《ソ連(ロシア)から搬入したセイウチの「ムック」は、牙を削ってしまう。食欲不振の解決後、新たな問題が…》
用意周到に準備された新セイウチ舎でしたが、いたずら好きのセイウチはなかなか手ごわい。修理のためにムックを別の部屋に移すと翌日、顔の印象が変わっている。新しい部屋で伸び始めた牙を壁にこすりつけ、ヒゲの間から見えなくなるまで削っていたのです。
どうしたらいたずら好きなセイウチの遊びたい気持ちを満足させることができるのでしょう。頑丈で大きなボールのおもちゃを入れたり、アザラシと同居させたり、一緒に遊んだりと、好奇心を満たせるようにしてみました。しかし癖になったムックの「牙削り」は止まりませんでした。
《昭和61年10月、ムックの顔に異変が現れる》
はじめは歯茎の腫れで、歯が命にかかわるような病気を起こすはずがないと思い込んでいました。が、12月になると目の下の頰が腫れ、右目の下が硬く、触ると嫌がります。抗生物質を投与し、年明けにレントゲンを撮ってみましたが、原因が分かりません。
《そのころ、かつて訪問したシーワールド・サンディエゴからジム・アントリム氏と同社のドン・ゴールズベリー氏が来日する機会があり、鴨川シーワールドに立ち寄った》
ムックのことを話すと、「それは牙の病気だよ」とドンさん。ジムもムックの顔を見て、「間違いない」と。牙自体に異常は見えなかったので驚きました。ジムは英語が苦手な私のために、分かりやすく治療法を教えてくれました。どうやら、ムックは牙から細菌が入って頰に膿(うみ)がたまり、切開して膿を出す必要があるようです。それでも良くならなければ牙を抜くしかないと言います。セイウチの牙は60~70センチくらいになるまで伸び続けます。そんな牙を、当館で誰が抜けるのでしょう。
《62年4月、ムックに全身麻酔をかけ、頰を横に3センチほど切開した》
膿は出ません。1週間後、もう一度麻酔をして切開すると、今度は膿が出ました。すっきりしたのか、ムックは餌も食べるようになった。少し安心です。
この年の5月、米国で開催された水生生物の学会に出席するタイミングで、シーワールド・サンディエゴでセイウチの牙の摘出手術を見せてくれることになりました。執刀したのは獣医師でもあるコーネル館長。まずは鎮静剤、続いて麻酔薬を注射します。セイウチは眠ったのですが、呼吸が止まってしまった。急いで人工呼吸が行われ、息を吹き返しました。
その後の手術は順調で、コーネル館長はノミとトンカチで牙の周りをはがし、大きなペンチで牙を引き抜きました。目覚めたセイウチは歩いて飼育舎に帰っていきます。牙を抜くことより、全身麻酔が難しいという思いで帰国しました。
《ムックの容体は悪くなっていく》
帰国後、ムックの手術に必要な器具を一通りそろえ、麻酔のことを大学時代の友人の獣医師に相談し、いろいろ試しながら準備しました。それでもやはり麻酔には慎重にならざるを得ません。もしもムックの呼吸が止まって、目覚めなくなったらどうしようという不安が、どうしてもぬぐえなかったのです。
この年の11月、あのコーネル館長がイルカにかかわる仕事で当館に来ることになっていました。そこで私はムックの手術をお願いしようと考えたのです。一行を成田空港に迎えに行く朝、当館の鳥羽山照夫館長に「ムックの手術はどうするのか?」と尋ねられました。そこで、「コーネル館長にお願いしようと思っています」と伝えたのです。
すると次の瞬間、鳥羽山館長は「大人になれ!」と大声で私を叱責し、館長室から出ていってしまいました。(聞き手 金谷かおり)