お客としての再訪に「まだ席は空いてますよ」 忘れられない先輩たちの呆れ返った顔

話の肖像画 鴨川シーワールドの獣医師・勝俣悦子<10>

ご両親、飼い犬と
ご両親、飼い犬と

《当時の獣医学科は4年制で獣医師免許は取ったものの、就職先を決めないまま日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学)を卒業した》

臨床検査技師の免許を取得しようと、大学付属の専門学校の夜学に通いました。今思えば、よく両親は私のわがままを許してくれたものです。勉強の傍ら、中学時代まで水泳の指導をいただいた串田志都子先生のスイミングクラブで週5日、指導員をすることになりました。

新しい生活は楽しかったのですが、イルカのことが忘れられません。そんな昭和51年、鴨川シーワールドにベルーガという白いイルカがやってきたというニュースを見ました。ベルーガが日本に来るのは初めてで、これは見に行かないわけにはいきません。

《再び鴨川シーワールドを訪れた》

ただのお客さんになってしまったという寂しい気持ちでしたね。館内を歩いていると、実習でお世話になった海獣展示課の課長さんにばったり会いました。気まずい思いもありながらあいさつすると、「まだ席は空いていますよ」と言ってくれるではないですか。「お願いします!」と、私は即答していました。今度こそ、決心しました。後日、改めて入社試験を受け、採用が決まりました。

串田先生は、「決まったのなら早く行きなさい」と送り出してくれました。受け持っていたクラスの次のコーチが決まると交代となり、受け持ちが減っていくのは寂しい思いがしました。

このころ、「行くな」と引き留めてくれる男性がいました。でも、その人との結婚を想像すると、浮かぶのは平凡な毎日。いつか「あなたと結婚しなければ、私はイルカの獣医になっていたのに」と言ってしまいそうだったので、やはり自分が納得できる道に進もうと思いました。母は私が鴨川に旅立つ日、家の前で「バンザーイ!」と見送ってくれました。その目には涙が浮かんでいました。

《鴨川シーワールドは45年にシャチ、51年にベルーガをいずれも国内で初めて搬入。当時の初代、鳥羽山照夫館長はどのような水族館を目指したのか》

鳥羽山館長は海獣の研究と展示に力を注がれ、当館は海獣水族館としてオープンしました。やはりシャチやベルーガなど大きな海獣を多くの人に間近で見せてあげたかったのだと思います。米国でも生態の研究が本格化したばかりのシャチを搬入したことを考えると、ものすごい挑戦者精神のカリスマ的存在だと思います。

鳥羽山館長は、哺乳類である大型海獣類を飼育するには海外と同様に専門の獣医師が必要で、血液検査を行ったりデータをまとめたりするのは女性のほうが適しているというお考えだったようです。今でこそ人気の職業ですが、当時は獣医師のいる水族館はまれでした。

《前述したベルーガの飼育係兼トレーナーを約3年務めたのち、「海獣医師」に》

鳥羽山館長の期待に応えなければならないところですが、馬に明け暮れた学生生活を送ってきた私です。それはもう、失敗の連続でした。

ベルーガの飼育係だったときに、血液検査をやらせてもらったことがあります。学生時代、白血球の数え方について学んだはずなので、薄い記憶をたどりながら手を動かします。「確か『ピペット』という目盛りのついたスポイトのような器具に血液を吸い入れて、希釈液と混和するんだよなぁ」と思いながら、ピペットを直接口にくわえて血液を吸ったときの、先輩職員たちのあきれかえった顔は忘れようにも忘れることはできません。正しくは、ピペットにゴムチューブを装着してから吸うのです。で、その後、どうやったのかって? これが全く覚えていないのです。(聞き手 金谷かおり)

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