どこまで?
どこまでも
いつまで?
最後まで
何故なら、もうその先が無いから
血、あるいは火、もしくは
血が大地に沁み渡り、火が地表に並ぶ構造を崩壊させ均し、天に昇った陽が全てを溶かす。
その世界はかつて色彩に満ちていて、様々な模様が浮かんでいた。
けれどその極彩は、この無限に引き伸ばされた刹那の内に燃え尽きていく。赤へ、赤へ。世界は赤となり、世界とは赤である。
結果もしくは過程、空も大地も海も赤い。流血か炎上か溶融か、いずれにせよ世界の命運と呼ぶべき物が尽きた姿ではあるだろう。
もう陸と海の区別がつかない。何もかもが沈んでしまった。もしくは何もかもが溶けてしまった。とっくに個としてのカタチを失ったモノが混ざり合いながら悲鳴を上げている。断末魔を上げながら燃えていく。
血の池、焦熱、叫喚―――地獄にも色々ある。こうして目にする光景はそういった地獄によく似ているが、同時に全く異なっていた。
これは死後ではない。此処は死後ではない。何処にも死後は無い。
此処で終わり。これで終わり。
延々と絶え間ない苦痛と絶対的に断ち切られる苦痛、どちらが慈悲であるかという問いについては意見が分かれる事だろう。
此処は後者である。
世界は赤く染まって煮込まれている。大鍋の中で蕩けていく。混ざる。境界線、区切りは失われた。血を流し、燃え、溶融し―――死んでいく。分化していた全てが一つの結末へ束ねられる。そこに例外は無い。
死期を定められたが故の過程なのか、引き返せない過程であるが為に結末が確定してしまっているのか。
……知識として知っていても、それを解釈する事は難しい。
“赤”、“赤”、“赤”―――それ以外に無く、それ以外は無い。冷える事のない原始惑星はただそのまま滅びる。終局の姿が始まりと同じというのは必然だ。
ただ存在するだけで、時の流れと共に万物はいずれ劣化し崩壊する。どれほど完璧に包み守り、保管しようとも“変化”を永遠に止める方法は一つだけ。
……何かを知ってしまう前に、無垢なままそれを殺してしまえば良い。
吐かれた息が再び吸われる事は無く、数多の伏線は伏線のまま忘却の只中に沈み、如何なる展開も始まらない。
生きる事の出来なかったものにそれ以上の苦痛は与えられない。
生きるからには、生きていたからこそ物事は死ぬ事が出来る。存在していたからこそ消える事が出来る。それは代償というよりかは単なる摂理、基本原則だ。
生きていないモノは死ぬ事が出来ない。存在していないモノは消えるまでもない。
記憶は薄れ、生命は衰え、物事は絶えず風化していく。その事実に悲哀こそあれ、疑問を浮かべる余地は無い。
永遠に過去を持ち続ける事は出来ないのだ。
未来へ向かうなら、生きるならば置き去らなければならない物事が生じる。忘却の最中にも人は新たな事を覚える。誰かが死に至る中でも誰かが産声を上げる。遺跡が更地となった後に新たに建てる者がいる。
物事の変遷。
焼き払った灰から全てを始める。全てが始まる。そしてやがて、新たに生えた何某もよく燃え盛るだろう。
沈ませる血、焼き解く火、融解させる陽。
その只中に私はいた。赤い終点に向かって死に行く世界で、私は私のままだ。
燃え落ちていく無機物よりも尚、結局私は―――
ただ、沈んでいく。
人気の無い夜、風で揺れたのか公園のブランコがキィと軋んだ音を立てて揺れ動く。道端の電柱に取り付けられた蛍光灯は接続不良からか点滅し――消えた。
家々の窓には鍵とカーテンがしっかりと閉められていて、中の様子を伺い知る事は出来ない。出歩く者もいなかった。
だから街は只管に静かで、暗く――何もない。その筈なのにどうしてだろう。何も無いのだから、恐れるものなど何も無い筈なのに―――
恐ろしい。
「…………」
男は3日前にこの街のマンションへ引っ越した新しい住人だった。夜に窓を閉じてカーテンを閉めるように、決して外出しないようにとは伝えられていたが、どうしてそうするのかを男は教えられていなかった。
夜歩きは此処に来る前に男がよくしていた事だ。習慣と言ってもいい。それに、久々に夜の空気を吸ってみたくもあり―――理由は様々だったが、結局男は親切な忠告を忘れていたしあまり気にも留めていなかった。
そして今に至る。
忠告を軽視した代償に彼は直面したし、現在進行形で直面している。
その末に夜に眠る事が出来なくなり、椅子や机、箪笥の類を搔き集めて作ったバリケードで玄関を固めた男は包丁を握り締めて夜が明けるのを待っていた。
カリカリッ―――嗚呼、男が聞く夜は決して静寂ではない。
「…ひッ」
ネズミが何かを齧る音にも似た引っ掻き音。徐々に近づいて来るそれはマンションの他の部屋の玄関を一つ一つ確かめるかのように引っ掻いて音を鳴らしている。――それが何をしているのか、忠告を無視した男は見てしまっていた。
堪えようのない恐怖から思わず小さく声を漏らしてしまった男は慌てて口を押さえ、外にいる何者かに聞かれなかった事を祈るしかない。
カリッと短く一度だけ音が鳴る。引っ掻き音は男の住む部屋の前でピタリと止んでしまった。
静寂。
「……」
身動ぎ、衣擦れ、呼吸――取るに足りない微細な物音が唐突に訪れた静寂の中で浮き彫りになる。それは全て男が原因の、男の存在を周囲に、玄関の外に知らせる物だ。
冷たい汗が頬から首筋へ流れて伝う。
玄関前で止まった何か、その存在と男の間を隔てるのは特に不足の無い一般的な玄関扉だったが、それは現在男に降り掛かっている異常事態への対抗策としてはあまりに頼りない。
すぐそこで何かが男を扉越しに探している姿を彼は想像してしまう。
心音が早く、高く鳴る。息を殺したいのに呼吸が荒く、苦しくなっていく事を抑えられない。
「…ㇵァッ…ㇵァッ……」
強く包丁を握り締めて、切っ先を玄関に向ける。浅く短い息を繰り返す。一分、二分、三分――どれくらいの間そうしていたかは定かではない。
だが不意に男を取り巻いていた重圧が消え失せた。
