3回目の怪獣ブーム(その2)
出版の裏舞台は、少数精鋭です。
編集長と編集担当者が数人。あとは部外者で、ライター、レイアウター(現在はデザイナーと呼ばれます)らが、常に出入りして慌ただしい。
ぼくはバイトで「てれびくん」編集部に1年ぐらい通いました。マンガ家やレイアウターのところへ原稿やレイアウトを取りに行き、ときどきネームを書かせてもらいます。
原稿用紙にレイアウトにしたがって赤鉛筆で囲みをつくって文字数を枠で写して原稿を書きます。枠の中に納めるのが大変でした。
児童誌だから簡単明瞭でないとダメ出しになります。句読点を赤でレ点のように指定します。
文字の大きさは写植のサイズ、級数と言って、例えば<8Q>と書きます。書体と級数は見出し、本文、ネームで異なります。誤植はあるものとし、徹底して校正し、版下が上がっても直します。
文字校正、色校正と続き、刷り出しが出る度にわくわくしました。
安井さんは最初教えてくれますが、安井さんのやっているのを盗み見するタイミングもちゃんと見せてくれるので、同人誌をやっていただけに難しい作業でありません。
ぼくのあと、同人仲間の間宮、元山、会川、勝又、各氏が安井さんに教わったと思います。
安井さんは、竹内さんほどでないですが、大伴さんの仕事を間近で見ていますから弟子筋であり、ぼくらは孫弟子みたいに感じました。
怪獣倶楽部の面々も、商業活動という意味では安井さんに教えられた部分がありますから、畏れ多いですが、彼らはぼくらの兄弟子の関係のようです。
安井さんを通じて源流が大伴昌司にあるのが嬉しいのです。
大伴さんは怪獣の解剖図解などで知られるものの、少年誌の巻頭グラビア・図解を通じてさまざまなジャンルを紹介しました。怪獣はたくさんの中の1つです。それでもこと怪獣の記事や本は魅力的でした。
ま、実際の処では、竹内さんが本当のお弟子さんでしょう。
かつて実相寺監督が私小説を出した際に、明らかに大伴さんをモデルにした編集者を矮小な人物像で描き、竹内さんは憤慨しました。それが伝わったのか、実相寺さんはコメントで、そういう意図はないと釈明されていました。
大伴さん以外にも、怪獣の記事を作ったライターは何人も居ます。
東宝の助監督だった宮崎英明さんが赤井鬼介とペンネームを使って講談社の児童誌で記事を作っていたのはよく知られるところです。
80年代に東宝へ遊びに行った際に、バラゴンを前に宮崎さんら若手スタッフが並んでいる写真を出して、ぼくも写っていると教えて下さった人が白崎さんで、やがて建設されるディズニーランドへ出向になりました。
東宝がオリエンタルランドと連携したからです。井上泰幸さんの弟子にあたる豊島睦さんもオリエンタルランドに移りました。宮崎さんは彼らと同期だという話を伺いました。
軍事評論家の小山内宏さんも「ウルトラQ」の記事を作っていました。
のちにアスキーの編集長になる遠藤諭さんが「東京おとなクラブ」を主宰して小川町に事務所を借りて家賃を出すために雑誌の編集を請け負っていた頃、売り出し中の中森明夫さんらが集まって、たまたまぼくが「ウルトラQ」の「少年マガジン」を出したら、それ父親がやった仕事ですと、小山内さんの息子さんがその場に居てビックリ。
遠藤さんはその時、小学館ビルの最上階でIT企業に居ました。ぼくが地下スタジオで怪獣のジオラマ撮影をやっていると覗きに来たものです。
話を戻すと、大伴さんが亡くなる3年前に大伴さんに付いたのが竹内さんです。
竹内博さんは早熟の天才、学者肌でした。
中学生の時に自作の怪獣図鑑(大伴昌司の設定をまとめたもの)が認められて高卒と同時に円谷プロへ入ったのが71年。
円谷で資料の制作、記事に始まって、87年に退社して以降、円谷英二、伊福部昭、香山滋、大伴昌司らの研究、関連書籍は枚挙にいとまがありません。
