東京都立呪術高等専門学校二年転校生早川那由多   作:同じ顔の別人

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最終章 純愛編
100点満点の少年


 

 

 

 

【side:乙骨憂太】

 

 

 

 ──約束だよ。

 ──里香と憂太は、大人になったら結婚するの。

 

 

 サイレンの音が響く。

 乾いたアスファルトの上を、水で溶かしてない、チューブからそのまま出した絵の具みたいな赤がずうっとまっすぐ伸びている。

 

 その光景を覚えている。

 彼女の顔を。彼女の声を、彼女の何もかもを覚えている。

 

 

 祈本里香は乙骨憂太を愛していた。いや──愛している。今でも、ずっと。すぐそばで。

 

 

 

 

 

 

 

 

    純愛編

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから九年がたった。

 

 2017年。

 東京都立呪術高等専門学校。

 乙骨憂太 入学初日。

 

 

【ゆう゛たを    いじ めるなあああ ァあ】

「やめて、来ちゃだめだ里香ちゃん! やめて、やめてってば!」

 

 

 人体がひしゃげて潰れる音がした。

 

 

 

 

 ──祈本里香。

 幼い頃、肺炎で入院していた病院で出会った女の子だった。憂太と、憂太の妹と、彼女と三人でいつも一緒に遊んでいた。優しくて、可愛くて、大好きだった。結婚の約束だってした。彼女からもらった指輪は、今でも肌身離さず首から下げている。

 

 彼女は死んだ。即死だった。僕の目の前で、トラックにはねられて頭が潰れて死んだ。

 

 

【憂太   大人になだらあああ 結婚 するるるるるるるるるるるん゛】

 

 

 あの日からずっと、乙骨憂太は祈本里香に取り憑かれている。

 

 

 友達が怪我をした。

 両親が怪我をした。

 妹が大怪我をした。

 

 憂太を傷つける人も、優しくしてくれる人も、いじめようとする人も、助けようとしてくれる人も、みんな等しく血を流すことになる。

 

 悲しみを乗り越えて友達を作っても、すぐに里香ちゃんが終わらせた。

 憂太に告白をしてきた隣のクラスの女の子は、次の日から学校に来なかった。

 

 うずくまって、自分の肩を抱いて、何もかもから逃げ回る。死んだように生きていた。新しく関係を築くことに怯えていた。 

 もう誰も傷つけたくなかった。だから引きこもって、誰にも会わず死んでしまおうと思った。

 

 

 ──でも、一人は寂しいよ?

 

 

 先生の言葉に、言い返すことができなかった。

 乙骨憂太は普通の生活に憧れていた。それがたとえ望んではいけないものかもしれなくても。

 

 

 

 

 だから僕はまだこうして息をしている。勇気を振り絞って、教室の扉を開けたのに。

 

 

「あ、ああ、ああぁっ………!」

 

 

 死んだ。死んでしまった。

 とうとう僕の目の前で、僕のせいで、里香ちゃんが人を殺してしまった。

 

 衝動的に自殺しようとして、罰が欲しくて、自分の首を握りしめる。その腕を里香ちゃんが掴んで強制的に引き剥した。泣いた。叫んだ。とっくに枯れたと思っていたのに。首はもう締め付けていないのに、涙と鼻水で息ができない。苦しくなってむせて、それに気づいた里香ちゃんが動きを止める。

 

 

【ゆぅた 辛い?】

「僕、は」

 

 

 辛かった。今すぐ消えてしまいたいくらいに。

 肯定すれば死体が増えるだけだ。でも里香ちゃんに嘘はつきたくない。沈黙以外の選択肢が見つからない。どうすればいいのか分からなくて俯いた。

 

 

「──ってな感じで! 彼のことがだーい好きな里香ちゃんに呪われてる、特級被呪者の乙骨憂太くんでーす! みんな、よろしくー!」

「……え?」

「うっわ、また死んだ。やっぱなんか変なフェロモンでも出てるのか?」

「しゃけ」

「教室汚しやがって。私らに片づけさせる気じゃねえだろうな」

「えっ、え!? えええ!?」

 

 

 反応薄くない!? 人が一人死んだんだよ!? どうして教室の掃除の話題に夢中なの!?

