写楽の正体はとっくに判明しているのに…物語の最終盤であえて史実無視の設定を放送する「べらぼう」の残念さ
■「べらぼう」で描かれる写楽への強い違和感
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第45回(11月23日放送)は、副題が「その名は写楽」。ついに東洲斎写楽が描かれるのだが、いまなお写楽役のキャストは発表されていない。実際、写楽という一人の絵師は登場しないのである。
第44回「空飛ぶ源内」(11月16日放送)では、平賀源内(安田顕)が生きている可能性が取りざたされた。続く第45回では、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は、役者絵を描いて、それが源内作だという噂を立て、話題づくりをすることを思いつく。そして旧知の絵師や戯作者らを集めて制作チームをつくり、朋誠堂喜三二(尾美としのり)の思いつきで「しゃらくさい」という言葉に「写楽」という字を当てることになった。
たしかに写楽という絵師に関しては、これまで「だれだったのか」という謎解きが、いわば日本史上における大きなミステリーとされてきた。寛政6年(1794)5月、蔦重が役者の大首絵を一挙に28点出したのが写楽のお披露目で、それはまったく無名の絵師の登場だった。しかし、140点ほどの作品を出したのち、わずか10カ月で忽然と姿を消してしまった。長きにわたり、多くの人がさまざまに想像力をかき立てられたのも当然だろう。
そこに「べらぼう」が、新しい謎解きをして世に問う、ということだろうか。たしかに、写楽に該当する一人の人物は存在せず、それはチームだったという話は斬新である。だが、詳しくは後述するが、写楽がだれであったのか、すでに特定されている。1年を通しての物語の終盤で、あえて史実を無視した展開にする必要があったのだろうか。
■これまで質が高かったのに
近年のNHK大河ドラマのなかで、「べらぼう」は比較的、史実が大切にされていた。
「史実を大切に」というのは、史実に雁字搦めになることではない。史料等でたしかに裏づけがとれる内容だけでは、ドラマを構成する材料はまったく足りない。そこでフィクションが必要になるが、問われるのはフィクションの質である。1つは、フィクションであっても史料で確認できる内容と齟齬を来さないこと。もう1つは、当該の時代を生きた人たちのものの考え方に即してフィクションが形成されていること。歴史ドラマには、その2つが求められると思う。
「べらぼう」のフィクションは、その点で質が高かった。最近であれば、松平定信(井上祐貴)があまりに厳格に改革を推し進め、わざと辞表を出すことで信任を得たり、かつての同志が離れていったりする場面が、一つひとつの発言まで史料に依拠していた。
少し前の放送内容なら、10代将軍家治(眞島秀和)の嫡男で、後継に決まっていた家基(奥智哉)の急死。家基には爪を噛むクセがあったという設定で、それをねらって手袋の指の部分に毒が仕込まれ、まさに指をかんだ結果、鷹狩の最中に倒れて急死した。
家基が急死した理由には諸説あって、定まっていない。そもそも史料には、鷹場で倒れてそのまま死んだとは書かれていない。それをミステリー仕立てにし、迫真性を出すために状況設定も少し変えたのだろう。だが、直前まで元気だった若者の急死は不審であり、その死によって得する者は確実に存在した。そういう歴史的状況を踏まえ、謎の死にいたった可能性のひとつとして、フィクションが合理的かつ緻密に組み立てられていた。
■写楽はすでに謎の人物ではない
一方、あまり誉められないフィクションは、近年では2023年の「どうする家康」に目立った。たとえば、徳川家康(松本潤)の正室の瀬名こと築山殿(有村架純)は戦(いくさ)の虚しさを語り、「奪い合うのではなく与え合うのです」と説いた。つまり、隣国同士で足りないものを補填し合い、武力ではなく慈愛の心で結ばれれば戦は起きない、と強く訴えたのだ。
しかし、領国の境界が常に脅威にさらされ、戦わなければ敵の侵攻を許し、戦う意志を示さなければ、傘下の領主たちがすぐに離反する戦国の世においては、「与え合う」などというのは到底生まれえない発想である。そういう話を導入した途端、フィクションは歴史から離れてファンタジーに堕してしまう。
