いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

整形逃亡15年―魔性の女・福田和子

数々の男たちを手玉に取り、国民の目を15年近くにわたって欺き続けた魔性の女・福田和子について。

 

松山ホステス殺害事件

1982年(昭和57年)8月19日(木)、愛媛県松山市勝山町に暮らすスナックホステス安岡厚子さん(31歳)の行方が分からなくなった。部屋からは、現金、通帳、貴金属類や衣類などがなくなっていたほか、多くの家財道具まで運び出されていた。

安岡さんは81年から市内の会員制高級クラブ『英国亭』に勤め、店の人気ナンバーワンだった。将来的には地元高知に戻って飲食店を開業する資金を貯めていたとされ、マンションは愛人男性が借りていたもので、部屋は高級な調度品で埋め尽くされていた。

 

しかし愛人男性が訪ねてみると部屋はもぬけの殻のような状態で、書置きなどもなく、愛犬だけが取り残されていた。確認してみると安岡さんは店を無断欠勤しており、周囲に自発的失踪を思わせる様子や心当たりもなかったことから、21日に警察へ相談に出向いた。

しかし安岡さんが成人であること、部屋から家財道具一式が持ち出されている状況、家族による届け出しか受け付けられないなどの理由で、失踪届けは直ちに受け入れられなかった。事件性が認知されたのは、父親が20日に預金の引き出しに気づき、銀行で第三者によって手続きされていた事実を確認したためであった。

警察がマンションを確認すると、ソファーから尿痕と微量の血痕が検出され、19日夜には大家が家具の搬出作業を目撃していたことが判明。にわかに強盗殺人の様相を呈した。

搬送に使用されたトラックはレンタカーで、ほどなく警察は借りていた男性を突きとめると、24日に今治の自宅に訪問した。そのとき男性は仕事で不在だったため、身分を隠していた刑事たちはそのまま退去した。応対して不安になった男性の妻は、すぐに心当たりの親戚の女に電話を掛けた。

5日前の夜、「知人の夜逃げを手伝ってほしい」と電話を寄越して、男性にトラックを手配させた福田和子(当時34歳)である。和子はつい先日も彼女に「代わりに金を引き出してほしい」と不審な頼み事をしていた。

和子は親戚女性をなだめすかしたが、直後には自分の家にも聞き知らない男から電話が入ると、警察と察知して、とっさに娘のふりをして不在を取り繕った。捜査の手が迫っていると察すると女の行動は早かった。家族と夕食を済ませると、午後8時半すぎにちょっと出てくるとだけ言い残し、大洲市徳森の自宅を離れた。

その晩、松山東署の刑事たちが和子の自宅を訪れ、夫の高俊(当時33歳)を任意で事情聴取した。和子は紙一重で行方をくらませたのである。

 

夫の高俊は親族の営む電話工事会社に勤めていたが、かなり無理をして新居を建て、四人の幼子がいたことから家計に余裕はなかった。

和子も働きに出たが、ホステス稼業では家柄のよい未婚女性を装い、高価な服や貴金属ばかりか、入れあげた男性に食事をおごるなど羽振りよく振るまうため、却って散財がかさんだ。知人の身分証を使ってサラ金などに200万円近くまで借金を膨らませ、稼ぎは利息の返済ですべて消えた。

82年3月から安岡さんと同じ『英国亭』で勤めたものの、和子は一か月程で辞めていた。店側から売春の斡旋を持ち掛けられたためである。それほど親密とも敵対していたとも思えないが、和子の弁によれば、店で貯えがあると聞かれた安岡さんに近づき、一緒に店をやらないかと持ち掛けていたとされる。

高俊は、和子の親類男性と三人で、ソファーやベッド、大型衣裳棚をのぞく大半の家具、ランプや家電、台所用品などを運び出し、市内の別のマンションへと移送していた。安岡さん宅から車で10分程の距離、城山公園(松山城)を挟んで西側に当たる宮田町の一室で、高俊も詳しいことを聞かされてはいなかった。だが警察から、和子が愛人との生活用に借りていた部屋だと知らされると高俊の心が折れた。

19日の夜、妻から呼び出された高俊は、安岡さんと口論となり刃物を出されたため、腰ひもで対抗し、誤って殺害してしまったと打ち明けられた。自首するように説得したが根負けして遺棄を手伝うことになったが、そのときは車に二男を乗せていたため、運搬を躊躇した。そこで一旦、遺体を寝具で包み、非常階段の踊り場に放置することにしたという。