 これからクラスメートになる二人(と一匹)と、目隠しの担任の平然とした態度に憂太は激しく動揺した。

 

 もう一度死体を観察する。

 上半身と下半身が分かれ、中から内臓と骨が飛び出している。黄色がかかった白い部分がきっと骨だ。夢でも幻でもない。間違いなく、死んでいる。死体を目の前にして、日常会話が繰り広げられている。

 

 

「え、ええ〜……?!」

 

 

 呪術師って、こんなにも死に慣れてしまう仕事なのだろうか。うまくやっていける気がしない。五条先生がクラスメートを順番に紹介していくのを、床に蹲ったままぼんやり聞いていた。

 

 

「憂太、気にしない気にしない。大したことないから」

「あるだろうが……」

「おっ、口悪い! いいね、呪術師するならそのくらいの気合いがあった方がいい」

 

 

 五条先生は無駄に長い足でうずくまる乙骨をまたぐと、死体の胸元をまさぐった。輪のようなものに指を引っ掛けて、思い切り引っ張る。

 

 

 ──ヴヴンッ……

 

 

 目を疑った。ノコギリの刃ようなものが現れて、次の瞬間にはドロドロに溶けていく。ちぎれていたはずの上半身と下半身が元に戻る。金髪の男が大きな悲鳴をあげた。

 

 

「痛ってええええ!!」

「オハヨー! 後で血みどろの床掃除、よろしくね」

「俺の出会う女がさあ! みんな俺んこと殺そうとしてくるんだけどぉ!? いつまでこうなわけ!?」

「一生じゃない?」

「嫌だぁ!」

「い、生き返った……!?」

 

 

 里香ちゃんに握りつぶされていた男の人は、五条先生が胸元を引っ張ると同時に息を吹き返した。低いモーター音が耳に残る。何が起きたのか分からない。たしかに、死んでいたはずなのに。

 

 

「里香ちゃんのことも、彼のことも、直接見てもらったほうが早いと思ったからね。デモンストレーションさ」

「俺、んなことのために死んだのかよ〜!?」

 

 

 徐々に頭が動きだす。

 里香ちゃんが握りつぶしたはずの人は、目の前で、しゃべって、動いて、立ち上がって──

 

 

「い、生きて、生きてる、よかったァァああああ」

「うわあっ!? やめろ! 抱きつくんじゃねえ! 男にくっつかれても嬉しかねえんだよ!」

 

 

 生き返った彼を抱きしめる。暖かい。鼓動が聞こえる。生きている。

 ──里香ちゃんは、人を殺したわけじゃなかった! 訳が分からなくて、けれど安堵で胸がいっぱいになって、さっきとは違う意味の涙が止められない。

 

 

【ゆう゛た を 泣かせたああぁぁぁぁぁああ】

「ギャアアアアアア!!」

「里香ちゃん!?」

「ギャアアアアアアアアアア!?」

 

 

 また死んだ。生き返った。あ、また死んだ。早く泣き止まなければと思ったのに、一度決壊した感情はなかなか落ち着いてくれない。

 一旦ちょっと離れようか〜、と五条先生に誘導され廊下に避難した。

 深呼吸をして、なんとか泣き止むことに成功する。教室の中はまだ騒がしい。

 

 

【ゆ うた】

 

 

 里香ちゃんの声が聞こえる。廊下の冷たい空気に触れて、かなり冷静さを取り戻せていた。床に体育座りをしてため息をつく。僕が笑っているのを見て、里香ちゃんは静かに消えていった。

 

 

「あ……結局教室にいたパンダが何なのか聞きそびれたな……」

 

 

 事態が落ち着いた後、彼は不死身なのだと教わった。

 東京都立呪術高等専門学校──日本にただ二つだけの、呪術を教える教育機関。そこには憂太が想像したことのないような不思議な力を持つ人たちが、たくさんいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これで一年も四人になったねー」

「ここは呪いの祓い方を学ぶ場所であって、呪われてる奴が来る場所じゃねーだろ」

「真希は頭硬いなー、呪いそのものだって通ったことがあるくらい、由緒正しい学園だよここは」

「適当ほざいてんじゃねーぞバカ目隠し」

 

 

 呪具使い、禪院真希。

 呪言師、狗巻棘。

 不死身の彼。

 そして特級被呪者の僕、乙骨憂太。東京都立呪術高等専門学校一年のメンバーだった。相変わらずパンダの説明は無い。突っ込むに突っ込めないまま会話は進んでいった。

 

 

「なあ、お前らも掃除手伝ってくんねえ?」

「お前が汚した床だろ」

「ツナ」

「俺もちょっとパス」

「なー、いい加減清掃員雇おうぜ〜」

「やだよ、汚すの早パイ先生だけじゃん」

「お前が俺んとこにヤバいのばっかよこすからだろうが!」

 

 

 不死身の彼は、雑巾とバケツを装備し床の染みと格闘していた。拭けば拭くほど広がっていく跡。なるほどあれは強敵だ。

 

 

「って、先生? えっ?」

「デンジは生徒じゃねえぞ」

「え、先生!?」

「お〜 よろしくな」

 

 

 じゃあ一年が四人って……パンダが人にカウントされてたの!?

