歴代『伊豆の踊子』と、その時代② ~美空ひばりの『伊豆の踊子』と、1940~1950年代の文学界 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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川端康成が、旧制一高に在学中、伊豆への一人旅に出た時に、旅芸人の一座と道連れになり、

その旅芸人一座の中に居た、可愛いらしい「踊子」との出逢いと別れの思い出を描いた作品、

それが、かの有名な『伊豆の踊子』であった。

『伊豆の踊子』は、1925(大正14)年の発表と同時に大評判となり、1933(昭和8)年には、田中絹代の主演で映画化もされた。

 

 

それから21年後の1954(昭和29)年、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで、

大スター街道を驀進していた、当時17歳の美空ひばりの主演で、

『伊豆の踊子』は、21年振りに映画化された。

というわけで、今回は、美空ひばり版の『伊豆の踊子』と、その頃の文学界などについて、描いてみる事としたい。

 

<1946(昭和21)年…東大在学中の三島由紀夫が、短編『煙草』の原稿を川端康成に見せる⇒川端康成の推薦で、文芸雑誌『人間』に、三島由紀夫の『煙草』が掲載~三島由紀夫、戦後文壇への足掛かりを得る>

 

 

 

終戦直後の、1946(昭和21)年、当時、東京帝国大学(東大)に在学していた三島由紀夫は、学生生活の傍ら、創作活動を行なっていたが、三島は、『煙草』という短編を書くと、その原稿を持って、当時、鎌倉に住んでいた川端康成の元を訪ねた。

三島由紀夫川端康成は、戦前に何度か手紙のやり取りをしていたが(※川端が、三島が発表した、いくつかの小説を読み、手紙を出したのがキッカケであった)、戦後になり、三島は初めて川端を訪ねたのである。

すると、川端は『煙草』の出来の良さに感心し、川端の推薦により、三島の『煙草』は、川端が主宰者の一人だった文芸雑誌『人間』に掲載される事となった。

 

 

 

つまり、三島由紀夫は、川端康成の後ろ盾を得て、戦後文壇に登場する足掛かりを得たのである。

以後、川端と三島は師弟関係を結び、三島は川端の事を大変慕うようになったが、

後年、ある出来事を契機に、二人の関係に亀裂が生じた。

その事については、後述させて頂く。

 

<川端康成と太宰治の「芥川賞」を巡る因縁~「第1回芥川賞」(1935年)に落選した太宰治、選考委員の川端康成に、「恨み節」を全開>

 

 

川端康成三島由紀夫が、比較的良好(?)な関係を築いていた一方、

川端康成太宰治の関係は、大変険悪であった。

1935(昭和10)年、「文藝春秋」を創刊した菊池寛が、亡き盟友・芥川龍之介と、直木三十五を記念し、

「芥川賞」「直木賞」を創設した時に、太宰治「第1回芥川賞」の候補になったが、

残念ながら、太宰は落選してしまい、「芥川賞」を獲る事は出来なかった。

 

 

 

この時、太宰は大変落胆したのと同時に、

「芥川賞」の選考委員の一人だった川端康成に対し、激しい怒りを覚え、

「川端康成へ この大悪党め。刺す」

などという、過激な文言の手紙を送ったり、雑誌の誌面で、川端を攻撃する文章を発表したりした。

実は、この時、川端は太宰を評して、「作者、目下の生活に厭な雲あり」と言っていた。

つまり、「太宰治は私生活が乱れているので、芥川賞には値しない」と言ったも同然であった。

「私生活と、作品とは何の関係も無いだろう!!」

太宰は激怒した。

「作者が、どんな奴だろうと、作品だけで評価すべきだろう」

というのが、太宰の言い分であった。

(※ちなみに、「第1回芥川賞」は、石川達三『蒼氓』が受賞)

 

 

その後、太宰治は、「第2回 芥川賞」「第3回 芥川賞」の時は、

今度は「泣きの一手」とばかり、他の選考委員だった佐藤春夫(※法政大学の校歌の作詞者)に対し、

「どうか、どうか、私に芥川賞を下さい」

と、「哀願」する長文の手紙を送っている。

では何故、太宰がこんなに「芥川賞」が欲しかったのかといえば、

太宰が、芥川龍之介を大変尊敬し、憧れていたというのも、勿論、その理由だったが、

当時の太宰は乱脈な生活を続け、お金に困っていたというのも、その理由だった。

つまり、「芥川賞」の賞金は、喉から手が出るほど、欲しかったわけである。

 