親類男性が合流し、荷物の搬送を済ませた後、一時間ほどかけて大洲の自宅に息子を送り届けた。20日未明、夫婦は、国道33号線沿いの林道から三坂峠近くの県有林に入り、松山市街から約18kmの山中に穴を掘って死体を埋めたことを供述した。

悪女の涙: 福田和子の逃亡十五年 (新潮クライムファイル)

警察は供述通り、山中で女性の遺体を発見。殺人容疑で和子を全国に指名手配した。死体遺棄で逮捕された高俊は、殺害の容疑は晴れ、情状酌量などもあり、懲役1年6か月執行猶予3年の有罪判決となった。判決前の82年11月、親類宅に和子から京都の消印で離婚届が郵送された。

 

 

女の顔

8月24日、家族の元を離れた福田和子は宇高連絡船で本州へと逃亡し、以来15年近くにわたって、全く別の人生を歩み始めた。

翌25日、安岡さんの口座から夫の口座に移しておいた預金数十万円を大阪で引き出すと、石川県金沢市へと移動した。北陸随一の繁華街・片町のラウンジで「小野寺忍」を騙って働き口を得た。
しかし安岡さんの遺体が発見された8月28日、和子は店から無断で姿を消す。9月に戻ってくると目は二重まぶたをくっきりとさせ、団子鼻は鼻筋の通った顔立ちへと変貌していた。指名手配を警戒し、なけなしの逃走資金を使って東京・十仁病院の美容外科にかかっていたのである。

今日では地方都市にも広く普及した「美容外科」だが、そもそもは傷病痕の形成術として発展し、その標ぼうが正式に認められたのは1978年のことで、当時は健康な体に注射やメスを入れることをよしとしない風潮が根強い頃だった。

尚、警察は時効直前に日本初となる公的懸賞金100万円を設置して広く情報提供を求めたが、その際、十仁病院でも「容疑者と知らず結果的に逃走を助けしてしまった責任を感じる」として400万円の懸賞金を追加している。

 

和子は勤め始めて三か月のうちに顧客のひとりと昵懇の仲となった。男性は不倫が元で離婚し、84年には京都で同棲を開始する。彼の子を身ごもるも、結婚となれば身上が晒されることを恐れたのか、和子は中絶し、男性と別れた。

別のスナックで勤め始めた和子は、以前から深い仲にあった根上町(現・能美市根上町)の和菓子店『松村松栄堂』の主人を頼り、マンションを手配してもらった。85年にはこの主人も妻と別れ、6月には和子を内妻として家に迎えた。

和子は、京都・嵯峨野の出身で「小野寺華世(かよ)」と名乗っていた。元は料亭の娘で、親の決めた相手と結婚させられて家庭内暴力で苦しんで逃げてきたという悲劇のプロフィールを騙って同情を引いていた。

電話や手紙で愛媛の家族や知人に連絡を取るにもわざわざ京都へ足を運んでおり、警察でもその陽動に乗せられて関西近郊に潜伏しているものと踏んでいた。

客商売に長けた和子は周囲の評判もよく、和菓子店も繁盛した。だが主人と前妻との間の子どもたちとは折り合いが悪く母親の元へと引き取られていったという。前妻と子ども達との強い絆にほだされたのか、和子は松山に残していた子どもたちと密かに連絡を取っていたが、大胆にもサングラス姿で松山まで会いに戻ったことさえあった。

そして86年9月には、17歳となった長男を「甥」と偽って、菓子店で働かせてもらえるように主人に頼み込んだ。

86年に改築された『松村松栄堂』跡〔google map〕

一年、二年が経ち、和菓子屋の女将家業がすっかり板につくも、主人との結婚をはぐらかす和子に、主人の姉や身内は猜疑心を募らせていた。いつしか指名手配写真が主人の目にも留まり、問いただされるも和子は平然とはぐらかした。

だが尚も勘繰った主人の姉は、「甥」の免許証に「愛媛県松山市」の住所記載を見つけ、疑惑は確信へと変わった。

逃走5年6か月、昭和63年2月のこと、福田和子らしき女がいるとの通報を受けて捜査員たちは根上町に向かった。その日、和子は通夜の手伝いで公民館に駆り出されていた。

しかし和子は捜査員らの気配を察すると、荷物も持たず着の身着のまま自転車で逃走。知人宅に立ち寄って2万円を借り受けると、再び行方をくらませたのである。最愛の長男に別れを告げることさえなく。

以後、店主が旅行先で撮影していた和子のスナップ写真が指名手配書に追加された。逃亡犯の整形手術が明らかになったのはこの時が初めてだった。90年には隆鼻術で入れたシリコンがだめになって摘出手術を受けたほか、眉に薄墨を加える程度の美容整形をした。

