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トキワ荘・青春の日々&手塚が変えた子どもの意識
水野 英子

少女漫画の草分け的存在。女性らしい視点と画風で新しい少女漫画の世界を切りひらき、「女手塚」とも呼ばれる。男女の恋愛や、ロックなどカウンターカルチャーを描いて少女漫画の枠を広げた。代表作に「星のたてごと」、「白いトロイカ」、「ファイヤー!」など。小学生のときに手塚作品と出会って漫画家を志し、18歳で上京。トキワ荘で石ノ森章太郎や赤塚不二夫らと青春の日々を過ごした。

  • [1]トキワ荘で暮らした日々09:46
  • [2]手塚マンガとの出会い04:21
  • [3]戦後の子どもと手塚マンガ05:28
  • [4]手塚が切りひらいたマンガ文化08:19

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戦後の少女漫画を代表する存在 水野英子さん
18歳の時に上京し トキワ荘で暮らしはじめた

この「トキワ荘通りお休み処」には
当時の部屋が再現されている

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手塚先生ですね、懐かしいですね、お若い。

Q:水野さんはどちらにいらっしゃいますか?

正面でございます。恥ずかしいですね、学生時代の写真です。まだ大体あんなようなものだったと思います。

Q:これはおいくつのときですか?

18歳・・これはもう少し若いです、そうですね、16歳ぐらいのときですけど、何しろ当時、写真を撮っていなかったので、これしかないんですよ。大体同じようなものです。

Q:じゃ、トキワ荘に住まれたときはこういう。

ええ、こんなようなものです。セーラー服かな、これ。

Q:ええ。

そうですね、たぶんこのスタイルで行ったと思います、トキワ荘へ。

外出着というのを特に持っていなかったんですよ、だから学校の制服だったらいちばん問題がないんじゃないかということで、セーラー服で現れました。

Q:どんなふうに迎えられましたですか?皆さんから。

いや、それがね、あとから話を聞いたらもう笑っちゃうんですけど、初めて女の子が来るというのでみんな何か大さわぎして期待して待っていたらしいんですよ。赤塚さんは部屋の掃除なんかをきれいにしてくれて、ピカピカにしてくれてね、来るのを待っていたということです。現れたのが男の子か女の子か分からないようなメガネをかけた子で、「ハッ、よろしく」という感じ、度肝を抜かれて、みんな何かハアという感じだったらしい、

私が初めて部屋に通されましたのが、石ノ森さんの部屋でした。まだ誰もいなくて、部屋の中で座って待っていたんですよ。何しろすごい本の山とね、レコードの山と、それから窓際にデーンとでっかいステレオがあって、とにかくその当時、そんな大きなステレオというのはほんとに珍しくて。

最初は赤塚さんがお茶を持ってきてくださって、「しばらくお待ちください」、で、また引っ込まれたんですよ。その次にしばらくして石ノ森さんが入っていらっしゃったんですね。だもので、石ノ森さんのレコードをちょっとこうやってのぞき見していたら石ノ森さんが入ってきたので、私は飛び上がりましたね。「すみません」。

これはパーティー時期のあれでしょうか、こんなに散乱はしておりません、いつも、きちんと片づいていました。

Q:皆さん、ここからスタートしたわけですね。

そうですね。まあ、でも・・

皆さんのところもそれほど家具はなかったです。大体、押し入れに突っ込んで、着るものも何も。

石ノ森さんの部屋なんていうのは、本棚が1つあったんですけど、本棚に入りきらないどころじゃない、もう壁いっぱい積み上げて。

崩れ落ちてきそうな、しょうがないから畳に本をびっしり敷いて、その上に布団を敷いて寝ていたとかという話が、うそかほんとか知りませんけど。

狭いですからね、何しろもうすさまじい荷物なので。そこにもうありったけのものを詰め込んでいましたから。

Q:赤塚さんの部屋は?

赤塚さんの部屋は、お母さまがいらしたので、割と整頓されていました。角に赤塚さんの机、兼、ちょっとしたごたごた小物を置く場所があって。

ご飯を食べるときは丸いちゃぶ台を引き出して、折り畳みですから、当時は、それを出して、石ノ森さん、赤塚さん、3人で、お母さまが作ってくださるご飯をいただきました。

Q:赤塚さん、お母さんがいたんですか?

