《昭和58年、鴨川シーワールドに初めて2頭のセイウチの子供が搬入された。国内で飼育例があまりない時代だ》
搬入前の餌は魚肉に卵を混ぜておかゆのようにしたものでした。「ごはんですよ」と与えると、口を突き出してシュポンと吸い込みます。食べる様子を見て、出てきたうんちを指でつぶして消化しているかを調べ、餌の内容をもう一度考えたりしました。
子供だからか、私がべたべた触ったり、口の中に手を入れて歯の生え方を調べたりしても怒りません。でも機嫌が悪いと、口の端がちょっと引きつる。遊んでほしそうなときには、私も胴長を着込んで仲間に入り、「3頭」でよく遊びました。メスの方は遊び疲れると、私の膝を枕にして寝てしまいます。
メスは「ワンワン!」とよく鳴くので「ワンワン」、オスはよく檻(おり)の柵に唇をつけてブリブリと音を出していたので「ブリ坊」と呼んでいました。その後、一般公募でワンワンは「ムック」、ブリ坊は「タック」という名前をもらいますが、私が「ブリ坊!」と呼ぶと、タックは「ブォー」と応える。この関係はその後もずっと続きました(これは自慢です!)。
《「わたしはイルカのお医者さん」(岩波書店)によると、翌年、ムックの食欲がなくなった》
大人の「ひれあし類」は体に脂肪を蓄えているので、1カ月くらいは食べなくても生きていけます。ですが、ムックはまだ子供です。しかも具合が悪い。抗生物質や栄養剤の注射を続けましたが、ムックは私をお母さんだと思っているからか、毎日続く治療を嫌がりません。しかし私は獣医師です。不調の原因を突き止めることも、治してあげることもできない、と情けなく思っていました。
食欲のないムックの体力を維持しようと、人工ミルクを与えることに。そこで口からカテーテルを入れて直接、胃に流し込みました。セイウチではカテーテルを胃に入れるのがとても難しく、間違えて気道に入ってしまったら肺炎を起こしてしまいます。緊張しながら1日2回の処置を行いました。
《一進一退の状況が続く》
ムックは次第に、私の雨合羽(あまがっぱ)にチュッチュと吸い付くようになりました。お母さんを思い出しているのかもしれないと思うと、かわいそうでなりません。このころの私は休日も忘れてムックのそばで過ごしました。先の見えない毎日に疲れ果ててある日、2時間ほど寮に戻って昼寝をしました。
目覚めてまたムックのところに行くと、ムックは私の体を横にして、添い寝しながら吸い付こうとします。動いているうち、ムックの顔が私の顔の目の前にきた。そこで思わず唇を突き出してみたのです。すると、ムックはチュッチュと吸い付いてきました。試しに、ホースの水を口に含んでムックに突き出すと、これもチュッチュと。口移しの液体は飲んでくれることが分かりました。
翌朝一番に出社して、ムックのための特製ミルクをつくりました。そのミルクを口に含んでムックに突き出すと、チュッチュと飲み込んでくれます。ムックのヒゲが私の頰にちくちくと刺さります。これを何度も繰り返し、1リットルを飲み干すことができました。その後は容器に入れたミルクも上手に飲めるように。やがてムックは元気になり、餌も食べるようになっていったのです。
排泄(はいせつ)されたうんちを指でほぐすと、飼育舎の壁のウレタンのかけらが出てきました。セイウチは壁で牙をこすり、「虫歯」になるのが問題だという海外での例があり、それを防ぐために最新装備を施してあったのです。それを牙や口ではがしていた。そしてウレタンのかけらが、おなかの中にたまっていたのです。これが食欲不振の原因だったのです。これで一件落着と思っていたのですが、また新たな問題に見舞われることになったのです。(聞き手 金谷かおり)