怪獣を学問に高めた人と言って良いほどです。
もし、竹内さんが怪獣以外に興味を持ったらそっちでも成功したでしょうが、怪獣の虜だったのだからしょうがありません。みんな、竹内さんを灯台の灯りのように思って動向を楽しみにしました。
大伴さんが亡くなった73年、竹内さんと安井さんが葬儀委員をしたそうです。
竹内さんが中学生の時につくった怪獣図鑑は学年誌の各編集部で辞書代わりにされました。コピーをファイルにしたものです。
55年生まれの竹内さんの円谷プロ入社後の最初の仕事は16歳、17歳の時の勁文社の「原色怪獣怪人大百科」(71年)と「怪獣怪人大全集ゴジラ」(72年)です。
ぼくらが怪獣ブームに浮かれているときに竹内さんは円谷プロの傍らですでに素敵な本を作っていたんです。ただそれだけで、すごすぎますよ。
竹内さんが映画をテーマにするなら、安井さんはテレビものが多かったのは、安井さんが竹内さんを立てたからでしょう。
安井尚志さんが怪獣を仕事にするのも大学生だった71年ぐらいで、開米プロの造型や怪獣ショーをやって円谷プロと関わっています。「帰ってきたウルトラマン」のモブシーンに映っていると言ってました。
75年に円谷プロを訪れた中島伸介さんと竹内さんが出会った事で伝説の同人、怪獣倶楽部が誕生します。
安井さんが大学の同級生だった西脇博光さんを竹内さんへ紹介します。
そうやってすごい人材が集まっていくのはまさしくドラマのようですね。
学年誌の記事で<構成 安井ひさし>を見つけるのは、「ウルトラマンレオ」あたりから。西脇さんと同学年だから53年生まれとして、21歳の安井さんの仕事でした。
安井さんは楳図かずおのマンガのコレクターで、先生よりも蔵書が多く、アシスタントも経験したとか。
絵が描けるので2代目メフィラス星人などの造型用スケッチも描いています。
マニア向け専門誌で第2期ウルトラに厳しい視点を送ったのは彼らが現場に関わっていた自責の念もあったのではないかと思います。
2人とも大伴方式の入稿でした。
「てれびくん」編集部にかつて入門百科などで使った大伴昌司のラフ構成がたくさん残されていて勉強になりました。割り付け用紙に鉛筆でレイアウトのプランを書き込んだものです。
竹内さんは自作の怪獣図鑑に絵を寄せていましたが、安井さんのような達者な絵ではなく、それでも描かないと説明がつかないから半ば強引なんですが、伝達手段としての絵という観点に、目から鱗でした。
80年頃まで、編集者はライトスコープを使って写真やポジを拡大させて割り付け用紙に写します。それをレイアウトする人へ渡すのです。
絵が描けない人に重宝ですけど手間はかかります。絵が描ければ作業は早いんです。安井さんは的確に早く構成を切ってずいぶん影響を受けました。
第2次怪獣ブーム終息時。
新聞記事のタイトルに「さよならウルトラマン」と銘打たれたのはショックでした。自分が中学2年の頃です。もうあまりテレビは見ずに映画館へ洋画を観に行くのを楽しんでいた頃です。
75年、最終回を迎える「ウルトラマンレオ」も、公開された「メカゴジラの逆襲」も、なんだか殺伐とした風景の印象が強くて、個人的には好きになれません。
その年は「仮面ライダーストロンガー」がシリーズ全体としての最終回を迎えました。ラスト何本かは高揚しました。活劇は、ウルトラより上手かったと思います。
この年、講談社系列から「ワールドスタンプ」が出ました。
企画した赤井さんにとっては60年代から「たのしい幼稚園」などでウルトラをやっていましたからシリーズを総括するつもりだったと思うんです。
このあたりから講談社を赤井さんが、小学館を安井さんが、と言う割り振りになっていきます。
怪獣ブームが終わったかに見えた76年、海の向こうから「キングコング」の新作がやってくる事で、にわかにキングコングブームが起こります。