いたんですよ。お世話するのにお母さまがずっといらしていて、おかげさまでこっちもいっしょにお世話になりました。

石ノ森さんの部屋で大体仕事をしていまして、お母さまが赤塚さんの部屋のほうで食事のしたくをして、赤塚さんが少し早めに仕事を切り上げて手伝いに行くんですよ、食事のほうの。「ご飯できたよ」と呼びに来るんですよね。石ノ森さんがまだシコシコ描いているわけです、私のほうも先にちょっと行って少し手伝ったりなんかして、石ノ森さんはちゃんと整ったら、隣の部屋の壁をたたくんです、トントントンと。筒抜けにもう、あれなんですよ、聞こえちゃうので。そうすると石ノ森さんがはい、はいと現れ、「はーい」とあちらで返事が聞こえる。

Q:「ご飯ですよ」と。

「ご飯ですよ」。朝晩そういう感じで食事をさせていただいていまして、昼はだからラーメン屋さんにラーメンを食べに行ったり、コッペパンを買ったりみたいなことでした。

実際、トキワ荘全体がやっぱり1つの、何て言うかな、気の合う友達の合宿所という感じがあったんですね。

楽しかったですよ、もうそれは。国にいるときは漫画の話ができるような友達が誰1人いませんでしたから、漫画というものがまだ世の中にあまり存在していない時代だったですから、その時代に漫画なんかをかくなんて女の子はめったにいませんでしたからね。

Q:なぜトキワ荘にお住まいになることになったんでしょうか?

石ノ森さん、赤塚さんと私と3人で合作の仕事をするために来たのですが。

山口県の下関市で生まれ育ちまして、あちらで漫画の最初の作品をやりとりしたんですけれども、大変だったので、上京してきました。出てこいと言われました。

Q:やりとりが大変というのはどういう。

合作の仕事だったものですから、石ノ森さんが大体全体の構成をまずやって、それからラフのスケッチ、小回りをやって、私が主人公の男女2人を担当する、石ノ森さんが見せ場とか、そのほかの個性的なキャラとか、とにかく大体全体の構成をやって、それから赤塚さんが背景とかそのほかの細かい、何て言うか、まとめ役を全部やってくださったんです。もちろん赤塚さんも人物なんかも描いていましたし。ごちゃ混ぜでいろいろ描きました。

私が来たときは、手塚先生が最初にお入りになったらしいんですけど、もう引っ越されて出ていらっしゃったんですが、そのあとに入られた藤子不二雄さんご両人と、石ノ森さん、赤塚さんはおいででした。寺田ヒロオさんはしょっちゅう毎日お見かけしていたので住まわれているのかと思ったら、私の来る前年にもう結婚してここを出ていらしたんですね。あとの方はもう毎日のようにほんとに入れ替わり立ち代わりいろいろな人たちが来ているので、最初は誰が住んでいて、誰が通っているのか、よく分からなかったんです。とてもにぎやかでした。

Q:じゃ、その中で合作されているわけですから、石ノ森さん、赤塚さんといちばんご関係が深かった。

ええ、親しかったです。

石ノ森さんはもういちばん売れっ子でして、赤塚さんはまだデビューしていなかったんですよ、それで石ノ森さんの手伝いみたいなことを。それから、私たちの作品がU・マイヤというペンネームでやったんですけれども。

石ノ森さんは、何というか、ボス的なあれですね、タイプでしたね、ボスというのはそれこそやっぱり実力のあるお兄さんという感じで、机の前にドサッと座ったらもうてこでも動かんぞみたいな感じでやっていましたけれども。何にしてもいちばん仕事をたくさんこなしている方だったので、あの中では。とにかく仕事に関してはみんなが一目置く才能をお持ちでした。ですから、やっぱり何かと兄貴分的なところがありましたね、実力者です。

Q:赤塚さんは?

赤塚さんは何しろなかなかハンサムで、色白で、いい男でしたね。で、とても面倒見がいいんです、こまやかに気がつくんですよ。それで、石ノ森さんの女房役だと言われていましたけど、石ノ森さんの世話をこまごまと焼いていまして、石ノ森さんがすごいヘビースモーカーで、灰皿いっぱい山のように吸殻がすぐたまるんですね。それをこまめに捨てに行って取り替えてきて、新しいのに取り替えてきて、それからお茶を入れてくれるのは必ず赤塚さん、気がつくんです。何が必要かなというのを、何してこようかと言ってもう気軽に立って用を足してくるんですよね。ということで、石ノ森さんは何もせずに、うんうんと言っていて座っていて、用をちゃんとやってもらっていたんです。

