Vol.028|かつての愚かな自分を見るようで
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
観念世界の住人
「ああ、こいつ観念世界に住んでんな~」と思うことがちょくちょくある。
観念世界とは何か。それは個人の心の中にある抽象的で主観的な思考や概念によって構成された世界である。
たとえばひたすら家にひきこもり、難解な哲学書ばかり読んで日常的なコミュニケーションに支障をきたしている人。あるいは変にスピかぶれして、明らかに全方位で困窮しているのに、その現実をろくに認めようともせずに「人生は私の思い通りハッピーイェイ☆」などとほざいている人、そういう人たちがここでいうところの観念世界の住人である。彼彼女らは手前勝手に創りあげた観念世界に住まい、そこから一歩も外に出ようとしない人たちだ。
賢明なる読者諸賢は、ここまでの筆致で察してくれていることかとは思うけれど、自分はこういう観念世界の住人を心底軽蔑している。なぜならそれは本来あるべき人間の生き方ではないから。われわれがこの肉体をまとって生活しているのは、あくまでこの現実世界である。その現実世界をおろそかにしてどうすんだと。そりゃ何事もうまくいかんわ。はっきりいって幼稚。あまりにも幼稚と断ずるに些かの躊躇も持たぬ。
観念世界の住人というのは、観念世界の住人であるがゆえに、観念だけが先走っているので、一見すると高尚そうなことを言いはする。が、しかしこの現実世界に足がついていないため、まったく説得力がない。生き方そのものがズレているので、頭でっかちの口だけ観念カウパー野郎に終始する。「なんだか小難しいことを考えてるのはよくわかったけど、とりあえず一旦働いて社会を学んだらどうでっか」としか思われない。
以前にも引用したことがあるが、何度引用してもしたりないので、もう一度ヒュームの警句を引いておこう。
科学に対する君の情熱に身を委ねよ、と自然は言う。しかし諸君の科学をして人間的であり、かつ行為や社会に直接関連をもちうるごときものたしめよ。難解な思想や深淵な研究を私は禁止し、そしてそれらが持ち込む思弁的な憂鬱によって、それらが諸君を巻き込む終わることのない不確実さによって、さらにまた諸君の自称発見が世間に伝えられた場合に出会わざるをえないであろう冷たい応対によって、私はそのような思想や探究を厳しく処罰するという結果になるであろう。哲学者たれ、しかし諸君の一切の哲学のただなかにおいても、なお、一人の人間であれ。
観念世界の住人は、もはや味がまったくしなくなるまで、ヒュームのこの警句を何度も噛みしめるべきであろう。あなたがたは観念世界に住まい、そこから一歩も外に出ようとしないがゆえに、絶えず思弁的な憂鬱につきまとわれ、世間の冷たい応対によって罰せられているのだ。
おかしいとは思わないのか。たしかにあなたがたは平均的な人間に比べれば、明らかに物事をよく考え、真理に迫ろうとしている。それはあなたがた自身が誰よりもよくわかっているはずだ。そうであるはずのあなたがたの人生が、なぜこれほどまでにうまくいかないのか。なにゆえこうも周囲にナメられるのか。いったいどこがどう間違っているのか。よくよく自分自身に問うべきである。
あなたがたのその人生の行き詰まりこそが、何よりも観念世界に住まうことの罪深さを雄弁に物語っている。その罪深さによって、ヒュームの言葉を借りれば必然的に「処罰」されているにすぎないのである。
かつての愚かな自分を見るようで
ここで正直に告白しておかなければならない。この事実を黙ったまま論を展開するのは、自らのフェアネス精神に反する。
先ほど観念世界の住人をあまりにも幼稚であると、メルエムの威を借りる形で断じたわけだが、真理?観念世界?なにそれおいしいの?状態にある世の多くの人に比べれば、まがりなりにも真理を渇望し、稚拙ながらも観念世界を創りあげることができているわけだから、はるかに伸びしろがあるといえる。今は躓いているかもしれないが、遅かれ早かれ手前勝手な観念世界に住まうことの愚を悟り、飛躍する時が訪れることだろう。
にもかかわらず、観念世界の住人をこれほどまでに嫌悪してしまうのは、かつての愚かな自分の姿と重なるからだ。
今はもうなんとも思っていないどころか、むしろ誇りにすら思っているが、教育らしい教育を受けてこなかったコンプレックスの反動で、社会を拒んで精神の密室へと立てこもり、ひたすら真理探究へと邁進してしまった時期があった。それは象牙の塔などという立派なものではなく、辺境のあばら小屋とも呼ぶべきみすぼらしい場所であった。
自分にとっては、それもまた必要な時期だったのだろう。あの時期があったからこそ、今の自分がいるのは間違いない。その意味ではまったく後悔などしていない。たった一人で孤独に辺境のあばら小屋に立てこもったからこそ、醸成された思想がある。
けれども、いつまでもそれではいけない。われわれがこの現実世界に生きている以上、現実世界と接続されないままに過ごせば過ごすほど、それだけ手痛い代償を払わされることになる。現に思い返してみると、やはりこの時期は辛く苦しかった。いかんせん現実が一ミリも動かないものだから、当然ながら自分自身の豊かさも増すことはなく、絶えず身を焦がすような閉塞感と焦燥感が襲いかかる中で、自意識だけが肥大化していった。