 不死身の彼──デンジはどう見ても自分と同い年くらいにしか見えない。雑巾を絞って立ち上がった。五条先生も年齢不詳気味だし、呪術師にはアンチエイジング効果でもあるのだろうか。

 

 

「そういやバタバタしてたせいで憂太にきちんと紹介してなかったね」

「悟のせいでな」

「死んだ早パイのせいだよ」

「ああ゛!?」

「ジャーン! この度呪術高専に赴任した早パイ先生でーす! 先生としてはベテランだけど高専歴は君らとほぼ変わらないから気楽に早パイって呼んであげてね!」

「お前それマジでやめろ!! お前がそういう態度なせいで俺が生徒に舐められてんだよ!!」

「えー、目の前で何度も死んでおいて今更じゃない? あ、この人こう見えて僕より七つ年上なの。教育実習の時の学校にいてさあ。『早川』足す『先輩』で略して早パイ」

「せめて生徒の前では早川先生って呼べよ」

「オッケー早パイ」

「おい!」

 

 

 早川先生が五条先生目掛けて投げつけた血みどろの雑巾は、ぶつかる直前で空中に静止する。摩訶不思議現象に、他のクラスメートが驚く様子はない。それもやめろと怒る彼に、憂太は声をかけに行った。

 

 

「えっと……早川先生……?」

「お前……いい奴だな……」

「はあ」

 

 

 名前を呼んだだけで、早川先生は涙ぐんだ。苦労しているのかもしれない。

 床掃除の手伝いを申し出ると、彼は「マジで、やりぃ〜」と喜んだ。こっちは泣かないんだ。この人の情緒はよく分からない。

 普段なら逃げ出していただろう。だが、彼が殺しても死なない男だという事実が、そして死や痛みをコメディに変えてしまう彼の才能が、僕に安心を与えてくれた。

 

 

「あの……さっきはすみませんでした。里香ちゃんが」

「別にいいよ。女に殺されかけんのは慣れてっし。けしかけやがった悟は許さねーけど」

「それです」

 

 

 早川先生に話しかけた、一番の目的を切り出した。

 

 

「あの、ありがとうございます。里香ちゃんを女の子って呼んでくれて」

 

 

 憂太は頭を下げた。本心からの言葉だった。

 祈本里香は僕の幼馴染だ。優しくて、可愛くて、大好きだった。結婚の約束だってした。彼女からもらった指輪は、今でも肌身離さず首から下げている。

 特級過呪怨霊の姿に、人だった頃の面影はない。なのにあの姿を見て、彼は迷わず女性扱いをした。

 

 

「……そんなことで?」

「そんなことなんかじゃありません。僕は……すごく嬉しかった」

「ならいいけどよぉ〜。じゃ、バケツの水交換してきてくれる?」

「は、はい! 先生!」

 

 

 学ぶのは五教科ではなく呪術。何もかも普通の高校ではないけれど、間違いなく乙骨憂太の憧れた『普通の生活』がここにはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 祈本里香ほど強力な呪いを倒すことはできない。教育することも難しい。ならば、解呪が望ましい──というのが五条先生の判断だった。解呪のためには、まずは呪いを一番安定する物体に憑かせるのが一番良い。

 

 

 ──理解できないものは支配できない。だったら理解できるようになるまで格を落とすのが手っ取り早い。()()()()()のお墨付きの案さ。

 

 

 刀に里香ちゃんの呪いを込めて『支配』する。それが憂太に与えられた課題だった。

 

 乙骨憂太が高専に転校してから数ヶ月が経った。刀を扱えるようにもならないといけないと、同時に呪霊退治の課題と体術の勉強も始まった。こんな独特のカリキュラムにも少しずつなれて来た。

 今日は午後から課外実習だった。つまり呪い退治のお仕事である。本日の同行者は二年の先輩らしい。急いで正門に向かう。そこには五条先生と早川先生がいた。

 

