事なところだけです。アップですとか、スローモーションですとか、大げさな表現がとっても少ない。
口紅を塗った真理子が、トイレから出ようとする。その前に一瞬だけ鏡を見る。そして、その鏡の中に、口紅を塗って美しくなった自分を、一瞬認めるんですね。自分に起こった変化に気づきます。とても美しい場面です。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

この口紅っていうのは、ラストの岬のシーンまでつながる、非常に重要な要素です。口紅を塗りたかった真理子さんというのを、ここで押さえておきたいとおもいます。口紅が、変わり始めるきっかけになっています。
またパーキングエリアの場面からですが、真理子の服装が、ジャージから短パンになっています。開放的、つまり開かれています。とにかく、なんでも見えるように、表層に可視化されます。

そのまま、スローモーションのまま、町へ繰り出して、兄は先へ行く。決意を秘めた目です。そして、妹はついて行く。ついて行く途中、パチンコ屋さんの表に飾ってある花を一輪盗みます。
兄は、その花に気がついて返しに戻る。ここまでが、スローモーションです。

花を盗む。花を盗むって、なにか女性的なものに目覚めることですね。「花を売る」「花街」花は、これから行われる売春や性の欲望を表しているとおもいます。
でも、兄は花を戻します。盗むのはいけない、反社会的なことだからです。規範から逸脱することだからです。兄は道徳的な人なんですね。
これは、この映画の、物語の大きな流れと全く一緒です。売春などで世界に接続するのですが、やっぱり良くないねって元へ戻っていく。この引き延ばされた一瞬の場面で、このテーマ全体が縮小再現されているようにおもいます。


そして、路上へ出ます。
歩いていた適当な若い男に売春の話を持ち掛けて、財布も出して成立し掛けるんですけど邪魔が入ります。
チンピラです。縄張りがありますから「こんなとこで堂々と仕事やっていいとおもってんの?」って絡んできます。兄は逃げようとしますが、「おい、待てよ!」って、後ろからキックされます。
次のカットではもう路地裏に場面が移って倒れてる。この『仮面ライダー』みたいな、シーンのワープいいですよね。無駄がない。

チンピラに腹を蹴られて、兄が苦しんでる。
「この女ってお前の女なの?」「うう、妹です」って。チンピラは「自分の妹売ってんの?こいつら、ちょーおもしれーっすよ!」って大喜びです。
このチンピラは2人組で、下っ端の若いチンピラと、兄貴分のすごいでっぷりした、ごつい悪そうなやつがいます。

「うわあ、チンピラにつかまっちゃった。こりゃひどいことになるぞ、、」って心配になりますけど、そうはならない。
次のシーンで、何が起こるか。
妹が男に馬乗りになって、すごい楽しそうなんですね。なんか恐れていたような陰惨な場面と違います。
首に掛けていたぬいぐるみも、ちゃんとありまます。チンピラは、取り上げてません。外部にある者同士、へんなことが、へんなまま、そのままに許容されてるんですね。

一方、兄は、なんかちっちゃい牢屋みたいなとこに入れられて、頭だけ出させられてる。SMの道具なのかな。
兄は妹の行為の現場を、見たくない聞きたくないから、目をつぶって、「あーあー」唸ってます。
そこを下っ端のチンピラが目をこじ開けて、「おいっ!ちゃんと見なきゃ!」って、兄に無理やり見させようとします。照明も真っ赤で、エログロいんだかおもしろいんだか、大変な状況です。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

ここもやっぱり、単なる悪趣味では全然ない、大事なシーンです。
兄が見ない、聞かない、っていうのは、これは実はたくさん出てくる「閉じてる人」の一種なんです。
聴覚と視覚を塞いでる、閉じてる。つまり、家のドアを閉めたり、窓を閉めたりするのと同じように、「まぶた」っていうのを「閉じてる人」なんですね、この兄は。それを、下っ端は開ける。この人が「開ける人」なわけです。規則を破る人、道徳を壊す人です。

妹が、セックスっていうものを、すごく楽しいと思ってる、主体的に喜んで行ってる、そういうのをちゃんと見ろよ、妹のことを、ちゃんと決めつけないで理解しろよ、ということをチンピラは兄に強いています。
でも、これは兄だけに強いてるわけじゃなくて、実は見ている人にも強いてるんですね。
ここで起こっていることを、この映画を、先入観なしにちゃんと見ろよ、って強いている。ぐいぐい眼に押し付けてくる。
なのに、映画のレビューっていうのは、ここまで「見ろよ」って言われても、「本当に妹が楽しかったのかどうか分かりませんよね」「ヤクザに犯されて、かわいそうでした」みたいな話になって、ぜんぜん見てないっていうことがあります。ほんとに。
この場面では、映画館の席に座る観客と兄が、イコールとしてダブらされています。

妹は馬乗りになって聞きます「私のこと好き?私のこと好き?」って。「気持ちいい?」って聞きます。
これ、ちょっとまた後で出てくるんですけど、こういう「質問」って、コミュニケーションが「開かれてる人」がすることですよね。相手が、どう思ってるか確認する。「閉じてる人」じゃなくて、「開かれてる人」ということですね。後でもう一回出てきます。

下っ端が兄貴に向かって「ノブさん、犯されてんじゃん」って言います。ガタイがいい太っちょのチンピラの方が、妹に犯されてるような状況、つまり逆転してるということです。
兄貴が「イク」って言って、絶頂に達してしまう。下っ端が、「ノブさん、イクの早いっすよ」って言います。妹も「イっちゃった?」って追い打ちをかける。なんか、全体的にとても平和的な時間です。
この場面では、下っ端と兄貴の関係も逆転しています。性の世界の中では、いろいろなものが平等になっていってしまうんですね。サドですね。

私たちは、普段、その、すごいたくさんの先入観を持っていますよね。
こんな怖そうな、太っちょの、チンピラみたいな男と、普通の女の子はセックスしたりするのは嫌に違いない、みたいな、ルッキズムというか、そういう失礼でひどい思い込みを最初に持ってたりする。
でも真理子は、そういう先入観や差別を持ってないんですね。みんなを平等に扱う。チンピラも、老人も、学生も、所長も警察の友人も、みんながただの人です。そして、チンピラの方もチンピラの方で、ぬいぐるみを取りあげなかったり、障害者の女の子だからってひどい扱いをしたり差別的なことを言ったりしない。すごく平等で対等な関係っていうのが、この場面にはあるとおもいます。とても美しい瞬間だとおもいます。

妹のセックスを目撃して、兄はフラッシュバックをします。
過去に妹が、ブランコに縦に跨って乗って、股間を鎖に擦り付けていた場面を思い出す。妹はちっちゃい頃から、そうやって性的快感を得ていた、性に多くの興味がある人だったんですね。
それを思い出す。目の前の状況と結びつけて、妹の性に対する前向きな姿勢を認め始めるんです。

間違ったブランコの使い方をしてる小さな妹のとこへ、お母さんが飛んできて叩いて怒ります。
そして、兄に向かって「あんた。ちゃんと面倒見なきゃダメでしょ」って言います。「面倒を見る」、昔から、世話を任されてたんですね。
性に厳格な親の元で育った子が、大人になって反動で、性に奔放になってしまう、そういう構図も、もしかしたらあるのかもしれません。

ということで、ここまでが、チンピラのシーンですね。見どころが、たくさんありました。ドキドキしました。


その次のシーンでは、一通りが終わって、二人は港にいます。向こうを船が行き交っていたりする。
ここでの会話を思い出してみます。

まず、2万円、兄がチェックします。つまり、あのチンピラは、きちんと2人分のお金を払ってるんですね。踏み倒していたら暴行ですが、きちんとお金を支払ってる。悪い無法者がひどいことをするって思い込んでた、ここにも偏見があったんだって気づきます。
でも、反転しすぎて、「チンピラだけど、実は、めちゃくちゃにいい人でした」みたいな、気持ち悪いくらいのとこまではいきません。
このチンピラの2人組というのも、ある種のグレーゾーンにいる。つまり障害者や暴力団員、境界にいる人同士の交流というのがあったということになります。

この場面は夢のような不思議な雰囲気ですよね、画面全体が真っ青で、極端な広角で撮られてて、どこか夢の中のようです。あちらからこちらへ戻ってくる途中、こちらの世界の入り口みたいなとこにいるんでしょうか。
ここで二人は会話をします。兄が「また行きたいか?今日みたいなこと、また、したいか?」って聞きます。罪悪感というか、本当に行ったことは正しかったのか、分からなくなっています。
「また、したいか?」という兄の問いに、妹は「するよ」って返します。ここ!へんですよね。ずれてる。会話がずれて、噛み合ってないですよね。「したいか」って聞かれたら、普通は「したい」「したくない」で答えますよね。
でも、なぜか「するよ」って回答するんですね。
不思議ですよね。なんでだろう。「するよ」ってどういうことなんだろう。

まず、その「するよ」っていうのは、「したいか、したくないかは関係ない。お金のためには仕方ない。私たちのためにするよ」、その「するよ」なのか。違いますよね。すごい楽しそうだった。それをきちんと目を開けて見させられた人は「そういうかんじでもなかったよな、」って、なるとおもいます。

じゃあ他の回答として、「したい」「したくない」がある。したくないことはなさそうなので、妹が仮に「したい」って答えたとする。「したい」ってなったら、かなりこの映画の見方は一つに定まりますよね。「妹がしたいから、じゃあやるんだ」みたいに、確実に兄の行動は従属的になって迷いがなくなる。妹が「したい」っていうから、それを手伝ってるんだって、簡単になっちゃう。
でも、そうはならないんですね。「したい」とは答えない。「するよ」って言う。かなり謎がある答えだとおもいます。

ここで最初の方にあったやりとりを、もう一回思い出してみます。「出たじゃないか」「出てないよ」っていうやりとり、ありましたね。この会話も、あれと同じなんですね。
「したい」か「したくない」か。したかったら/やるよ、したくなかったら/やらないよ、というふうに、「意思」と「行動」というように2つに分けて考えられます。
兄は「したいか?」って妹の「意思」を訊ねて、兄が妹の「行動」までもを決定しようとしてる。でもそれって、ちょっと傲慢ですよね。
真理子さんは、そこを避けてる。「私の意志も行動も、私のものだ。したいか/したくないかじゃない、私が、するか/しないかを決めるんだ」って言っているように、私は、おもいます。
この短い会話の「するよ」に、真理子さんの主体性が、よく表れているとおもいます。

介助者が、障害者の方の意思を確認し「したかったら、やってあげよう」「したくなかったら、やめてあげよう」みたいな。これは、保護の視点とおもいます。基本的には優しく温かな眼差しです。その人の意思を尊重して、手伝ってあげる、守ってあげる、ケアしてあげる。うーん、あげるって。
でも、ときとしてそれが制約や制限になったりもする。保護と自由の兼ね合い、この難しいテーマに繋がっていて、最終的に映画を見終わった後「じゃあ、どうすればよかったのか?」という問いに答える際に、再度直面することになるんではないしょうか。

あと、空を飛行機が飛んでいきます。向こうを船が、空をヘリコプターが通り過ぎていきます。クビになったときの工場の音と同じですね。


さて、兄妹は2万円を手に入れて、マクドナルドを食べます。久しぶりのごちそうです、がつがついきます。
見上げると電球が点いてます。昼なのに目張りがしてあって暗いからですね。
兄は、その段ボールの目張りを、バリバリバリって剥がします。妹も立ち上がって、一緒になって手伝います。
妹は、周囲に応じて、ちゃんと自分の行動を選択するんですね。無視して、一人で食べ続けたりしない。周囲の環境に開かれているんですね。一緒になって作業します。

真っ暗だった部屋に、もう白トビするくらい明るい光が充満します。妹が「明るいね!」って言います。ほんとそう。すごい明るいね。気持ちが明るいから、部屋も明るくなる。この簡単な表現、いいですよね。