「―――消え、た?」
あれだけ扉越しに感じていた存在感が遠のいていた。
溜めていた息を吐く。足から力が抜けてその場にへたり込む。時計を見れば、もうすぐ夜明けだった。
「ははっ、は――」
生き残った。それまでの人生に感じたどんな快楽よりも強い幸福感が男を満たし、吹っ切れた自制の下から笑みがこぼれてしまう。
ガンッ―――玄関扉が大きく凹んで変形する。
「あ、あ、あぁああああっ!!!!??」
男は忘れるべきではなかった。いつの時代も、夜明けを迎えるその間際こそが最も暗い。
半狂乱になって包丁を振り回す男の前で金属がひしゃげる音を立てながら玄関扉が歪み、閉じていた向こう側が一部露わになった。
「……あっ」
そして男は見た。途端に全身の血が凍り付いてしまったかのように身体が震え、硬く握られていた筈の手の中から包丁が抜け落ちる。
それは恐ろしいカタチをしていた。望まれない姿をしていた。望みが無かった。
それは黒く、不鮮明で、引き裂く爪と噛み砕く顎を持っている。
事前に男がよく研いでいた刃は落ちていく途中で男の足を掠めて切り裂いていったが、そんな事は今更男は全く気にならなかった。包丁が床を転がっていく。
そして不鮮明な影は事も無げにその刃を踏み躙った。
暗夜を背景に壊れた扉の向こうから這い出して来たナニカの足元で、さっきまで男が命綱にしていた唯一の武器が無造作に砕かれる。
けれどもう、どうでもよかった。どうしようもなかった。
男はこれから自分が振り向いて何とか部屋の奥へ逃げようとするだろう事を知っている。けれど、その想像よりも遥かに鮮明に目の前のナニカが自分を引き裂いて貪り食う光景の方が予見出来てしまった。
実際、納得に近い諦めの中で男は走り出したけれど――
「…やめて…おねがい……」
転んだ拍子に足を掴まれて、宙吊りになる中で男は最早祈る事しか出来なかった。
吐息。死を貪った、腐った肉ような臭い、生温かいモノが男に吹きかけられる。
「やめてやめろおねがいやめてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいあぁああああああっ―――!!!!!」
朝日が昇った時、血飛沫ばかりで男の痕跡など何処にもない302号室の様子が照らされていた。
「―――秘密保持契約?」
「同意頂けるなら刑を免除し、すぐにでもこの建物へ移動して頂きます」
強盗2件、強盗致傷1件、殺人1件の罪で有罪となり、ただ死刑になる日を待っていた男の前に現れたのは特徴の無い黒いスーツ姿の、まるで何処かの企業の仲介人かのような何者かだった。
少し前に刑務官に連れられて面談室に入らされたかと思えば、その仲介人らしき人物を残して刑務官もその場を後にしてしまった。
自分のような凶悪犯から監視が外される事は只事ではないという事を男は理解し、警戒しながらも仲介人が持ってきた“提案”に耳を傾ける。
交渉のテーブルに置かれたのはとあるマンションの外観の写真、仲介人が言うには自分には男を今すぐ刑務所から連れ出し此処に住まわせる用意があるそうだ。
夢のような話だ。務所暮らしが一気にマンション暮らしへなんて、夢の見せすぎで裏が透けて見えてしまう。
この提案には確実に裏がある。男は半ば諦めながらも探りを入れた。
「…アンタら警察じゃないだろ。犯罪者を起用した大規模な治験か何かか? マジでそういう事現実にあるんだな」
「お答えできません。貴方に同意して頂けない場合、この提案は次の該当者へ持ち込む事になります」
帰ってきたのは予想通りの返答だったが、誠実に答えれば男が拒否するかもしれない何かを仲介人が隠している事は確実になった。
普通ならばこんな賭けに乗るべきではない。危険過ぎる。
しかし、男は未来の無い死刑囚だった。
「………」
結局のところ男に選択肢などほとんど無かった。
「――本当にただマンションで暮らすだけなんだな?」
「外出に制限は付きますが、生活はこちらで全て支援します」
碌でもない事なのは分かっていた。この話を持ってきた仲介人が“普通”でない事も。
いつか絞首刑になった方がマシだったと過去の自分を呪う事になるかもしれない。だが、このままでは待っているのは絶望だけだ。
賭けに乗るか乗らないか。乗らなければ何もなし、乗れば何かが起こる。結果はより悪くなるかもしれないが、良くなる可能性もあった。
可能性0の今、何に賭けてみたってもう惜しくはない。どれだけ危険な綱渡りでも今の男にはチャンス以外の何物でも無かった。
渡されたペンを握り、一言一句はっきりとその契約書にサインする。
「これで良いんだろ?」
「ええ、これで契約完了です。貴方の身柄は司法から我々の下に移動しました」
「くくっ、そうかい。だったら早速夢のマイホームとやらに連れて行ってくれよ」
「分かりました。貴方には302号室が割り当てられます」
仲介人は終始淡々としていた。男の抱いた希望にも覚悟にも、まるで興味が無い――価値が無いとでも言外に告げるかのように。
それでも彼は、不注意な前任者よりは長生きするだろう。
「――俗に言う“怪異”の多くは現状の普遍的世界観に於いては恒常的に存在する事は無い。
所謂“現実”とは異なる世界観の産物である怪異は無条件に世界に受け入れられる事は無いからだ。既に世界に在る者からの承認、それこそが怪異を現実に招く門にして繋ぎ止める楔となり得る」
噎せ返るような血の臭いに包まれたマンションの一室で、それはマスクもせずに部屋の中を練り歩いている。302号室は壁や天井まで、部屋中の至るところが血に染まっていると言うのに肝心の住人の死体は肉片すら残っていなかった。
塗り潰したように黒く長い髪に灰色のトレンチコート、それらの隙間から覗く白い素肌。
木刀にも似た黒色の棒を握るその人物は土足のまま部屋の奥を目指す。
両手足を血塗れに駆け回ったのか、室内は床以外に壁や天井にも血の手形や足形が付いていた。
