東京都立呪術高等専門学校二年転校生早川那由多 作:同じ顔の別人
【side:夏油傑】
「誰ですか……?」
「君と話がしたくて。まずは好きな子の名前を教えてくれる?」
「──早川那由多!」
「は……へ……? 好きな子……? なゆた……早川先生の妹!?」
「私のこと、知ってたの?」
「はい、美味しそうなチョコの名前だって」
「どんな紹介?」
「久しぶりじゃないか。何をしにきた?」
「取材」
シャツにズボン。チェスターコートを羽織り、長い黒髪を後ろで一つに纏めている。服装は違えど、呪力は変わらない。見間違えるはずがなかった。
写真にも映るし食事も好む。代謝機能まで備えている。特級呪霊にして呪術師にして社会人、例外中の例外の元学友──早川那由多は、夏油から視線を外さず警戒を続けたまま乙骨憂太に話しかけた。
「私の上司曰く──『取材には相手への敬意がなくてはならない』。観察だけで記事を書いても意味がないらしいの。聞く側に『私』を認識してもらわなければならない。そうじゃなきゃ失礼なんだって」
那由多の腕が呪霊に噛みちぎられて弾け飛ぶ。即座に再生する。相変わらず馬鹿げた不死身具合だ。
「私はずっと君を見ていた。でも、それは取材じゃないと叱られてしまってね。だから君の好きな人の名前から順番に、君の口から直接聞かせてほしいの」
「今はそんなことをしている場合じゃないんです」
「だめ?」
「助けてくださってありがとうございます。でも、退いてください」
「私はどかない。お友達を助けるのが先でしょ?」
「……!」
乙骨憂太の判断は早かった。反転術式を使う気らしい。急所は避けてあるので、今から治療すれば死にはしないだろう。
「もっとたくさん助けてあげる。代わりに、後で話を聞かせてね」
戦線を離脱する乙骨憂太の背を見送る。どうせ逃げられないのだ。術師の出入りに制限をかける帳をこの施設全体に降ろしている。
それよりも問題は目の前の相手だ。条件指定をすり抜け帳の中に侵入した人型の呪霊。
「呪術師を辞めたって聞いたけど」
「辞めたも何も、進学しただけだよ。今は記者をしてるの」
「高専を出たくせに
「別に呪術師が嫌だったわけじゃない。楽しかったよ。人助けも、悟くんと硝子ちゃんと傑くんとの学園生活も」
「私もだよ。だがそれを上回る
「じゃあ、私は憧れかな。記者の仕事は呪術師より楽しそうだったから」
手加減は不要だ。仮に乙骨憂太を始末したとして、特級過呪怨霊『祈本里香』と主従関係を結ぶ前にこいつの支配術式に割り込まれてはたまったものではない。
私も彼女も、すでに自分の本音は選んでいる。
呪力を練る。呪霊をけしかける。
那由多は迫り来る有象無象を指さして迎撃した。
壁が割れた。那由多は中庭に突っ込んだ。迷わず追撃する。それは、いつかの模擬戦の再演だった。
呪霊が那由多の四肢を噛みちぎる。負傷を厭わず、那由多が手を添える。支配術式を使用している。──だが何も起きない。支配権は以前変わらず、夏油の優位は揺らがない。
「君、弱くなったな」
「傑くんは強くなったね」
かつて薨星宮で見せつけた力は見る影もない。
支配の力は見下した相手にしか使えない。適切な教育と、人間社会での長い生活が、彼女を無害化させていた。相性上は優位なはずの呪霊操術から、支配権すら奪えない。虫や鳥、ネズミを特攻させる程度では呪霊の軍団に傷一つつけられない。冥さんの黒鳥操術のような出力すら、今の早川那由多は発揮できていなかった。
呪霊に噛みちぎられた肉体が再生する。不死身性による肉壁としての立ち回りだけが彼女に残された手札だった。
正直、単純な強さだけならここに来るまでに遭遇した高専の生徒たちが上だ。だが武器人間と違い、彼女の復活には物理的なトリガーが存在しない。ゴキブリのようにしつこく蘇って、足止めを仕掛けてくる。