お腹もいっぱいになったし、部屋も明るくなった。事態が好転しています。真理子さんは、にこにこすごい嬉しそうです。
鍵も開いて、目張りも開いて、世界に接続して、いろんなことが実際に開かれました。

ここまでが起承転結の「承」の前半です。売春というのが成立して、うまくいって、お金を手に入れて、とりあえずよかった。そして妹も「するよ」って言ってるから、またやってみようか、というところまでです。

いやー、大変です。ここまでで、1時間40分。見積もり立てて、結構かかるだろうと思いましたけど。続けていきます。

詳細検討 「承」後半

続いては、老人のお客さんのシーケンスです。

まず最初に、花束を持って歩く老人。その花束は、亡くなった奥さんの仏壇に供えるんですね。心づかいができる人です。
一人の食事。寂しいですよね。そこにピンクチラシが置いてある。兄妹は、路上ではなく、チラシで売春の客を探そうってことになったんでしょうね。

この老人は一人暮らしをしている。誰とも社会の接点を持たない人、つまり「閉じている人」ですね。
そして仏壇の中に、おばあさんがいる。死んでいる人は、コミュニケーションがありませんので、やっぱり「閉じている人」です。そして、その仏壇の窓も開いたり閉じたりする。

で、兄の電話が鳴って、老人から注文が入ります。
じゃあ真理子さんの、おしゃれ、服をどうしようか。洋服をいくつか取り出して、「どっちにする?」って妹に聞きます。兄も、ちゃんとコミュニケーションが取れてます。妹の気持ちを聞くんですね。勝手に着せない。
ファッションって、他人、他者がいるからファッションがあるんですよね。もしいなかったら、ずっとジャージでいい。社会性を得ていくにつれて、ファッションも変わっていきます。

次のシーンは、おじいさんの家の前です。おじいさんが外の扉を開きます。おじいさんは扉を開く、シャットアウトしない、「開く人」ですね。
次に、兄が帽子を脱ぎます。これまで帽子は被っていなかったので、妹に合わせて、兄もファッションを気にし始めているようです。帽子も、社会性や外面的なキャラクターを表すアイテムです。
断られないように、まずお金をもらってから、妹が後ろから「こんばんは」って、ひょこっと出てきます。老人も、真理子を見て、少しおや?っておもったかもしれませんが、そのまま家の中へ移ります。

次、室内のシーン。とてもいいシーンです。妹が部屋の中にいます。
向こうから、おじいさんがオレンジジュースを持ってやってきて妹に渡します。
妹はちょっと飲んで、おじいさんに返します。
おじいさんもちょっと飲んで、残りを片付けに行こうとしますが、妹はそれを引き止めて、残りのジュースを飲み干します。
このシーン、たったこれだけの、オレンジジュースのやりとりですが、すごいおもしろい。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

妹は、甘いものが大好きだから、全部、実は最初にもらったときにグイッと飲みたいんですね。
でも、分け合うことが身に付いてる。優しいんですね。だから「もう充分です」って返したわけじゃなくて、「おじいさんも飲みなよ」という意味で渡してるだけなんですね。最後に飲み干していることから、それが分かります。

おじいさんも、渡されたので、しかたなく一口飲みます。
ここも実はすごい興味深い。このおじいさんは糖尿病なんですね。女の子が家に来るということで、わざわざジュースを買って用意してる。日常的にジュースなんて飲んでないけど、付き合いだからって一口飲むんですね。
このオレンジジュースのやりとりで、この二人がすごく優しい人物で、喜びを分け合える人物だということが伝わってきます。
これが引きのワンカットで、長回しで、さらっと流れていく。「ここを見て!」「ここ大事ですよ!」って、コップや手がアップになったりしない。自制が効いてます。
小説や映画の中では、物やお金のやりとりで、人と人とのコミュニケーションを表すことってよくあります。本来見えないものを見えるようにする。ここでは、オレンジジュースのやりとりで、人の優しさを可視化しています。

妹は、おじいさんの服をどんどん脱がせていきます。
途中で、仏壇を開けようとするんですね。妹は「開ける人」だから、何でもかんでも、とにかく開けようとするんですね。
おじいさんは閉めます。妹は「誰これ?」って言うけど、おじいさんは「いいじゃん、誰でも」って言います。奥さんへの後ろめたさですよね。
開けようとする人、閉める人。開ける、閉めるというのが、ここでも行われてます。

服を脱いでいく途中で、妹はおじいさんの股間を触って「フニャフニャ」って言って笑います。そこで、おじいさんは、「糖尿病なんだから」「年は多いし」って言う。
この2点ですね。おじいさんは糖尿病で高齢で、勃起不全で、セックスは基本的にできないんですね。
だから、はじめからおじいさんは、セックスをしたいわけじゃない。そういうことが、さらっとした会話の中に含まれています。
おじいさんは、する気がありませんから、パンツを脱がされそうになると「もういい、もういい」って止めるわけです。

さて、もう一個押さえておきたいポイントは、服を脱ぐということが、「開ける」の変形表現だということですね。服を脱いでいく、何かが心が開かれていく。ここでもまた、開いていっているんだということです。この形は、また後ほど再び現れます。

そして、性行為の場面。おじいさんはセックスができませんから、妹の性器を一方的に舐めてあげます。妹は、喜んでるようです。
これも逆転ですね。妹が奉仕するのかと思いきや、おじいさんが奉仕している。奉仕する側とされる側が、逆転しているわけです。
誰とも接点を持たない孤独な毎日。誰かに奉仕して、喜んでもらえる、人を喜ばせる、それだけで嬉しいことなんでしょう。変形された承認を得られたのだとおもいます。

閉まっている仏壇がアップになります。「閉じている人」です。おもしろいですよね。死人というのは、ある種の引きこもりだとおもいます。仏壇に引きこもってる。閉じてる=見えてない、見えない人ということですね。

客先から帰るとき、妹は第一声で「あ、カナブン」って。すごいセリフ。浮かれてます。


次のシーンでは、おじいさんにもらったんでしょう、貯金箱にお金を入れます。妹は嬉しそうです。なんでかというと、貯金箱は子供であって、そこに命を吹き込むことだからです。
兄は、それを温かい眼差しで見つめてます。そして、ポケットから小銭を出して、「これも入れなよ」みたいなかんじであげるんですね。こういうところも、すごい優しい。
残ったお金っていうのは、君が稼いだ君の金なんだから、ちゃんと「これも入れなよ」って渡しています。心配りのある優しいやりとりだなっておもいます。

一回は割れてしまった子供「シゲル」が、もう一回育っていくわけですね。死んでしまったものが生き返り、再び活力を得ていく、そういうことが、この貯金箱を見て分かります。
ここまででが、老人のシーケンスです。ひどい目に遭わなくて、やっぱりまた、閉じていた人に温もりを運んで、お互いに幸福を、承認を分け合ったということで、ひとつ良いシーンだったなというふうにおもいます。


次は、チラシ配りのシーンです。
妹が、家々のポストにチラシを入れていきます。もうちょっと手広くやろうとしてるんでしょうかね。妹はもうノリノリです。兄は後からどうにかして、足を引きずってついていきます。
「真理子、もう休憩しよう。疲れた」って兄が言います。妹は「休憩しない」って、ぐいぐい行っちゃいます。
もう、主従が「逆転」してるんですね。とにかく妹にすごくついていく兄の話ですね。

妹の格好は、短パンにコートです。ジャージじゃない。もうですから、開かれてます、開放的で、すごく仕事にやる気になってる。最初みたいな引きこもり状態を脱してるわけですね。活動的になって、社会性を獲得してる。生き返っているわけです。だから、すごい楽しいわけです。ですから、短パン+コートです。

終いには、妹は高いところからチラシをバラ撒いて、そして海沿いの低い町にチラシが舞い広がっていきます。
高所からチラシが撒かれる、何かが解き放たれる、空に向かって遠くに向かってわーって広がっていくそんなイメージです。後々に現れる、飛び立っていく鳩のイメージとも重なるところがあります。
結果的に、チラシが風に運ばれて、警察官の肇くんに渡ってしまうことになるのですが。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

次は、いろいろな客を経て、最終的に中村に出会うというシーケンスです。

まずは、化粧品から始まります。ちょっと品数があるんで、たぶん、お母さんの形見かもしれませんね。
口紅は以前に使いましたが、今回は頬紅が足されてます。頬紅を塗っていきます。
次、口紅を馴染ませる「んーっぱ」が上手くなっています。これ、最後の岬のシーンと繋がるので、非常に重要ですね。化粧というものに慣れてる、真理子さん自身でもできるかもしれないくらいに。
そして自分の顔を見つめる。一番最初に口紅を塗ったときと同じですね。自分自身の美しさというものを、発見していく気づいていきます。

先ほども売春の前に服を着替えましたが、今回も準備として口紅、化粧をします。これはセットになっています。社会性ですとか、客観性ですとか、外部から見られた自分を意識するということです。

片山監督は『さがす』のラストシーンで、イ・チャンドン監督の『ポエトリー』からバドミントンをする二人を卓球に形を変えて引用していましたが、ここでも同じくイ・チャンドン監督の『オアシス』から口紅を塗る障害者の女性を引用しています。
『オアシス』も『岬の兄妹』も、共に、障害者の方の抱える性や恋愛の悩みを扱っている作品ということで類似性が高く、参考になる映画だとおもいます。どちらも素晴らしい映画です。

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『オアシス』(イ・チャンドン監督)

次の、お客さんの所へ赴くと、ちょっと一癖ありそうな、めんどくさそうな若い男性なんですね。
男は扉のところに立って「チェンジで、別な子にして」って言う。扉を閉じようとする。トラックの運転手と同じですね。
妹を見て、「こんなん連れてきたらあかんで」って、偉そうに説教みたいなことを言う。「こんなの」って、人を物扱いで、なかなかに失礼な態度です。
兄は、「うっせーよ」って小声で言います。これ、あれですよね、「君みたいな年齢の子が、こんなことしてちゃダメだぞ」って売春のときにおじさんが説教して、結局セックスするみたいなかんじで、悪いことしてるのに、そこだけ偽善や道徳なのかよみたいで、本当に「うるせえよ」の気持ちでしょう。
妹は「チェンジやだ」って、やる気があります。「チェンジ」って、その人を前にはっきりと否定する残酷な言葉、ひどいことです。

その男も、なんだかんだ言ってたけど結局するんですね。
ここから、男と真理子のセックスのシーンなんですけど、すごい映像表現です。
男の顔、真理子の姿、男の姿と、カメラがパンをしていくたびに、客が1人目、2人目、3人目と入れ替わっていきます。いろんな客をとった、時間が経過した、日々が流れたということが、カットが切り替わらずワンカットの中で表されます。夜から始まって、カーテンも開いて、明るくなって朝になってる。すごい魔術的で、美しいカットだとおもいます。
イ・チャンドン監督『オアシス』の空想と現実が滑らかに接続される場面や、大九明子監督『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』の現在と過去が一つの空間に共存する場面、溝口健二監督『雨月物語』の廃屋が暖かな囲炉裏に変わる場面、いろいろな美しい映画たちを思い出します。
最終的に、下になっている男に画面が移り、それが小人症、低身長症の中村です。
最初、真理子が上に乗ってるから分からないんだけど、その次に遅れて、ああ低身長症の人だったんだって分かる。そこも工夫されていて、意外で裏切られます。

