占領下の写真が語る「性の防波堤」 研究者「差別の構造つくられた」

中塚久美子
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 一枚の写真の裏には「CPL. PERSE LOOKING OVER SOME NEW GEISHA GIRLS」(パース伍長は新しいゲイシャ・ガールたちを見渡している)とメモ書きがある。

 神戸映画資料館(神戸市)の研究員、衣川太一さん(55)が2014年ごろ、米ネットオークションサイトで見つけた数十枚の白黒写真の一枚だ。終戦直後の神戸だと分かり、珍しいとの思いで購入した。

 写真が記録したものを資料からひもとく。

 衣川さんによると、場所は当時の「西日産館」(現在の神戸市中央区)だという。

 兵庫県警察史昭和編などによると、1945年8月18日、内務省(当時)は全国の知事や警察の長官ルートで、ある指令を出した。占領軍人による性暴力から「一般婦女子」を守るための「特殊慰安施設」の設置だ。西日産館は、県内最大数の慰安婦を抱えた施設だったという。

 内務省からの「占領軍の進駐時に間にあうように進駐軍将兵用慰安施設の設営を急げ」との指令を実行するため、県警察部保安課が「慰安所という名の遊女屋を主体とする娯楽施設の設営作戦」を進めた。「性の防波堤を築こうというわけである」と記述している。

 終戦時、神戸には長田区の2カ所に計20軒(娼妓(しょうぎ)150人)が営業していただけだったが、同課は貸座敷業者関係者を集め、1千人を目標に慰安婦を募集させたという。

 9月21日、神戸以外に西宮、宝塚、姫路へも進駐が決まり、保安課は関係各署長に慰安施設設置を指示した。

 同25日、占領軍は和歌山に上陸。夕方、三宮に到着した。西宮などの地区も合わせ県内に1万1255人(11月16日時点)が進駐した。

 衣川さんが入手したほかの写真では、着物やドレスを着た女性たちが占領軍の車両近くで、笑顔を見せていた。裏面には「ANY FOR THE ASKING GEISHA GIRLS IN KOBE」(何でも応じる神戸のゲイシャ・ガールたち)。

 また、「BUILDING OF LOVE」(愛のビルディング)と裏に書かれた写真は、当時の「日本ビル」(現在の神戸市中央区)だという。ビルの外にたくさんのベッドが並び、改築の様子がうかがえる。施設は神戸市5カ所、姫路市3カ所、西宮市3カ所(武庫郡鳴尾村含む)、伊丹市1カ所、宝塚市(武庫郡良元村)1カ所、高砂市(高砂町)2カ所にあり、計1182人の慰安婦がいたと県警察史に記録されている。

 慰安婦集めの理屈は一貫していた。兵庫新聞社(1968年廃刊)の岩佐純編集局長が出版した戦後記録「兵庫・風雪二十年」によると、「プロやセミプロの女性に犠牲になってもらって大部分の女性を救おう」とした。数が足りないとして、「カフェーの女給や芸者、ダンサー」にも呼びかけた。着物や食事が与えられる条件に引きつけられ、約300人が集まったという。岩佐氏は「良家の子女まで応募してきた。家を焼かれ家族を失い食べるのに困った末、ついに最後の生きる道を慰安婦に求めたのだ」と書く。

 30分30円、オールナイトは禁止。営業規則が定められ、「押すな押すなの大盛況であった」(県警察史)。だが、性病の蔓延(まんえん)などでわずか3カ月弱で閉鎖される。

 12月15日、GHQ(連合国軍総司令部)は将兵らに慰安施設への立ち入り禁止命令を発した。県警察史は「1千人をこえる慰安婦は失職し、次第に街娼(がいしょう)化していった。いわゆるパンパンガールの出現である」と結ぶ。「パンパン」とは、占領軍人と親密だった日本人女性に対する侮蔑的な呼称だ。警察はGHQ側と協力し、性病検査を強制する取り締まりを始めた。

     ◇

 「パンパンとは誰なのか」(インパクト出版会)の著者で、大阪公立大人権問題研究センター客員研究員の茶園敏美さん(ジェンダー論)によれば、検挙の基準はあいまいで、占領軍と関わりのない女性も連行される事案が相次いだ。茶園さんが確認したGHQの報告書によれば、大分県内の事例として、検挙された女性のうち5%は性体験がなく、性病と判明したのは10%だったという。「犠牲になる人と守るべき人とに選別し、都合が悪くなると検挙の標的にする。負の烙印(らくいん)を押された女性らは、沈黙せざるをえない状況に追い込まれた」

 一橋大客員研究員の平井和子さん(近現代日本女性史)は、膨大な資料から日本国内と旧満州中国東北部)で一部の女性が「性の防波堤」として犠牲となったことを明らかにしてきた。平井さんは「女性の人権という視点で問い直すと、国家や軍が体制を守るために何を犠牲にしてきたかが分かる。女性差別の構造はつくられる。この歴史的事実を忘れてはいけない」と訴える。

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