 

だが、結局、太宰治「芥川賞」を獲る事は出来なかった。

川端康成は、太宰に対し、「君は、もう新人じゃないんだから。芥川賞が貰えなくても、良い作品を書いて、勝負しなさい」と、諭したのである。

そんな出来事が有って、以後、太宰は発奮し、旺盛な作家活動を展開した。

つまり、ある意味では、川端は太宰の実力を認めていたからこそ、敢えて突き放したという言い方も出来よう。

 

<「新戯作派」「無頼派」トリオ~戦後、文壇の寵児となった、太宰治・坂口安吾・織田作之助>

 

 

 

 

太宰治は、戦前、『走れメロス』『富嶽百景』などの名作を次々に発表したが、

太宰が、一躍有名になったのは、戦後の事である。

戦後、太宰治・坂口安吾・織田作之助の3人は、その破天荒な生き様も含め、大きな注目を集め、

「新戯作派」「無頼派」と称され、一躍、文壇の寵児となったのである。

坂口安吾は、敗戦で虚脱状態になっていた日本人に対し、

「徹底的に、落ちる所まで落ちなければ、真の再生は無い」

と説いた『堕落論』で、大評判となったが、

この人達は、そもそも生活は「落ちる所まで」落ちていた。

だからこそ、説得力が有ったのかもしれない。

 

<1946(昭和21)年12月14日…三島由紀夫と太宰治、生涯ただ一度の出会い~「僕は、貴方の文学は大嫌いです!!」と言い放った三島に対し、太宰は…??>

 

 

 

さて、戦後、一躍人気作家となった太宰治は、毎晩のように、取り巻きを引き連れ、夜の街で豪遊するようになっていた。

太宰は、元々、酒が大好きな人間だったが、この頃は、自らのシンパを集め、毎晩、良い気になって遊び歩いていたのである。

まさに、太宰にとっては「我が世の春」だったが、そんな太宰の事を、苦々しく思っている男が居た。

それこそ、戦後文壇に登場したばかりの、当時21歳の青年・三島由紀夫である。

 

 

 

太宰治の文学とは、自分の弱さや醜さを曝け出し、

「俺は、こんなにダメ人間なんだ」

という事を、これでもかと書き連ねて行くのが、特徴である。

だからこそ、多くの読者の共感を得たとも言えるが、

三島由紀夫は、そんな太宰の文学が大嫌いだったという。

「あんなもの、文学じゃない」

三島は、自分の「弱さ」を売り物にする太宰が、とにかく嫌いであった。

 

 

 

 

1946(昭和21)年12月14日、東京・練馬のバーで、太宰治は、いつものように、取り巻き連中を集め、ドンチャン騒ぎをしていた。

そこへ、三島由紀夫は乗り込むと、いきなり、三島は太宰に向かって、こう言い放った。

「僕は、あなたの文学は嫌いです!!」

一瞬、その場は静まり返り、太宰も虚を衝かれたような表情になったが、

「君、そんな事を言って、わざわざこんな所まで来るんだから、君だって本当は僕のファンなんだろう??」

太宰は、ニヤニヤしながら、三島の顔を見たという。

三島は、ムッとして黙り込んだが、こんな風に、三島と太宰は「対面」を果たした。

しかし、結果として見れば、これが太宰治三島由紀夫の、生涯ただ一度の出会いであった。

 

<1946(昭和21)年春…東大野球部、戦後初の東京六大学野球で、「初優勝」まであと一歩に迫り、「2位」に躍進!!~川端・太宰・三島は、母校・東大の快進撃に、何を思ったか!?>

 

 

 

三島由紀夫が、川端康成の推薦によって、戦後文壇に登場し、

太宰治三島由紀夫が、「最初で最後の出会い」を果たした、1946(昭和21)年の春、東京六大学野球が「復活」を果たした。

まだ神宮球場もGHQに接収された状態で、選手も完全には揃わない中、「各校1本勝負」のリーグ戦が行われたが、

何と、川端康成・太宰治・三島由紀夫の母校・東大野球が、ストレートの4連勝の快進撃を見せ、最後の慶応戦に勝てば「初優勝」という所まで迫った。

しかし、東大は慶応に0-1で敗れ、惜しくも「初優勝」の千載一遇のチャンスを逃したが、東大は「4勝1敗」で、堂々と「2位」に躍進した。

という事で、川端・太宰・三島は、彼らの母校・東大の快進撃に、一体、何を思ったであろうか。

もし、東大が優勝していたら、或いは、何か言及していたかもしれないが、今となっては、それはわからない。

 