それにくらべれば、「べらぼう」での写楽の描き方は、蔦重が生きていた時代の人々のものの考え方から、遠く離れているわけではない。とはいえ、注目度が高い歴史上の著名人について、すでにわかっていることがあるのに、それを無視するのはいかがなものだろうか。
というのも、写楽はすでに謎の人物ではないのである。
■正体は徳島藩主お抱えの能役者
江戸時代末期の町名主で文化人でもあり、『江戸名所図会』などの著作で知られる斎藤月岑は、天保15年(1844)に刊行された『増補浮世絵類考』に次のように書いている。「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯(註・徳島藩主)の能役者なり」。つまり、写楽とは八丁堀に住む徳島藩主お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛だ、というのである。
この説はドイツの牧師兼著述家で、浮世絵研究家でもあったユリウス・クルトも、写楽の最初の評伝『SHARAKU』で採用している。ただ、斎藤十郎兵衛が実在したことを示す史料がなかったため、写楽は「謎の人物」とされ、「写楽とはだれか」という謎解きが盛んになった時期があった。
しかし、現在では斎藤十郎兵衛の実在が確認され、写楽イコール十郎兵衛というのが、すでに定説になっている。
たとえば、三代目瀬川富三郎が江戸の文化人について記した『江戸方角分』に、「号写楽斎地蔵橋」と書かれていたことがわかった。これは浮世絵師の写楽斎が、八丁堀地蔵橋に住んでいた、という意味である。また、埼玉県越谷市にある斎藤家の菩提寺、法光寺で発見された過去帳に、八丁堀の地蔵橋に住んでいた徳島藩士の斉藤十郎兵衛が58歳で死去し、文政3年(1820)に千住で火葬された、と記されていることもわかった。
■リアルすぎる役者を描けた納得の理由
ほかに徳島藩主だった蜂須賀家の古文書や能役者の名簿などにも、斎藤十郎兵衛の名が確認されている。もはや写楽が十郎兵衛であったことを疑う余地は、残されていないといっていい。
さらにいえば、「東洲斎」という姓の漢字を入れ替え、「斎東洲」とすれば「さいとうじゅう」と読める。実際、「洲」という字は江戸時代には「しゅう」ではなく「じゅう」と、濁点をつけて読まれていたという指摘もある。
写楽が描いた役者の大首絵は、良くも悪くもリアルだった。リアルすぎるあまり、理想化された役者の絵姿を求めるファンには、いまひとつ不評だったといわれる。大田南畝は『浮世絵類考』に次のように書く。「歌舞伎役者の似絵をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず」。歌舞伎役者の似顔絵をあまりにリアルに描きすぎたので、長く支持されなかった、というのだ。
しかし、それほどリアルに描けたのは、描き手の十郎兵衛自身が役者だったからではないだろうか。松嶋雅人氏は次のように書く。「十郎兵衛も演者です。その絵は役者の所作や舞台上での身体の使い方を知っている人の描きぶりだとよく指摘されます。しかし彼は役者絵の定石や、大衆娯楽である歌舞伎界の不文律に疎かった。固定観念がないからこそ、すさまじくリアルな役者絵を、自由に描くことができたのではないでしょうか」(『蔦屋重三郎と浮世絵』NHK出版新書)
■なぜ写楽は突如として消えたのか
写楽が大名に仕えていたなら、ごく短期間で消えたのも納得がいく。江戸時代には能は幕府の式楽だったので、能役者には武士の身分があたえられた。一方、同じ役者でも歌舞伎役者は、当時の身分制度のもとでは下層に置かれていた。
斎藤十郎兵衛は、いわば覆面絵師として歌舞伎役者を描いた。しかし、当時はまだ松平定信による寛政の改革の余波が残っていた。能楽で藩に仕える士分の者が、下層の役者を描いていることが発覚すれば、なんらかの処分の対象になりかねない。写楽の正体が明かされる前に、身を引いておいたほうが無難である。
写楽の正体は現在、ここまではっきりとわかっているのである。それをあえて無視し、写楽という個人は存在しなかったというストーリーを創り上げることに、どんな意味があるのだろうか。しかも、注目度が高い写楽だけに、歴史への誤解を生むことにもつながると思うと、なおさら残念である。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)