チンピラとセックスした時に、妹は「気持ちいい?」って聞いていました。ここも、よく考えるとおもしろいので、しっかりと押さえておきたい。
セックスについて考えます。まず最初に、無言でただ一人で黙々と気持ちよがってるパターンがある。次に「気持ちいいよ」って、自分の気持ち、自分がどう思ってるかを伝えるパターンがある。最後に相手に「気持ちいい?」って聞くパターンがある。この場面は、この最後のパターンなんですね。「気持ちいい?」って、真理子は聞いています。
それに対して最初の男は、恍惚とした、ぼーっとした顔をしてて、どう思ってるのかよく分からない。結局、この男は、初めに扉を閉じようとしたのと同じように、自分の快楽に閉じこもっている人、つまり「閉じている人」なんですね。
途中でメガネの男に変わりますが、「終わった?」って真理子が聞いても、「うるさいよ」みたいなかんじで完全に閉じてる。
それに対して妹は、閉じてません。ちゃんと相手に対して質問できる、すごく「開いてる人」なんですね。自閉症って言っても、この人は、ぜんぜん閉じてない。そういうことが分かります。
セックスって、テクニックだったり快楽だったりよりも先に、心の通い合いが、すごい大切ですよね。今、この人はどういうかんじなんだろう、どう思ってるんだろう、こうしたいのかな、楽しいとおもってるってちゃんと伝わってるかな、そんなことをお互いに確認し合って、コミュニケーションを確立させるっていうのが、セックスの中で最も大事なことだとおもいます。そのためにする、それ以外にする意味ないくらいコミュニケーションが重要なんじゃないでしょうか。

夜から昼に変わっていって、最終的に主要登場人物の中村に代わっています。大事なシーンです。
中村にも、やっぱり同じように真理子は「気持ちいい?」って聞きます。そうすると中村は、「気持ちいいよ」って、ちゃんと返すんですね。コミュニケーションが成立してる。
真理子は「私のこと好き?」って聞きます。これはチンピラにも聞いていましたね。「私のこと好き?」って、中村は「好きだよ」って答えます。きちんと、コミュニケーションが取れてて、会話が成り立ってます。
ただ、これは、たぶん嘘なんじゃないかなっておもうんですよ。最初に会ってちょっとセックスしただけで、「好き」って、たぶんならない。ただ流れの中で、社交辞令として「好きだよって」って答えた、それだけなんじゃないかなってかんじがします。
これはなぜかというと、中村はまたもう一回嘘をつくからですね。これが一回目の嘘になります。これについては、また後で考えましょう。

中村と真理子は、仰向けで二人で寝転がってお話ししています。かわいいですね。仲良しです。
妹が、「手ちっちゃいね」なんて言って、ちょっと差別っぽいことを言います。でも中村は、「うっせえなー」なんて笑って言って、全然それを嫌と思ってなさそうです。
真理子は、先入観なく、子供のように、純粋にただ見たままのことを言ってる。緊張がない、リラックスした、フラットな人間関係がここに在るとおもいます。
障害については触れないのが最善であるという常識、その外にいる人、それが「開いている人」である真理子なんだとおもいます。
結局、差別って、その人同士の関係によって決定されるんですね。その言葉自体が、いつでもどこでも絶対的に悪いわけじゃなくて、その人との関係性に応じて、その時、それが差別になるか、悪になるかどうかが変わってくるんだとおもいます。正しさが、相対的なんですね。
売春も同じです。道徳的には悪いことなんですが、状況や経緯に応じて、ときに、それが仕方がないとされることもあるのかもしれない。悩ましいです。
この配信の最後で、相対と絶対、道徳と倫理ということを、もう一回検討したいとおもいます。この場面の中では、「手ちっちゃいね」が「悪」ではないようだということです。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

部屋の窓には新聞紙がびっしりと貼り詰められていて、おかしな様子です。レースカーテンはあるのにです。兄妹の家が、段ボールで目張りをしていたのと同じかんじです。
この中村という人は、どうも極度に外を恐れているんですね。

そこから話は続きます。中村が独白します。
「俺さ、お母さんのお腹の中にいるときね、『出たくない、出たくない』って暴れたらさ、足から出てきちゃったんだよね。だったらさ、そのまま暴れ続けてさ、お腹の中に居続けてやればよかったと思ってるよ」。
生まれてこなければよかったと思ってる。中村は、この社会で生きていくことの辛さに直面し、ずっと家にいる引きこもり状態にある人なんですね。鬱々とした気持ちを抱えて部屋に留まり続けている「閉じている人」なんです。
子宮の中で「出たくない、出たくない」と暴れていた赤子、今もそのままの心でいる人物だと分かります。
この子宮の比喩は、後の堕胎のシーンにつながります。

兄がピンポンして、妹を連れ戻しにやって来ます。
でも、誰も出てこないので、兄がドアを開けて室内を覗き見ます。これもおもしろいですよね。
ドアに鍵がかかってないんですよね。なんでかっていうと、妹が「開く人」だからです。
妹が、「開く人」が来てる時は、家が「開いてる」ってことです。なぜか開いてますが、それは意味があって開いてるんですね。

妹が「もう一回する、もう一回する」って駄々をこねてます
中村と妹のやりとりです。「もう終わり」「終わらない」「終わりだよ、帰って」「終わらない」。
真理子は、「終わり」「おしまい」が分からない。なかなか認めません。

部屋に入ってきた兄を見て「ほら、迎えが来たよ。連れて帰ってください」って言う。
ここも逆転ですね。さっきは奉仕の逆転がありましたが、同じように、セックスをしたがってるのは実際は妹で、中村は、もう消極的になっているという逆転ですね。
この様子を見ると、最初に車で送ってきた男性が、後部座席に真理子を座らせていたのが、なんとなくわかる気がします。

「お兄ちゃん、バイバイ!」叩き返そうと暴れる真理子に、兄は苦労して服を着せて、引っ張ります。大変です。
「真理子、プリン買ってあげよう」「プリン、食べる」食べ物で釣って、なんとか家の外へ連れ出します。
これも後々のシーンにつながります。この時点では、妹の中では、プリンよりも中村の方が下なんです。プリンが勝つんですね。
次に出てくる時は、プリンよりも、中村の方が価値を持っています。甘いものとの比較で、中村の価値の変化が分かります。

真理子は「またね」って言って、中村のことが、かなり気に入ったようです。
足を引きずって出ていく兄。それを見る中村。「あの兄も障害があるんだな」ということを中村は確認します。これは後々、障害者同士、妊娠の責任の行方と解決策を巡る議論と関わってくるのかもしれません。


兄妹は、電柱が並ぶ道を歩いて帰っていきます。この場所は、後でまた中村の家から帰るときに通ることになります。
蜃気楼が立ち上っていて、かなり暖かい季節になっているようです。

真理子は中村を思い出し「小人」とか言う。そうすると、兄が「そういうこと言っちゃダメ、お客さん」って、たしなめます。兄は、常識や道徳がある、ちゃんとした人なんですね。
真理子が「ちんちん、大人」って言います。ふざけるのが好きなんですね。しょうがない人です。とても楽しかったようで、はしゃいでます。

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『岬の兄妹』(片山慎三監督)

兄の携帯に電話が掛かってきますが、すぐ切れます。肇くんです。兄妹のピンクチラシを発見して、警察署内から番号確認で掛けたんですね。これは、なんかまずいことになりそうです。

ここまででいろんなお客さんを取り、中村に出会うまでの話でした。


続いて肇くんのシーンです。ここも、おもしろいですよね。肇くんが家に行きます。何のためか。

怒ってるんですよ。あのバラ撒かれたチラシを肇くんがどこかで拾ったか、警察に持ってこられたかで入手して。どうも良夫が、真理子さんを使って、売春してお金を稼いでるんじゃないかって、疑ってます。チラシに電話して良夫が出たわけですから、まあ間違いないですよね。

肇くんは、家に来て、まず最初にお母さんと兄妹の3人の写真を見て、次にぽーっとしてる真理子さんを見比べます。「ああ大変だなあ」みたいに、眉間に皺を寄せて見ます。なんか人を見る目じゃない、物を見る目です。ため息をつく、やれやれ。

良夫がお茶を持ってきて、軽いかんじで「肇くん、何の用?」って渡すんですが、肇くんは「ちゃんとコップ洗ってんのかよ」みたいに汚いものとして見て、飲まずにタンスに置くんです。
結局肇くんって、ものすごい差別意識がこの兄妹に対してある。「こいつらの汚い家に来た」って気持ちが、ありありと見て取れる。
一応「お前らのことが心配で来たんだよ」って言います。形式的な人です。

「マリちゃんに相手させてるんじゃないだろうな?」って言います。売春のことですね。「相手をさせる」っていう表現。本人の意思が存在しないか、存在しても嫌に違いないという決めつけからくる、悪と決めつけた表現。
「今すぐやめろ!」って肇くんは、めちゃくちゃ怒ります。「肇くんの言う通りだ。売春なんて悪いことやめた方がいいに違いない」って、良識がある見ている人は思ったりもするかもしれない。でも、兄は「だって真理子だって嬉しがってんだもん」って言うんです。
「嬉しがってるわけねえだろ!」って肇くんの怒りが加速する。でも、ここまで正確に見ていれば、真理子さんが嬉しがってる楽しんでいるということは分かるとおもいます。
「分かってんだろ、お前がやってるのは違法なの! 犯罪!」って詰め寄る。肇くんは警察官ですから、全力で正義や道徳で殴りつけてきます。

兄は真理子に「このおじさんとお仕事して!」って言います。妹を友人とセックスさせようとする。真理子さんも肇くんのズボンに手を当てて、お仕事しようとする。肇くんは「するわけねえだろ」とかなじゃなく、「しなくていいよ」って、なんかちょっと断り方が弱い気がするのがおかしい。
ちょっとひどい状況ですが、これは、ちゃんと肇くんに、妹の本当の姿を見てもらいたい、自分たちの置かれている境遇を理解してもらいたい、そんな気持ちからからです。もうこの時点では妹が成り行きを主導している、その状況を分かってほしいと、兄は思う。でも、うまくいくはずがない。

肇くん「何させてんだよ、おまえは!妹だろ!!」、兄「お前みたいなやつをな、偽善者って言うんだよ。黙って金貸せ!」。「同情するなら金をくれ」みたいなセリフ。
肇くんという人は、こんなに正義を振りかざすのにお金は貸さない。親身にならない。一定の距離を保って自分事にしない。
こういうことって世間の中でもたくさんありますよね。いろんな社会正義みたいなのを振りかざすけど、自分では責任を取らない。

最後、肇くんは「お前、それでも人間か!!」って、兄を殴って帰っていきます。妹は「痛いね」って言ってくれる。こんなやり取りです。

一番最初のシーン、捜索している時の会話を思い出します。「肇くんに何が分かるんだよ」「何も分からないよ」って。その通りです。肇くんは何も分からないです。「どういうことになってるの?どうしてそういうことをやっているの?俺に何ができる?」というように話を聞いてくれない、分かろうと近寄ってくれない。本当に苦しんでいる二人、複雑な状況に置かれている二人、これを見てくれない。ただ正義で殴って帰っていく。それが肇くんだとおもいます。

片山監督の言うように、逮捕してあげる、本気で止めてあげるのも、ひとつの優しさなのかもしれません。

それは“最も悪い人物”が、良夫の友人であり警察官の溝口肇(北山雅康)なのではないかということ。「良夫と真理子を助けられるのは彼しかいないんですが、お金を貸すことはあっても、彼らを行政に委ねたり、逮捕したりはしない。ある種面倒は見ているが“一線は越えていない”。肇を見て共感できる人は、今の日本を代表するメンタリティを持っている気がします」

予想外の経歴! 片山慎三監督作「岬の兄妹」を生き抜いた松浦祐也&和田光沙とは何者か : 映画ニュース - 映画.com

次は3人目の客、老人がいて、中村がいて、次、重要な客の「学生」が出てきます。中学生か、もしかしたら高校生かもしれません。この客のシーケンスです。

このシーケンス、ひどい場面、学生同士のいじめから始まります。水のないプール、一人の男子学生が正座をして、3人の男子が取り囲んでます。
「早く言えよ、オイっ!」って、ほっぺたをビンタして眼鏡が飛びます。めちゃくちゃ画面がちっちゃいから分かりづらいんですけど。
眼鏡が飛ぶというのは、これからこの男子の常識がなくなる、世界の扉が開かれるということを暗示しているおもいます。

