野生イルカ200頭「奇跡の海」で何が…?◇熊本・天草、観光業者と漁業者に不協和音 漁師「どぎゃんかしてくれ」

2025年12月10日11時00分

 熊本県天草市は、イルカを愛好する人々から「野生イルカの聖地」と呼ばれている。島原半島と天草諸島の間にある通詞(つうじ)島沖合には、約200頭の野生イルカが生息しているとされ、市と観光事業者はこれを資源として活用。年中運航しているイルカウオッチングの船着き場には、国内外から多くの観光客が訪れ、イルカの活動が活発になる夏季は人であふれ返る。一方、この海域を漁場とする漁師は、イルカたちの「悪さ」に頭を悩ませ、「どぎゃんかしてくれ」といら立つ。「聖地」の取材を進めると、イルカ事業者と漁業関係者、行政がそれぞれの立場でイルカと向き合い、共生に向けた取り組みを模索する姿が見えてきた。(熊本支局 田内大貴)

遭遇率は9割超え

 9月のある日、筆者は天草市内でイルカウオッチング事業を手掛ける「天草市イルカウォッチング総合案内所」を訪れた。初体験にどぎまぎする筆者に、窓口の担当者は「イルカ遭遇率は90%を超えているんですよ」と笑顔。半信半疑で3500円(うち500円は環境保護費)を支払い、中型クルーズ船に乗り込んだ。波に揺られて約10分が過ぎると、遠方にイルカが出現。驚きもつかの間、気づけば船は大小さまざまなイルカに囲まれた。イルカたちは飛び跳ねたり、鼻から水しぶきを吹き出したりして観光客を楽しませ、船内では歓喜の声が上がった。この日は、目算で80~100頭の個体を観測した。

 市によると、主に見られるのは「ミナミハンドウイルカ」で、人との共生は縄文時代から続くという。通詞島の位置する早崎海峡は、日本屈指の急潮流の一つ。大きな網を海底に沈めて引き回し、時にイルカも巻き添えになる「底引き網漁」は適さず、伝統的に一本釣りと素潜り漁が盛んだった。その上、イルカを捕食する住民が少なかったことなど、イルカの生息にとり好条件が重なり、「奇跡の海」が出来上がったと考えられている。

 市が2022年以降に実施した個体識別調査では、通詞島沖合には、少なくとも177頭のイルカが生息していることが分かっている。野生イルカは御蔵島(東京都)や能登の七尾湾(石川県)などでも観測できるが、200頭程度の大群を成すのは珍しい。他では見られない海洋生態系を観光資源に活用しようと、1990年代からイルカウオッチング事業者が出現。現在は10事業者(うち3事業者は天草市外)が通詞島沖合を巡るイルカウオッチングを手掛け、年間6万人の観光客が訪れる天草観光の目玉となっている。

漁師「邪魔でしかない」

 一方、漁業関係者の中には、イルカを観光資源として活用することに拒否反応を示す人もいる。長年素潜り漁に従事する60代男性は、「イルカウオッチングの観光船は邪魔でしかない」と不満を口にする。潜水中に観光船が通ると、大きな波が立ち仕事に支障が生じるといい、「もう少し漁師のことも考えてほしい」と訴える。

 天草漁協五和支所の松本裕一郎支所長の下には、漁師から頻繁にイルカによる被害を訴える声も寄せられているという。漁網を食いちぎられたり、増やすことを目的に放流した魚を補食されたりしたとの相談が特に多いといい、松本氏は「地球温暖化など複合的な要因で漁獲量が減少傾向にある中、(同海域特有の)イルカの存在が漁師の感情を逆なでしている」と指摘する。

 観光船の立てる波が養殖いかだを直撃して損傷を早めているなどとして、イルカウオッチング事業者に不信感を示す漁師も少なくないという。過去には、不満を募らせた漁師の間で、漁船に「イルカ忌避装置」を設置する案が浮上したこともあったと振り返る。

 松本氏はイルカと人間の共生について、「今は誰もイルカ忌避装置を付けておらず、ギリギリのバランスで共生できていると思う」とする一方、今後については「正直、分からない。現状を維持するので精一杯ではないか」と神妙な表情で話した。

事業者「イルカなき海は恐怖」

 関係者によると、野生イルカを巡っては、これまでも漁師、事業者、行政との間で不協和音が生じることがあったという。危機感を覚えた市は2022年、馬場昭治市長が旗振り役となり、野生イルカを巡る担当部署を観光振興課から市民環境課に移管。イルカと人の共生に向けた施策を検討するため、「通詞島沖イルカ環境実態調査事業」を始めた。

 事業では専門家らと連携し、先の個体識別調査や共生に向けたロードマップの策定などを実施した。イルカと人の共生を推進する市市民環境課の原田拓郎参事は、「漁師が実際に忌避装置を付けて海からイルカが消えたら、全てが崩れてしまう」と危ぶむ。

 この流れを受けて事業者側も24年3月、持続可能なイルカウオッチングを目指し、「天草市イルカウォッチング事業者チーム」を設立した。チームには、天草市五和町でイルカウオッチングを手掛ける7事業者のうち、6事業者が参加。市の職員を交えた定期的なミーティングなどを通じ、イルカと人間の共生に向けた道を模索している。

 チームは25年4月から、乗船料とは別に「環境保護費」の徴収を始めた。小学生以上の乗客に1人500円を求め、海岸清掃や魚の生息に欠かせない藻場の再生などの経費に充てる。足元では、イルカのストレス軽減や漁業関係者に対する配慮を目的に、観光船の「共同運航」に向けて議論を進めているという。

 30年以上イルカウオッチングに携わってきたチームの野﨑健氏(丸健水産)は、「イルカが消えた海を想像すると恐怖を覚える」と吐露。「海を使わせていただいているという思いで、引き続き人とイルカの共生を図りたい」と話す。

イルカにも大きなストレス

 市は不協和音の解消に取り組む一方、「奇跡の海」を研究者にも活用してもらおうと、海域の研究拠点化にも注力する。市によると、同海域に生息する野生イルカの個体数に着目した学術論文は02年を最後に途絶えているといい、研究者の誘致が停滞している現実がある。先の原田氏は、「教育や研究のセクターも巻き込んでイルカと人との共生を加速させ、世界に誇れる天草市を目指したい」と力を込める。

 イルカの生態に詳しい長崎大学大学院の天野雅男教授(鯨類学)は、「研究対象となるイルカが多数生息する天草市は研究のフィールドとして優れている」と評価。一方、同市のイルカは「野生とはいえ、観光利用などで人的な影響やストレスを大きく受けている」と懸念を示し、イルカと人との間には適切な距離感が必要だと指摘していた。

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