その凄惨な現場をまるで日常の一コマであるかのように、落ち着き払って進むその人物は言葉を続ける。部屋の中には他の人間は見えず、それが誰かに語り掛けているか独り言なのかは分からない。
「だから怪異は些細なところから自らの存在証明を始める。聞き間違いや見間違い、ほんの一瞬音や姿を見せる事から始め、観測者の認識により自らの存在をより確かな物へと補強させていく。だからこそ怪異に纏わる事件は慣例的に綺麗な起承転結の形で終わりやすい」
切っ掛け、状況の進行、激変、終着。
基本的に結末は被害者の死によって描かれる。与えられた生存権に怪異が律儀に礼を返す事は少ない。寧ろ最後の仕上げとして末路すら使い尽くすだろう。
結末によって外部にも分かるように痕跡が出てしまえば、個人で完結した筈の悪夢が他者を媒介に伝染し始める。怪異による異常死体は個人の脳内で育つばかりだった筈の怪異の存在を一気に周囲へ拡散させる。
知覚、認識、多くの怪異の本質は取るに足りないミームと誤解だ。ただそこに悪意と恐怖を孕んでいるだけ。
そして大勢に認知された幻想は最早現実に存在している事と何も変わらない。
「人間もまた世界の構成要素なのだから、世界の一部である人間の思考が世界に影響を及ぼす事は何もおかしい事ではない」
全人類が見る集団幻覚と現実を区別する方法は存在しない。それは信仰よりも尚強固に世界に刻まれるだろう。形有る世界と形の無い世界、肉体と精神、現実と虚構の境界は絶えず揺らいでいる。
誰かが垣間見、悪夢的想像の中で肥大化した怪物が現実に根を張ってしまう事はあまり珍しい事ではなかった。
人影が印象として刻まれた血に白い指先を這わせ、それが示す先を見た。鈍色の泥で濁った沼のような瞳が俄かに細められる。
「―――けれど曖昧な姿を捨てるという事は、確定した物事として存在すると言う事は……」
室内を見回していた瞳がその一点で留まる。鈍色の底無し沼を思わせる瞳が何かを捉える。
「やがて存在しなくなるという運命の獲得、死に至る事でもある」
振りかざした黒い木刀のような物を、それは一見して何も無い空間に叩き付けた。常人には何も見えない。しかし、それは常人ではない。
その無骨で鈍らな切っ先はもうすぐ生まれる筈だったモノを叩き潰していた。
―――████ッ!!!
「おや、これは――」
ノイズ塗れの悲鳴のような轟音が部屋の中を震わせる。次いで鉄錆の臭いとは異なる腐敗臭が立ち込め始めた。
卵が割れれば中身がこぼれ出るものだ。
不可視で不可解な問題の渦中から目には見えない何かを掴み上げた人影は悠々と凄惨な現場を後にしていく。
心臓が一定の鼓動を刻む。昨日と同じ時刻に瞼を開く。
「―――……」
ベッドの上で横たわる私の瞳の先には、ここ数年で見慣れた天井があった。寝室の天井。
一切身動ぎもした様子の無い毛布は寝入る前と同じ綺麗なまま、寧ろ目覚め身を起こした事で初めて乱れた。
「…寒いね」
思い出したように一人呟く。
徐々に冬が近づいているとは言え、屋内でこの寒さは稀な事だ。それに実際のところ気温は適温に保たれている。
ただ私の体温だけが急激に低下し、低体温の症状が現れ始めるこの状況―――思考ははっきりしているが、身体の動作は徐々に緩慢になっていく。何もしなければ完全に動けなくなり、自然と眠りに落ちるだろう。そして目覚める事も無い。
起床後10秒で死に瀕している。
猶予は確かに少ないが、私は私の身に起きている現象の原因を知っていた。どう対処するべきなのかも。
だから慌てる事は無い。
「おいたが過ぎるよ」
抗議する先、見咎める先、それは腕だった。
淡く仄かに透き通る霧霞のような細い腕が私の身体に取り付いている。もしかしたら取り
左手で霞の腕を掴む。雲に触れるように実体が無いように見える腕だが私は確かな感覚としてそれを捕捉する。
――引き剥がす。
腕に触れ続けている左手の感覚が激しく遠のいていくが、胴体を始めとした他の部位がマシになった。
腕は細く、それでいて脆い。あまり力の強くない私でも、少し握り込めば砕けてしまうだろう。
腕の持ち主は子供だ。その子供は肉と骨によって出来た物ではない。肉体が無い。
実体が無いという所感は正しい。実際この腕に物理的な実体は存在しない。
だが、私ならそれを掴む事に素手が有れば事足りる。私はそういう異端だ。
人々の言う日常、そこから弾き出されていた異端者にとっては異常こそが日常となる。私にとって全ての幻覚は現実と変わらない。
だから掴める。捕捉出来る。
「う……ぁ」
寝床の下、床との隙間の空間から小さな呻き声が聞こえる。
腕の持ち主はそこにいて、物理的存在することの無い腕はベッドをすり抜けて私の身体に伸ばされていた。
そんな子供の腕を掴んだ左腕が凍え死んでいく。敢えて被害を一箇所に集中させて全身から影響を逸らしているが、現状が継続すれば結局長くは保たないだろう。
「――尤も、目的は時間稼ぎのようなものだ。左腕が駄目でも右腕が無事なら何とでもなる」
寝床脇の窓、その閉じたカーテンに手を掛ける。そして一気に開け放った。
「アァアアアァッ!!!」
窓の外から午前の陽光が差し込む。朗らかな朝日、それに相反し相容れない絶叫。
光に照らされた腕が崩壊を始めていた。
あの身体で痛覚が存在している事に意外感はあるが、子供は確かに痛みを感じていた。
日光への曝露時間は2秒も無かっただろうが、子供にとってはそれだけで十分だった。拘束から逃れようと暴れる腕を押さえ込むだけの力は凍傷寸前の左手にはそもそも無い。
必然的に振り解かれた子供の腕はそれが完全に塵になってしまう前にベッドの下へ引っ込んだ。
漸く寝床から立ち上がれるまでになった私はキッチンを目指して寝室を後にする。温まる為に湯を沸かすのだ。
「うっ…うっ……」
背後からすすり泣く声がする。苦痛か恐怖か、いずれにせよ教訓として十分だったろう。