 

逃げる女

逮捕を逃れるために名を変え、顔を変え、身分を偽って男を零落し、それでも息子への愛着を振り切れなかった逃走犯は、人々の強い関心を掻き立てた。

名古屋に向かい、「倉本かおる」を名乗って緑区のモーテル『松島』で清掃員として潜伏した和子だったが、指名手配犯のニュースは全国を駆け巡り、一層の警戒を余儀なくされた。このときは免許の更新で警察署を訪れた同僚が偶々指名手配写真を目にして、和子に自首を勧めてきたため、職を手離して逃亡した。

周囲に気取られるような気配があると、数か月おきに名を変え、職を変え、逃亡先も北は青森、函館から、南は下関にまで全国15カ所以上を転々と流浪する生活を送った。

後年、本人の伝えるところでは、ホステスや仲居などの職に就けることもあれば、売春で糊口をしのいだこともあったとされる。

長男は母親から「万が一のことがあった場合」祖母の元へ戻るようにと言われており、地元で就職後も密かに連絡を受けていた。時効が近くなり緊迫した時期を除けばほとんど毎月のように電話があったという。91年のゴールデンウィークには長男が婚約者を伴って京都を訪れ、逃亡中の母親に会わせたこともあった。

別人として生きる道を選んだ女が、福田和子に戻れる瞬間があったとすれば、長男との母子の絆によるものであろう。また和子は苦しいときに心の支えとなったのは、夫と子ども4人と過ごした4年ばかりの大洲市での平凡な日々の思い出だったとも振り返っている。

「七つの顔を持つ女」と呼ばれた


女がどうしても逮捕を免れたかった、なんどきも辛く苦しい逃亡を選んだのには理由があった。和子の来歴を簡単に振り返る。

1948年(昭和23年)1月、愛媛県松山市で生を受けた和子だったが、不倫関係でできた子とされ、母親は赤ん坊を連れて川之江市(現・四国中央市)に移った。母親は今治市来島の漁師と再婚し、和子は今治市の祖父母に預けられた。小学2年生の頃、再び母親に引き取られて来島で暮らすこととなったが、同居することになった義父の両親や前妻との子どもと折り合いが悪く虐げられたとしている。

義父は漁師を廃業し、一家は今治市に移り住んだ。母親はハモニカ横丁に飲み屋を開くが自宅一階で売春客を取っており、その二階で寝起きした和子は男女のまぐわいを間近で学んだ。現代の価値感に照らせば、児童虐待にも該当するであろう母親の生き方を、和子は「反面教師」に活かすことができなかった。

高校3年生のとき、同級生の恋人が事故死し、自暴自棄となって退学。家を出て、新たな恋人男性と同棲するようになる。だが高松市国税局長宅に強盗に入って共に逮捕され、松山刑務所に服役することとなった。

収監当時の松山刑務所は無法地帯と化していた。64年に三代目山口組矢嶋組と郷田会岡本組との「第一次松山抗争」で関係者らが多く服役していた。彼らは看守を買収し、所内では飲酒・喫煙・賭博はおろか、領置金の恐喝がはびこり、ついには女囚房への押し入り強姦まで発生した。強姦には看守までもが関与していたとされる。

被害に遭った服役囚に告訴する手立てもなく、この事件は後に国会でも議題に上ったが、関係した看守が自殺したことから暴挙の全容解明は果たされなかった。

若き日の和子もこの事件で強姦被害に遭っており、そのトラウマが逮捕への忌避感情につながったと語っている。父を知らず、母の愛情も希薄、恋人たちにも恵まれず、警察も国家権力も少女の救いとはならなかった。犯罪に手を染めた事実は拭いようもない女の罪ではあるが、かくも悲運は重なるものかと不憫にも思う。

 

逮捕

やはり長男らと再会に未練があったためか、方言までは隠しようもないためなのか、和子は大阪へと繁く赴き、97年には以前も過ごした福井へと舞い戻った。日之出にあるビジネスホテルを定宿とし、偽名での宿泊は当然のこと、万が一に備えて非常口近くの部屋と決まっていた。

2月のある日、駅近くのおでん屋「園(その)」の暖簾をくぐった。女は店で化粧品セールスをする「中村麗子」を騙り、華やかさと愛想のよさで常連客たちともたちまち打ち解け、仲良くカラオケに興じることもしばしばだった。

その一方で、公訴時効まで半年を切り、はじめて高額な懸賞金が設置されたこともあって、姿を消した逃亡犯がメディアで取り上げられる機会はにわかに多くなっていた。その「騙しの手口」が知れ渡ったこともあり、その疑いは容易には払拭できなかった。