東宝は77年に東宝チャンピオンまつりで4度目の「キングコング対ゴジラ」を劇場にかけました。
奇想天外社から「キングコング」のノベライズが出るにあたって「完全復刻 ゴジラ╱ゴジラの逆襲」のノベライズが出るんです。竹内さんが子供向けでない同好の志へ向けた最初の仕事かもしれません。
円谷プロに居た時、外から得た仕事は酒井敏夫のペンネームだったのに、ノベライズの解説は本名でした。香山滋へのこだわりがあるんでしょうね。
円谷プロはキングコング人気に乗じて恐竜路線を見出して「恐竜探検隊ボーンフリー」を制作、翌77年には劇場版合作「極底探検船ポーラボーラ」をつくります。
この頃のハリウッドから来る映画は、ヒットした「エクソシスト」「ヘルハウス」のようなオカルトものが「悪魔の沼」「ゾンビ」のようなスプラッターに移行し、あるいは怪物ものの「ジョーズ」「グリズリー」の登場になりました。
「タワーリングインフェルノ」「大地震」のようなパニックものはSFに変わっていきます。「スーパーマン」「未知との遭遇」そして「スター・ウォーズ」です。
東宝は「スター・ウォーズ」上陸前にお家芸の特撮を駆使した「惑星大戦争」を、円谷プロも「スター・ウルフ」を制作。でも海外から評価されたのは東映の「宇宙からのメッセージ」でした。
高校生になっていたぼくはそれにしても和物はつらいなぁと辛辣に感じました。正直言って二番煎じですからね。
海外から派生したSFブームの渦中、「GORO」(77年9月8日号)でウルトラマンの記事が作られました。安井さんと竹内さんの構成です。記事の最後に、愕くべき事に、特撮同人誌3誌が紹介されたのでした。
同好の志へ向けた呼びかけです。
ぼくは初めて、子供のものでない特撮や怪獣の楽しみ方をしているグループがあることを知ったのです。
ただ残念な事に、ノベライズ「ゴジラ」に驚喜したぼくは、竹内さんの文章に圧倒されて近づく事がまったく出来ない始末。安井さんはそもそもが「てれびくん」の安井記者でしたから専門家です。
手の届きそうにない相手の仕事ぶりを見つつ、指を咥えた数年後、やっと自分たちで同人誌を始める切っ掛けが見つかります。
潜在的な怪獣ファンが一声に目覚める切っ掛けが、78年1月25日に朝日ソノラマが出した「ファンタスティックTVコレクション №2 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン ウルトラセブン ウルトラQ」でした。
ファンコレのおかげで人生が変わった人は50代前後は多いでしょう。これこそ怪獣倶楽部の面々の仕事でした。
それまで部分でしか見えなかった制作の全貌が分かります。
1月2日の夜7時、テレビの前に居たか? なんて感覚的な文章は、それまでの本に書いてありませんから、愛情を感じるんです。
自作の物でないちゃんとした公式の放映リストも嬉しい事でした。
続いて「ファンタスティックコレクション ゴジラ」が5月1日に発行されました。もう自分の中でナニカが走り出した気がしました。
さらに、同時期の特筆すべきもう1つは、「オリジナルサウンドトラック ゴジラGODZILLA」(東宝レコード 78年2月25日発売)です。
前年に出した「日本の映画音楽 伊福部昭の世界」(東宝レコード 77年9月25日発売)の継続企画にあたります。
頭がくらくらするほどの衝撃を受けます。
「メカゴジラの逆襲」を見終わった時、ぼくはゴジラの終焉にたまらなくなって渋谷で何件もレコード屋を回って、その手のサントラはないのか、せめてソノシートでもいいからと捜しまくりまくったものです。
「ゴジラ」のサントラは、その望みを一挙に解消したばかりか、映画の素材としての音楽をしっかり意識して、台詞や効果音のかぶったリアルサントラを避けて、劇伴音楽にこだわったところになにかしらの凄味を感じたのです。
