「子は怪力乱神を語らず」
儒家は、現世の人間と社会だけを問題にする思想である。
孔子は、来世のこと、鬼神のこと、摩訶不思議なことは語らなかった。
『論語』「述而」篇にそうした姿勢を端的に表す一節がある。
子不語怪力亂神。
子は怪力乱神を語らず。
「怪」は、怪異、不思議なこと。
「力」は、暴力、力を振るうこと。
「乱」は、背徳、道を乱すこと。
「神」は、鬼神、祖霊のこと。
これら奇っ怪なこと、人知の及ばないことを孔子は語らなかったという。
では何を語ったのかと言えば、朱熹『論語集注』は謝良佐の次のような言説を引いている。
聖人語常而不語怪,語德而不語力,語治而不語亂,語人而不語神。
聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らず。
「常」は、人間社会の通常のこと。
「徳」は、為政者の人徳のこと。
「治」は、世が治まっていること。
「人」は、生きている人のこと。
孔子の関心事は、現世に「普通」に生きている人の「普通」の社会における「普通」の生活であった。
こうした姿勢は、『論語』の他の章句にも表れている。「雍也篇」に、
敬鬼神而遠之。
鬼神を敬して之を遠ざく。
とあるように、鬼神のことは、敬いはしても馴れ馴れしく近づいてはいけないと語っている。つまり、真正面から関わらずに、敬して遠ざける。野球の「敬遠」の語源だ。
「先進」篇では、子路が鬼神のことや死のことについて孔子に教えを請うている。
季路問事鬼神,子曰,未能事人,焉能事鬼。曰、敢問死。曰,未知,焉知死。
季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰く、敢て死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや。
「いまだ人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕えることができようか。いまだ生を知らないのに、どうして死を知ることができようか」
というのが孔子の答えだった。
「怪力乱神」をあえて語らなかった孔子は、「生きている人間」のことだけを問題にした。ここに儒家の現世第一主義の雛形を見ることができる。
渋沢栄一は、「怪力乱神」の章句に独特の解釈を加えている。
人が斯くの如き世間に普通で無い極端な事柄に趣味を持ち、絶えず怪、力、乱、神を口にして居るやうになれば、その人の思想は自づと平衡を失し、極端な行動を取つて得意とするまでになり、言行共に中庸を喪ふに至る恐れのあるものだ。これ孔夫子の取らざる処である。依て孔夫子は、断じて怪、力、乱、神を談るまいとの御決心をなされて居つたものらしく思へる。怪、力、乱、神を談らぬとは、つまり中庸の道を守らうとの心懸が盛んであらせられたとの意に外ならぬのである。――「実験論語処世談」(第39回)
渋沢は、孔子が「怪力乱神」を語らないのは、「中庸」の道を守ろうとしているからにほかならないと述べている。やや論点がずれているような気もするが、異常ではなく極端でもなく「普通」であることと「中庸」の道とは、確かに通底するところがあるかもしれない。



コメント
4いつも素晴らしい話をありがとうございます。
生きることに特化して学ぶだけでも課題は山積みです。
「子は怪力乱神を語らず」
「確かに!」と感じました。
kyouseiさま
コメントありがとうございます!
中国人は「生」に対する執着が強いのでしょうね。
仙人とかは永遠に生き続けるってことですし。
「怪力乱神」をあえて語らなかった孔子は、「生きている人間」のことだけを問題にした。ここに儒家の現世第一主義の雛形を見ることができる。・・・
非常に賢い選択だったと思います。
人間の理性・知性を超えているものに触れようとしたら
プラトンのイデア・新プラトン学派・キリスト教・ドロアスター・インドの神々・仏陀に
ならざるを得ないし、これは人倫の道ではなくなりますものね。
政治の道を求め、それを諸国の為政者に説くには「形而上学」はいらないですものね。
そこに限界もあるし、現世がありますね。
トランプはどうでしょうか?
トランプですかあ・・・
怪力乱神どころか何でも平気で語りますからねえ🤔