小学校3年生のころ、何しろ本が好きだったので、学校から帰ってきたらカバンを放り出して、すぐ向かい側の、通りの向かいに貸本屋がありましたので、10円玉を握って走っていくのが習慣だったんです。大体、男の子向けの活劇もの、時代劇、何ていうか、探偵ものみたいなものが主だったんですけど、女の子のものはメロメロの母もので、薄幸な少女の涙の物語ですよ。そういうものが多かったんですね。あと、世界名作なんかも結構並べていました、いろいろなものを並べていた時代です。

ある日、行きましたら、大体普通の大きさの本は1センチぐらいの厚さなんですよね、もうそれほどではなかったかもしれないけれども、3センチぐらいあるような厚い本がドカッと書棚にあったんです。何だろうと思って取ってみたら『漫画大学』(手塚治虫/1950年 単行本 東光堂)という、漫画の描き方を何本かの短編、中編で参考に説明してある本だったんですけど、まずは手に取ってパラパラ見たら、ものすごくきれいでかわいい絵、もうほんとに最高の絵だったんです。見るにつれ、いろいろな話がある、おもしろそうだ、じゃ、借りていこうと借りたんですよ。これを読んで、私はもう手塚先生に夢中になってしまいまして。もう完全にガーンと来ちゃったんですね。

SFあり、ミステリーあり、西部劇ありから、王子様、お姫様が出てくるようなメルヘンあり、それからコマ漫画、生活漫画、もういろいろな物語があったんですけど、どれもみんなまだ見たことがないようなおもしろい作品ばっかり、物語がおもしろい、絵はきれい、しかもそれを手本に漫画の描き方が説明してあるんですよね、漫画はこういうふうに描くものですよ・・だからそこで漫画はこういう器具を使って描く、どういうふうに構成していくというのを初めて知ったんです。
もともと絵も好きだったし、何やかや歌なんかをもとに話を作ってみたり、いろいろなことをやって描いて遊んでいたんですけど、それであまりにもすばらしかったものですから、ほんとにショックで。初めて描き手の名前を見たんです、テヅカオサムシと書いてあった、何て読むのか分からなくて。で、とにかくそれでハアアという感じでしたね。それを見た瞬間に私はこういう漫画を描く漫画家になると決心したんです。漫画家になれるとは思わなかったんですけど、でも漫画家になろうと思ったんですね。もう迷いもなく、ほんとにそのとき決心したんです。すごいショックだったんです。

それから毎日のように町中の本屋を回り歩く習慣ができてきました。だから、月に1回ぐらいどこかの本屋さんに単行本が出るんです。ですから、手塚治虫、オサムシとしか読めなかったけれども、とにかくその名前のついた本だったら、もうそれこそ中も見ずに買うくらい、ほんとにどれを見てもすばらしい話ばかりだったんですよ。だから、毎月1回ずつ、コレクションが増えていった。

これほどすばらしい漫画をとにかく読まないでどうするという感じ、もったいない、とにかく私はひたすら自分のために読んでいたわけですけど、自分がおもしろいから、完全に漫画の中に浸りきっていましたね。

大人も学校も先生も、誰も教えてくれないような世界を次々に見せてくれたということです。で、世の中がそんなに単純なものではなく、複雑で広くて深くて、こんなに面白いもんですよというような知識がものすごく育まれたんですよね。

当時はまだほんとに紙芝居時代で、悪人は黒、善人は白、悪人をやっつけて、めでたし、めでたし。まあ、それもスカッとするんですけれども、そんなに世の中、単純なものじゃないと子ども心にいつも思っていたんですよ。自分たち、子どもって割と理不尽な生活をしているんですよ、大人は半分うそをつく、何かあったとしてもなかなか実現はしない、そんな思うようになる人生じゃないわけです。だから、そういう作り話を見ていても、勧善懲悪みたいなこと、何となくどこか白けた思いで見ていたところがある。

そこに手塚先生がいきなり世界名作にも匹敵するような、複雑な奥深い世界なり人物像なり、とにかく一面ではないんです。例えば悪人なら悪いことをするにもその人の人生があり、その人のそうならざるを得なかった理由があるわけですね。だから、単純な人物像というのはないわけですよ。SFとか、それからあらゆる世界のいろいろな、何と言うかな、有名なものとか何とかという、情報ですか、そういうものを見せてくれたのも、漫画として見せてくれたのも手塚先生だった。

世界のいろいろな不思議なもの、あるいは不思議な建物、有名な建物みたいなものを見せてくれた、これも当時、そういう参考になるものはなかったんです。 ピサの斜塔とか、スフィンクス、エッフェル塔、そういうものはまだ子どもたちも見る機会がなかった、戦後で貧しくて、参考書も何もなかったんですよ。そういうものを手塚先生がありとあらゆるものを駆使して見せてくださったんですね。