そんな愚かな時期を経ているからこそ、観念世界にひきこもる人たちを誰よりも嫌悪する。喫煙者を強く非難するのは、一度もたばこを吸ったことのない非喫煙者ではない。かつてはたばこを吸っていたが、今は吸っていない禁煙者である。かつての愚かな自分を見るようで、その愚かさが身に染みてわかっているからこそ、心底軽蔑してしまう。ある種の同族嫌悪であり、半ばやつあたりのようなものだ。自覚はしているが、自覚していてもなおこの衝動には抗いがたい。
「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」は、言わずと知れたミトおばさんの名台詞(HxH脳)だが、これは怒り以外にも言えること。どのベクトルであっても、何に強く感情が動かされるのかを知ることは、その人を深く知ることに繋がる。拭いがたい嫌悪の裏では、かつての愚かな自分の姿を重ねてしまっているように。
この世を旅する者であれ
では、観念世界なんて一切無視して、現実世界だけに生きればいいのかというと、そういうわけでもないのが人生の難しさである。
観念世界を一切無視して、現実世界だけに生きるとどうなるか。それだけ現実世界に適応できる可能性は高まるわけだから、それにともなって社会的評価を得られるだろうし、稼ぐこともできるだろう。世間的な評価としては、いわゆる成功している人と見なされる。
しかしながら、その成功しているはずの人たちは、遅かれ早かれどこかのタイミングで燃え尽きてしまい、精神を病んでしまう。
その人の中に観念世界がないということは、すなわち生きる意味も目的も見出せていないことを意味している。生きる意味も目的も見出せていないのに、数字によって飾られた華やかな実績だけが眼前に積みあがっていき、いつのまにやらその成功に囚われてしまう。成功を目指していたはずが、いつしか成功の奴隷となる。アカギに言わせれば「お前今…動けねぇだろ…?」である。
そのような不自然極まりない生き方が、いつまでも通用するはずもなく、遅かれ早かれ燃え尽きてしまう。そのまま自ら命を絶ってしまう人も決して少なくない。成功している(と見なされていた)起業家が突如として自ら命を絶ってしまうのは、ほぼこのパターンである。彼らはこの現実世界にうまく適応はしたものの、観念世界をおろそかにしてしまった。観念世界なき者の末路とは、かくも悲惨なものである。
観念世界に住んでもダメ、かといって現実世界だけに適応してもダメ、いったいどないすりゃええんやと。このジレンマを乗り越えるのは本当に難しい。人生における最大の関門といっても過言ではない。それほどまでに難しいからこそ、世の多くの人はこのジレンマに陥って、一向に抜け出すことができないのである。
辺境のあばら小屋で打ち立てられた思想、すなわち成善主義においては、この多くの人がはまっているジレンマを、主従関係によって乗り越える。主従関係を理解していないから、ジレンマに陥るのである。どちらかをとるのではなく、どちらもとる。ただし、そこには主従関係があることを理解せねばならない。
その昔、名もなき賢人は言った。「この世を旅する者であれ、この世の者となるなかれ」と。この世界には明確に生き方としての主従関係が存在することを示唆する箴言である。
そして、これは観念世界と現実世界の関係にも当てはまる。あくまで主となるのは観念世界である。なので、観念世界がないというのは、そもそもお話にならない。けれども、だからといって従となる現実世界をおろそかにしていいというわけではない。明確に主従関係があるとはいえ、それは従をおろそかにしていいことを意味しない。むしろ、主をより際立たせるために、従が必要不可欠であると捉えるべきだ。それこそが本来の主従関係というものである。
つまり、理想郷であり本来の居場所でもある観念世界を見据えながらも、われわれがこの肉体をまとって過ごしているのは、あくまでこの現実世界なのだから、その現実世界を一歩でもその理想郷に近づけることができるよう生きる——これこそが本来あるべきマインドセットだということだ。
先ほど引用したヒュームの警句の最後の一文「哲学者たれ、しかし諸君の一切の哲学のただなかにおいても、なお、一人の人間であれ」は、このマインドセットを言い換えたものだと自分は解釈している。
ちなみにこの理想郷であり本来の居場所である観念世界のことを、プラトンはイデア界と呼んだ。自ら創り出した観念世界をどれだけイデア界へと近づけることができるかによって、観念世界の質は左右される。観念世界を主として位置づけるのと同じぐらい、その観念世界をイデア界へと近づけるのも大切なことだ。
ここまでの話、伝わるだろうか。今回おそらく過去一で抽象度の高い話をしているので、いつにもまして伝わっていない気がしてならない。この主従関係を理解することは、人生の奥義を会得したといっていいほどのインパクトがあるので、たとえ今はピンとこなかったとしても、頭の片隅にでも置いてもらえればと思う。今後も手を変え品を変え同じテーマを書いていくつもりでいる。