いじめっ子たちは、動画なんか撮影して、今どきです、無理やり恥ずかしいセリフを言わせて記録して拡散しようとしています。
いじめられてる学生が「ミカちゃんにオナニーさせてもらってます」って言わされます。
ひどいいじめです、けど、なんかへんですよね。「オラオラ、ここでオナニーしろ」とかじゃなくて、「オナニーさせてもらってますって言え」っていうようないじめです。

オナニーって、自閉、自己充足ですよね。
セックスは他者があって、二人の間にコミュニケーションがあって成り立つものですが、オナニーは一人で完結している。ある種の精神的な引きこもりです。
この人は、まず眼鏡とオナニーで「閉じてる人」だということが、これがセリフと画面で提示されます。でも、真理子と出会うことによって開かれるというような流れになります。

で、「おーい、おもしれえもん見つけたんだけど!」って、兄妹のピンクチラシを持って別の学生がプールサイドを走ってきます。どうもなんかもくもくと嫌な予感がしてきます。

一方その頃、兄と妹、兄妹は、海の岩場にいます。
妹が水に飛び込んで泳いでる。なんだか夢みたいな場面、人魚みたいで幻想的な姿です。緑色の水、シャツ、パンツ、美しいです。
「水」って、映画の中で非常に重要な記号ですよね。水を飲んだり、雨に打たれたり、感情が大きく揺れ動いたり、表に表れたりするときに登場します。
またユング派の夢分析では水、海というのは、意識の境界水準を測るために使われます。水の中にいる真理子は、境界より深い位置にいる、無意識的の力が強い人なんだろうと見て取れます。
また、「水」は三途の川や送り火、精霊流しなど「死」のイメージもあります。最後のシーンで崖に至るわけですが、ここでこの人は水に飛び込む人なんだ、「死」に近い人なんだということが分かります。

岩場でプリンを食べてる兄の携帯電話が鳴り、学生たちからの注文の呼び出しが入ります。兄妹は学校へ赴く。
どうも、いじめられてる学生とセックスをさせようとしているんですね。
いじめっ子たちは金網越しに遠くから妹を見て、「きっつ」とか差別的なことを言う。ほんと最低なやつらです。

いじめられっ子の学生と、兄の交渉が始まります。
「君いくつ?」って年齢を聞きます。何歳かは、よく聞き取れませんでした、規制のあれこれもありますから。「まあいいや。学割とか聞かないよ」って言います。ここ、「学割とか聞かないよ」はインタビューの中ではアドリブだというふに記されてますが、すごい自然ですよね。
学生だから安いとか、大人だから高いとか、年齢で差別しない。同じ値段です。性の前では皆が平等です。サドですね。

学生が「こういうこと、初めてなんです」って言います。そうすると兄が「誰にでも初めてのことはあるよ」なんて、ちょっと人生の先輩面で言います。
学生が1万円を払いますが、全部千円札のようです。細かい。学生だったら1万円札持ってない可能性高いですからね。いじめっ子も金を出して集めた、みんなの金かもしれません。

体育倉庫?みたいな場所に妹と学生は移動します。学生は、おどおどしてて立ちすくんでるんですが、真理子の方からシャツを脱がせようとし、キスしてあげます。
老人の時と一緒ですね。真理子の方が開いてあげるんですね。彼女は「閉じてる人」を開いて、開放する人だからですね。

兄が、妹を待ってる間に事件が起こります。いじめっ子たちが寄ってたかって、兄から金を巻き上げようとするんですね。ピンチです。
でも脱糞して、うんこをなすりつけて、いじめっ子たちを追い返し、なんとかピンチを切り抜けます。野生の猿みたいです。非力な兄は、それぐらいしか手段がありません。

学生と真理子が、事を終えて戻ってきます。
その時に、学生はシャツのボタンを開いたまま帰ってきます。中村の家が開いていたのと一緒ですね。この人は真理子によって閉じていたものが開かれたんだということが視覚的に分かります。

『岬の兄妹』(片山慎三監督)

兄が「どうだった? 学生さん」って感想を聞きます。学生は、なんて答えるか「気持ちよかったです」とかじゃないんですね。
学生は「海の匂いがしました」って言います。これも素晴らしいですよね!
この一つ前のシーンで真理子は海を泳いでて、やっぱりその後にセックスしたら、きっと海の匂いがするだろうなって。「うわーっそこと繋がるんだ、すごいセリフ!」ってなります。

その後に「生きてるといいこともあるんですね」って言います。
この人は最初、オナニーでいじめられて、閉じてて、大変な悲惨な位置にいた。「もう生きていても何もいいことがない」絶望の淵にいた。死の寸前のような、ぎりぎりの場所にいたのかもしれない。
でも、それを知ったから今後生きていけるかもしれないというような重要な喜びを真理子が与えた、生きる希望みたいなものを真理子が与えたという大事な場面とおもいます。心温まる場面です。

以上が、学生の客のシーケンスです。
真理子さんはのほほんとしてるけど、兄はひどい目に遭っていくって。本当にかわいそうだけど、やっぱりちょっとおもしろい。ピエロ、トリックスターですね。
真理子さんが、いろいろな体験をして、関わった人たちも開けていく、みんなが良くなっていく、そういうお話です。

詳細検討 「転」前半

次のシーン、起承転結の「転」の始まりです。真理子の女性器に薬かなんかを兄が塗ってます。炎症を起こしたり、病気かなにかに罹ったんでしょうね。兄が「お仕事、お休みだな」って言います。そうすると真理子は「やだ」って言います。
真理子は、この仕事がすごい楽しいんですね。だからお仕事休みたくもない、けど、まあ一休みだなということになります。

二人に訪れた束の間の休息。時期は、真夏です。泳いでいましたし、扇風機も回ってる。商店街の夏祭りで、買い食いしたりして。そして二人で祭りで買った花火を庭でやります。きれい、おだやかな時間。
「もう花火はなくなっちゃった。花火はおしまいだ」兄が言う。そうすると妹が「おしまい?」水に濡れた花火の燃え殻に火をつけようとする。
真理子さんは、どうも「おしまい」の概念が分からない、そういうところがあります。楽しかったら、もっとずっと楽しいことを続けようとする。兄は「おしまいだよ」ってたしなめる。
すると突然「お母さんも?おしまい?」って真理子が聞くんです。兄はそこで「そう、おしまい」って、母の死を伝えます。ここ、音響が変わって、すごく印象的なセリフです。
真理子も、やっぱり「おしまい」っていうものをうすうす分かっていて、ここではっきりと理解するんですね。母の死を、やっぱりどこかで感じていた、けど受け入れられなかった。物語を通じて、心が育って、成長して「おしまい」っていうものを理解できるようになりました。寂しい場面です。


次のシーン。鳩が飛び立ちます。中村と真理子が、中村の家のベランダに立って、それを見ています。身長差がありますから、中村はバケツに乗ってます。ここも逆転ですね。足元が映ってます。

真理子が「鳥」って言います。「あれ、鳩だよ」って中村が教えます。「夜になると戻ってくるの」って中村が言います。真理子が「いっぱい?」って聞きます「いっぱい」と答える。「いっぱい戻ってくる?」「いっぱい戻ってくるよ」って中村が言います。温かいやりとりです。
漠然と「家庭」のようなものを感じる場面です。
鳩は、撒き散らされたチラシと同じように、引きこもりの真逆の存在、縛られず自由に行動するものの象徴のようにも感じます。解き放たれた者ですね。

後で、スズメの死骸が登場しますが、それと関係して生命、つまり命の気配とも感じられる。外へ出ていく子供たちを二人で見守っている、そんなように捉えることもできるかもしれません。ここで命が宿された気配もあります。
スナップショット、静止画が続きます。セックスをする二人、キスをして眠る二人。優しいBGMが掛かり、愛し合っていて、とても良い関係なんだなということが見て取れます。

ここまででインターバルですね。しばしのお休みと、中村との愛の日々が、このシーケ-ンスでした。ここから物語というのは、大きく動き始めます。


次、自宅で妊娠検査薬の尿検査を行っています。
婦人科に行って、女医さんにも診てもらいますが、やはり妊娠していました。
真理子さんには、ちょっと難しい内容ですから、兄がお医者さんと話しています。
真理子はその時、ガラス窓から外の幼稚園を見つめています。真剣な表情です。真理子さんは、すごく子供に興味があるんですね。

『岬の兄妹』(片山慎三監督)

お医者さんが「お父さん?」って兄に聞きます。「兄です」って答えます。
「子供は誰の子ですか?」って重ねてお医者さんが聞きます。
兄は答えられません。誰の子か分からないから、売春のことは言えませんから。
お医者さんは「お腹の中の、分からない?」って問い詰めるます。
そうすると、窓際の、先生の後ろに立っていた真理子が「真理子」って言うんです。この瞬間も、本当に恐ろしい瞬間ですよね。
兄は、はっとして真理子を見ます。もうすごいですよね。びっくりします。
「お腹の中の子供は誰の子ですか?」って、普通はお父さんのこと聞いてるんだなって思いますよね。
でも、よくよく考えてみると、お腹の中の子供っていうのは、真理子さんの子供に決まってるじゃないですか。そんな簡単なことを忘れてたんですね。
「子供は、真理子の子供だよ。私の子供だよ」。それが最も大事でした。「そうだった、」っていうふうに気づきます。兄が気づきます。見てる人たちも気づきます。

兄は本当に驚くわけです。真理子の子供なのに、なんで勝手に堕胎を前提として進めてたんだろう、それでいいんだろうかって、ここに至って気づくわけですね。
お医者さんは「同意書が必要です。お金は7、8万かかりますよ」って事務的に進めていきます。
でも真理子はもう一回「真理子」って言います。何かを分かっている。抵抗しています。
兄は「もうちょっと考えてみよう。他にできることがあるんじゃないか」という表情で、何かを考えて、真理子を連れて診察室を出て行ってしまいます。

すごくいいシーンですよね。これも「出たよ」「出てないよ」と一緒です。「したい」「するよ」と一緒です。真理子の意思っていうのがものすごく大事だってことを、何回も忘れるけど、何回も思い出させられます。


そして、肇くんのとこに行って、「助けて!真理子のこと預かっててくんないかな、1時間で戻るからさ」って、すがりついて懇願します。ひねくれてない、まっすぐなお願いです、必死です。
肇くんの奥さんの子は生まれていて、赤ちゃんを抱っこしてます。真理子は、やはりそれが気になってます。運命が異なってしまった二人の母、残酷なコントラストです。

兄は、海沿いの道をどっかに向かって走っていく。肇くんのマンションの廊下から、走り去る兄を見て、真理子は何かが起こってるってことに勘づきます。

思いつめた表情で、兄は走ります。手ぶれするカメラで、アップで顔が捉えられます。
着いた先は低身長症の中村の家です。外階段の下には、幼児用の自転車があり、ここでも子供の気配があります。幼稚園、赤ちゃん、自転車と続きます。

中村の家は閉じてます。あの時開いてたのはたまたまで、普段は閉じてますね。ピンポンを押しても出てこない。
閉じてるどころじゃなくて、ものすごい閉じてるわけですね。外廊下に面した窓にまで新聞紙を貼って。段ボールの目張りと同じです。
窓を開けて、室内に横たわっている中村に声をかけます。昼なのに暗くて。中村は寝ているようです。
本当に引きこもりですね。新聞紙で周囲を囲み、薄暗い空間に中村は閉じこもってる。
中村はまだ引きこもり状態を脱してないんですね。何か動き始めてはいそうですが、まだ引きこもりの途上にあるということです。