それはね、ものすごい影響を、意識的な改革っていうか、子どもの。それまでの大人から上から押し付けられてきたものではなく、そこでもう思いもかけないような広い世界に解放されたんですね。とにかく考えられないような広い世界を見せてくれたんですよ。だから、それ当然考え方も変わりますよ。子どもの。

私はだからそれまで会ったものに一つも魅力を感じなかったんですけれど、手塚ワールドだけは本当に心底信じてたんですよ。嘘はない、絶対この人の描くことに嘘はない。で、とにかく一面でない世界、ものすごく広い世界というものを見せてくれたことは、やっぱり多様な考え方をする、多様な何と言うかな、意識を育んだと思っています。押し付けられたものではなく、自分で考える、そういう広い世界のことを自分で考えていく。

いわゆる戦後の自由な空気、民主主義、男女平等というのはとてもなんかキラキラしてた時代ですよね。その頃の自由さと相まって、具体的にそういう、どういう形でっていうのは難しいですけど、とにかくすごく気持ちを解放してくれた、広い世界に連れて行ってくれた。自由な考え方ができるようになったと思っています。親がこうしなさい、ああしなさい。大人がこうしなさいというようなことに、もう辟易(へきえき)してましたので。そうでない別の世界に行きたかったんですよね。だからみんながやっぱり別の世界へ行きたくて、それを望んでそうしたい、そういうなんかしたいという気持ちはあったんですよ。それは非常に重要なことだったんじゃないかと。

自由な発想の世界を自分で考えていく、自分の命令されることではなく、自分から考えて行動していくというような非常に抽象的ですけどね、とにかくそういう意識改革をしてくださったと思ってます。

Q:手塚さんの人柄ですね。どんなふうにお感じだったですか?

いつもニコニコしてて、やさしい先生でした。いつもだから、遊びに行ったり会ったりすると、「やあやあ、やあやあ」と言ってニコニコしてらっしゃるんですよ。で、とてもなんか機嫌よく皆さんと話してくださるんですよね。もう絶対あれですよ。深刻な話はしないですよ。先生は。楽しい話、おもしろい話、まあ、で、「みんなどうしてる?」みたいなことを元気よく聞いてくださったりして、まあいろいろよもやま話をやって。でまあ、一段落つくと遊びに出かけるんです。食事とか。

Q:手塚さんとそこで集まってくる人たちの関係っていうのは、どんな感じ? いわば。

いや、やっぱりあれですよ。大先生ですけれど、とにかくみんながあれなんです。会いたくて、会いたくて、とにかくもう何と言うかな、慕える大先輩みたいな方ですよね。だから私ももう、しょっちゅうその後も行きたかったんですけれど、だんだんみんな忙しくなってくるし、先生も大変そうだし、だんだんだから仕事場に伺うのもちょっと遠慮な状態になってきて、本当にその後マンガブームになって、皆さんほんとお忙しくなってきましたから、だんだんやっぱり遠ざかるようになってきたんですよね。
自分たちも忙しくて、遊んでいる暇がなくなってきた。最初のうちは本当にそうやって楽しく遊びましたけれど。月刊誌時代の初期ですね。月刊誌もだんだん増えてきまして、先生がもう月何本も連載持ってられるようになってからは、ちょっともうあんまり遊びに行く暇もなくなってきた。

Q:手塚さんからずっと引き継いだものだなと、覚えていることだなって何かあります?

これは座右の銘がありまして、先生が『漫画大学』か何かの本の片隅にちょっと書いてらしたと思うんです。「絶対にごまかさずに何でも描けるようになろう」それが私の座右の銘です。
手塚先生の絵は隅々までいい加減に描かれた絵がないんですよ。草木の1本1本まで、ジャングルのね、こう絡み合った蔦(つた)の一つ一つがきちんと、木の枝に巻きついたそれがね、描かれているんです。たいていそういう複雑なものってぐしゃぐしゃぐしゃっていうタッチでね、描いてごまかす方が多いんです。でも本当にきちんと描かれていたんですね。
『メトロポリス』(手塚治虫/1949年 単行本 育英出版)なんかのあの摩天楼の下の大群衆、一人一人が全部表情の違う、細かな人物が描かれてた。だから私たちもU・マイアの仕事をしたりするときに、大群衆が出てきますけれど、それを絶対ごまかさずに一人一人を全部描いていきました。それはもう手塚先生の影響です。もう暗黙の了解というか、それは描かなければいけないものだったんです。絶対に。ごまかさずに描かなければいけない。
私たちは本当に正統な手塚先生たちの生徒だと思ってますよ。第一期生です。