伊福部先生は表へ出したくなかったようですが、ファンにしたら待ってました!と声を挙げた一枚。
同じシリーズとして「SF映画の世界 Part1~3」が、78年5月から発売されて秋葉原の石丸電気に通いました。レコード館があって、買うときに1枚ずつ中身を確認させてもらえるんです。傷や埃があると換えられる仕組み。宣伝用のポスターも何枚か買うともらえ、点数も溜まりました。
「SF映画の世界」は、曲の興奮を高める計算で間に名台詞が入っています。
オールナイトへ行くとその台詞の場面で場内が沸くんです。共通体験している人が暗やみの中、あちこちに居るんです。
キングレコードからは「サウンドウルトラマンBGMシリーズ」が79年3月25日から続々と発売されました。
その後もたくさんのサントラが出ましたが、竹内さんと名コンビをつくった西脇さんの面目躍如は、やはり最初の一枚目。序章たる黒部渓谷の曲が幕開けです。この1枚が、映画の起承転結をつくっていた処に何度聴いても感動するんです。
そうやって眠っていた怪獣ファンの感性が一気に目覚め始めます。最初のブームで育った子供がいったん怪獣を卒業して、子供から大人になる間にまた熱が出た。
いや、その間ずっと怪獣熱に浮かされていた人たちも少なくなかったでしょう。
先のブームにない、専門的な本やレコードは、本当に画期的、魅力にあふれました。
79年。ついに第3次怪獣ブームが世間を巻き込みます。先の2つのブームほどでありませんが、子供と、我々の世代がその波に飛び込みました。
大きなイベントは、春の公開「実相寺昭雄監督作品ウルトラマン」と、夏の日劇興行「ゴジラ映画大全集」、加えて「ウルトラQ」の再放送です。
テレビでは、春の新番組でアニメになってはしまったものの「ザ・ウルトラマン」は大いに期待しました。
秋の番組で新作の「仮面ライダー」が始まります。
でも新番組よりも久しぶりの「ウルトラQ」の再放送がダントツで嬉しかったのも事実でした。家庭用ビデオデッキが普及し始めで、まだまだ高いのに、「ウルトラQ」のために買いそろえた人も仲間に何人も居ました。
「実相寺昭雄監督作品ウルトラマン」は79年3月17日公開です。
実相寺監督はすでにウルトラの監督の印象は遠く、ATGで問題作を撮る映画監督でした。
「無常」「曼陀羅」「哥」の3本は名画座で一挙に観ました。高校生だから意味がまったく分からないんです。
77年に日本ヘラルド配給で撮った「歌麿 夢と知りせば」は海外でも話題になったと記事を見つけ、大人にならないと観られないんだろうと思っていましたが、「実相寺ウルトラマン」の際にいきおい名画座で観る事がかないました。
実相寺監督はものすごく個性の強い監督で、インテリで、気が強そうだ。と言う印象を持ったのは、監督のエッセイをまとめた「闇への憧れ 所詮、死ぬまでのヒマツブシ」(創世社77年12月20日発行)を立ち読みした時にです。
「実相寺ウルトラマン」と同じ春、河崎実さんが明大生田校舎でやった上映会で併映の「ウルトラQ」を目当てに観に行って思いの外楽しめたのは、こちらが年下とはいえ同じ物を見て育ったからでしょう。河崎さんは高校の4つ上の先輩でしたから親近感もありました。
明るくて大笑いしている河崎さんと気難しそうな実相寺さんが意外と仲良しになる事が、のちのちにぼくを愕かせるわけです。
「実相寺ウルトラマン」と河崎さんの「√ウルトラセブン 放浪の果てに」はぼくにとっても思い出があります。
なにしろ、同人誌をやりましょうという仲間とその時に知り合ったのですから。それからあちこち、文化祭や文芸座などの上映会を雑誌「ぴあ」を頼りに東奔西走して片っ端から観に行き、行く度に仲間と知り合います。