<1948(昭和23)年…太宰治、『人間失格』を発表~1948(昭和23)年6月13日、太宰治と愛人・山崎富栄が玉川上水で心中⇒6日後の6月19日に、2人の遺体が見付かる>

 

 

 

東大「初優勝」を逃した2年後、1948(昭和23)年、太宰治は、事実上、最後の小説となった、『人間失格』を発表した。

『人間失格』は、主人公が「恥の多い生涯を送って来ました。」という一文から始まる手記を発表し、

自らの人生を告白するという体裁で書かれているが、これは、明らかに太宰自身の事をモデルとしていた。

何故、『人間失格』というタイトルになっているのかは、最後まで読み進めて行けば、わかる。

とにかく、太宰が半ば自分の事を書き、自分の「恥の多い生涯」を、赤裸々に告白しているような内容なので、

とにかく、読んでいて迫力が有る。

「こんな事を書いてしまっては、これ以上、書く事なんか有るのか?」

と、思わせるような、凄い小説である。

 

 

 

案の定というか、『人間失格』を発表して間もなく、

1948(昭和23)年6月13日、太宰治は、愛人・山崎富栄と共に、玉川上水で心中してしまった。

太宰には妻子も居り、それまでも、何度も「心中未遂」をしていたが、とうとう本当に死んでしまった。

この時、山崎富栄は、自らの手と太宰の手を、固く紐で結び、太宰が逃げないように(?)していたという。

そして、太宰は彼女と共に、亡くなってしまったのであった。

1948(昭和23)年6月19日、奇しくも太宰治の39歳の誕生日に、2人の遺体は見付かった。

以後、6月19日は、太宰を偲び、「桜桃忌」として、毎年、多くの太宰ファンが、彼の墓参りをしている。

 

<1949(昭和24)年…三島由紀夫、大蔵省を退官し、『仮面の告白』で作家専業に!!~『仮面の告白』は大ヒットし、三島由紀夫も文壇の寵児となる>

 

 

さてさて、三島由紀夫は、1947(昭和22)年11月に東大を卒業したが、

頭脳明晰な三島は、高等文官試験(現・国家公務員第一種試験)に合格し、

東大卒業後、三島は大蔵省に入った。

以後、三島は大蔵省に勤務する傍ら、作家活動を続けた。

所謂、「二足の草鞋」を履いていたわけであるが、大蔵省で働きながら、小説を書くという生活は、大変厳しく、

ある日、三島は睡眠不足でフラフラとなり、駅のホームから線路に転落してしまった。

幸い、電車は来なかったため、命は落とさずに済んだが、

「このままでは、身体を壊す。こうなったら、小説を書くのに専念する!!」

と、三島は決意し、大蔵省に入ってから僅か数ヶ月で、大蔵省を退官してしまった。

三島は、退路を断ち、作家として生きて行く決意をしたのである。

 

 

 

そして、翌1949(昭和24)年、三島由紀夫は作家専業になって初めて書いた長編小説、『仮面の告白』を発表すると、

『仮面の告白』は、大ベストセラーとなった。

こうして、三島由紀夫も、一躍、文壇の寵児となり、以後、三島由紀夫は人気作家としての道を歩んで行く事となった。

愛人と心中し、亡くなってしまった太宰治と入れ替わるようにして、今度は三島由紀夫が文壇のスターとして登場したのである。

 

<1949(昭和24)年…当時12歳の天才少女歌手・美空ひばり、『悲しき口笛』で大ブレイク!!>

 

 

 

1949(昭和24)年、三島由紀夫『仮面の告白』で、文壇に華々しく登場したのと同じ年、

当時12歳の天才少女歌手・美空ひばりが、『悲しき口笛』で、大ブレイクを果たした。

美空ひばりの登場と、その後の大活躍については、既に他の記事で詳しく書いているので、ここでは割愛するが、

美空ひばりこそ、今回の『伊豆の踊子』のお話の、主役である。

これから数年後、彼女は『伊豆の踊子』の21年振りの映画化で、主役を演じる事となる。

 

