3回目の怪獣ブーム(その1) | ヤマダ・マサミ ART&WORK 検:ヤマダマサミ

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3回目の怪獣ブーム(その1)

怪獣ブーム、特撮ブームをざっと俯瞰すると、80年代までに3回のムーブメントがありました。

ここでは80年前後の第3次怪獣ブームの背景を考えてみます。

例によってくどい上に自分の体験記です。3回に分けました。長めの前説を含めつつ。

 

最初のブームは66年放映の「ウルトラQ」「ウルトラマン」を中核にしたテレビ番組が呼び水でした。

ぼくは幼稚園児でしたからドンピシャで怪獣熱に浮かされました。

それまでは映画が娯楽の王様と言われ、東宝特撮映画と東映動画の長篇まんが映画はは子供の憧れでした。映画館に二重三重の立ち見が出るなんていまの若い人には想像も出来ないかもしれません。

そんな頃、海の向こうでキングコングの生み親のウィリス・オブライエンが新作キングコングの企画(フランケンシュタインの怪物とコングが戦う)を持ち込んで、紆余曲折して東宝へお鉢が回ってきたのが海外合作の「フランケンシュタイン対地底怪獣」(65年)でした。

コングの役どころはゴジラに変わり「フランケンシュタイン対ゴジラ」で企画が立ち上がります。新怪獣をとのリクエストが来て、ゴジラはバラゴンに変えられて制作が始まります。

いざやってみたら「フランケンシュタイン対地底怪獣」は単なる対決もので収まらない怪獣と超人が戦う構図の面白さに付加価値があったのではないかと思います。

東宝はその前にキングコングとゴジラを戦わせています。

キングコングはアメリカではスーパーマンと並ぶか、それ以上のヒーローで、日本でも知名度はありました。

戦後9年目につくられた「ゴジラ」(54年)も「キングコング」(33年)の影響がありました。

テレビではアテレコ生放送時代に放映した「スーパーマン」をヒントにしたのが「月光仮面」でした。

戦後10年ぐらいの日本はつねにアメリカの後追いをしたものです。

日本のヒーローと言えば、マントとメガネ、ヘルメット、等身大でバイクに乗るが続きます。アメリカではコミックスのヒーローがたくさん居て、DCコミックスで、スーパーマンに匹敵する人気をバットマンやワンダーウーマンは獲得しています。

<この稿をまとめている最中に、マーベルコミックで、スパイダーマンやハルク、XーMENの生みの親スタン・リーさんの訃報を知りました。合掌>

60年代(昭和30年代)の日本は、朝鮮動乱の特需景気を含めてアメリカの下請けで輸出産業が賑わい、上り調子の経済成長を続けます。東宝の特撮映画も外貨を稼いだのです。

円谷英二が東宝とは別に、自社である円谷特技プロで若い人材を使った企画を立てたのはテレビの時代が来たからです。

63年、フジテレビへ「WoO」を、TBSへ「UNBALANCE」を、に提出します。

そうしてTBSで「UNBALANCE」(「ウルトラQ」)の制作が始まり、その第2弾に「科学特捜隊ベムラー」が考えられました。ベムラーは正義の宇宙怪獣が人類の味方となって怪獣と戦う話。

TBSとしては採算を度外視した「ウルトラQ」がモノクロで、すでに海外ではカラー化が始まっていたため、改めてカラー番組のセールスを視野に入れざるを得ません。

ヒーローが怪獣では?と局から疑問が入ってスーパーマン的なヒーローへ軌道修正され、タイトルも「科学特捜隊レッドマン」となり、成田亨によっていくつかのデザイン案が出されます。

レッドマンは未来的、宇宙的な甲冑で身を包み、初めて既存のヒーローにない斬新な形になっていきます。結果、正義の宇宙超人は、装飾を一切排除した美しい姿となり、ウルトラマンと名前を変えました。

特撮映画の技術、演出、企画の線上にキングコング、ゴジラの流れがあって、和製フランケンシュタインがつくられ、超人対怪獣の図式がウルトラマンへの布石になったと見て良いでしょう。

ヒーローの系譜としては、スーパーマンを日本式にした愛と正義の月光仮面から始まって、SF性を重視したウルトラマン、そして怪奇アクションの仮面ライダーへと変貌していきます。

仮面ライダーは意識してウルトラマンにない要素を前面に出しました。

学年誌の会議をまとめたレポートで、なぜウルトラマン人気は仮面ライダー人気に勝てないのかリサーチがありました。

ビューティフルヒーローと位置づけられたウルトラマン対して、仮面ライダーはグロテスクヒーローとされ、子供たちは美しいものに慣れつつも飽きがきて、グロテスクなものに惹かれた、と言うのがそこでの分析です。