兄は中村に事情を話してお願いします。「実は、真理子が妊娠しまして。もしよかったら、結婚してもらえないかとおもって」って。
「ちょうど時期がそれぐらいだったから」って言う。でも「そうやってお金取ろうとしてるんだ。だったら警察呼びますよ」と、中村から疑われてしまいます。責任を押し付けるような、変化球のお願いなので避けられてしまう。

「ちょっと帰ってよ」って、中村は窓を閉めようとします。窓を閉める人ですね。最初のトラックの運転手や、男の客と一緒です。コミュニケーションを遮断しようとするとき、登場人物たちは窓を閉じようとします。
兄はどうにか割り込みます。窓を開けます。

「真理子じゃダメですかね?」って聞きます。なんとかして結婚してほしい。そうすると中村は、「はっ?」て返します。
「真理子、ここに何度も呼んでもらって。あいつ、それですげえ喜んでて。俺もそれ初めて見て」って兄は言います。これがメインの理由です。「真理子は、あなたのことを本当に好きだと思っている」って言ってます。
これは直球です。中村を動揺させます。避けられない。

「真理子のこと好きでしょ?」って兄は聞きます。さっきみたいな不誠実な問いじゃないですから、中村は受けとめて考えます。
考えて、意を決して、ちょっとかすれた声で「好きじゃないです」って言います。兄は「えっ」て言う。
そうすると中村は「好きじゃない」ってもう一回言います。そうすると兄は「本当に?」ってもう一回聞くんですよ。中村は「本当に、ごめん」って言って、窓を閉めます。
ここで、この大事な大事な会話が、コミュニケーションが終わります。

これが先ほど言った2回目の嘘です。中村は、声がかすれていて、少し涙ぐんでいるようにも見えて、誠実に考えて回答している。
「真理子のこと好きでしょ?」「好きじゃないです」って答えている。
これは私は、嘘だと思います。本当は好きなんだと思うんですよね。でも、育児や生活や、いろいろなことを考えると、そう簡単に結婚なんてできませんよね。現在も引きこもり続けてる人が。
だから結婚は無理だということで、ここでは「好きじゃないです」って答えてる。そう感じました。

中村は、一番最初に「私のこと好き?」「好きだよ」って言った時に嘘をついてます。
そしてここでは「真理子のこと好き?」「好きじゃないです」って嘘をついてる。
「好きだよ」って言って嘘をついて、「好きじゃないです」ってもう一度嘘を言う。
この反転して2回嘘をつくっていうところが、すごい巧妙な構造ですよね。言葉の意味と価値が真逆になってしまってる。

窓を閉めた後も、中村は言います。追い打ちを掛けます。
「僕だったらマリちゃんと結婚すると思ったの?」って。兄は「思ったよ」って言います。
中村は「子供、産むの?」。兄は「いやあ」、まあ産まないってことです。
「産むわけないよね」って中村が冷たく言います。冷静ですよね。兄は、自分ができないことを、他人に頼んでいたということです。
「この二人ならお似合いじゃん。結婚できるかも」って、お手軽なハッピーエンドを、つい思い描いてしまった自分が強く叱りつけられました。そんなことないよな、誰もが簡単に責任を取れない、重い重い選択のはずでした。それを、つらい現実から目を背けたくて、一瞬忘れてしまいました。夢を見てしまった。自分の根底に、差別や無責任があったことを反省しました。


窓の前から去ろうとする兄に、肇くんから電話がかかってきて、預けていた真理子がいなくなったことを知らされます。
肇くんは、マンション前の海岸なんかを探していて、またもや事故や死の気配を感じます。
でも中村のアパートの前に、真理子はいて、すぐ見つかります。兄の去る様子から察して、ここへ来てたんですね。

真理子は「お仕事する」と言います。つまり、中村に会いに来た、中村とセックスをすると言うんですね。
兄は「それはもう無理だから。プリン買ってやる、プリン好きだろ」って、諦めさせて連れ帰ろうとします。真理子は「プリン食べない」って言います。
最初のシーンでは「プリン買ってやるから」で帰っていたのに、ここでは帰らなくなっています。本当に中村のことが好きだからですね。プリンよりも中村の方が大事になっています。

なぜか高い位置からの見下ろし視点です。
携帯電話の音や外の気配が気になって覗き見ている中村の視点でしょう。会いに来てくれて、もう会えないであろうマリちゃんを、中村はどんな気持ちでみつめていたんでしょうか。

『岬の兄妹』(片山慎三監督)

真理子は大号泣します。絶叫します。帰りません。道路に転がって、もうじったばったん大暴れします。いつも通り兄の腕を噛んで抵抗します。
好きなもの同士のはずなのに、アクシデントで会えなくなってしまう二人。真理子さんと中村の失恋。とても悲しいです。
コンクリートの硬い路上で繰り広げられる、お二人のお芝居、すごいです。カメラもぐーっ寄っていきます。片山監督も、こんなふうに言ってます。見ている方も、引き込まれてしまいます。

もっとさらっとやるつもりではあったんですけど、芝居をやっていくと、その「さらっと」に自分の中で違和感を覚えたんです。そこで和田さんを追い詰めて、もっと叫んでと言ったら、あれくらいになった感じですね。僕自身も見ていて、すごい興奮したんです。あのシーンではカメラが最初引いていて、ぐっと寄っていきますよね。最初寄るつもりはなかったですけど、途中で「寄って」と思わず声をかけて、カメラを手持ちで動かせたんです。だからすごくぶれているんですけど、そのまま使っています。

片山慎三インタビュー(『岬の兄妹』):連載「新時代の映像作家たち」 – ecrit-o

なんとかして帰ったんでしょう。電柱の並ぶ道、いつもの中村からの帰り道に移ります。
妹は「コンビニ」なんて不機嫌そうに言って。ヤケ買い、ヤケ食いですね。コンビニへお菓子などを買いに向かったようです。

詳細検討 「転」後半

さあ、次、ちょっとシーンは変わって、起承転結の「転」の後半です。最初に働いてた造船所の所長にカットが移ります。仕事の方に動きがある。

海岸でお菓子を食べてる兄妹。中村の家からの帰り、コンビニで何か買ってきて、心を慰めてたんでしょう。そこのところに造船所の所長が、やってきます。
所長が「もう一回仕事しないか。ちょっと欠員が出ちゃってさ」みたいなかんじで、ものすごい適当で勝手な理由。自分の都合だけでクビにしたり誘ったりする。「お前だったらやってくれるだろ」みたいに気楽にやってきます。でも妹も兄も今すごい大変な時期だから、そんなどころじゃないわけです。

やってきた所長に妹は「これ、おいしいよね」って、スコーンとかあげて。「指舐める?」って言って、スコーンがついてる指舐めさせようとしたり、チョコパイをあげたり、「あっち行く?する?」って言って、いろんなおいしいものをあげて、所長とセックスをしようとし始めるんですね。わー、すごいシーンです。
兄は、呆れたのと売春の露呈を恐れたのとで、砂浜に妹を突き飛ばして馬乗りになって怒ります。「誰でもいいのかよ!」って、もうすごい剣幕です。お菓子とか大事なものあげて、もう誰でもセックスしようとしてしまう。ちょっと真理子さんは、もう性依存症みたいになってるわけですね。
兄は所長に「俺らが、こんなんなったのも、ぜんぶお前のせいだからな!」って、全ては仕事の首から始まったことを訴える。所長のせいばかりとも言えない気がしますが、とにかく猛ってる。

所長さんは何が起こっているか分からない、けど、兄妹のただならぬ雰囲気に気圧されて、「ごめん、悪かった。とにかく仕事やってくれよな」みたいに言い捨てて走り逃げていきます。
曇天の海岸、倒れたまま泣く妹、うなだれる兄、カメラが、そのまま、海岸に取り残される二人を残して、どんどん遠ざかっていく、兄妹が小さくなっていく。ちょっとポランスキーの『袋小路』やトリュフォーの『大人は判ってくれない』など思い出します。

このカメラの動きは、ちょっと変なかんじです。考えてみると、もしカメラが二人の近くに残って、アップのままシーンが続いたとしたら、それはきちんと見ている私たちもこの二人に寄り添うことができたとおもうんです。
でも、このカメラは遠ざかっていってしまう。所長さんも遠ざかっていく。誰もこの二人に手をつけることができない、手を差し伸べることができない。この世界の端っこに取り残された二人。離れていくカメラの動きで、それがすごく意識されます。
海岸、死と生の間、世界の果てのような場所、境界のような場所に取り残され、どうすることもできない二人。また、ある種のどん底に、どん詰まりに至ってしまった二人。そのことが視覚的に伝わってきます。

『岬の兄妹』(片山慎三監督)

堕胎すれば、全部解決みたいな簡単な状況でなくなってる。もう性依存みたいなものも関わってきて、いろいろがこんがらがっちゃって。それを兄は一人でどうにかしなきゃいけなくて、すごく追い詰められます。


次のシーン、夢の中です。
兄は、急に足が動くようになって、うれしくって走り出します。ハッピーなエレクトリカルパレードみないな音楽も流れ出して。そして子供たちに混じって公園の遊具で遊んだりする。さっきまでの暗いムードからの温度差がすごい。

この兄は、子供時代から足がずっと不自由だったんでしょうね。人生の途中で不自由になったわけじゃなくて。また、もしかしたら「きょうだい児」や貧困で、自由に遊園地などに行けなかったりしたのかもしれない。

叶えたかった願望を夢に見る。全てに無責任でいられた幸せな子供時代へ還りたい。苦しい現実からの逃避です。
でも、はっと夢から覚めると、起きると、やっぱり足は動かない。夢から現実に、天国から地獄に、どん底に戻ります。妹の妊娠を、どうにかしなくてはいけないという現実。結局それに向き合わなきゃいけない。もうそれをどうにかしたとしても、性依存症のこともあるし、もう本当にどうしたらいいのか分からなくなっています。憔悴と混乱の中に戻されます。

お腹をはみ出して眠ってる真理子を見ます。

水道が流れ続けてる、ちょろちょろと水音が聞こえる。水は、死の象徴なんでしょうか。なんだか不穏な気配が満ちている。
茶碗に汲んで水を飲みます。何かを決意します。そして、最初の頃の場面で鍵を、制約を壊したブロックを持ってきて、振り上げます。お腹を殴って子供を殺してしまおう、堕胎しようとする。聞こえてた水音が止みます。おそろしい場面です、どうなっちゃうんだろう。ごつごつしたブロックと柔らかなお腹の対比、おそろしいです。もしかしたら子供だけでなく、妹を殺そうしてるのかもしれない。全てを終わりにしょうとおもったのかもしれない。

『岬の兄妹』(片山慎三監督)

でももちろん、そんなひどいことできませんよね。兄はブロックを結局落として泣き崩れます。
妹は、物音で起きます。兄の異様な気配に怯えて、少し身を遠ざけます。兄はすごい悔しくて不甲斐なくて、畳を殴り泣きじゃくります。もうどうすることもできません。

妹はそれを見て、何が起きてるか、はっきりとは理解できない。けど、ただ、その時、妹は貯金箱を渡すんです。
一見、ただ適当に大事なものをあげたという場面に見えますが、それだけじゃないありません。つまり子供を諦める、貯金を与えて、お金をどんどん詰めて詰めて育てていった大切な子供というのものを諦めるよ、「シゲル」をまた殺してもいい、子供を殺してもいいよ、ということを表しているシーンだとおもいます。最初は取りあげられて割られてしまいましたが、今度は自ら差し出します、大切な大切なものを。妹の優しさです。兄は大泣きします。
そのカットでは、貯金箱が割れて、お金がこぼれます。命がこぼれます。「シゲル」の死ですね。