この年のもう1つのポイントは夏になります。
日劇興行の「ゴジラ映画大全集」でした。
その話の前に、78、79年のおさらいです。
<雑誌>
「ファンタスティックコレクション ウルトラマン セブン Q」78年1月25日発行
「ファンタスティックコレクション ゴジラ」78年5月1日発行
「大特撮」79年1月31日発行
「すばらしき特撮映像の世界」79年6月15日発行
<レコード>
「オリジナルサウンドトラック ゴジラGODZILLA」78年2月25日発売
「SF映画の世界 Part1~3」78年5月~発売
「サウンドウルトラマンBGMシリーズ」79年3月25日~発売
<興行>
東宝チャンピオンまつり枠「キングコング対ゴジラ」77年
「惑星大戦争」77年
東宝チャンピオンまつり枠「地球防衛軍」78年
「スーパーSF 日本特撮映画大会1~3」77~79年(池袋・文芸座、文芸地下劇場)
「仮面ライダー大会」78年(仮面ライダーファンクラブ)
「ゴジラ映画大全集」79年8月2日~24日(日劇)
<上映会>
「ウルトラQ復活祭」78年3月26日開催(ムービーハウス)
「帰ってきた円谷プロ」78年6月18日開催( 〃 )
「ウルトラQ復活祭Ⅱ」78年7月26日開催( 〃 )
「ウルトラQ復活祭Ⅲ」78年9月30日開催( 〃 )
「ウルトラQフェスティバル」78年9月1、2日開催(U.S.A)
「√ウルトラセブン放浪の果てに」79年4月15日開催(河崎プロ)
「マグマ大使上映会」79年6月24日(懐漫友の会)
「怪奇大作戦上映会」79年8月29日(TVっ子センター)
「スペクトルマン上映会」79年10月28日
・79年春、「実相寺昭雄監督作品ウルトラマン」が公開されました。
67年の夏休み興行「キングコングの逆襲」の併映になった「長篇怪獣映画ウルトラマン」以来の劇場版ウルトラマンに大興奮です。
実相寺作品は好みが別れるところですが、イベント感覚で親子連れが大半だった中、明らかにマニアと分かる人たちもけっこう居ました。
・実相寺監督は日本ヘラルド映画配給で「歌麿 夢と知りせば」(77年)を撮ったあと、初のエッセイ本「闇への憧れ 所詮、死ぬまでのヒマツブシ」(創世社77年12月20日発行)をまとめました。
これと「実相寺昭雄監督作品ウルトラマン」は直接の関係はありませんけど、立ち読みして特撮班へ対する不信感、とくに怪獣造型への辛辣な意見に複雑な思いをもちました。
自分たちが良かれと思ったものが頭から否定された気がしたからです。
逆にこの映像作家に興味をもってATG作品の上映を覗き見するようになりました。いま思えば、高校の制服のまま「歌麿」なんて観に行くのはよろしくないです。
画像、まんだらけに出た監督書き込みの台本。ものすごく達筆すぎて読めませんね。
・「闇への憧れ 所詮、死ぬまでのヒマツブシ」から。
ガヴァドンAはハンペンのおばけ。テレスドンはオケラ扱い。メトロン星人は長靴の化け物、と書かれていました。ただ、「遊星より愛をこめて」や「風」についてのコメントは興味深いでした。
その事を、平成ウルトラで取材した際に話題にしたら、あれで良かった。(否定したのは)若さだね、と答えてくれました。幾星霜を経ていつの間にか怪獣愛に満ち足りた監督を誰も責められません。
・朝日ソノラマが78年から出し続けた「ファンタスティックコレクションシリーズ」。
その2巻目、1月25日発行の通称ファンコレ・ウルトラマンを本屋で見た時の衝撃はいまも鮮明です。学校の帰り、東中野の小さな本屋の棚で表紙が輝いていました。吸い込まれるように手が届いて本をとり、ぱらぱら見ながら胸が熱くなりました。
正確には、「ファンタスティックTVコレクション №2 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン ウルトラセブン ウルトラQ」。