また暫く平穏な目覚めを得る事が出来そうだ。
私は私の異常性質、周囲との差異を認知している。ただ在るだけで斯くも意識しなければならないというのは若干心外だが、私の有する認識能力は単純な優劣の物差しが上手く当てはまらない
目に見える物だけが全てではないとはよく言われる。では逆に、全てが見えていたら世界はどんな姿をしているのか。
私はその答えを知ってしまっている。それは誰に理解される事も無いだろうし、理解して欲しい訳でもない。
現在の私は自ら意図して自身の感覚の焦点をズラしている。立ち位置を変え、物事の見方を変え、より不鮮明を目指した。
何処にでも在れる事が何処にも存在出来ない事と同じように、何もかもを見てしまう事は何も見ない事と変わらない。何かに注目するなら他の何かに目を瞑らないと、結局全てはノイズでしかなくなってしまう。
不自由の中では自由が望まれるものだが、逆に自由の中では制御された不自由こそが望ましい。だから私は私に枷を付けた。
―――とは言え、その程度で私の異質が平均化する事は全く無かった。
「あ、トマトサンド」
窓の外を鳥に混じって飛んでいるのは何処かの食卓から逃げ出した朝食、私の日常、他者にとっての異常はそういう物事に取り巻かれている。
「あー…」
足湯ならぬ腕湯。ゆったりとベランダに置かれた椅子に腰掛けて、バケツに汲んだ40℃の湯の中に冷えてしまった左腕をじっくり浸しながら秋の朝風に当たる。何だか露天風呂に浸かっているいるような気分になって思わず声が漏れてしまった。
しかし見渡せる景色は大自然のそれではなく、通勤通学の人々が階下を街の景色である。
自宅のあるマンション5階、空に昇る陽光の下で暗がりは形を潜め、夜には感じなかった人の世界が昼に向かって栄えていく。
「ピャァアアアッ!! ピャアッ!!」
「おや…」
鋭い鳥の鳴き声が上がる。そちらへ目を向けると一羽のヒヨドリがベランダの柵の上で喚いていた。
秋の深まりと冬の接近を知らせるその野鳥の小さな体躯にはマンションの外壁にこびり付いた老廃物が纏わりついていた。その老廃物は黒いスライムのようで、粘性を感じさせる外見をしていた。そして老廃物は生きていた。
ヒヨドリは自分に纏わりつく何かから懸命に逃れようとして羽音を激しく鳴らす。
「…ピッ……ピャ……………」
だがヒヨドリの後脚から全身へと伝っていった老廃物は頭部を覆い始める。かき鳴らされた筈の悲鳴は弱弱しい物へと変わり、やがて消えた。
既に逃れようがない程に老廃物はヒヨドリを包んでいたが、その内側に取り込まれてしまったヒヨドリは未だに状況を解する事無く藻掻いている。
その生きている黒い老廃物は私にしか見えていない。当事者であってもヒヨドリはその存在に気付いていない。――気付いていないのだから、抵抗は効果的なものにならなかった。
円らな瞳が白く濁って行くのを私は見た。
表皮から羽毛が抜け落ちて、毛に覆われていた皮が赤く爛れていくのを見た。
皮に守られていた筋肉がグズグズに腐るように蕩け、溶けた内臓の混じった血の泡が嘴から零れ出る様を見た。
私は何もせず、ただ眺めていた。
ある者は私を薄情だ冷酷だと扱き下ろすだろうが、たった今出会ったばかりの他種の生物に対して情など端から抱く訳も無い。
「それに食べ物の恨みは尾を引く」
黒いスライムの中で生きながらに溶かされ、食われるヒヨドリ。食っているのは取り付いた老廃物、それの目的は殺害ではなく捕食、つまり生物としての本能から生きる為に行っている。
食う事を否定するなら、それは対象が生きる事を否定する事だ。そんな事を仕出かしたなら、殺されたって文句が言えないだろうと私は思う。
「……ん」
椅子から立ち上がる。
少し冷めてしまった微温湯に浸けられた腕はもう十分に動くようになっていた。
ベランダの柵の傍に立つ。
私の隣で力尽きたボロボロのヒヨドリがふらりとよろめいて5階下の地上へと落下していった。
凡そ15mの落下の果てに、ヒヨドリは頭蓋を地面に激突させる。
辛うじて頭は砕けなかったが、それを支える首は容易くへし折れた。その瞬間、残骸のようだったヒヨドリは漸く死ぬ事が出来た。
マンションの老廃物は落ちた死骸に取り付いたまま落下していた。それは獲物と同様に地面に叩きつけられても何も感じていない。
寧ろ一層激しく死骸を貪っていく。
「きゃっ…!? 何これ、鳥? グロ…」
道を行き交う人々には鳥の死骸だけが見えている。たった今死んだとは思えないほどの異臭を放ち、腐敗した様相を見せる死骸だけが見えていた。
それを覆い尽くす黒いスライムは見えない。
……だからこそ、ほんの少し注意深くその小さな生物の末路を観察して見れば彼らにも気付けただろう。黒いスライムを見る事は出来ずとも、それが齎す死骸の急激な劣化と消
結局、人々は朝にこれから始まる自分の今日の予定の方が一羽の鳥の死より重要だった。何も隠れていないというのに、多くが気に留める事をしない死骸の末路を私は見守る。
これが夜なら話は変わっていた。人々は意識的に無知を装い、半端な知識人は夜を見つめ続けるだろう。
だが、今は朝だった。
「あぶなっ…ゲロ踏むところだった」
ヒヨドリの死骸が元の姿を完全に失うまでにやはりそう時間は必要無かった。吐瀉物にしか見えないそれを危うく踏みつけかけた通行人が慌てて足を逸らすのが見えた。
「………さて」
そんな情景をベランダの端から見下ろしていた私の首筋へ、静かに黒いスライムが垂れ落ちて来る。
「――まあ、私は気付いているよ」
椅子から立ち上がった時には既に気付いて移動していた。家に入り込まれると厄介だから、追い出せる位置へ移っていた。
「
タイミングを見計らい、スライムが捕食態勢を取ってその身を重力に委ねた瞬間に見を躱す。
掴まり捉える先を見失ったスライムは当然の末路としてそのまま地面へ落下していった。