「悟くんは、あれから七回死にかけて七回復活して勝てる気がしないくらい強くなっちゃったよ」
「あいつまだそんなサイヤ人みたいな生態やってるのか」
「あれに殺される前に、やめない?」
「やめない。足止めの策くらい立てたさ。信頼できる家族に25万年分の寿命武器を持たせてある」
「……馬鹿なの?」
「女子には分からないかなあ、こういうロマンは」
「それも職場でやったらセクハラだからね」
「えー」
肉体は再生しても、衣服や器物は元に戻らない。服は血と泥にまみれ、髪留めも既に外れている。腕時計も文字盤ごと破壊した。
一方の夏油は、ほぼ無傷である。数少ない負傷も、レゼという少女と乙骨憂太によるもので、那由多からの攻撃の痕はない。
「時間稼ぎが目的ならもう少し隠しなよ。そう何度も時計を確認するんじゃない」
「いや、早く戻らないと、上司に怒られちゃうから……トイレに行くふりをして、定時で抜けてきたから……」
「本当に何をしているんだ」
それは俗に言うブラック企業というやつではないのか。高校退学後、新興宗教の教祖にジョブチェンジを果たした夏油はまともな進学と就職を経ていない。それでも、彼女の職場の労働環境があまり良くないことは察せられた。
「まったく、猿にいいように使われて喜ぶ君の気持ちが分からないね」
「喜んではないかな」
「ほう。では何故?」
「社会人だから。自立しなきゃ。もうデンジに金銭的な負担かけられないし。ちゃんと税金も払ってるし毎年選挙にも行ってるよ」
「呪霊のくせにやりたい放題だな」
「国民の義務を果たしてるだけだよ。傑くんこそどうなの」
「宗教法人は原則非課税なのさ」
軽口の応酬は、十年のブランクを感じさせない。
「しかし、君が社畜になるとは思わなかった。再会を祝して、その職場私がめちゃくちゃにしてあげようか」
「やだよ。どこかの誰かさんのせいでもう悪い呪霊にはなれないんだもん」
「そんな約束覚えてないな」
「律儀にチュッパチャプス返してくれた奴がよく言うよね」
那由多は下腹部に手を添えた。
【領域──】
「おっと、それは無しだ。面倒すぎる」
呪霊の牙で腕をもぎ取り、咀嚼させる。
領域展開が出来ると知っている相手を前にして、流石に掌印を結ばせるほどの隙は与えない。
那由多は不死身だ。彼女にとって死は終わりではない。彼女を止めるのは難しい。
だが夏油は呪霊操術の使い手だ。どれだけ人間に友好的であろうと呪霊は呪霊。私の力で取り込める。そうすれば二度と反逆を起こされることはない。それがどういうことなのか、意味は理解しているつもりだ。彼女も負ければどうなるか知った上でここまでやってきた。
肉体の再生が鈍い。甲虫型の呪霊に拘束され、抜け出せないでいる。
「……詰みだな。何か、言い残すことは?」
那由多は無言で指を刺す。悪あがきかと思い迎撃の準備をしたが──ふと、手を下ろした。穏やかな顔で微笑んでいる。
「何を……?」
乙骨憂太はまだ遠い。反転術式を使用して、大切なお仲間の救出に勤しんでいる。加勢は来ない。
だが、諦めたわけではないだろう。早川那由多は欲張りな女だ。生存を諦めるような奴ではない。
在学中はついぞ一度も聞くことのなかったその言葉を、早川那由多は呟いた。
「──たすけて、お兄ちゃん」
※
【side:早川デンジ】
2017年 12月24日
新宿。
「大変です、五条さん! 帳の! 外に!」
硬直状態が続く中、伊地知が慌てた様子で報告をする。
「避難区域外で、呪霊が暴れてます! 一般人を巻き込んで、大混乱が発生しています!」
「へえ、そう来たか」
五条悟は冷静だった。
そもそも、夏油傑が百鬼夜行を宣戦布告した理由は、縛りのためだと予想されていた。千の呪霊を二箇所に同時展開するためには凄まじい出力と呪力制御が求められる。だから時間と規模を事前に予告したという理屈だ。──それが、外れた。向こうの方が一枚上手だったらしい。
