社会学的観点から。
釣りという行為には加害性が確かに存在する。
しかし、その加害性を嗜虐的に楽しんでいるかどうかについては、
人間が他人の心だけでなく自分自身の感情すら正確に捉えることが難しいという前提から、
立証も否定もできない。
同じことは、プランターに魚の下半身を埋める行為にも当てはまる。
ただし私たちの社会では、
釣りという文化が嗜虐性を前提に成立しているという了解は一般的ではない。
一方で魚の下半身を埋める行為は文化として共有されておらず、
あったとしても極めて稀である。
つまり、後者は加害性そのものが剥き出しになっており、
前者は文化という「衣服」をまとっていると言える。
この違いは、公共空間で生じる結果にも表れる。
釣りは文化的に了解された行為であるため、
公共に晒されても大きな摩擦を生まない。
しかし、魚の下半身を埋める行為は文化的な基盤を欠くため、
その剥き出しの表現は社会的に非難されやすい。
さらに多くの場合、
その行為が本来達成しようとしているであほう目的を却って成立不可能にしてしまい、
あるいはその目的成立の前提となる舞台を破壊してしまうため、
矛盾した行為として返ってくる。
この意味で、行為そのものよりも、文化が加害性に与える「覆い」の有無が、
社会的評価と公共空間での帰結を大きく左右していると言える。
Quote
村岡昌憲@釣りプロ社長
@masa_chi
釣り人だけれども、生き物に対する敬意が無い人間はとても好きになれない。 x.com/xyzzxturi/stat…