「学校行かせてやる」だまされて行った日本で大地震…東南海地震の韓国人生存者が訪日
「せめて死んだ友人の痕跡を」 81年前の「東南海地震」生存者、95歳のチョン・シニョンさん
日帝強占期(日本による植民地時代)に日本の軍需企業で働かされたチョン・シニョンさん(95)が、東南海地震(1944年)で亡くなった友人を追悼するため、80年ぶりに日本を訪問する。 (社)日帝強制動員市民の会は「今月6~8日、チョンさんが市民の会の会員たちと共に、3日間の日程で名古屋を訪問する」と4日に明らかにした。チョンさんは7日に名古屋で開催される「東南海地震犠牲者追悼式」にも出席して亡くなった友人たちを追悼するとともに、闘病中の名古屋訴訟を支援する会の高橋信代表にも会う予定だ。 チョンさんは14歳だった1944年春に羅州大正国民学校を卒業し、同年5月、「日本に行けば学校にも行けるし、金も稼げる」と村の区長(末端の行政官僚)と日本人教師にだまされ、三菱重工名古屋航空機製作所に動員された。当時、羅州市(ナジュシ)から共に動員された被害者はヤン・クムドクさん(94)ら24人だったことが知られる。 チョンさんは賃金も受け取れずに解放後の1945年10月に帰国するまで、アルミニウムの板を運んだり掃除したりなどの厳しい労役をさせられた。1944年12月7日の東南海地震では、6人の友人が建物のがれきの下敷きになって死去した。日帝強制動員市民の会が把握しているこの時の全羅南道地域出身の死者はソ・ボギョンさん(海南郡山二面)、オ・ギレさん(木浦)、キム・ヒャンナムさん(羅州)、チェ・ジョンレさん(羅州)、キム・スンレさん(光州)、イ・ジョンスクさん(霊岩郡金井面)。 チョンさんは何とか帰郷できたが、生涯苦しんできた。チョンさんは「日本に行ってきたと言うと嫁に行けないかもしれないという雰囲気のせいで、唯一持っていた写真も破いてしまった」と話した。 チョンさんは報道でヤン・クムドクさんが三菱重工を相手取って訴訟を起こしたことを知り、2017年に娘と共に市民の会を訪れて被害を証言した。2020年1月、民主社会のための弁護士会(民弁)光州全羅南道支部の支援のもと、三菱重工を相手取って光州地裁で損害賠償請求訴訟を起こした。日本はチョンさんを侮辱する態度を示した。被害を証明するために当時の厚生年金の加入状況を照会したが、厚生労働省傘下の日本年金機構は記録がないと言い逃れをした。日本の国会議員と市民団体に相次いで指摘され、日本年金機構はようやくチョンさんが加入していたことを認め、2022年8月に脱退手当の名目でチョンさんの農協の口座に韓国ウォンで「931ウォン」(100円)を送金してきた。 チョンさんは昨年1月の一審での勝訴後、「東南海地震で亡くなった友達のキム・スンレ、チェ・ジョンレを思い出す。今日の勝訴は先に旅立った友人たちに対する道理」だと述べ、「日本には『たいへん苦労させて申し訳ない』と謝罪の一言でも言ってほしい」と思いを語っている。チョンさんの事件は三菱重工が控訴したため、現在、光州高等裁判所で係争中。 80年ぶりの訪日を控えたチョンさんは、市民の会に「歳月が流れても地震当時の恐怖と爆撃機のごう音は今も忘れられない」、「今は杖をついてやっと動けるが、死ぬ前に、せめてあの時に無念に死んでいった友の痕跡を探したい」と話している。 一方、日本の市民団体は寄付を集め、1988年12月に旧三菱重工名古屋航空機製作所の片隅に「東南海地震犠牲者追悼碑」を建てた。追悼碑には、地震で死亡した59人の名前と共に、「悲しみを繰り返さぬようここに真実を刻む」という文言が刻まれている。 キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )