反「薄っぺらいボカロ曲」のための考察論
ふ#ボカロリスナーアドベントカレンダー2025 参加記事です!前日12/6はなんと主催のobscureさん………
めっちゃ緊張してます。よろしくお願いします!!
初めに
今年の6月ごろ、当時特に流行していたボカロ曲を複数並べた画像が「量産型」の単語とともにXに投稿されました。その是非は置いておいて、ラインナップの中には原口沙輔さんの「イガク」がありました。
炎上の末に今はその投稿も削除され、周りの反応のみが残されています。
他の曲もそうだけど、逆に今まで何を聴き続けてきたらイガクが量産型に聴こえるんや https://t.co/i9L7DtWp57
— ぼかぜん (@vocazen) June 7, 2025
おそらくその頃から、「最近のボカロ曲は薄っぺらい」という論調が流行り始めました。「ラビットホール」「メズマライザー」「テトリス」「雑魚」「お返事まだカナ💦❓おじさん構文😁❗️」等を槍玉に挙げて、しばしば強い言葉を伴ってこれらの曲群を批判する動きが今でもXでよく見られます。
「薄っぺらい」をもう少し分解すると、耳触りがいいだけで歌詞に深みがないとか、躁鬱・薬物・ネットミーム・性的なものなどを利用して低俗な媚び方をしているとか、MV絵師の力でごり押しているといったように、正しい意見かはともかく曲それぞれの理由があるようです。
しかし「薄っぺらい」曲の流行を悪とするなら、そもそもの土壌を作ったボカロリスナー全体にも責任があるのではないでしょうか?
流行ってるからと聴いては歌詞も理解しないまま去っていく、tiktokやYoutube shortsがよく批判の的になる「ドーパミン中毒のガキ」の消費構造がこの流行を作っています。曲から得られる快感(ドーパミンの効用のような)が少ないためすぐに飽きてしまうのが特徴です。「薄っぺらいボカロ曲」はこの構造に対して極めて効果的でした。
問題視するとしても、曲やボカロPよりこの消費の仕方を対象にするのが先なのではないでしょうか?
ドパガキの消費構造の対極ともいえるのが、歌詞を深くまで読み解き何かを得ようとする「考察」の営みです。
ここではある程度「薄っぺらい」に反対する方々の立場に立ちながら、ボカロ文化における考察文化を軸に、「薄っぺらいボカロ曲」の問題を理解できないか考えてみることにします。
1.そもそも「考察」とは
考察:物事の本質や状態などを明らかにするために、よく調べたり考えたりすること。
よく言われているように、上のような辞書的な意味からは大きく乖離した文脈を、インターネットにおける「考察」の概念は持っています。
実際の例で考えてみると、シャノンさんの「ひとりぼっち産業革命」なら
『マイクラの世界やRS回路の知識を基にしてる!』は見ればすぐわかることですが、考察です。
『現世に嫌気がさした主人公が自殺したらマイクラの幻想を見た』と、数フレームの情報(あえて見えづらくしている)を解読するのも考察です。
(数フレームで静止画が切り替わるうちの1枚)
『ジャレド・ダイアモンドの銃・病原菌・鉄が背景にある』とシャノンさん本人の知識や経験に繋げることも考察です。
「一次創作により与えられた情報を読み解き解釈する二次創作」が考察の定義といえます。考察される前の一次創作は理解できない暗号文で、その意味を求めて何かを得ようとするのが考察という行為です。
普通、ある1曲の歌詞・音楽・使用VOCALOID・MVなどに対して行われます。
上にもあるように、あえて視聴者に見えづらくした情報を解読することが考察です。暗号を用いたり、極端に難しい語や標準的でない言語を使うなどすれば、少なくとも流し聞きでは理解できません。であれば曲「薄っぺらい」曲ではありません(tiktok等での消費のされ方は別問題ですが)。
私の好きな ボーカロイドであり ボカコレであり 文化であり
音楽という 創作であり 表現であり 感動であありたい
その心を忘れて 結果に固執する人間は その心を忘れて 全員潰します
イガクやメズマライザーが「薄っぺらい」としてXで批判される際には、リプライや引用にある反論に大抵多くのいいねがついています。曲自体は本質的に薄っぺらくないためです。
このように考察の余地があれば「ちゃんと解読しましたか?」という擁護が通る可能性があります。
考察の仕方が分かっても、何を以て満足すれば良いのか分からないこともあります。どこまで行けば終わりが見えるのでしょうか?