先述のように、和子は逃亡中も愛媛の知人らと連絡を取っており、その際、近畿地方から掛けた電話が録音・傍受されていた。常連客達がピンときたのは、公開捜査番組で再生された「逆探知されたら困る。危ない、危ない」という逃亡犯の喋り方だった。声色からイントネーションまで「麗子」そのものだった。女将は常連客と相談して通報することを決め、警察は女の「指紋採取」の協力を求めた。

女はいつものように拠点を移し、しばらく店に姿を見せなくなったが、時効まで1か月を切って再び福井に舞い戻ってくる。7月27日、市街で「園」の女将と偶然出会い、また店で会おうと約束する。

翌日、約束通り店を訪れた「麗子」はビールで喉を濡らすと、以前のように常連たちとカラオケに興じ、マラカスで音頭を取って楽しんだ。このとき女将はビール瓶、コップ、マラカスを警察に提供し、福田和子の指紋との合致が確認される。

警察が「園」の女将にその結果を伝えると、女は昼過ぎから店に来ていると分かり、すぐに捜査員が店を包囲した。店を出た「麗子」は刑事たちに取り囲まれた。

「福田和子だな。署までご同行願おう」

女は身もだえ、最後の最後まで人違いだと訴えた。

逃亡5459日、公訴時効成立まで残すところ3週間となった97年7月29日、福田和子逮捕。

 

時効寸前での逮捕劇が大々的に報じられると、「金目当てに客を売った」などと言いがかりをつける嫌がらせ電話が続いた。報奨金を受けた女将にも何か思うところがあったのか、その大半を慈善団体に寄付したという。その後も細々と飲食店を続け、2019年3月31日で店を閉めた。

「園」の女将を取材した奥野修司氏の記事によれば、逮捕前日に久々に来店した和子は、「ママは最近テレビでやってる人に私が似てると思ってるんじゃないの」とかまをかけ、「シリコン整形なんてしてないわよね」と客の手を取って自分の鼻を触らせたという。

「シリコン整形なんてしてないわよね」殺人罪で時効寸前におでん屋で逮捕…福田和子の逃亡生活15年“最後の瞬間” | 未解決事件を追う | 文春オンライン

捜査関係者によれば、和子は「福井は大洲に似ていて安心感がある」と福井市を度々訪れていた理由を口にしていたという。その安堵感が歴年の逃亡者に油断を生じさせたのかもしれない。追手を逃れ、疲れた鳥が羽を休めたい、息をつきたいと思える止まり木のような場所がこの町の小さなおでん屋だった。

護送中の福田和子

FNNの取材に対し、元松山東署刑事一課長中井邦彦氏は、取り調べの際、和子は「死体は自分と夫で処置したが、殺害は自分ではない」と別の男の名を口にしたという。

しかし「共犯」とされた男性はすでに死亡しており、和子が「死人に口なし」と思って代役に仕立てたにしても、警察としてはそれを否定する根拠として男性のアリバイを確認しなければならない。

15年前の正確な出来事など家族でも思い起こせなかったが、男性が日記を付けていたことが分かった。警察はその記述を裏付けるためにかつての仕事関係者などに当たって、僅かな記憶や当時の記録を辿ってもらった。すると男性は東京に出張しており、犯行当時、松山には不在だったことが判明した。

その証拠をもって寸でのところで和子から自供を引き出し、1997年8月19日、公訴時効成立の11時間前に強盗殺人罪で起訴された。「もう言い逃れは出来んわな」と捜査員から男性のアリバイを突き付けられても、和子は驚くでもなく動揺を表には見せなかったという。

“福田和子”事件いま明かされる“取調室”での攻防!|FNNプライムオンライン

事件のあったマンション内で具体的にどんなやりとりがあったのかは分かっておらず、和子は商売の話から口論となり、被害者が刃物を持ち出してきたため、自己防衛で首を絞めたと主張した。

一審松山地裁は、検察の求刑通り無期懲役判決を下した。二審で和子は「被害者との同性愛関係のもつれ」を主張したが、男性関係はいくらでも出てきたが女性との性愛関係は全く認められないとして却下された。2003年11月、最高裁は上告を棄却し、無期懲役が確定した。

2005年2月、刑務作業中に倒れ、くも膜下出血として緊急入院。3月10日、そのまま意識が戻ることなく和歌山市内の病院で息を引き取った(死因は脳梗塞)。享年57。

 