最初のシーンでは、肇くんの奥さんのお腹に耳を当てて、次に貯金箱が割れてた。今回は貯金箱が割れてて堕胎をするというように、裏表が逆になって、幸福が全く逆になっています。ひどいコントラストです。


次は手術室のシーンです。
待合室、兄は向こうを向いて立っています。帽子を握って祈っているようです。手前には妊婦さんが座ってる。幼稚園の子供の声が聞こえます。子供たちの気配がします。
手術室で、お医者さんが堕胎の手術をします。ピンセットで摘まもうとしながら、お医者さんは「逃げないで」って言うんですね。

これは、中村がお腹の中から出たくないよって言っていたのと重なります。胎児が出たくないと言っている、出たら死んでしまいます。出たくない、お腹の中にいたいって言ってる。それを「逃げないで」と言って摘出する。とても悲しい場面です。
女性器を開けるような器具というのも使っているんでしょう。子宮という家があって、それを開けて、そして引きこもっている人を出す。閉じているものを開けるというイメージが、ここでも繰り返されます。

手術が終わって、次のシーン。
真理子さんは、スズメの死骸を持って、顔に当て何かを想っています。こんなシーンが来るんだって驚きます、すごい予想外ですよね。
なんとなく、自分の子供が失われてしまったたということが分かっている。「おしまい」に気づいているんでしょうか。
ススメは巣から落下した雛でしょうか。胎児との形態的な相似も含めての比喩でしょう。
鳩やチラシなど、空を飛ぶ自由なもの、スズメの死。

『岬の兄妹』(片山慎三監督)

そんな妹を見つめる兄、走り出すカメラ、夕日、すごいドラマチックです。
ここで、一連の冒険が、アバンチュールが終わります。一つの話の終わりですね。

詳細検討 「結」

次が最後のシーケンスですね。妹がまた出て行って、そして岬で見つかる、ラストのシーン。起承転結の「結」になります。

シーンの始まり、ドアを開けて兄が出てくる。足を引きずっていって、画面の向こうに行って振り返って電話に出る。最初のシーンと全く同じです。巻き戻しちゃったのか?って思うくらい、全く同じシーンです。でももちろん違います。

最初の場面では鍵が付いてたんですけど、今回は鍵が付いてないんですね。主人公たちには鍵、つまり常識ですとか、そういったものが無くなってる。もう一回閉じ込めるということをしていないんですね。映画の中の時間を、出来事を経て、兄に大きな変化が生じてる。制約が、鍵が無くなってます。

電話をします。最初のシーンでは先生に電話してたんですけど、ここでは肇くんに電話してます。
「真理子そっちに行ってない?真理子、もしそっちいたら電話くれる?」って。
ここは後で関係してくるんですが、「真理子が行かない限り、肇くんは電話をしてこない」ということです。

最後のシーケンスは、大雨が降っています。大雨というのは感情の発露ですね。泣いたり怒ったり、ひどい目に会ったり、登場人物たちの心が大きく揺れ動くときに、映画の中では雨が降りますよね。雨って、降らせるの大変だから、てきとうに降らせることはできない。真理子と良夫の、大変な感情に合わせて雨が降り、ずぶ濡れになって、ラストに向かってドラマが盛り上がっていきます。

心配だな、どこ行った、どこ行ったって、町の中を探し歩きます。最初と同じですね。
海沿いの道を行ったり、小さい頃遊んだブランコがある公園だったり、いろんなところを回ります。死の予感もしてきます。

そして次のカット、岬に真理子が立っています。なんで真理子はこんな危ないところに立っているんだろう、分かりません。

そこへ兄がやって来ます。真理子は海の方を、向こうを向いています。
兄は、真理子を見つけて呼びかけます「真理子!真理子!」。
真理子は、波や風の音で聞こえないのか、きっとそうではないとおもうのですが、無視して、岬の先へ、先端へ向かって歩を進めます。岬の先行ったってしょうがないですよ、先には何もないんですから。でも先へ進みます。どんどん、どんどん死に近づいく。
「真理子!なんで、こんなとこ居んだよ!」真理子は無視します。すごい引きの画です。
「ダメだろお前、家で待ってなきゃ。危ないだろ、こんなところで」兄は言います。怒っています。それ、もっともですよね。危ないです、すごい危ない。雨で崖が滑りそうです。ハラハラします。どうなっちゃうんだろう、どうなっちゃうんだろう。

それでも真理子は振り返りません。振り返るということは大事です、振り返ればコミュニケーションが始まりますが、説得もできますが、振り返らない。
そして、かなり距離が狭まったところで、兄の携帯電話が鳴ります。携帯電話を開けて画面を見ます。誰からの電話でしょうか。携帯電話が鳴り続けます。
呼び出し音を聞いて、真理子が振り向き始めます。
兄と目が合います。真理子のアップになります。その真理子の顔には頬紅が差され、口紅が引かれてるんですね。薄っすら化粧がされてる。もうすごい、心臓がギューッと掴まれるようなシーンです。もう本当に女優さんの顔の美しさ、綺麗な人なんだなあってハッとします。少し笑っているようにも見受けられるかもしれません。
見つめ合う兄と妹。そして兄は何かを理解したような目になります。女医さんのところで「真理子の子供だ」って分かったときと同じように、兄は「ああ、そうか、」って、何かを理解して、そして携帯電話に出ます。
ピアノが「ジャン!」って鳴ってエンドロールが流れ出す。すごいですよね。

『岬の兄妹』(片山慎三監督)

かかってきてる電話っていうのは、もちろん肇くんでもないですし、先生とかでもない、中村でもないわけですね。肇くんは「マリちゃんがこっちに来たら電話する」って言ってたから違う。心配して掛けてくるような人でもありませんしね。
先生だとか工場長だとか、お世話になってる誰かだったら、すぐ出て「真理子見つかりました」って、すぐ言いますよね。
あの電話の出方っていうのは、何かすごく迷いながら葛藤を抱えながら出てます。中村からだとしたら、もうちょっとスッと出るとおもうんです。あんな表情になるとはおもえない。
そうなるとやはり、なにかチラシを見た別のお客さんからの電話と考えるのが、一番自然なのではないでしょうか。着信音を聞き、あの喜びを思い出し、少し微笑んだのではないでしょうか。

その注文の電話に出ることによって、真理子の売春を、再度手伝ってあげよう、家に閉じこもってるんじゃなくて、セックスするために、他者と接続することを何か手伝おうっていうふうに、最後、兄は、きっと決意して電話に出た、そういうふうにおもいました。すごいラスト。考えさせられます。

さて、この映画で、これまでたくさんのものが開けたり閉めたりされてきましたが、全く触れてこなかったものがあります。それは、携帯電話なんですね。
携帯電話を開ける、電話に出るということは、扉を開くのと同じくらい世界に対して開いていることです。閉まっている折りたたみの携帯電話を、「開ける」ことによって、世界との接続が開かれたということが、目で見えるようになる、可視化されます。
最後のシーンで、電話がかかってきて、これを開けます。そして電話に出る。扉を開けて、閉じこもらずに、出ていって、もう一回世界とコミュニケーションするんだ、そういった決定的な瞬間だとおもいます。衝撃的でした。

最初の方のシーンで、海で出会った行きずりの男は釣り人でした。「じーっと見てきてさ」って言ってました。
岬へやってきた真理子は、もしかしたら死のうとしてたかもしれない、それか男に再び会おうと探していたのかもしれない。よくわからない。
生と性の象徴である化粧と、死の象徴である海、二つの大きな力の間で魂が行き場を迷ってる。
でも、彼女の中で何かが起きてる。「何を考えてるんだろう、この人。どうしたいのかな?どうすると、たのしいのかな?」相手の見えない心の奥底で起こっていることに、私は想いを寄せたい。なにかを決めつけずに、想像したり、慮ったりしたい、そういうように私はおもいます。

振り返り

詳細検討だけですごく時間かかってしまいました。2、3時間かかるとは思いましたけど、やっぱり掛かってしまいましたね。
結局、小説一冊を正確に批評するには、その小説と同じ長さのページ数が必要なのと同様に、一つの映画についてきちんと話そうとすると、映画と同じ時間が必要になるということなんでしょう。
ここまでが、この映画の「詳細検討」でした。

オカルトのような「真理子は実は死んでいて」とか、そういった陰謀論みたいな考察ではなくて、本当に表層にあるものを、ただ見たまま話したつもりです。なので、たぶん大きく間違っていることはないんじゃないかなとおもいます。


「詳細検討」、すごく長かったのですが、ここからは、いろんな注目すべき要素が出てきましたので、これをまとめて「振り返り」たいとおもいます。
大変でした。3時間、誰が聞いているか、誰も聞いてないとおもいますが、でもとにかくこれを話し切りたい。

まずはアップについて。片山監督は、このように言っています。

 画のサイズについては、すごく意識しました。アップで撮るよりも全身を映して見せていきたいと思ったんです。土地を映すのもそうですが、やっぱり「肉体」を撮りたかったんですね。全体が映ってて、動いてて、というのを見せないとだめだなと思ったんです。役者の顔の映画じゃないというのがあって。たたずまいとか体とかが映ってないとだめだと。

 今の日本の映画って、アップを撮りすぎなんですよね。タレントを撮っているという感じしかしない。全身で芝居していても、顔のまわりしか撮っていなかったりして、それが助監督をやっていて不服だったんです。

片山慎三インタビュー(『岬の兄妹』):連載「新時代の映像作家たち」 – ecrit-o

本当に、その通りとおもいます。
全体的に、引きの画が多く、役者の身体全体の動きがよく見える。カットも短すぎず、適切なワンカットの長さで、運動を最初から最後まではっきりと確認することができ、満足感があります。バスター・キートンやチャップリン、『トムとジェリー』『酔拳2』などの、キャラクターが動きぶつかり倒れるだけで、見ていてすごい気持ちいい感覚、これが思い出されます。
鎖が外される場面やオレンジジュースや金を受け渡す場面、眼鏡が弾け飛ぶ場面など、多くの重要な場面が、アップにならず引きのまま進行されました。監督は「ここが重要ですよ!」って、露骨に提示しません。そのため、ただ受動的に観ているだけでは深い理解に至りにくく、見る人が能動的に視聴へ参加することを求められる映画だったとおもいます。
花を盗み、花を返す場面のスロー。岬に立つ真理子が振り返り、美しく整えられた顔が露わになるアップ。強い映像表現を、ここぞというところだけ効果的に用い、的確に力の使用がコントロールされた映画だったとおもいます。

貯金箱は、真理子の子供として表されました。妊婦さんや堕胎の前後に登場し、「シゲル」という名前で大切にされ、お金を与えて育てられました。「シゲル」が割れて、直って、また割れました。真理子さんは、母性があり、子供産んだり育てたりすることに、とても興味がありそうな人として描かれていました。

ファッションという軸で見ると、最初、真理子は家に閉じ込められジャージで過ごしていました。売春を始めて活動的になり短パンになりました。でも、最後、希望は閉ざされジャージに戻ってしまいました。

甘いものというのは、真理子にとってとても大事なものでした。最初はプリンが大事だったのに、最後はプリンよりも中村の方が大事になりました。セックスをしたい人にチョコパイなどをあげたり、オレンジジュースをもらったり返したり、優しさや気持ちを視覚的に表すものとして登場しました。