もちろん、ウルトラマンがあっての仮面ライダーのデザインです。そのように、いきなり何かが出てくるのではなく、前後の脈絡に則った形が多いのです。

 

最初の怪獣ブームが下火になって、冬の時代が来て、またブームが起こります。

2回目のブームは仕掛けがありました。

69年から小学館の学年誌がウルトラセブンの絵物語を連載し、円谷プロは70年に「ウルトラファイト」を制作。倒産したマルサンのスタッフがブルマァクを起こして再度、怪獣人形を売り出します。

そして、円谷英二が生前語ったとされる「帰ってきたウルトラマン」と言うタイトルから内容が詰めてられて新番組として制作されたのが英二さんが亡くなった翌年、71年の事。

その放映の3ヶ月前。

先のブームでは2週間前に「ウルトラマン」を押さえて本邦初の国産カラー作品の特撮ドラマ「マグマ大使」を作ったPプロが、「ウルトラQ」と同じ1月2日に「宇宙猿人ゴリ」を放映させて、第2次怪獣ブームの口火を切りました。

この頃、公害が社会不安でした。「宇宙猿人ゴリ」は公害由来の怪獣を出して子供たちの度肝を抜きました。東宝も、71年夏に「ゴジラ対ヘドラ」で公害怪獣を登場させています。

「宇宙猿人ゴリ」は「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」「スペクトルマン」と改題を続けて1年間放映し、「怪傑ライオン丸」へバトンを渡します。

映画よりテレビが企画力と自由度があったんでしょう。

園児のときにウルトラマンと遭遇したぼくが新ウルトラマンに出会ったのは小学校の高学年。好みもはっきりしていました。

70年代はアイドルブームでもありましたし特撮ものも百花繚乱。ウルトラやライダーの次に、毎回違ったヒロインが出て、ピンチを助けて去って行く「アイアンキング」(72年)にはまりましたが、それはさておいて。

特撮を最大級に売り物にした「帰ってきたウルトラマン」の対抗馬は予算の少ない「仮面ライダー」になっていきます。それぞれ金曜、土曜の放映です。

ウルトラシリーズの連載を学年誌でやっていた小学館に対して、講談社は青年誌で連載していたマンガをテレビや様々なメディアへ展開するメディアミックスを仕掛けるうち、東映・平山亨プロデューサーの肝いりだった「仮面ライダー」に力を入れました。

「仮面ライダー」は石森章太郎が「サイボーグ009」で築いた悪の組織を今度は狂言回しにし、実写ならではのインパクトある怪人の暗躍を前面に持ってきます。

主人公がその事件の解決に奔走するものですが、選ばれた人間の資質と選ばれ方によって改造人間の形態が運命づけられる不条理さとともに、それでも正義の心が勝つヒロイズムがウルトラシリーズにないもので、結果として(苦肉の策ながら)、陰惨なリアリズムを1クールで描いて、開放感のある2号篇につながって人気が爆発します。

1号・本郷を演じた藤岡弘のバイク事故での2号登場も、裏話は子供の耳にも入る時代でした。少し後の藤岡さんの行方不明事件も週刊誌で知ります。ま、佐々木剛の子供に分かり易い陽気なキャラクターも良かったわけです。

2度目の怪獣ブームは一名、変身ブームとも呼ばれるようになりました。

 

70年代と言えば、東宝チャンピオンまつりと東映マンガまつりが児童の長期休みのイベントの双璧です。どちらを選ぶか? 両方行けたら最高。デパートや遊園地、商店街の怪獣ショーも楽しみでした。

ぼくは「マジンガーZ」も「デビルマン」もマンガの時から好きでしたからわが世の春のようです。

ブームはすぐ爆発的な膨らみをもち、同時に、粗製濫造になっていきます。子供は敏感ですからね。ぼくの興味もサイクリング車のような現実の世界へ憧れました。

そのうち、だいたいブームは3年ぐらいで終息へ向かいます。

面白い事に、怪獣ブームの途中で妖怪ブームが来て、スポ根ブームによって消えていきます。

60年代「ウルトラマン」「ゲゲゲの鬼太郎」「巨人の星」

70年代「仮面ライダー」「ドロロン閻魔くん」「侍ジャイアンツ」

ショウワノートが販売促進パンフレットにリストを作って子供番組の流れを見せていました。

70年代は、さらにスポ根ブームのあとに「マジンガーZ」などのロボットブームが来て、「宇宙戦艦ヤマト」へ繋がりました。でも「ヤマト」人気は再放送を繰り返して起きたもので、子供が買う商品人気でありません。