アレの主食はヤモリや鳥、ネズミといった小動物だが、人間サイズの動物を襲わない訳ではない。今回私が獲物として見られた事が何よりの証拠であろうし、このマンションでは飛び降りや転落事故が多発している。
スライムの動きは鈍い。無理矢理地上進出したアメーバ、粘菌のようなものだから仕方ない。
だからアレらは壊滅的な機動力の補助として重力を利用する。
それは獲物より高所の位置から自由落下で取り付く事もそうだが、その後獲物を高所から落下させ仕留める事にも繋がっている。
スライムは触れた獲物をそのまま喰らう、全身が蠢く胃液の塊のような異形だ。液体に近い性質上、アレらが扱う獲物の範囲は結構広いのだ。
だからこそやはり――
「うっ…ううっ…お……?」
アレは人間を獲物として見ている。
落下してきた黒いスライムを頭から被った一人のサラリーマン。彼は自分に降り掛かってしまった物が何なのか知る事は出来ないだろう。
ふらつく足取りはすぐに真っ直ぐ歩く事すら出来なくなり、男は地面に膝をつく。
「…あの、大丈夫ですか?」
ヒヨドリの死骸の時と違い、彼には声を掛ける者がいた。人間に限らず、一定の社会性を育む生物なら誰しも有している同族愛。
すぐ近くにいた通学途中の少女が男の変調に気付いた。それでも顔色の悪い男は自分を気遣う相手を手で制して止めようとする。
まだ自分の身に起きた事は大事ではないと思えていたのだろう。
「あ……大丈夫…大丈夫、だから…本当に少し休めば…ゲホッゴホッ! ―――え?」
口から零れたドロリとしてやけに粘性の高い血の塊、咳とともにそれを吐き出した本人は困惑の呟きと共に血に染まった掌を見つめた。
弱った姿を同族であっても他者に見せたがらないのは人間に限った事ではない。余程追い詰められない限り、生き物は自らの弱点を隠し取り繕う。また自分より立場の弱い――この場合は年下――存在にも弱みを見せようとはしない。
今回の場合、それは僅かばかりの対応の遅れを生んだ。けれど死にゆく者にとっては1秒すら惜しいもの。
そして状況は次の段階へ移行した。弱さを取り繕えない段階へと。
「か……ゆい……かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆい!!!!」
「ッ!? 何してるんですか!!」
男は気付いていないが、男の頭を覆うスライムは既に捕食を始めている。
蚊も生きた動物で食事するが、今回の場合スライムが食事を行っているのは単純に摂食面全てからだ。
表皮を溶かし、粘膜を破壊し、体組織を徐々に崩壊させていく。アレはかなりえげつない事をする。
浸透――食べやすく柔らかく、組織溶かして崩していく。
老廃物に憑かれた男は顔面を激しく掻き毟る。既に脆くなっていた男の顔の皮膚はあっさりと現代人の柔い爪に屈した。
ごっそりと表面が裂けて剥がれ落ち、黒ずんだ血が垂れ落ちる。
「やめて!!!」
「うわぁア゛アァア゛ッ!?」
「きゃあっ!?」
男は気付いているのかいないのか、自分の顔面を引き剥がそうとしている。
彼に最初に声を掛けた学生がその腕を掴んで止めようとしているが、狂乱する男は妙に嗄れた声を上げて学生を突き飛ばした。
表皮より粘膜の方が深刻に侵されやすい。喉、それに目と鼻ももうやられている。
白く濁って溶け始めた眼球はもう何も映さないだろうし、血を吐き続ける爛れた喉が人の言葉を話す機会も訪れない。周囲の状況を彼が正確に冷静に把握する事はそもそも叶わなかった。
当事者にも野次馬にも見えていないが、黒いスライムは既に男の体内へ浸透している。
後は内側からじっくりと内臓を溶かし貪るだろう。
だがやはり、転落死したヒヨドリに比べればその摂食ペースは目に見えて遅い。アレが本格的な食事を始めるには獲物の死が好ましい条件だ。
重力を利用しない場合、機動力に致命的な欠陥を抱えるアレにとっては何かの拍子に離れてしまった獲物に追いつく事はほぼ不可能。
だからスライムが生きている獲物を摂食する速度は遅い。生存し動き回る獲物しがみ付く努力を余計しなくてはいけないからだ。食事だけに集中していられない。
悠々と死んだヒヨドリを溶かして啜り上げる最初の個体を見れば獲物の状態による差異は明らかなだ。
仮に人間が牛を生きたまま解体し捕食出来る顎と爪を持っていたとして、暴れ牛に乗りながら食事を進める事と死んだ牛を食べ進める事の違いを考えてみれば分かり易いか。
出来れば殺して食べた方が都合が良い。だからスライムは高所で人を襲い転落のリスクを増大させる。今回私が避けた事で地上へ落下したスライムが通行人に取り付いたのは実は結構なイレギュラーだったりする。
最初に選んだ獲物を外れ、うっかり全く別の相手に取り付いてしまったのだ。
スライムは無差別に捕食活動を行わない。一つの獲物に取り付いている時、例え直接接触してこようとアレは周囲の他の生物には見向きもしない。
「道を開けてください!!」
遠くからサイレンの音がする。周りで見ていた何人かが救急車を呼んでいたのだ。
私の住むマンションの1階からも野次馬を掻き分けて警備員が飛び出して行った。
このマンションの関係者ならば
私はそれなりに彼らを信用していた。
最初に手を差し伸べようとした学生はとっくに自分ではどうしようもなくなってしまった状況を前に呆然と立ち尽くしている。
マンションの警備員がそんな少女の手を引いて顔面を溶かし続ける男から無理矢理距離を取らせた。蚊帳の外へ。
「……嗚呼、それは疵になるかもしれない」
可哀想に。そんな心にも無い事を口に出してみる。
私が避けた事で男に当たったマンションの老廃物、それはまだ生きている男をじわじわと貪っている。
「救急隊です!分かりますか!?聞こえますか!?」
「ア゛……ァ゛」
私にだけ原因の見えている急病人がやっと到着した救急車に運び込まれる。先に対応していた警備員も一人同行する。
原因をくっつけたまま救急車が走り出す。