長いよ(笑)。
でも長く待ちましたからね。こういう本が出るのを。
「ファンタスティックコレクション ゴジラ」は同年5月1日発行です。今度はなにが出るのか?本屋が楽しみでした。
・「大特撮」79年1月31日発行。子供の延長だったぼくの頭では特撮はミニチュアワークだし、怪獣やミニチュアがセットで活躍する映画やテレビが好きでした。しかし特撮は嵐や火山、地震に津波、戦後の焼け野原に未来都市、合成やマットアート、音楽に脚本に演出に。たくさんの要素があって、評論される事で大人の視点が養えました。自分自身では評論なんて苦手なんです。関西の特撮ファングループ、コロッサスに脱帽した1冊でした。
その「コロッサス」、恵比寿のスペース50(映画ショップ兼会場)で買いました。まだ同人誌が店頭で手に入る時代じゃありません。
・「すばらしき特撮映像の世界」79年6月15日発行。
これも機知に富んだ画期的な朝日ソノラマの名著です。画像にまとめましたように、67年にキネ旬が出した「世界怪物怪獣大全集」の大伴昌司が司会をした座談会へのオマージュを、司会竹内さんでやっています。安井さんも同席していて、児童文化評論家と名乗っていました。そういう仕事があるのか!と愕きました。
米田仁さんのマンガが素晴らしくて、平山亨さんとお会いした時、マンガと一緒だと感動したものです。
・東宝レコードから発売されたサントラLP。
77年9月25日発売、日本の映画音楽シリーズ「伊福部昭の世界」が予想を越える売り上げを見せた事から当然のように発売された「オリジナルサウンドトラック ゴジラGODZILLA」(78年2月25日発売)に、どれだけの熱い想いを寄せただろうか。生きていて良かった、などと大げさに思われるかもしれませんが、本当に、そう思いました。
「ゴジラ2」も良かったのですが、78年5月に発売された「SF映画の世界 Part1~3」の3枚、どれから聴こうか迷いに迷って手が付けられない状態になりました。
圧巻は、ジャケットがガッパなのに、中身の半分以上が「わんぱく王子の大蛇退治」だった件。おいおい、と思いつつ、納得する1枚。
竹内さんと西脇さんに感謝の仕事です。
・77年、日本コロムビアから「テレビまんが主題歌のあゆみ」と言う4枚組のLPが出ました。おそらくキングレコードから出た「ウルトラマン大百科」は同じ狙いだったのかもしれませんが、サントラがいける事が東宝レコードで証明されたことで、79年3月25日発売の「サウンドウルトラマンBGMシリーズ」から続々シリーズが出ました。
伊福部昭、佐藤勝に加えて、宮内國郎、冬木透、冨田勲、小川寛興らの劇伴音楽にひたすら酔い痴れました。
ウォークマンのない時代、カセットに録音して小型ラジカセで通学時間に聴いたものです。
・本稿ではふれませんでしたが、重要なファクトが文芸座などの特撮上映でした。
・同様に、自主上映会も地道に怪獣復活を呼び込んでいました。
特撮イベント
https://ameblo.jp/gara999/entry-12395448089.html
特撮イベント2
https://ameblo.jp/gara999/entry-12395556636.html
・同人誌を始めた際に、自分が通ったような上映会をやってみたくなって、4、5回ほど、「マイティジャック」などの上映をやりました。
大きなイベントは夏休みの3日間連続の「アマチュア8ミリ特撮大会」です。佐川和夫さんが来てくれました。
右下、「8ミリカメラ 特撮のタネ本」(芸術生活者70年8月25日発行、円谷一著)。
現実的に機材を揃えるつもりのなくても、この本に目を通した人が多かったでしょう。やはり特撮を自分で撮る!のは子供の頃からの夢だと思うんです。