子供が多かった時代は、マーチャンダイジング(商品化権利)が大きな商売になっていました。

企業にとって番組は食堂のメニューのようなもの。奇を衒うより定番が好まれます。その商品のセールスポイントを後押ししたのが出版物でした。

出版に力があった時代。情報の発信は、まずは本です。

第1次怪獣ブームでウルトラをほぼ独占出来た講談社に対して、第2次ブームでは小学館がウルトラを独占したのもそうせざるを得なかったため。

講談社と小学館の関係は「少年マガジン」と「少年サンデー」のライバル誌の関係そのままで、高視聴率番組ウルトラシリーズとライダーシリーズがそれぞれの売りでした。

講談社と小学館がウルトラで競合するのは、「ウルトラマン80」でした(79年、特撮ではないアニメ「ザ・ウルトラマン」でまず競合します)。なんと初代から14年目の事。

現場を覗くとライバル誌同士のカメラマンが火花を散らすんですね。

円谷プロは公平を期す意味で、「ウルトラマン80」のUGM隊員の名前をイケダ、フジモリとします。これは「テレビマガジン」「てれびくん」のそれぞれ担当者の名前でした。

講談社と小学館のライバル関係は、平成シリーズで「ウルトラマンコスモス」になった時もそのように現場に緊張があって、双方が慣れるまで一般誌が入れませんでした。

 

 

 

・昭和世代には説明のいらない名著。怪獣ブームのさなか竹内さんがやった「原色怪獣怪人大百科」と「怪獣怪人大全集ゴジラ」。ともに勁文社。71年、72年に発売され、それぞれすぐに続刊が出ました。これ、丸ごと復刻したら良いといつも思います。

シンプルでありながら「原色怪獣怪人大百科」は混載の魅力に富んで深い海を探るような面白さがありました。足形は67年の同社「怪獣大絵巻」以来の特色。「原色怪獣怪人大百科」3巻に加え「原色怪人大百科 仮面ライダー 超人バロム1」があり、その先はポケットサイズの「全怪獣怪人大百科」になりました。

「怪獣怪人大全集ゴジラ」はそれこそ映画のスチールの魅力が家の中で再現出来るものでした。続刊は「怪獣怪人大全集ガメラ 大魔神」です。

 

 

・73年1月20日発行の「日本映画界の遺産 円谷英二」(小学館)、円谷一編著。大伴昌司の構成で、竹内さんが資料集め、リストを制作。

円谷プロ10周年の記念出版の意味が大きいのは学年誌がリアルタイムでウルトラシリーズを扱っていた経緯があるが偏ることなく、内容として、英二さんの幼少期から亡くなる直前の日記など人間像を浮かび上がらせるものであり、東宝「ゴジラ」や「ウルトラQ」などシリーズの原点に留意して、各方面の関係者、スタッフの回顧録が大変な資料になっています。

ぼくはこれの広告を「少年サンデー」や学年誌で知りました。注文しないと手に入らないようで、ついに町の本屋の店頭では見かけませんでした。

幸い、発行から5年後、中を見る事が出来、6年目に小学館の関係者から見本本をいただきました。

それまでの映画本、少年誌で、特撮は技術の面白さを紹介されるものであったわけですが、人間像に迫ったのは、この本が最初だと思います。

フェイスブックで知り合いになりました上野さんが編集担当と伺って、感慨無量です。

 

 

 

・拾い画像をまとめました。74年に放映が始まった「ウルトラマンレオ」の1年後、最終回は66年に始まったウルトラシリーズの最終日ともなりました。

円谷プロは72年に10周年記念作品「怪獣大奮戦ダイゴロウ対ゴリアス」を東宝チャンピオンまつりで公開し、番組数も増えたにも関わらず第2次怪獣ブーム全体の息切れが子供心に感じられました。

70年に円谷英二が亡くなり、73年に長男円谷一が亡くなった事は世に知られていたので、新聞記事(75年3月13日の「毎日新聞夕刊」)を見て、ついにその日が来たかと思ったものでした。

そんな中で「猿の軍団」は新境地で善戦したと思います。

「ウルトラマンレオ」の学年誌の記事は、協力ないしは構成で安井ひさしの表記が出るようになりました。

 

 

 

・赤井鬼介が企画構成した「ワールドスタンプブック 怪獣の世界」。講談社インターナショナルの発売。講談社の写真が使えるため「ぼくら」で使った生頼範義のイラストも数点あります。