「開ける」「閉める」ということも繰り返されました。
まず、家の戸の鍵が壊され、付け直されました。ロープや鎖で、妹の拘束が行われ、解かれました。
段ボールの目張りが剥がされて日が入り明るくなりました。
トラックのドアと窓とカーテンが閉じられました。
瞼と耳が、視覚と聴覚が閉じられたり開かれたりしました。
老人の家の戸が開かれて、老人の服が脱がされました。また仏壇が開けられたり閉じられたりしました。
客の男がチェンジのために戸を閉めようとしました。
中村の家のドアが開いたり閉じてたりしました。また中村の家の窓も閉じられました。
学生の服が脱がされて、そのまま開いた状態で保たれたりしました。
手術の場面で子宮が開かれました。
携帯電話がたびたびパカパカと開けられたり閉められたりしました。
このように、すごくいろいろなものが開けられたり閉じられたりして、すごく不思議な映画でした。

また「閉じてる人」も、たくさん出てきました。
アニメ好きで返事をしないトラックの運転手がいました。
社会との接点を失い孤独な老後を暮らす人がいました。仏壇の中で死んでいる人もいました。
法律を遵守する人、道徳に縛れている人もいました。肇くんや、当初の兄ですね。
自分の気持ちよさだけに溺れてる客もいました。子宮から出たくないよという人もいました。
家に閉じこもっている人、引きこもりの人もいました。中村ですね。
オナニーをする人、自己に閉じこもっている人もいました。学生ですね。
そういう「閉じてる人」たちに、真理子が関わり、開けていく、うまくいったらですが、そういう物語だったとおもいます。

「逆転」もポイントでした。
強そうなチンピラが下になったり、イクのが早かったりしました。兄貴と下っ端の身分も逆転しました。
老人が奉仕したり、客よりも真理子の方がセックスをしたがったりしました。
男女の間で身長の差も逆転していました。
最初は、兄が主導する映画なのかと思いきや、妹が主導する映画でした。
最も大事な逆転は、偏見の逆転でした。チンピラは悪い人だ、障害を話題に触れてはいけない、女性は性欲がない、障害者は性欲がない、知的障害者や自閉症の人たちは意思がない、たくさんの誤った考えを改めるきっかけが、映画の中には散りばめられていました。

真理子さんという人物は、性欲がある人でした。「冒険する」「もう一回する、帰らない」「チェンジやだ」「お仕事お休みやだ」「あっち行く。する?」と、繰り返し表されました。
現在の社会では、セックスやオナニーの話を公の場ですることは、半ばタブーになっています。会社の飲み会や、SNSやスペースで、少しでも逸脱して話そうものなら、その人はノンデリ、デリカシーがない人間として抹殺されることでしょう。
多くの人は性欲があるのに、それを無いものとして、表には出さないように注意をしながら生活をしています。これは、鎖で足を縛られ監禁されていた真理子さんと重なります。
つまり、心の奥底に閉じ込められた存在であった「性」も、この映画によって、開かれ解放されたものの一つだったのではないでしょうか。

以上が「振り返り」になります。

まとめ

さて、これから「まとめ」と補足検討です。

そもそも「自閉症」および「自閉」って何だろうということを考えたいとおもいます。
「自ら、閉じる」って?語源はなんだろうって気になったので調べました。
まず英語で「自閉症」を表すAutism、これはギリシャ語の「自己」autosを語源としている、と。
もともとのAutismという自閉症の概念は、「外部の力や操作によらず自律的あるいは自己完結的に動く」、そういった症状だと捉えられているそうです。「自律的」、主体性があるんですね。
だから日本語の「自己」を表す「自」は、ありますが、外部に向かって閉じた「閉」っていう意味は、どっかから付け足されちゃったんですね。だから「閉」の字は、そもそもそれで正しいのか疑わしくなってきます。

日本語の『自閉』には社会を拒絶したり引きこもったりといったニュアンスが足されている気がしており、当事者の実情や多様性に則さないイメージを生み出す一因となってはいないかと思う

自閉の語源、「Autism(オーティズム)」とは - 成年者向けコラム | 障害者ドットコム

というように、お医者さんが話しています。

さて、もう一人のお医者さんの文書を読んでみます。
「自閉症」という言葉は1937年頃に精神科の中で統一用語として定まったようです。90年くらい前、相当前ですね。
この文書の末尾には、こう書かれています。

わが国でも今や「自閉スペクトラム症」はごくありふれた状態として,全国で子どもから大人まで診断される人たちが後を絶たない状況になっている。一方でわが国では,訳語が「自閉」のままであることによって,今なおさまざまな誤解を受けることが多い。「閉」の文字があるために,「暗い性格」「ひきこもり」「うつ」などと誤解され,きわめて深刻で思い病気であるようなイメージを抱く人が多いのである。もちろん,カナーが最初に報告した孤立型の対人行動が主となり,知的障害も併存している人たちでは,通常の学業生活や職業生活に就くことが難しく,福祉サービスの対象となることも多い。しかし,そのような場合であっても,性格が暗いわけでもないし,人を避けるわけでもない。本来の自閉スペクトラム症の人たちは,どちらかというと裏表のないサバサバとした性格である。いわゆる「忖度」とは無縁で,専門家の間では「本当は『自開症』と言うべきではないか」と話すほどである。元の‘autism’には,おそらくそんなに暗いイメージはないのではないかと思う。そろそろ,「自閉」という言葉に代わる別のよい日本語がないだろうか,と折に触れて頭を悩ませているところである。

「自閉」という言葉の由来と概念の変遷 本田 秀夫

そんなふうに、お医者さんがおっしゃっています。「自開症」おもしろいです。
ほんと、これはまさに今回の映画で、私たちが見たそのままの姿ではないでしょうか。
とても明るくて、開いている。先入観をなくしてみれば、そうだった、確かにそうだったなというふうにおもいます。
明るい人「100万円!100万円!」とか、開く人、突飛な行動をしたり、忖度をしない、言ってはいけないとされてることを言う「小人」とかね、しょうがないところもある。そういうキャラクターを思い描けるんじゃないでしょうか。性欲があって健康で明るい真理子という人ですね。すごくおもしろい人でした。
途中で紹介した、ドキュメンタリー映画の『ちづる』さんの姿も参考になるとおもいます。


道徳と倫理ということを、最近考えました。伊藤亜紗さんの『手の倫理』という本からですね。伊藤亜紗さんは、ケアですとか美学ですとか体についていろいろ考えたりする人ですけども、興味深い人ですよね。
道徳と倫理は、似ていそうだけど、違う。「道徳=不変」「倫理=個別」とありました。
ここからは私の理解と考えなので、本とは食い違うところもあるかもしれません。

伊藤 亜紗『手の倫理』p.39

まず道徳って、客観的なものなんですね。正しさ、善みたいなものがきちんと定まっている、絶対的なものてである、と。それを使って相手を非難したりする。ウェブとかで、間違ってる人を見つけては、わざわざ出向いて道徳で殴ったりする。基準が決まってるから、それからはみ出てたら殴るだけなんで、簡単です。誰でもできる。
それに対して倫理というのは、主観的で、相対的で、事案ごとに個別にそれについて深く考え検討する必要がある。今、ここ、この場で正しいことってなんだろう、めんどくさい、でもそれを避けずに、毎回毎回、ちゃんと始めから考え直す。
道徳からすると、売春なんてダメなことです。すべきではないことです。でも今回、映画を通して、この個別のややこしい事例を見てきたときに、果たしてそれは絶対にダメだったのか。ダメかもしれない、もっといい手段があったかもしれない。じゃあ何が正解だったんだろうということを、かなり悩みます。

 倫理に「迷い」や「悩み」がつきものである、ということは、倫理が、ある種の創造性を秘めているということを意味しています。なぜなら、人は悩み、迷うなかで、二者択一のように見えていた状況にも実は別のさまざまな選択肢がありうることに気づき、杓子定規に「〜すべし」と命ずる道徳の示す価値を相対化することができるからです。もちろん、それは定まった価値の外部に出ること、明確な答えがない状態に耐える不安定さと隣り合わせです。しかし、この迷いと悩みの中にこそ、現実の状況に即する倫理の創造性があるといえます。
 先の表では、三、四行目がこのことを指摘しています。道徳は、定まった答えや価値をなぞること、つまり「価値を生きること」が中心になるのに対し、倫理は「価値について考え抜くこと」をも含むのです。

伊藤 亜紗『手の倫理』p.40

 この場合にはこうしなさいと道徳的に説いたり指図することは、一般的に言って、倫理の目的ではない。その真の目的は、考えるための道具を与え、考え方の可能性を広げることにある。世の中にはそんなに単純で明確なことなどめったにないということを認め――これは倫理の根本である――、それを踏まえて、困難な問題を考えていく、そのために倫理はさまざまな可能性を示すのである。だから、進むべき道を求めて格闘し、不確かなままに進んでいく、それなしには倫理 はありえない。

伊藤 亜紗『手の倫理』p.40

冒頭でも言いましたが、多くの人のレビューに、私は納得できませんでした。
「この二人がかわいそう、不幸だった」「生活保護をもらえばよかったのに」「基本的に胸クソで闇へ闇へと落ちていく兄妹を描いています」そういった否定的なレビューがたくさんあります。でも、実際の映画は、そうではなかったですよね。冒険の中で楽しいこともいっぱいあった。この二人が、いろんなものを開けていったじゃん、そして出会う人を幸せにしていったじゃん、映画の何を見たんだよって、私は、すごく憤ったんです。
「妹が可哀想すぎる。結局ラストも救われず、またバカ兄貴が妹にやらせるかんじで終わり」なんていうレビューもありました。兄は、すごい苦労しましたよね。みんなに殴られて。考えが足りない部分も確かにあったかもしれない。でも、難しい選択の狭間で、どうしたらいいのかということを彼なりに必死に考えていって、もがいて、最善ではないかもしれないけど、誠実にできるだけのことをした、そんなふうに、私はおもってます。
だからこのなんか道徳で、絶対的な正しさで殴ってくるようなレビューというものが、本当に無慈悲で恐ろしいと私は感じたんです。
「生活保護をもらえばいいじゃん」「なんで障害年金もらわなかったの」みたいなレビューも、ちょっと論点が違いますよね。そういったことがテーマの映画では全然ない。
片山監督は「寓話として描いた」と言っています。リアリティラインが、そこに引かれてるんですね。

ーー金銭的に追い詰められた兄妹の姿を見て、「なぜ彼らは福祉関係に頼らない?」という意見も出てくるかと思うのですが、そのあたりのフォローはどう考えていたのでしょうか。

片山:当然その意見は出ると思っていたのですが、あえて行政関係者に関しては描かずにいこうと決めました。行政からも福祉からも見捨てられたという描写にしてしまうと、現実にはなかなかないわけで、嘘をついていることになってしまう。それならば描かないで、そういった関係者がいない、ひとつの寓話として描いた方がいいぞと。

『岬の兄妹』片山慎三監督、デビュー作に込めた人間の生きる力 「観る人の心を動かす作品を」|Real Sound|リアルサウンド 映画部

――『岬の兄妹』のなかでは、障碍者を取り巻く福祉や制度の描写はほとんど描かれません。それは意図的なものでしたか。

片山 それを描いてしまうと、その部分にフォーカスをあてなくてはいけないと思うんですね。ワンシーンだけ福祉の人を登場させてもダメで、ちゃんと描かないといけない。ただ(『岬の兄妹』は)そういう映画じゃないと思ったんです。それよりも当事者の二人がどうやって生きていくかという、力強さを表現していくことが大事でしたね

片山慎三インタビュー(『岬の兄妹』):連載「新時代の映像作家たち」 – ecrit-o

強いて一番大きいテーマを挙げるとすると、たぶん、妹の、障害者の方の性欲や恋愛の話だと思うんです。性欲というかコミュニケーション欲というか、承認欲求というか、どうやって開かれて、どうやって他者と接続するかという問題だとおもいます。