後にはざわめきつつも一人ずつ解散していく群衆と、男から散った血痕を無言で見つめ続けるあの学生だけが残されていた。警備員が血痕の周囲に規制線を張って通行人を遠ざけている。
その全ての脇で誰にも注目されなかった鳥の残骸を残さず啜り上げた最初のスライムがゆっくりと移動を開始する。
それは路上の人々を無視してマンションの外壁へ一直線に這い出す。気付かず踏みつけられても特に気にした様子は無かった。
すっかり冷めて常温水となってしまったバケツを抱えて私も室内に戻る。見るべき物事はなくなった。
「…大分感覚が戻った」
バケツの水をキッチンのシンクに流す。左腕にはまだ動作に違和感があったが、後は自然に任せれば回復する。
跳ねる飛沫。濡れ手を這い回るその感触は悪く無かったが、濡れたままではまた冷えてしまう為拭き取った。
蛇口を捻って水を流し、軽くバケツをゆすぐ。日々気温の低下する時期にあって蛇口から流れる水は心地よい冷たさを帯びていた。
飛沫が舞う。シンクを這う。それは移動の中で細かく分裂していく。隙間を見つければそれは器用に入り込む。染み込めるなら浸透する。
「君たちは変わらないね」
乾いたタオルで濡れたバケツを軽く拭き取り、後は自然乾燥に任せようと置いた傍らに一
それは持ち前の粘着性で私の指先に上手くくっついたが、生来の強度不足によって細かく分化もしていく。結局半分以上は指からシンクの上へと
それは私の体温に少しずつ適合しながら、温もりを獲得する事に抵抗している。比熱。私の皮膚の上で溶かし込める物を微細だが攫って行く。溶媒。
私にはそれが――例えるなら透明なプラナリアかナメクジのようも見えた。
かつて私と同じ物を見出した旧い時代の人々はこれを“水精”と呼んでいた。そうして特別な意味を持たせる事で、彼らはそれを特別に運用する事を可能にした。
旧い水詠みの人々はよく水と対話した。それにより日常生活の利便性を向上させるだけでなく、災害の前兆を逸早く察知する事が出来た。
だが有利である事は真ではない。時の流れと共に人々はこれを忘れた。
きっと後世にまではっきりと残り伝わる物事、真実では無かったからだろう。
だが私にとって真偽は大した意味を持てない。
透明な液体と軟体動物の姿が重なり合う。平行し相反する二つの認識。
幻覚から抜け出すまでもなく現実を見通し、現実にあろうが幻覚も構わず見てしまう。そういう存在にとって、夢現の区切りは意味を持てない。暴こうとも暴かずとも、私が見て触れる世界は何も変わらない。
私の部屋のキッチンと居間はほとんど同空間だ。胸丈程度の仕切り兼調理場で区切られているだけで、扉も使わずに行き来が出来る。
私が入居する前、この部屋が売却される前に此処に住んでいたのは幼い一人息子を持つ一家だった。母親がこうして調理場で作業する時、仕切りの向こうの居間でくつろいだり食事を待つ父子の姿が見える―――そんな穏やかな景色が高い確度で存在し得なかった事を私は見透かした。
「ごめん…ね」
調理場の仕切り越しに見えるその姿、食卓の一角を占有するその女は寝室にいた子供と同様の質感をした外見をしている。
あの食卓は売却時、前住人の家具としてそのまま残されていたものだ。―――この部屋に存在する家具の大半がそうである。
理由は何となく分かるが、この部屋の前住人たちはこの家に落としていった物事を拾いたがらない。あるいは拾う事が出来なかった。
だから蓄積していく。
「――尤も、私の一代前の住人については仕方が無かったと言える」
調理場を離れて居間へ、食卓の席の一つに座ったまま謝罪を吐き続ける女を見る。輪郭が朧気な彼女は寝室の子供と異なって能動的な反応は見せない。ただ昨日と同じ場所から動かず、少なくとも私ではない誰かに謝り続けている。
「ごめん…ごめん…」
私の一代前のこの部屋の住人、夫婦と一人息子、彼らの内父親はベランダから飛び降りて死んだ。母子の遺体は見つからず失踪扱いになった。住人が消え、引き取り人も現れなかった事でこの部屋は再び売りに出された。
此処に来たばかりの事を想起する。入居して初めての時私は部屋の中から幾つかの遺体を見つけた。
母子はその中にいた。
「ごめんなさい…」
とっくに腐り落ちた肉を警官が食べる姿を見た。
調理場から居間を見つめた時、その視線の直線上の突き当たりに存在するテラス窓。そこは固く閉じられ、そしてガラスを黒く塗り潰してある。それらを行ったのは家主である私自身だった。
私の見ている物事が完全な杞憂ならば必要の無い処置だった。しかし人々は思ったよりも此方へ踏み込んでしまう。
私にとって幻覚も現実も変わらないが、常人にとって幻覚は異常で現実は日常だ。異常は日常を撹乱する全般を差す。
異常は人間の日常を破壊する。そういう意味では生者にとっての死もまた異常と呼べるだろう。
異常と非存在は必ずしも等号で結べる概念ではない。この街では尚更だ。
人々からして“有り得ない”モノが見えている私だが、時にこの景色を他者と共有出来る事がある。私が見ている物事が単なる幻覚ではない時がある証拠であり、大抵碌でもない体験になる。
「…また少し剥がれてきたね」
背後に呻く女の謝罪を環境音に私は窓に触れ、日課の確認作業に勤しんでいた。
昨日塗り直した筈の窓には点々とした欠落が生じ、そこから細い光が差し込んでいた。
筆を取り、光を通さないよう墨で全て塗っていく。
それでもどうせ、明日にはまた剥がれているだろう。
居間のテラス窓は本来ベランダに通じている。居間と寝室はベランダから行き来が可能だった。しかし現在、このように居間の窓は閉ざしている為に寝室に向かうには一度廊下に出るルートしか無くなっている。
居間を周囲から……正確にはマンション外から隔離しようとした。それで窓を墨で塗るだけなど、随分杜撰だと思われるだろう。
実際杜撰だ。
このガラスは強化ガラスですらない。子供でも石を投げれば簡単に割れる。
何故隔離を厳重にしないのか?