<1954(昭和29)年…美空ひばり・石濱朗の主演で、『伊豆の踊子』が21年振りの映画化!!~大人気・美空ひばりが、「踊子」を熱演>

 

 

1954(昭和21)年、松竹は、当時17歳で、大人気スターになっていた美空ひばりを主演に起用し、

1933(昭和8)年の田中絹代版以来、21年振りに『伊豆の踊子』を映画化した。

監督は野村芳太郎が務め、主演は美空ひばりと、石濱朗のコンビである。

勿論、美空ひばりが「踊子」、石濱朗が「私」を演じた。

なお、美空ひばり版の『伊豆の踊子』のキャッチコピーは、

「椿の花は咲いたけど なぜに咲かない恋の花!」である。

 

 

美空ひばりは、21年前(1933年)の田中絹代に負けず劣らず、

可憐で健気な「踊子」を、見事に演じた。

美空ひばりが、仄かに恋心を寄せる「私」を、石濱朗も好演している。

『伊豆の踊子』といえば、一にも二にも、「踊子」の魅力に尽きると思われるが、

『伊豆の踊子』での美空ひばりも、本当に輝いている。

 

 

 

美空ひばりといえば、何と言っても、その見事な歌声であるが、

美空ひばりは、『伊豆の踊子』の主題歌も、勿論、歌っている。

先程も書いたが、この時、美空ひばりは弱冠17歳である。

17歳の女の子(?)が、良くもまあ、あれほど見事な歌を歌えたものだ。

とても、17歳の歌声には聴こえない。

『伊豆の踊子』でも、彼女は、まるで何十年も生きて来て、人生の酸いも甘いも知り尽くしたような、情感溢れる歌声を披露している。

やはり、美空ひばりは、「天が、この世に遣わした、歌の女神」と言っても良いであろう。

 

 

 

『伊豆の踊子』のストーリーは、前回ご紹介した通りであり、

話の展開としては、誰が演じても同じといえば同じなのだが、

話の前半では、「踊子」(薫)「私」と知り合い、「踊子」(薫)「私」に胸をときめかせ、幸せいっぱいの笑顔を見せる。

この「踊子」(薫)の恋心を、美空ひばりも見事に表しているが、彼女は、基本的には、自分が気に入った人としか共演しなかったという話も有るので、美空ひばりも、この時、共演者の石濱朗の本当に事を気に入っていたのかもしれない。

歌を、あれだけ感情を込めて歌う人であり、映画の中で、彼女は恋をしていたとしても、何ら不思議ではない。

 

 

 

だが、物語の後半になると、美空ひばりが演じる「踊子」も、段々と憂いを帯びた表情が多くなって来る。

旅芸人の一座の「踊子」と、エリートである一高生の「私」とでは、所詮は身分が違いすぎ、

結局は、「踊子」と「私」の恋は実らずに終わってしまうわけであるが、

このように、恋が成就しなかったからこそ、『伊豆の踊子』は、普遍的な名作へと昇華したと言えよう。

 

 

ちなみに、1954(昭和29)年の、美空ひばり版の『伊豆の踊子』が公開された当時、

原作者・川端康成は、55歳になっていた。

川端は、押しも押されもせぬ、文壇の大御所だったが、きっと彼も、一般の観客と同じく、美空ひばりの『伊豆の踊子』を、堪能したのではないだろうか。

なお、美空ひばり版『伊豆の踊子』は大ヒットを記録し、改めて、美空ひばりと、『伊豆の踊子』の人気の高さを印象付けたが、この後、『伊豆の踊子』は、日本映画界を代表するキラー・コンテンツとなって行くのである。

 

<1954(昭和29)年の映画①…『七人の侍』、『ゴジラ』、『里見八犬伝』、『二十四の瞳』~名作・大ヒット作が目白押し!!>

 

 

 

美空ひばり版の『伊豆の踊子』が大ヒットした、1954(昭和29)年といえば、

日本映画界が、まさに花盛りの百花繚乱の時代であり、名作や大ヒット作が目白押しであった。

黒澤明監督で、志村喬・三船敏郎らが主演した、東宝映画『七人の侍』は、野盗の群れに襲われる村が、七人の侍を雇い、

その七人の侍と村人達が力を合わせ、野盗との血みどろの戦いを繰り広げる、大迫力の映画である。

まさに、「世界のクロサワ」の面目躍如、日本映画史上に残る、大傑作である。

 

 

 