補助監督からの報告を受け、指示があるまで待機する。
新宿のビルの屋上で、デンジはこれから戦場になる場所を見下ろしていた。
※
デンジには夢が沢山ある。そのうちの一つが、かつて自分の相棒だった血の呪霊『パワー』との再会だった。途方もないことだ。
呪霊は何度でも生まれ変わる。死ぬたびに、地獄と呼ばれる場所と、現世を行き来する。迎えにいくことも考えたが、地獄の呪霊を利用するには人間の生贄が必要だ。そうまでするのはちょっと気まずい。というか再会を素直に喜べなくなる気がするのでやめた。
仮に再会できたとしても、課題は山積みだ。凶悪かつ最低最悪の血の呪霊を、どうにか愛しい相棒にまで戻さなければならない。
一人で出来るだろうか? パワーは、やばい。ナユタ一人ですら手一杯で、うまく面倒を見切れていない今の自分がアイツと再会したとして、ちゃんと約束を果たせるだろうか。無理な気がした。アキは偉大だ。アキがやっていたように──今度はアキ抜きで、パワーをパワーに戻さなければいけない。
どうすればいいか。いろいろな人に相談して、いろいろなものを見た。
都合の良い方法なんて思いつかなかった。だから考えて考えて──
教育学部を卒業する。早川デンジは社会人になった。
何かになりたくてこの道を選んだわけではない。むしろ何も分からなかったから教育学部に進学した。かつての生徒から将来の夢を聞かれた時も、次世代を育てるのだというしっかりした夢を持っていた後輩と会話した時も、微妙に居心地が悪かったのを覚えている。
大人になって、出来ることがどんどん増えて、やらなければいけないこともずっと増えた。
ナユタがちゃんと育っていることに気づけず、不安にさせてしまったことすらある。先生も、お兄ちゃんも、俺にはとても難しい。
頑張ってはいるつもりだ。ちゃんと成長できているだろうか。もしも今のデンジをアキが見たら、何と言うだろう。
遠い昔。アキとパワーと過ごした日々が、ただのデンジを早川デンジにした。デンジはもう、あのころのアキより一回りは年上だ。
「あいつらにとっての夏油傑が、俺んとってのマキマさんでアキか……あのガキがなあ………俺も年取ったなあ……」
呪霊の影に潜む子供を見つけてしまった。リコを名乗る血の呪霊と、夏油傑らと共に宣戦布告に来ていた女子高生たちだ。年齢は十五程度か。奇しくも、デンジがマキマさんやアキたちと出会った年齢と同じ年頃だった。
「やっぱ責任感じちゃうよなぁ〜」
夏油傑は
アキに、少しだけ似ていると思った。
真面目で、面倒見が良くて、責任感が強くて、身内に甘くて、他人のために頑張ることができる。
よく見れば全然違うのに、面影を見てしまうのだ。
彼が一般人を虐殺し呪詛師になったと聞いた時、信じられなかった。
夏油傑はいい奴だった。なのにおかしくなってしまった。多分、真面目すぎたのだ。
生徒からはデリカシー無し男などと罵倒されるデンジだが、これで案外繊細なのだ。時々食欲が失せることさえある。具体的には夏みかんや油そばを目の前にした時だ。平然と替え玉を注文する悟を見て、メンタル強え〜……と慄いた経験は数知れず。
「自惚れてるわけじゃねえよ? でも、あん時俺ァ間違いなくあいつを止められるかもしれない立場にいただろうなと思って、結構引きずってたワケよ」
誰に伝えるでもなく独白を続ける。
デンジは食べることが好きだ。なのに、夏油が今もどこかで悪いことをしていると思うと、罪悪感やら焦燥感やらで美味い飯を美味いと感じられない瞬間がある。そいつは良くない。
「だから考えたんだよ。どうやったらあいつを止められるかって。考えて考えて──思いついた。」
顎に手を当てて、ピンと指を伸ばす。
早川デンジは最高にワルな顔をしていた。
「今からお前らを人質に取る」
「は?」「なに言って……」
制服を着た少女たち──美々子と奈々子は、何が起きたか理解していなかった。