「――それはもう試したからね」
この家に来て死体の山を確認して、一目で居間の問題に気付いた私が最初に行った選択――全ての窓を資材で壁にして潰そうとした行為。
その結果としてベランダの一部損傷と歩道への資材片の落下、残っていた窓と窓枠の全損という開放的な成果を得る羽目になった。仮設壁が爆散したと言い換えても良い。
それからも試行と検証は重ねられ、少しばかり修理費が膨らむ事になった。
結果判明した事実は居間は封鎖される事を拒んでいる事、より強固に閉じようとすればそれは更に激しく抵抗する事。
結論、窓を黒く塗るだけという一見杜撰な対応が最も状況を安定させる手段だった。抵抗と呼べるものは薄く剥がれた墨だけ、それは塗り直せばすぐに塞がる。
ただ確かに根本的解決にはなっていない。そもそも原因は居間そのものではない。
余人が気に留める事の出来ない物事が私の視界には容易く触れるように、私にとっては何でもない事が他者にとっては重篤である事がある。
見えない、聞こえないという事はある種の防衛反応だ。生物が世代を重ねる中で自然と獲得した認識のフィルター―――見えて聞こえる者が死に易いが為に、見えも聞こえもしない者が生き残り、多数派となっていったという自然選択。
気付かない方が生存に有利だったのだ。
確かに知らない事、認識できないが故の危険はあるが、それ以上に知ってしまう事の危険が大きかった。
居間の問題の根源はその“知る事が危険を齎す”の模範解答のような例である。
「―――何も無い」
紡錘形、もしくはレンズ状の黒色が居間の天井に染みついている。
奥行きを感じさせない一辺倒な“黒”。それは白い天井の平面に焼き付いたシミとしか思えないが、その実態として空洞だ。
何も無い。腕や顔を突っ込んでも何に触れる事も無く、内部はどこまでも変わらない空虚が広がっている。
あのぽっかりと開いた無限の黒い穴は反対側の6階の床には接続していない。この現象は私にとってはよくある事だが、他者にとっては違うだろう。
1枚の板に穴を開けたなら表裏に直通であるべきで、覗いた穴から異なる景色が見えたり片側にだけ穴が開かなかったりする事は無い―――本来なら。
穴はただ空虚な口を開いている。だが、人によってはにはそれが瞳に見えるのだという。
だからこそあの天井の欠落は私にとって無害で、私以外にとっては無制限に危険な可能性を秘めている。
突然だが玄関の三和土を指が這っている。
切断された人差し指。千切れた断面から神経を引き摺って、関節を曲げて伸ばしてを繰り返し懸命に前進している。
蛾や蝶の幼虫を一直線に並べて競走させる遊び―――は最近の子はしないか。それでも人間は何かが頑張っている姿を好む生き物だから、指であっても何処か応援したくなるのではないだろうか。
「……幼虫ではなく千切れた指が自律して動いている訳だが、これは応援した方が良いのだろうか」
今更だが私を取り巻く状況が状況である為、価値観のギャップについては仕方がないものと割り切っている。ホラー映画の登場人物にとっては非日常からの生還が至上命題となるが、私にとってはその“非日常”こそが日常だ。
何処でどう生きようと、何をしていても私には現実以外が常に目に入る。そういった環境でマトモな常識が育まれる訳もなく、育まれなかった果てに私がいる。
知識として、他人がどういう感覚とパターンで物事を考え対応しているかは知っている。
だが殺人鬼に驚いて腰を抜かすより良い方法が私にはあったし、必ずしも殺人鬼は人間ではなかった。
つまりはそういう事であり、“私の認識する世界”が“正常な現実”と食い違う以上、互いに異なる常識が育まれる。
そういう意味では私は私のいる世界の常識には聡いだろうが、現実に照らせば紛れも無く非常識という事になる。
「もうすぐかな…」
話を戻すが、人間の指は蜥蜴の尾と異なり本体から切り離されても尚動き続けはしない。
それこそ自律し移動するなど以ての外だ。
けれど、それはいつか失われた指である。失って見つからなかった物が何処で何をしているかは誰にも分からない。
答えはすぐそこにまで迫っている。
私が見据える指の動きは徐々に緩慢になっていく。本来在るべきように、状態が移り変わっていく。
「認識を阻害する能力を持った君たちは、私からすると捕まえ易くて都合が良い」
私から離れるように玄関の床を這う人差し指は、実際私から逃げていた。
世の中には人間がそれから目を逸らすよう進化した結果消えた物だけでなく、それ自体が人の認識から逃れるように進化した物もいる。
俗に言う“認識阻害”、しかしそうしてまで隠れるには相応の理由がある。発見される事、それ自体が対象に損害を与えるだとかだ。
今回の場合は―――
「切れ落ちた指が現実にあって独立した個我を獲得する訳が無いだろう?」
千切れた人体の断片が動きを止め、床の上に転がる。私以外がこの場面を見たなら、忽然と床の上に現れた指として現象を目撃していただろう。
指は私に観測される事から逃げていた。そして逃げられず、深く埋めて隠していた命脈を引き摺り出されて絶たれてしまった。
私の前にあらゆる認識阻害や改変はその意味を成さない。
私のように見え、聞こえる者たちは認識強化能力者と呼ばれる事がある。私の場合は強化するまでもなく素で見えている為に若干本質が異なるが、得られる結果の方向性は変わらない。
認識強化能力が現代に於いて希少な理由は、こうした認識阻害実体――忘却の地平を這う存在らを暴き害してしまうからであり、そうしてあちら側の怒りを買った結果生存競争で絶滅しかけているという背景もあった。
冷蔵庫に指を置く為に一度戻ってから、玄関からマンションの廊下に出る。
私の住む507号室は5階の角部屋だ。廊下の終端から昇降口のある廊下の始まりの方へ目を向ければ、6枚の扉があった。501〜506号室の玄関。
全ての扉にはよく見ると引っ掻き傷があった。さて、夜中に猫か何かが悪戯していったのだろうか。
「だとすれば、随分大きな猫だ」
爪痕の幅と長さ、付けられた位置の高さから鑑みるに、その“猫”は熊程度の大きさはある。それでいて人並に賢く人を食う。
……302号室の補填は今日行われるのだったか。後始末はしておいたから、担当者はかなり楽だろう。