同じ年(1954年)、東宝は、水爆実験により、海底から蘇った大怪獣が大暴れするという、

怪獣映画『ゴジラ』を公開し、こちらも大ヒットとなった。

この年(1954年)、水爆実験により、第五福竜丸が被爆するという事件が有ったが、

『ゴジラ』は、その水爆実験に対する抗議の意味も有るという。

という事で、ゴジラは社会派の映画でもあった。

 

 

同年(1954年)、東映は、中村錦之助・東千代之介ら、オールスターが登場する、

華やかな映画『里見八犬伝』を公開した。

以後、『里見八犬伝』はシリーズ化されたが、東宝が黒澤映画・怪獣映画なら、東映はオールスター時代劇で対抗したのであった。

 

 

 

美空ひばり版『伊豆の踊子』を製作した松竹は、

同じ年(1954年)、小豆島の12人の生徒と、女性教師との交流を描いた、

不朽の名作映画『二十四の瞳』を公開した。

木下恵介監督で、高峰秀子、月丘夢路らが出演した、心温まる作品である。

という事で、1954(昭和29)年は、凄い映画が沢山有った年であった。

 

<1954(昭和29)年の映画②…『ローマの休日』、『麗しのサブリナ』で、オードリー・ヘップバーンが登場!!>

 

 

 

1954(昭和29)年といえば、ハリウッドの新星、オードリー・ヘップバーン主演の、

『ローマの休日』、『麗しのサブリナ』が日本でも立て続けに公開され(※アメリカでは、『ローマの休日』は1953年公開)、

一躍、オードリー・ヘップバーンが大人気になった年でもある。

『ローマの休日』も、『伊豆の踊子』と同様、主人公の恋は成就しないが、それだけに、人々の心に残る映画となった。

『麗しのサブリナ』は、とにかくお洒落な映画であり、この2本の映画を見ると、オードリーの魅力は、まさに時代を超えた物であると思わされる。

 

<1955(昭和30)年前後~日本文学界に登場した「第三の新人」とは!?>

 

 

1955(昭和30)年前後、日本文学界に「第三の新人」と称される、個性豊かで才能溢れる新人作家たちが、一斉に登場した。

「第三の新人」というのは、

「第一次戦後派」(野間宏・武田泰淳・埴谷雄高・梅崎春生・椎名麟三・花田清輝・加藤周一・中村真一郎・福永武彦ら)、

「第二次戦後派」(大岡昇平・三島由紀夫・安部公房・島尾敏雄・堀田善衛・井上光晴・長谷川四郎ら)に次いで、

所謂「戦後第三世代」として登場した作家たちであり、

「第三の新人」の内訳は、遠藤周作・安岡章太郎・吉行淳之介・庄野潤三・小沼丹・近藤啓太郎・阿川弘行・三浦朱門・曽野綾子らを指す。

いずれも、文芸評論家・山本健吉が「分類」したものであるが、「第三の新人」は、以後、文壇で長く活躍を続けた。

 

<そして、1956(昭和31)年…石原慎太郎、『太陽の季節』で、史上最年少(当時)の23歳で「芥川賞」を受賞!!~「太陽族」ブームが到来し、石原慎太郎の弟・石原裕次郎が登場>

 

 

 

文壇で「第三の新人」が活躍を始めた頃、

日本文学界の、それまでの既成概念を全てぶち壊すような、衝撃的な出来事が有った。

当時23歳という史上最年少で、一橋大学の学生・石原慎太郎が、『太陽の季節』で「芥川賞」を受賞したのである。

『太陽の季節』は、大きな話題となり、世間には「太陽族」と呼ばれる若者達が大量に登場するなど、社会現象となった。

 

 

 

その石原慎太郎の弟・石原裕次郎は、

実は『太陽の季節』の主人公のモデルだったのだが、「太陽族」の象徴として、

石原裕次郎が、『太陽の季節』の映画化で、デビューを飾った。

という事で、遂に石原慎太郎・裕次郎の兄弟が登場し、戦後の日本文学界・映画界も、新たな時代に入ったと言って良い。

 

 

 

という事で、戦後10年が経ち、日本社会に、新しい力がどんどん台頭して来たが、

それを受けて立つ三島由紀夫、そして川端康成は、この後、どうなって行くのか、

そして、日本映画界のキラー・コンテンツとなった『伊豆の踊子』は、誰が演じて行くのか、その話の続きは、また次回のお楽しみである。

 

(つづく)

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