所感

なぜ私たちは逃亡犯に引き付けられるのか。街中に監視カメラが溢れ、道行く人々の誰もがカメラ付携帯電話を手にした今日において、同じような長期逃亡犯は二度と現れないだろうと思われた。

マンションエレベーター内で捉えられた市橋達也

 

しかし、2007年には千葉県市川市で英会話講師リンゼイ・アン・ホーカーさんを殺害した市橋達也(当時28歳)は2年7か月逃亡し、途中で整形手術を受けたことから「男性版・福田和子」とも呼ばれた。

マンションの防犯カメラ映像が元で警察が自宅を訪れ、女性の遺体はベランダに置いた浴槽に土や発酵促進剤などと共に埋められていた。男は警察を振り切って逃走し、裁縫道具を買って自ら目立つほくろを切除し、眉や鼻のかたちも大きく変えた。

高校時代は陸上選手で脚力に自信があったこと、元々は医師の両親の期待を受けて医学部を目指していたこと、浪人の末、園芸学部に進学したことがそうした手口の発想につながったと考えられる。その後も特徴的な下唇の切除などを自力で行うが、不安が絶えなかったのか、2009年10月に名古屋市の病院で鼻の整形手術をしたことから当局に通報が入り、ほどなく大阪市内で発見・逮捕された。

当初は無賃乗車を繰り返したが、指名手配写真や人目が気になってか長期就労は困難に思われた。やがて四国、九州と移動する内、無人島での自給自足を思いつき、沖縄へとフェリーで移動して久米島の東1.2kmに位置するオーハ島へと渡った。かつて米軍が監視小屋としていたコンクリート廃屋を拠点としたが、島民は高齢者3人で仕事や食料の当てもない。水源もないため狩猟やサバイバルスキルを持たない市橋には過酷だったようで、4度渡ったが最長3か月でまた出稼ぎに戻ったとされる。

肉体労働である程度の金が貯まると、逃走用の現金を残しつつ、再び島で息をつくような暮らしだった。たとえ逮捕されなかったとしてもそんな生活が何年何十年と続けられたとは思えない。

桐島聡は「笑顔」の指名手配犯として人々の記憶に刻まれていた


過激派グループ「東アジア反日武装戦線」の一員として連続企業爆破事件に関与し、1975年に指名手配を受けた桐島聡の逃走も近年大きな話題となった。整形手術こそしていなかったが、2024年1月、末期がんで鎌倉市の病院に搬送されてきた70歳の男が「桐島聡だ」と49年ぶりに名乗り出たのである。4日後に死亡したが、秘密の暴露やDNA型鑑定により桐島本人と特定された。

桐島は「内田洋」の偽名で神奈川県藤沢市工務店で住み込みで働き、木造アパート6畳間の社員寮で一人暮らしを送っていた。広島出身だが「岡山出身」と話し、身分証は何も持たなかった。音楽バーなどでブルースやロック音楽を聴くのが好きだったと言い、「うーやん」などのあだ名で呼ばれ交流もあった。過去には20歳年下の女性と交際していた時期もあったとされる。

「東アジア‐」グループでは、工作活動を疑われないために隠密行動ではなく、普段から地域住民とも積極的に交流してカモフラージュする方法を指南していたという。かつての同志のひとりは、仲間たちが一斉検挙されて逃亡するよりほかないとなったとき、「銭新井弁天で落ち合う」ことを約束していたと振り返っている。そうしたグループの掟や仲間との約束が男を長年この地に縛り付けていたのではないかと推測されている。

指名手配中のひき逃げ犯・八田與一と人相書き

 

一般市民の多くは地域や会社に半ば根を張った状態で金を稼ぎ、家族や友人たちと交流する自由を得ている。これまでの人生を捨て去り、第二、第三の人生を歩む「生まれ変わり」は、やりたくても真似できない、一種の羨望も含まれるため、逃亡先でどんな暮らしを送ってきたのかという興味がわく。

上の男たちは肉体労働を飯の種としていたが、なぜその体力や忍耐強さをもっと世のため人のために役立てられなかったのか、と虚しさを禁じえない。パトロンを捕まえるだけの詐術に長けた福田和子は逮捕当時60万円以上の現金と数十万円相当の貴金属類を身に着けており、生活に困窮した様子は見られなかった。なぜその商才や嗅覚を、人生に捧げられなかったのかと憐れみを覚える。

今日でも別府のひき逃げ犯・八田與一が逃亡犯として多くの注目を集めている。そのほかの未解決事件でも犯人の多くは「名もなき逃亡犯」と捉えられ、こうした逃亡犯研究も犯人追跡の参考につながっていくことであろう。