マンガという仕事を一生やるはめになった人たちをたくさん生み出したということは、これはもう手塚先生の影響しかないんですよね。もう手塚先生しかなかったですね。当時は。何を見ても本当に、おもしろかった。これほどのめり込めるものは、文学にしても何にしてもなかったです。だから子どもに向けて、それは先生が作品として描かれたのが、やっぱりその大きかった。柔らかい子どもの心にどれだけ染み込んで、子どもの心を育んだかというのは大きいんです。大人が見てもそれほどは感じなかったかもしれない。大人はただのマンガで、マンガは悪いもんだという意識しかなかった。それをだからどれだけの意味合いを子どもたちがくみ取ったか。これがいちばん大きいんですね。
メッセージ、要するにどの作品を見ても、深いメッセージがありました。で、これは他のマンガ家というか、マンガを描く方たちの作品の中には、あんまり見られない複雑で深い、文明の先を見通した、あるいは人間性を突き詰めた、そういうものが、その終わり、ラストになっても、そのラストがまた次の世界につながっていくような、そういうなんか広がりがあったんですね。これがね、ものすごくやっぱり子どもの心に深く染み込んだところがあるんですよ。

女性の立場から申し上げますと、自分から、自分の意識で自分から行動する、何て言うかタイプの女の子たちというのはね、それまではなかったんですよ。というのは私たちは、描きたかった、つまり女の子はこうだ、男の子はこうでなければいけない。女のくせにというようなことがよく出てきましたけど、そういうのがものすごく嫌いで、それから逃げ出したかったんですね。で、押し付けられるもんじゃなくて、自分の自発的な意識で行動するタイプの、何て言うか、少女ものだったら女の子たちを描いたんです。これを見た女の子たちの意識はものすごく変わったと思います。
で、私が初めて、手塚先生の影響もありますけど、ロマンスを描いたのが、初期の連載『星のたてごと』(1960-1962「少女クラブ」(講談社)連載)というものですけど、男女の恋愛を描いたのがこれが初めてです。で、手塚先生は『リボンの騎士』(手塚治虫/1953?1956「少女クラブ」(講談社)連載)などがあったし、その前にも『拳銃天使』(手塚治虫/1949年 単行本 東光堂)とか、恋をする男女の話はたくさんあったんです。で、その頃そんなものは一切ご法度だったんですよね。世の中から。私たちが描き始めてもご法度だったんですよ。でもそういうものから解放してくれたのが手塚先生。で、それを受け継いだ私たちがまたさらに広げた。そこが完全に意識改革ですね。世の中の。重要です。

押し付けられる形の価値観ではなくて、自分から意識的に行動していくという考え方、これが恐らく手塚先生が初めて植えつけてくださったものかなと思います。で、私たちがくみ取り、それをまたさらに広げた。これはね、ものすごいあれですよ、違いですよ。それまでの作品と私たちの作品がガラッと変わっているんですよね。で、なんで違ったかって言うと、やっぱりその手塚先生の意識改革なんですよ。で、もう本当にそろそろそうでなければいけないし、そうありたかったんですよね。だからこれは時代の要求もありました。それを手塚先生が促進してくださった。すばらしい形で子どもが見るという最高の形で。子どもがそれを見て育った、これが重要です。

証言者プロフィール

水野 英子さん

少女漫画の草分け的存在。女性らしい視点と画風で新しい少女漫画の世界を切りひらき、「女手塚」とも呼ばれる。男女の恋愛や、ロックなどカウンターカルチャーを描いて少女漫画の枠を広げた。代表作に「星のたてごと」、「白いトロイカ」、「ファイヤー!」など。小学生のときに手塚作品と出会って漫画家を志し、18歳で上京。トキワ荘で石ノ森章太郎や赤塚不二夫らと青春の日々を過ごした。

1939年
山口県下関市に生まれる
 
小学3年生のとき手塚の「漫画大学」を読み漫画家を志す
 
中学時代に「漫画少年」に投稿を始めた
1955年
『少女クラブ』の編集者・丸山昭に見い出されデビューa
1956年
初のストーリー漫画「赤っ毛子馬(ポニー)」を発表
1958年
東京都豊島区の「トキワ荘」の住人となり、石ノ森章太郎・赤塚不二夫と合作をはじめた
1970年
「ファイヤー!」で小学館漫画賞を受賞
2010年
日本漫画家協会賞で文部科学大臣賞を受賞
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