第2次怪獣ブームの終焉となる75年にウルトラシリーズを総括するかのように書店に並んだスタンプブックと袋入りスタンプカード。

50円で袋に8枚。薄い怪獣カードが入っていて、別売りのアルバムに貼ります。「仮面ライダースナック」のカード集めから派生した射幸性の決定版たりえたのは、「324の怪獣を集めよう!」のキャッチの捕捉特典として足りないカードの注文が出来てちゃんと完結させられるに尽きます。そこにファンへの優しさを感じました。

赤井さんとしては脚本を書いた「海底基地を追え」など、円谷プロ作品に思い入れがあったでしょう。

 

 

 

・77年にリメイク版「キングコング」が来る!と言う一大事に怪獣ファンは色めき立ちました。宣伝で伝わる等身大のコングも期待を高めました。東宝も機会に乗じてチャンピオンまつり枠で4度目の「キングコング対ゴジラ」を上映します。

奇想天外社はこのタイミングでノベライズを創刊して「キングコング」を出します。その企画に乗っかったのが香山滋の「完全復刻ゴジラ╱ゴジラの逆襲」でした。もちろんこっちは竹内さんの仕事。76年でした。

キングコングとゴジラ、2つのタイトルを店頭で見かけた時は腰が抜けそうになったのでした。

キングコングからの発想で円谷プロは恐竜路線に乗り出し、77年に「恐竜探検隊ボーンフリー」を制作。すぐ劇場作品「極底探検船ポーラボーラ」を日米合作にて送り出して、なかなか見せてくれました。

 

 

 

・新作「キングコング」は、ぼくらは敬意を表して制作者の名から<ラウレンティス・コング>と呼んでいました。

世界のスターですから、本やグッズがいっぱい出ています。

羽賀書店から出た「季刊映画宝庫 新年創刊号 われらキング・コングを愛す」は怪獣論、新旧作品の紹介など、まさに怪獣ファンの教科書です。マニア誌の走りです。

執筆者のひとり、石上三登志は奇想天外社のノベライズ「キングコング」の訳者でもあり、本の巻末「キングコング入門」も書いています。

石上さんは著作「われらキング・コングを愛す」でも愛情たっぷりにキングコング論を語っています。

 

 

・そんな怪獣ブーム再燃の兆しが見えた折りに、小学館の青年誌「GORO」が「ウルトラマン大図鑑」なる特集記事をつくりました。77年9月8日号です。

高校生のぼくは学校の帰りに駅前の本屋で青年誌を恥ずかしい顔を見せずにサラッと中身を見る毎日でしたが、その記事に目が止まると上気して身震いしたものです。なんと、特撮同人誌が紹介されているではありませんか!

記事は安井さんと竹内さん。紹介された同人誌は、竹内さんの「怪獣倶楽部」、中島さんの「PUFF」、開田さんの「衝撃波Q」の3誌。けれどもチキンなぼくは手紙を出せません。

 

 

・「ワールドスタンプ」で息を吹き返したか、赤井鬼介企画の写真を重視した怪獣図鑑が講談社から78年以降、続々出ました。

第1次ブームの時に「少年マガジン」などの表紙やグラビアを飾った大島カメラマンのブローニーサイズのポジをふんだんに使った写真集のような図鑑です。

ぼくらはとくに<大島写真>と呼ぶんですが、とにかく、ドンピシャでカッコイイ構図ばかり。子供向けながら、肩の凝らない大人の仕事という感じで、焦って買い求めたものです。

ハードカバーの「TV名作アルバム ウルトラセブン」の裏表紙にアイアンロックスをもってくるのは、赤井さんが脚本を書いた思い出の一場面だから。それぞれ、本の巻頭言も含蓄がありました。

 

 

・78年、小学館からは「てれびくん別冊」シリーズが出ます。怪獣倶楽部のみなさんの仕事です。安井さんのアカデミックな特撮史の検証は完全にマニア向けでした。デザイン画やNGスーツなども初めて見るものばかりです。

表紙にオープニングの影絵を使った「ウルトラセブン」はいま見ても洒落てますね。「史上最大の侵略」の誌上再録も見ながら力が入りました。

 

 

・音楽雑誌だった「OUT」が「宇宙戦艦ヤマト」を特集して爆発的に売れて以降がぼくらの知っているアニメ&SF&コミック誌「OUT」の姿です。ときどき特撮ネタがあってはニンマリしました。

78年月刊OUT1月増刊号「ランデブー」の「はばたけスーパーシップ!」特集、79年4月号の「円谷プロ特集」と80年1月号の「特撮特集第2弾 華麗なる映像の魔術」は印象深いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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