遺体を隠し持ったまま「自分へのご褒美」
トイレで女児殺害後、K被告は遺体を紙袋に隠してトイレを出ると空港内にあるカフェに向かい、そこでアップルパイとチョコレートスムージーを注文して飲食をしていました。さらに写真を撮影し、「頑張っている自分へのご褒美」というコメントをつけてインスタグラムにアップしています。その夜、遺体を埋め、翌日、予定通りに就職面接を受けたのです。
一連の行動からして「殺害後に飲食して、それをインスタにアップするなんて、一体何を考えているんだ!」と言いたくなるでしょう。でも、K被告が軽度知的障害であればこれらの行動に説明がつきます。
知的障害の人の特徴に、後先を考えて行動するのがとても苦手なことがあります。ふつう我々は、何か困ったことや問題が生じたとき、どうやって解決すべきか策を練り、その結果を予想し、うまくいきそうならそれを実行し、失敗しそうなら他の策を練ります。つまり、「これをやったらどうなるのか?」と先のことを想像しながら行動していくわけです。
それには数手先まで結果を予測する力が要ります。ところが知的障害があると、せいぜい1~2ステップ先のことくらいしか予測できないこともあります。「これをやったらどうなるか?」ということを予測することさえ難しいのです。
「知的能力に問題ない」との矛盾
普通に考えれば遺体を紙袋に隠してカフェなどに入れないと思いますが、“アップルパイとチョコレートスムージーを食べたい”という一つの大きな目的が生じてしまったために、遺体を隠してカフェに入ったらどうなるか、そんな姿をインスタグラムでアップしたらどうなるかなどの想像が及ばなくなってしまった可能性があるのです。
これは境界知能でも同じでしょう。1980年頃まで米国精神神経学会の定義では境界知能は知的障害に含まれていたのです。
後先のことを考えて行動することが苦手であれば、その行動はどうしても、場当たり的に判断して、突発的な行動をしているように見えて当然です。先ほどの裁判の記録にある
「殺害は突発的」「いずれも場当たり的な犯行」「問題解決が困難である際に姑息的(一時しのぎ)あるいは強引な行動に至る傾向」「先送りしたまま出産を迎え」
は、まさにK被告に知的な障害があることを示している根拠にもなり、一方の「知的能力に大きな問題はない」という記載とは矛盾します。もし知的能力に問題ないのなら、なぜ後先のことを考えられないのでしょうか。それを単に身勝手な性格だと解釈してしまっていいのでしょうか。疑問が残ります。