スターターを引っ張り、チェンソーマンに変身する。金髪の方のガキを抱えてビルを駆け下りる。衝撃で取り落とされたスマートフォンがアスファルトにぶつかり、割れた。
※
【side:五条悟】
「キャアアアアア!?」
「奈々子!?」
硬直状態を打ち破ったのは、早パイだった。序盤は血を節約すると宣言したくせに、早速チェンソーマンに変身している。回転する刃の隙間から、痛々しい液体がこぼれ落ちている。
「じゃあさあ! 俺、今から夏油んとこ行っから!」
「待っ、まって!」
「オラァ! どけぇ! こいつを殺されたくなかったらよォ! ぎゃーっはっはっは!」
「そんなことで我々が手を緩めるとでも?」
「ん〜〜〜、憂太が暴れてた時、夏油傑はこいつら庇ってたぜ。大事なんだろぉ?」
お前は平気でも、あいつはどうだろな。
「……!」
早パイは、呪詛師の女の発言を一蹴した。素直に上手いと思った。相手の動きが一瞬止まる。
あの男の真に恐るべき点は、不死身さでも戦闘力でもない。
観察眼である。
粗暴な言動とは裏腹に、勝機に繋がる手掛かりを決して見落としはしない。
夏油傑の率いる組織は団結力はあるが、人間である以上それぞれに意思があり思惑がある。その内情をあの短期間で把握したのだ。何をしでかすか分からない男が、何もかもを観察している。相手にとってこれほど恐ろしいことはない。
早パイの予想はおそらく正しいし、夏油傑本人が不在という答え合わせが出来ない状況が十二分すぎる時間を稼いでくれた。
呪詛師共も馬鹿じゃない。すぐに頭を切り替えて攻撃をしてくるだろう。だがあの困惑は戦場において致命的な隙だ。
「待っ──!」
「ぎゃーっはっはっはっはぁ! じゃあな!」
即断即決、無茶苦茶かつクレバーに。これが呪霊が恐れる百点満点のネジの外れ方である。
壁を、ビルを踏み台に、縦横無尽に駆け回る。チェンソーを振り上げる。
早パイは、そのまま帳の外へ飛び出した。
※
帳を解く。もはや意味を成していなかったからだ。外は、伊地知の報告通りそりゃあもうひどい状況だった。呪霊を人間に受肉させでもしたのか、実体を持つ異形があちらこちらで暴れ回っている。新宿駅周辺を隔離していた意味がないくらいの惨状だ。やりすぎだろと、脳内に思い浮かべた特徴的な前髪の戦犯にヤジを飛ばすがどこ吹く風だ。
「待て! 奈々子を……離せ!」
黒髪の制服姿の少女が人質をとりデンジを呼び止めた。呪詛返しならぬ人質作戦返し。拘束されているのは、呪力のほとんどない一般人の女だった。年は四十くらいだろうか。
面識はない。だがその顔を悟は知っていた。
「美々子!」
「あー……」
「いいから! 返せ! どうせ一般人は傷つけられないんでしょ……!」
「んーっとぉ……流石にこれで死なれると寝覚が悪ぃからさあ……」
「なら、さっさと奈々子を!」
「殺すのは無しな!」
デンジが話しかけていたのは、呪詛師の少女ではなかった。
「あ、あのぉ、貴女、この騒ぎの犯人です、よね……?」
「猿が喋るな!」
人質の女は、それを返答とみなしたらしい。そのまま思い切り──少女の爪先を踏み潰した。
「ッづァ!?」
「おお〜」
脛と膝に続けて二撃。鮮やかな手際に思わず感嘆をあげる。拘束が緩んだ隙に手首を捻り脱出し、肩から下げていたサイドバッグの紐で首を絞め返していた。
完全に形勢は逆転していた。
「がっ、あ゛、あぁっ……!」
「美々子!? お前ら、美々子を! ふざけんな!」
「ストップストップストップゥ! そいつ十五歳だってさぁ!」
「へ……? はあ……きゃああああ!?」
女は、そばを通った呪霊に腰を抜かしていた。へなへなと崩れ落ちる。なんでテロリストの呪詛師は平気で雑魚呪霊がダメなんだよ。意味分かんない。ウケる。
「……早パイさあ、お相手は一般人って聞いてたんだけど?」
「一般人だよなァ」
「どうしてごんなっ、ご、あぁっ、あああ………」