この作品自体にモデルケースはないんです。だから「フィクション」の方に近いとは思います。でも、自分の中で完全に「フィクション」と割り切っているわけではなくて。『累犯障害者』(山本譲司著、1996年)というノンフィクションがあるんですが、知的障碍者の女の子の売春について書いてあるんです。売春が見つかって投獄されて、ふたたび社会に出てきてもまた売春をして捕まる、と。(その彼女自身に)悪いことをやっているという意識がなくて。興味深かったのは、その女の子がもちろんお金のためにやっているんですけど、同時にそれまで男の人に相手にされてこなかったのに、そこに変化があることで彼女自身が喜びを見出して、辞められなくなっていくという描写があるんです。そういった部分も映画で描きたいという思いはありました。

片山慎三インタビュー(『岬の兄妹』):連載「新時代の映像作家たち」 – ecrit-o

じゃあ「どうすればよかったのか?」ということになります。この二人って何ができたんだろうって、これを検討したいとおもいます。

「グループホームとかに入ってもらったら?」。
でもそれって真理子さんにとって、あまり幸せじゃなさそうですよね。グループホームって全くセックスとかできないし、誰とも会えない。会えるけど恋愛禁止、恋愛になったらグループホームから出てくださいみたいになってたりする、ようです。

「恋愛ができる「居場所」みたいなとこで、同じように障害を持つ人と付き合ったら?」。
「居場所」デイケアみたいに、ちょっと集まる場所ですね。
それもでも「障害者同士お似合いでしょ」みたいな差別的な考えが透けて見えますよね。いい人がいればそれは幸せなことですが、「そこなら見つかるだろう」と思うこと自体が、かなりの危険性があるようにおもいます。結局、中村に結婚を頼んだ思想と同じく、少しイージーですよね。

「マッチングアプリ使ったら?」
これって、けっこういいですよね。障害者の方と、いろいろな人がマッチするような世の中の流れになるといいですよね。ただ、安全性を考えたときに、周囲の方がどのようにお二人の間に介入して関わったらいいのか、わりと難しそうです。

「妹にちゃんとしたオナニーを教えてあげて、それによって性を解消したら?」
これもまた違うと思うんですよね。真理子さんは、単純な性欲以外に、何か人とコミュニケーションをとるということ、承認されるということに喜びを感じているように見受けられます。ですからオナニーで解決できる問題というのはある一部分だけで、全体では全然ない。結局、途中で現れた学生と同じで閉じた人になってしまう。
「オナニーして、それで家の中とか安全な場所にいればいいじゃない」みたいなことも、ちょっと違うんじゃないでしょうか。それは冒険ではないとおもいます。

「兄としたら?」
これも違うとおもう。オナニーと同じで、結局閉じていますよね。

「お金を出して、誰かに依頼したら?」
これは、障害者の方が男だったら、わりと浮かんでくる選択肢かもしれない。きちんと管理して行えば、比較的安全性は高いかもしれない。でも、結局は売春の裏返しで、道徳の逸脱水準は全く一緒ですよね。そして、そこで行われる行為の、依頼されて行われる行為の、愛の質に問題が生じるような気がしてなりません。なんか、したいのは、そういうセックスじゃない気がする。

「売春を続けたら?」
これは映画の中の選択と同一ですが、やっぱり、、問題ありますよね。病気や暴力、予期せぬ妊娠など、危険が多い。優生保護法の憲法違反、障害者不妊処置の問題なども思い出されます。ご本人の自由意志と同意、とてもむずかしい問題だとおもいます。

ですから、障碍者の売春において、現実に起こった話は参照しています。あと、観た人のなかに福祉関係の方がいて「よくこういう作品を作ってくれた」と言ってくれたんですね。「我々の目の届かないところでこういう事件が起こってもいる」と話してくれて。フィクションとして作った部分もありますが、それが現実にもあるんだなというのは撮った後に気付きましたね。

片山慎三インタビュー(『岬の兄妹』):連載「新時代の映像作家たち」 – ecrit-o

「真理子さんを殺してしまったら?」
『二十日鼠と人間』という映画に近い選択肢です。現代では見方によって評価が分かれる難しい作品だとおもいます。つまり倫理が問われるような、良い作品とおもいます。私の印象では、差別などを助長するようなことはない、やさしくて悲しいお話し、『岬の兄妹』と一緒ですね、そのように捉えています。
弟が知的な障害を持つ兄弟が旅をしていく。その途中で、少しの行き違いから弟が女性を殺してしまう。全く悪気なく、少し慌ててしまったんですね、偶然殺してしまう。ここらへんは『フランケンシュタイン』(1931)とも似通っています。
兄は、酷いリンチにあうくらいなら、一思いに楽にしてあげようと頭をピストルで撃って殺す。大変な悲劇です。
制度や社会の中でうまく扱えないものを、どうするのか、殺す、排除する。それってすごい簡単で危ういですよね。考えるのって、めんどくさくて、できるなら考えたくない、でも、そのめんどくささを受け入れて、悩んで、できるだけ多くの人が、幸せになれるような方法を選択していきたい、想像していきたいなっておもいます。

あと片山監督が参考に挙げている『カッコーの巣の上で』も、そういう話ですよね。
精神病棟の中で、規律を乱す、自由すぎる男がいて、最終的にはロボトミー手術を受けさせられて、おとなしくさせられる。規則の外部にはみ出るものは、機能を止めればいい、除去すればいい、そういう考えです。シンプルで、ちょっとこわい。
暴れる人がいたら迷惑でしょっていうのもわかる、でも暴れたい気持ちもわかる、そういう人っているし、いろんな人がいて、おもしろい気がする。
どうすればいいのか、話し合って、お互いを理解して、なんとか妥協点を探す?みたいなかんじなんでしょうか。すいません、よくわかりません、ややこしいです。

とにかく、ここまでの検討で言いたいのは、すごくなかなか簡単ではないよねってことなんです。みんなは、どうおもうんだろう。「単純で明確なことなどめったにない」って、ほんと、その通りだとおもいます。


『岬の兄妹』。岬というのは、つまり海と陸の間にあるわけですね。境界に立つものです。生と死の境界とも言えます。生きているものがいる陸、生きているものがいない海。
「売春はしてはいけない」「売春してもいい」。善と悪の境界。
そのいろんな境界の、ぎりぎりのところに立っている兄妹ということです。
途中に出てきたチンピラというのもなかなか難しい位置にいる人です。アウトサイダー、アウトサイダーアート、内部ではなく、外部の人間、境界に立つ人たち。
そもそも、自分が善で、相手が悪みたいに、善と悪がはっきりしてるから境界っていうのがあるわけですよね。「あいつらは敵だ、クズだ、差別主義者だ!」「お前らこそ差別主義者だ!」みたいに、お互いに罵り合って、此岸と彼岸が分かれてる。
この兄妹っていうのは、二つの間に立ち、揺れ動く存在だということになります。正しいのか、正しくないのか。
この映画のキャッチコピーに「ふるえながら生きていけ」とありました。安定して暮らせずに震えてる、善と悪の間を揺れ動き続けてる、そんな兄妹に重なります。道徳などの定まった考えと、その場の状況に合わせて震えている考えです。私も、震えながら生きていきたいとおもいます。
相手を決めつける、何かと決めつける、道徳で殴る。でも、もしそこで立ち止まって人が優しくなれるとしたら、ここまで映画を見て、自分がその境遇に立ったとしたら、そして妹が何を考えているか、どういう人物かということに思いを寄せてみたら、今まで自分が「悪」だと思っていたものも「悪」じゃないのかもしれない。
「小人」って言ったらダメだけど、「小人」って言ってもいい時もある。「悪」じゃない時もあれば「悪」の時もある。実生活の中で、社会の中で目にするいろいろなものも、「悪」だと思っていたものも、そうなのかどうなのか分からなくなる。ひょっとしたら「悪」じゃないかもしれないな、みたいに悩み始める。
「善」と「悪」の境界というのは非常に曖曖なんだなというふうにおもいます。もしその境界というのが曖昧だとしたら、「善」と「悪」の区別というのがはっきりしなかったとしたら、「悪」って存在しませんよね。境界があるから「悪」が存在するんであって、もしその区切り目がぼやぼやのグラデーションになってたら、全体はグレーで覆われて、「あれは悪だ!」って単純に決めつけることはきっとできないだろうとおもうんです。
もちろん、悪の極致はあって、はっきりとした悪というのはあるでしょう。限界の先にある究極の悪です。でも、いつでも悪なのかどうなのかということを、その時その時、その場に合わせて、一度先入観をどかして、考える必要があるとおもうんです。これが今日一番話したかったことです。「善」と「悪」についてですね。

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最後に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』というラース・フォン・トリアー監督の映画について話して終わりにしたいとおもいます。別の映画の話で終わるっていう。観たのが、ずいぶん前なのでうろ覚えなんですが。
舞台デビュー、ミュージカルデビューを夢見る盲目の女性というのがいるんですけれども、その女性が息子のために貯めていた金を盗まれそうになり、避けられず殺人を起こしてしまう。そんな事情も社会には伝わらず、結局死刑になってしまうみたいなひどい映画です。救いがありません。
この映画の中で主人公は、死刑に向かってどんどん進んでいく。牢屋の中、途中裁判なんかあったりしていろいろ、ただただ「死」に向かってまっすぐに進んでいくわけです。その中で主人公の女性は、どんどん妄想の度合いを強めていって、歌の練習をして、リハーサルをして、実際にはしていません、妄想です、そして最後の死刑になるシーン。舞台となるような非常に高いところ、絞首刑ですからその非常に高いところに彼女は立ちます。その絞首刑を見に来ている関係者の人たちが観客として座っているんです。そこの前で彼女は朗々と歌い、下に落ちて絞首刑になり、最終的に幕が閉まって映画は終わります。
見てる人は「ひどい映画だった、死刑になった、悲惨な映画だ」っていうふうにショックを受けます。けれども、彼女の中の主観で起こっていることを追っていくと、リハーサルをしてどんどん芝居というのが上手くなっていって、最終的に舞台デビューをして、そしてカーテンが閉まって夢が叶えられておしまいになるんですね。
つまり『ダンサー・イン・ザ・ダーク』という映画は、客観的にはどんどん不幸になっていくんですけれども、主観的にはどんどん幸せになっていくというように、2つのグラフが交差するような映画なんです。こんな相反する2つが両立する、一遍にやってくるような怖い映画があるんだって驚きます。

これって、『岬の兄妹』で扱っている道徳や悪の話と、とてもよく似ています。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を見た時に、彼女はかわいそうだって、まずはおもいます。
そして主観と客観の幸せが両立したら最高に幸せだろうなとおもいます。
彼女はデビューしたと思って、実際にもデビューしていた、この状態が最高です。
でも、本当は、彼女はデビューしたと思っているけど、実際はデビューしていませんでした。
この時に客観的に見たら不幸せなんだけども、彼女の主観の中では幸福になっている。デビューしたという幻想の世界へ旅立っている。
この時、これは、ハッピーエンドと言えるのではないか。いや、そんな訳ないですよね。
でも、そういうふうに客観的に正しい正しくないを抜きにして、他人の主観に近づいていくことが、私は優しさなんじゃないのかなっておもうんです。ここはすごい難しいです。心に閉じこもってるとも言えるかもしれない。これが適切なのか自信はありません。
真理子さんや『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主人公。
心の中でいろんなことが起こっている。そしてSNSや社会でも、たくさんの人に叩かれた人の心の中でも、いろんなことが起こっている。この人の中では一体何が起こっているんだろう、どうしてそういうことになっちゃったんだろうって想像して寄り添うこと、それが大事だなって私はすごいこの映画を見ておもいました。素晴らしい映画だとおもいます。

以上、長々お付き合いいただきましてどうもありがとうございました。3時間半、6時、朝です。
また何か分からないこととかありましたら、質問等を後でしていただいても大丈夫です。
以上でこの配信、『岬の兄妹』について「主観的な幸福に寄り添うこと」というサブタイトルでお話しさせていただきました。
どうもありがとうございました。

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