俗に「脚そ考」という言葉があります。ボカロ曲考察において主に曲の内容と乖離した不自然な考察にかけられることが多い言葉ですが、このことから「脚本の人(=ボカロP)の想定したストーリーが考察の正解である」という認識はある程度一般的であることが分かります(自覚・無自覚にかかわらず)。
しかし、ボカロPが曲の全てを語るというのは非常に稀です。リスナーがボカロPの思考を知るのは非常に難しく、考察の答え合わせは大抵の場合、行われようとすらしません。
そのため多くの人は考察の過程を楽しんでいます。暗号解読や断片的なストーリーを「エモ」として消費するような考察が行われています。
例えば青栗鼠さんの「memeしい」において、リスナーはネットミームの特定や文字化けの解読で満足し、歌詞の中の反ミーム的("ビジュとかメロしか知らん"状態のまま何かが流行るのを嫌う)思想まで求める人は少なかったかもしれません。
それで満足できるのだから、本来的に悪いことではないし消費者として自然な姿勢です。 「勿体ない」とは言えるかもしれませんが。
2.定義を拡張する
とはいえ「単なる(一瞬の)エモとして雑に消費している!」という批判意見もX等に多数投稿されています。結局tiktokやYoutube shortsと同じになってしまうという状況は避けなければなりません。具体的には、一瞬で多量の感動を味わう方法ではなく、人の心に残り続ける何かを見つける方法を考えなければなりません。
そのためには、より視界を広げる必要があります。今まではある1曲の中での話でしたが、例えばはるまきごはんさんの幻影シリーズのように、他の曲と深く関連する曲群もあります。幻影シリーズは「第三の心臓」から「みかげ日記」まで1年4ヶ月にわたる作品群です。
ある1曲を考察するだけでは不十分で、他の曲と関連させるとより大きな(持続的な)感動が得られることもあるのです。
「一曲」から「曲群」に視点を移して、次に「ボカロP個人」の考察へと移ります。
煮ル果実さんの「オーパーツ」はポケミク書き下ろし楽曲ですが、Nの生い立ちとの関連とか歌詞のエマープ素数や回文よりも、それ以上に『煮ル果実さんがポケモンBWを遊んでいて、強く影響された』という事実が嬉しいファンの方もいるかもしれません。
これは所謂「人読み」のようなもので、曲を通して見えるボカロP自身の思想や人となりを評価する行為です。
しかしこの人読みには、不確定な情報を扱うことで誹謗中傷や誤解を産む可能性があるという、極めて大きな問題点があります。
「雑魚」のリメイク前バージョンである「ざぁこ」は、歌愛ユキ(小学生設定)にセンシティブな歌詞を歌わせたことで性加害・児童ポルノの観点からバッシングを受け、結局動画が非公開になってしまいました。
しかし柊マグネタイトさんは実際それを意図したと明言しておらず、確定しない以上は言いがかりともいえます。
これは「言いがかりはやめよう」という話ではありません。性加害という考察をされてしまった時点で、柊マグネタイトさんは詰んでいました。
これはボカロPは時には消費者であるリスナーに従わなければいけない、逆にリスナーはボカロPに反抗する力があるということを意味しています。
とはいえざぁこの例はあらゆる面で望ましくないため、作者が意図した答えではないかもという懸念はせず、自由に考察ができる(誹謗中傷にならない範囲で)という程度に落ち着きます。
真実でなくとも感動は得られます。もし考察した結果素晴らしいストーリーができて、後にそれがボカロPに否定されたとして、その時の感動は絶対嘘じゃありません。
ところで、人読みは曲への印象にボカロPの好き嫌いが入り込むことになります。これが良い方向に働くことも、そうでないこともありますが、「薄っぺらい」を無効化しうるのは大きな利点です。
普段から真面目な曲を書くボカロPがいきなり精神病・鬱・メンヘラなど「薄っぺらい」曲になりがちなテーマを扱ったら、嫌悪感よりも何故それを扱ったのかの方が気になりませんか?