「電話するまで新宿に来んなっつったじゃん」
「お、お、お父さっ……父の……デイケア施設の送迎があってえ……」
「お前まだんなことしてんのぉ……」
彼女の名は東山コベニ。早パイが八時までに百鬼夜行を終わらせると宣言した理由である。
これで一般人名乗るのは無理でしょ。ゴリゴリの天与呪縛の武闘派女じゃん。真希よりもアングラな、人殺しに特化した体捌きに悟は学生時代戦った男を思い出した。
「さっさと那由多のところ行けば」
「お〜そうするわ」
「行カセルト思ウノカ?」
「きょっ!? きゃ、は!? 何!? なんでえ!!」
早パイとコベニとかいう女を逃しながら、振り下ろされた呪具を無下限で防ぐ。ジリジリと術式が削られていく。掌に焼けるような痛みが走る。発生している現象自体は、祈本里香の攻撃を受けた時と同じ。単純に呪力スケールが大きくて、無限で情報を処理しきれていないのだ。
──強い。
あれは、僕でなければ対処しきれない。不死身だが火力に欠ける早パイでは相性が悪すぎる。
夏油傑は、千の呪いを千の特級呪具で武装させるのではなく、ただ一つの究極の武装を最も信頼できる仲間に預けていた。秘められた命は、千か、万か、それとも──
(面倒そうな術式もいくつか付与されてるな。ったく、どいつもこいつもあの手この手で無下限術式対策しやがって。モテる男は困るね)
まあ、大抵の困難は一週間地獄に閉じ込められた挙句闇の
夜蛾の指揮の下、呪術師たちが呪霊の各個撃破のため動いていく。呪詛師拘束よりも、一般人の被害を抑える方針にシフトしたらしい。僕もさっさとこのボビーオロゴンもどきを処理しなければ。こいつが、新宿に来た夏油一派の最高戦力だ。
二撃目の攻撃を防ぐ。六眼に再生妨害の術式が映った。さっきは付与されていなかったので、何か条件がありそうだ。両目に巻いていた包帯を外し、無下限術式の出力を上げる準備を整える。
「ドウシタ特級、反撃シナイノカ?」
「調子に乗るなよ。この僕を足止めできると思い上がってる、お前の根性に驚いてたのさ」
※
【side:夏油傑】
「──たすけて、お兄ちゃん」
「ぎゃーっははっはっはァ!!!!!!!!」
異形の顎門。血と臓物とモーター音があたり一体を覆い尽くす。
帳を突き破り、その異形は降り立った。
「──助けにきたぜ、ナユタァァァァ!」
即座に那由多を始末するために手を伸ばし──直前で止まる。
「夏油様!」
「っ、!?」
奈々子が人質に取られていたのだ。
「大切な子を傷つけられたくなかったらあ! 大人しくするんだなぁ!」
「ヒーローの風上にもおけないな……!」
「テロリストに言われたかねえんだよ! 投降しろ投降〜!」
ぎちぎちと肉を挟みながら回転するチェーン。
モーター音をかき鳴らし、不敵な笑みを浮かべる。
「そんじゃまあ──
早川デンジ。
不死身のヒーローチェンソーマン。
かつて憧れた姿が、夏油の前に立ち塞がった。
※
【side:伏黒恵】
時は、少しだけ遡る。
【ハロウィン!】
【ハロ……ウィン……? ガハハハハハ! 知っておるぞ! ワシの領地じゃ! 別荘をいくつも持っておった!】
ツノを生やした女は、血を凝固させ金槌を形成すると迷わず恵の頭部に振り下ろした。判断の速さは脅威だが、体術に長けているわけではなさそうだ。余裕を持って回避する。
無下限もどきに、赤血操術もどき。この調子ではいつか己の十種影法術もどきを使う呪霊も出てきそうだ。御三家はやばい、と心底からぼやく
玉犬に加え、蝦蟇を呼び出し拘束を試みる。うげえ、と舌を出して身を捩り抵抗する。肌から新たに生み出された刃が、舌を切り裂いた。
【変態じゃこいつ! どっか行け!】
【ハロウィン?】
「待て!」
【ハロウィン!】
拘束が難しいなら、血を多く使わせて消耗を狙うか、意識を奪うかだ。津美紀を救う手がかりを逃すという選択肢はない。背を向けて逃げ出した女に向け、玉犬に攻撃命令を下す。