 

「僕は期待してるんだ。デンジと那由多、今まで単独でしか戦ってこなかった二人が同時に戦線に立った時に生まれる可能性にね」

「だからナユタは呪術師になんねえっつってんじゃん」

「えーそうかなー。そういうの本人に聞いてみないと分からなくない?」

「お前、押しが強えからあんま会わせたくねえんだよ……」

 

 

 内容はよく分からなかったが、難しそうな話をしている。

 あまり会話を盗み聞きするようなことになっても良くないだろうと、少し離れた場所から声をかけて挨拶した。

 

 

「おー憂太。お前相変わらずいい奴だな……こいつなんて初対面で中指立ててきやがったのによ」

「ちょっとー! 生徒同士を比較するのはどうかと思うなー!」

「お前はもう大人だろうが! というかお前を受け持った記憶はねえ!」

 

 

 五条先生、良い人なのは間違い無いけど自由奔放だもんなあと同情する。早川先生はいくつか会話を交わした後、憂太と入れ替わりで校舎の方へ帰っていった。

 

 

「早川先生、大変だな……」

「まさか。振り回されてるのは僕の方だよ」

 

 

 何を言っているんだこの人は。

 

 

「なんたって、彼は百点満点だからね」

「百点……? この間の吉田さんの話ですか?」

「正確には彼を採点したのはその師匠だけど。憂太も稽古つけてもらったでしょ」

「あの人かぁ……」

 

 

 数日前の稽古を思い出す。憂太を出会い頭に殴りつけてきたのは、両耳に大きなピアスをいくつも開けたおじさんだった。

 

 

 

 

 ──どうして俺の後輩たちは特級呪霊に好かれちゃうのかな。まあいいや。俺吉田な、よろしく。

 

 

 遅れて痛みの走る頬を抑える。ほら早く構えてと促され、慌てて必死に逃げ回る。

 みんなに助けを求めるが、すっかり観戦モードに入っていた。おかげで悪い人じゃなくてちゃんとした正規の指導者だと気づけたのだけど。

 吉田さん──狗巻くんよりさらに上の一級術師だという彼はとんでもなく強かった。右、左、かと思えば足払いが仕掛けられる。全く勝てるビジョンが浮かばない。怖くて、怖くてたまらなくなって、防戦一方のまま手合わせは終わった。

 

 

「いいね、将来有望だ」

「……へ?」

「あれだけ脅かしたのに、キミ全然怖がらないんだもの。流石特級なだけはある」

「は? 何言ってんだヒロフミ。こいつビビりまくりで逃げてただろ」

 

 

 手合わせをずっと見ていた真希さんが会話に割り込んだ。いつにも増して威圧的だ。それらを平然と受け流し、吉田さんは言葉を続けた。

 

 

「ビビってたね。でもそれは『俺』に対してじゃないし、『里香ちゃん』にですらない。『里香ちゃんが俺を殺すこと』を怖がってただろ」

「……? そんなの、当たり前じゃないですか……」

「抜き身の刀を全力で振り下ろすのにも迷いがなかった。うん、いいね。すごくいい。──キミ、100点満点だ」

 

 

 吉田ヒロフミは笑った。最後まで何を考えているのかよく分からなかった。

 

 

 

 

「僕が知る限りじゃ、100点は憂太が二人目だ」

 

 

 憂太、才能あるよ。褒め言葉が続けられたが実感が湧かない。こちらとしては殴られるだけで終わった訓練なので居心地が悪い。

 

 

「あの師弟の採点は、強さより呪術師向いてるかどうかが指標だからね」

「はあ……」

「そして、一人目が早パイ先生だ。100点はレアだよ〜? この僕が直々に高専にスカウトするくらいには。わざわざ二つも縛りを結んでね」

 

 

 縛りってなんだろう。高専にきてから経った数ヶ月。一般家庭出身の憂太にとって、呪術界はまだまだ知らないことだらけだ。そもそもの意味がわからない単語を使って説明されても困る。五条先生はこういうところがある。

 

 

「そのうちの一つとは今から会えるよ。憂太も仲良くできるんじゃないかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──現場に二年の先輩がいるから合流して行ってね。

 

 

 と言われて来たはいいものの。待ち合わせ場所の喫茶店にそれらしき学生服の姿はない。もっとわかりやすい目印を教えて欲しかった。

 

 

「ブラックコーヒーでーす」

「えっ……? いや、注文してないです……」

「あ、もしかして苦手だった? ミルクと砂糖いっぱい入れる?」

「えっ、ええっ!? あの……」

 

 

 エプロン姿の店員の女性が、憂太の隣に腰を下ろした。

 ヘイヘイ詰めて詰めてー! なんて明るく声をかけられるとどうにも断りづらい。

 

 

(だ、だめだ……)

 

 

 近い。近すぎる。おそらく年上。悪い人ではなさそうだが、これはとても良くないパターンだ。しばらく高専にいたせいで油断していた。

 特級過呪怨霊『祈本里香』の出現は誰にも予想ができない。憂太に危害を加えた者には問答無用で攻撃するが、それ以外の場合にだって現れるのだ。

 

 彼女は、乙骨憂太の妹ですら傷つけた。『距離の近い女性』はご法度だ。

 

 

【──ゆう゛た】

 

 

「ダメだ! 里香ちゃん!」

「お?」

 

 

 乙骨は勢いよく席から立ち上がった。ピッチャーが床に落ちて割れる。ひっくり返ったコーヒーで学ランが汚れるのも構わずに、転げるように店から逃げ出した。

 

 

「はっ、はあ、はっ、ああ……」

 

 

 全力で走った。高専に転校してからたくさん体を鍛えてきたけれど、それでもクタクタに疲れてしばらく動けなくなるくらいの距離を進んだ。

 多分もう大丈夫。あの店員の人が里香ちゃんに襲われることはない。

 

 ──目の前に大きな影が映った。

 

 

「う、わっ!?」

「あはは、ビックリしてるー!」

 

 

 後ろから上着を被せられた。さっきのはその影だ。

 慌てて振り返ると、さっきのカフェ店員がいた。してやったりと愉快そうに笑っている。

 

 

「追いかけてきたの……!?」

「コーヒーかかっちゃったでしょ。着替えなよ。上着なら貸してあげるからさ。それとも脱がせてあげよっか?」

「は!? えっ、待って、自分でするから手を伸ばさないで!」

 

 

 さっきのカフェでの様子といい、パーソナルスペースが無い人なのだろうか。里香ちゃんが今にも出てきてしまいそうな気がして、慌てて距離をとった。

 憂太の学ランは白いので染みが目立つ。五条先生が勝手にカスタマイズしたらしい。親切心からの行動のようなので強く言い返せなかったが、一人だけ色違いなのはちょっと恥ずかしい。

 濡れた学ランを簡単に畳む。シャツの上から、彼女の持ってきた黒い上着を着た。シンプルだが縫合がしっかりしている。安物ではなさそうだ。それに加えて──

 

 

(す、すごく……いい匂いがする……?)

 

 

 少なくとも憂太の衣服からはしない香りだった。

 

 

「あの、これ、もしかして……」

「サイズ合わなかった? 私のだよ。えー、人の借りるのダメなタイプ?」

「いや……。その、ありがとう」

 

 

 今のところ、里香ちゃんは静かなままだ。多分、大丈夫。大丈夫だよね? 親切を無碍にはしたくなくて、ありがたく借りることにする。

 あまり話したことがないタイプだ。つまり、経験則が活かせない。どんな対応をしたら里香ちゃんが出てくるかの予測がつかず不安だった。

 

 

「じゃ、行こっか。マスターにも早抜けするって言ってきたし」

「行こっかってどこに……?」

「なんだ、デンジ先生から聞いてないの?」

 

 

 黒髪の少女はエプロンを脱いで、肩にかけていた鞄にしまう。代わりに取り出したのは渦巻きのボタン。高専生の証だ。

 

 

「私レゼ。君の一個上の先輩だよ。今回の任務、一緒に頑張ろうね」

 

 

 五条悟が早川デンジを高専に勧誘する際に結んだ二つの縛り──その一つ。

 

 二級術師、レゼ。名字はない。

 これが彼女との出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《〜今日のナユタin職場〜》

「出来ました」

「都内の喫茶店の特集記事だぁ? コーヒー特集?」

「………」

「ボツ!」

「どうしてですか……」

「お前何年目だぁ!? そんなことも分からねえのか!」

「…………分かりました」

「わかってねえからこんなゴミ持ってくるんだろうが!」

「……」

 

 ナユタの上司が机を蹴り上げる。鈍い音が響き、新入社員の男が肩をびくつかせた。

 

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