3.無限のパズル
一度ここまでを纏めると
・曲の歌詞などの意味を追い求め、心に残る何かを得ようとするのが考察である
・曲同士を関連付けることでより大きな感動が得られる
・ボカロPの人となりを見るのも効果的
・真実が分からなくてもいいので満足するまで考察すること
これらが実行できれば「薄っぺらいボカロ曲」ではないはずです。リスナーの消費の在り方が変われば「薄っぺらいボカロ曲」は格段に減らせます。
批判する人も、擁護する人も、議論に参加する前にどれだけその曲について考えられているか一度確認するべきです。そうすればイガクは「量産型」という評価をされることは無かった。
しかし、こうなると考察の限界値が気になってきます。脚そ考だとしても、無理やりな論理だとしても、ある1曲をどこまでも考え続けた結果何が得られるでしょうか?
その答えが、「いよわ界隈」で得られます。
特定のボカロPのファンが集まって界隈を形成した例は複数あります。例えば稲葉曇さん、Orangestarさんなど。いよわ界隈はその中でも最も特異であると言えます。
規模は大きいですが、「保全(@iyomizudera)」というアカウントの周辺に絞って今回は書きます。(参考までに、現在の保全のフォロワー数は908人です)
保全は、いよわさんの考察をしていた人物である純セメス(はてなブログ)が運営するアカウントで、いよわさんに関わるコンテンツの保全からボカコレの集団工作まで幅広い活動を行っています。
(ボカコレ2023春直前に炎上したため知っている方もいるかもしれません。)
「ボカコレ」は面白いイベントのはずだ|ぷろどっと. @dotsjob #note https://t.co/8oYd0MW1o0
— ぷろどっと. (@Prodot2525) March 12, 2023
ただし本質的には考察を行う集団なのですが、この考察がかなり高度に発展していて、
まず「VOCALOIDは歌詞に載っているのとは違う言葉を歌わされている(落涙読み)」を前提としています。いよわさんが設定した歌詞を信じていません。そうして出来上がった考察は、「いよわさんは兄を交通事故で亡くしている」というものでした。
これは本当によくできていて、考察すると本当に通ってしまうのです。いよわさんの曲は死ネタが多い(歌詞だけでなくMVからも分かる)ですが、それが兄に向けたものだったとすれば?
そう考えると、いよわさんの曲はすごく面白くなります。
なお、最新の研究ではいよわさんの兄は生きていて、煮ル果実さんで、今まで純セメスが行ってきた考察は型落ちになったそうです。面白いですね。
とはいえ、「ファンを名乗っておいて暴言吐いてるのキモい」「勝手に人の家族殺すな」「確定してない情報を偉そうに語るのが不快」「誹謗中傷だろこれ」といった批判もあり、確かに感想としては正しいのですが……
ここで「テトリス」を思い出して頂きたいのです。
この曲を「つまらない」と嫌う方々は、「コロブチカを引用するわりに原曲の要素はちっとも感じられない、歌詞も暗いので敬意が感じられなくて不快、あと原曲のコメント欄の民度が悪化した」といった内容の主張をしていました。
指摘としてはそれなりに正当性がありそうですが、これだけで「薄っぺらい」とまでは言えません。単に快・不快の尺度のみで語られているからです。
面白い・つまらないと快・不快を混同してはいけません。中身がどれだけ気色悪くて気に入らなくても、その先にある面白さを見落とすのは勿体ないことです。見た目だけで判断するのは「ドーパミン中毒のガキ」と同じことです。(中身を見ても尚テトリスは「薄っぺらい」との評価を受けがちですが)
極論、快・不快は邪魔です。何の役にも立たない尺度が考察から遠ざけてしまうなら、いっそ機械的に考察を行って音楽のほうは全く楽しまない化け物にでもなった方が良いのではないでしょうか?
好き嫌いを捨ててひたすら虚構を追い続ける考察マシーンになりましょう、それが出来なければ無知を自覚して生きましょう。リスナーが曲を完全に理解しうることはありません。
おまけ
今日の21時にエムヴイでる
— いよわ (@igusuri_please) December 7, 2025
うわああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
参考文献
(一旦休むのであとで書きます)



思うに、「薄っぺらい」という言葉は便利なんですよ。 だって「薄っぺらい」って言っとけばとりあえずの批判はできるじゃないですか? 普段音楽を聴きもせず、皆んなが聴いてるから聴いてるような人間がそれを言うか、と僕は思うんですけどねぇ。 ボーカロイドという「文化」であって「手段」ではな…
読んでて本当に面白かったし勉強になりました! でも少し暗い内容の後の最後のおまけで純粋な狂喜乱舞きてちょっと和みました笑(かわいいっすよね、わかります)