「にゃー」
道の真ん中に置かれた黒いカバンの中から鳴き声が響いた。猫だ。檻の隙間から、白地に黒の斑模様が見える。毛質は柔らかく、赤い首輪をつけていた。
【ニャーコ……?】
少女は足を止め、急カーブする。覆い被さるようにして、玉犬の爪から猫を庇う。ばっくりと背中が割れ、赤い血が滴り落ちた。喉が潰れたような悲鳴が上がる。
「?!」
【痛い痛い痛い! 何をする貴様ァ!】
「それを……庇ったのか……?」
【はー? 何を言うておる……たかが猫じゃろ……】
その、たかが猫のために大怪我を負った女は不思議そうな顔を浮かべていた。
玉犬に待機命令を出す。流血沙汰に気がついた通行人がざわつき始めた。スマホを取り出している奴もいる。刺さる視線を無視して女に近づく。警察や救急車を呼ばれたら面倒なので、場所を移動しなければならない。
浅く呼吸を繰り返す呪霊混じりの少女は、朦朧とする意識の中でカゴの中の猫に触れていた。猫も、少女から流れる血を舐め寄り添っている。
恵の中の敵意はほぼ消失していた。多分、こいつは津美紀を襲った犯人ではない。ハロウィン野郎の例を見るに、彼女にも情状酌量の余地があるかもしれない。事態が収束次第五条先生に連絡を取って──
(……いや、待て)
ふと違和感に気づく。おかしくないか?
この猫はこの女にとっての明らかなウィークポイントだ。そんなのが、どうして、カバンの中に檻ごと雑に詰められた状態で道に放置されて──
【──どうしたら君が嫌がるだろうって考えたんだ】
第三者が、現れる。
【それがさあ、全っ然ダメ! このツノ馬鹿女、すぐ記憶を都合よく歪めるんだもん。普通に殺しても、俺の気は晴れない】
【誰じゃ……ウヌなど知らん……】
【ほらこれだ】
白髪で、顔にツギハギの痕がついている。目立つ容姿をしているのに、通行人は誰一人この男の存在に気づかない。
【お前は無敵だったけど──調子に乗りすぎ。怖いものがないんじゃなくて、怖さをまだ知らないだけだったのにさ。だから勘違いして、引き際を見誤るんだよ】
自分の魂の形だけではない。他人の魂の形を弄ぶことこそが、己の在り方の本質だと、人型の呪霊は語る。手のひらで少女の顎を掴む。
【──
【 え ぁ 】
少女の体が形を変える。
肥大化した肉が、ねじれ、絡まり、変色し、意味の無い音を発する。合成映像のような変化に、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
「は……!?」
【あ ぁああああ ぁああ゛】
【いえーい! 大成功! ほーら、ご飯だよ! 口開けろ】
ツギハギ男が猫の入った籠を片手で掴み、高く放り投げる。肉塊が、粘液の糸を引きながら大きく口を開けた。
【ぁ あああ ?】
「にゃあ」
猫が、肉に飲み込まれる。
あの少女が、身を挺して守ろうとした存在の声が途切れる。
新宿に意味のない鈍い音が響く。今何を飲み込んだのか、飲み込んでしまったのか、理解しないままに。うごめいている。
ゲラゲラと、嘲笑う声が響く。
【あー、楽しかった! 健気でかわいいね。よく噛めよ】
「お前、は」
【ねえ、君たち術師でしょ。ちゃんと呪霊は退治しないとダメじゃん。何和解ムード出してんだよ】
さっき少女に向けた問いは、この相手には不要だ。
──こいつは、敵だ。
悲鳴が上がる。野次馬をしていた通行人たちが、道路の真ん中に突如現れた異形に腰を抜かして逃げていく。血を流して倒れる。変異し、別の通行人を襲い出す。恐慌状態が連鎖する。
人が多すぎる。恵にこんな場所での戦闘経験はない。最善の戦法が分からない。帳は降ろすべきか。いや、そもそもあれには掌印と詠唱が必須だ。十種影法術で両手を使う自分に、あれを降ろす余裕はない。
【じゃ、第二ラウンド、はじめよっか】
ツギハギの呪霊が嗤った。