改めて廊下に目を向ければ私の住む507号室以外の玄関前には段ボールが積まれていた。その中身はマンション管理会社から配給された生活必需品で、これによって住人たちは一歩も外に出る事が無くとも生活する事が出来る。
このマンションの住人は、きっと生きる為に住んでいるというより
廊下に立ってみると一切他人の気配など感じられないが、全ての玄関に段ボールが置かれているあたり5階フロアは満室だ。彼らは生きる為に夜を徹し、結果朝から夕方までに眠るしかない。
「皮肉なものだね。そうまでして恐れた夜の住人になるしかないのだから」
507を除いた全ての玄関に段ボールが置かれている。
50█と刻まれた扉の前にも段ボールは無かった。
廊下に人の気配はない。
白いTシャツに藍色のジーンズを履いた中年の男が廊下の中間で私を見ている。清潔な白のTシャツの中で首元から胸にかけての黒ずんだ汚れは目を惹いた。
「こんにちは」
彼は気さくに、穏やかに、無害を見せてにこやかに挨拶をしてきた。その無垢な様には幼い子供すら彷彿とさせるものがあったが、現時刻に的確な挨拶は「おはよう」だった。
昇降口、501、502、503、504、50█、505、506、507、廊下終端――私の住むマンション5階の構成はこのようになっている。
此処は頻繁かつ不定期に住人が入れ替わる。一ヶ月も経たず退去する者がいると思えば、数年暮らしていた者が急に消える事もある。
507号室から父親が飛び降りた事件以来、此処の管理会社は変わった。現在の管理会社は優秀で、マンションの全部屋に一ヶ月以上の空室を作らない。商売上手だ。
「聞こえていますね?」
廊下の端、前後にはそれぞれ2台、計4台の監視カメラが設置されている。管理体制の移行によって変化した事は幾つかあるが、これはその一つだった。
4台のカメラに死角は無い。それは執拗で徹底していて、さながら刑務所のよう。
「あながち間違いでもないか」
昇降口、階段の隣にはエレベーターがあるが、それは万年故障していて入口は塞がっている。修理の目途は立っていない。時折動くしランプも付く、誰かが乗っている事もあればマンションに存在しない階数を表示する事もある。かなり激しい故障具合だ。
「見てください。話してください。寂しい」
507号室に段ボールが無い事から分かるように、私は配給を受けていない。そんな事をせずとも生活が成り立つからだ。
だから郵便を受け取るにも私は1階の受付まで降りていく必要があったが、これは別に“普通”の事だろう。これには大勢が賛同してくれると思う。私がおかしいのではなくこの場所がおかしいのだ。
だが少しだけ中身を知れば、仮に三日でもこのマンションに住めば彼らは気付いて意見をひっくり返すだろう。世の中は無常である。
「50█号室に来てください。私は住人の
エレベーターは使えない。階段を使って1階まで降りていく。
「私の声が聞こえる。貴方は私の声を聞く」
原敬草摩はかつて505号室の住人だった。2年、それなりに長続きした人間だった。
―――“特殊消失事案”、マンション管理会社はその現象をそう呼称している。
努めて満室にしてある筈のマンションに時折降って湧いたように現れる
何故それが起きるのか、管理会社は原因を把握していない。何らかの異常現象なのかヒューマンエラーなのかすら分かっていない。把握する必要はない。
原敬草摩が505号室に住んでいたのは二ヶ月前までの2年間。
505号室は2年分の特殊消失事案によって空室のまま放置され、住人も補填されていなかった。二ヶ月前にその事態が発覚し速やかに新たな住人が移送された。
これまでに発生した特殊消失事案を時系列に沿って並べれば、特に私の住む5階に於いては私以外に誰も住んでいなかった時期が存在する事になってしまう。しかし一度に発覚する空室は必ず一つだ
管理会社は事案が発生する度に全部屋の居住状況を再確認するが、毎度異常は発見出来ない。特殊消失事案の発生は同時に複数起きる事は無く、発生した一室以外の住人は問題なく保たれている。
認識阻害実体は隠れ潜む事をライフスタイルに組み込んでいる。しかしその生態は必ずしも防御的な物には限られない。寧ろ気付く者を一方的に自らの領域に引き摺り込む攻勢的な生態のものもいる。
それはさながらアリジゴクのように。
そして認識強化能力者が希少な理由の最たる一つでもあった。けれどその事実が明るみになる事は無い。その事実を知ってしまったなら、もう見えない影たちが伸ばした毒牙が無遠慮な探索者の首筋に食い込んでいる。
「どうして聞こえない振りをするんですか? どうして見てくれないんですか?」
廊下は終始無音だった。ただ私の歩く音だけがいやに響いている。本来はノイズとして処理されるべきそれしか此処では鳴っていないから。
1階ロビーは若干騒然としていた。マンション出入口目の前の路上で突然通行人が顔面を溶かして病院へ運ばれて行ったのだから無理のない事ではある。
出入口方向の透明なガラス壁越しに外を見てみれば、歩道の上に残る血痕以外にはもう先ほどの惨事を思わせる物は残っていなかった。
今はもう何も知らない人々が道を行き交っている。人と時間の流れと共に出来事も循環され希釈されたのだろう。あの学生の姿も無くなっている。
“ヒラタマンション”と銘打った看板が建物の外側に見える。それがこのマンションの名前だ。
ヒヨドリを食った最初の一塊のスライムはまだそこにいて、せっせとガラスの壁に張り付いて登っていた。重力を利用しない時、それの動きは非常に遅い。今は重力に逆らっているのだから猶更遅かった。
救急車に同行している警備員は患者の体重が妙に重い――まるで見えない何かが載っているような――事に気付くだろう。そこからどう対応するかが要だ。
飛び降りや転落には慣れていても今回のケースはレアだから、この手の事に慣れているマンション従業員の間でもちょっとしたイベントだっただろう。
出入口付近に設けられたマンション管理事務所兼受付に足を運ぶ。
「郵便物の回収を――おや、新人かな」
「あ、はい。すみません。IDの掲示をお願いします」
それなりに長く此処で暮らしている都合上、管理会社ともそれなりに顔馴染みになる。最近ではすっかり顔パスで手続きが通っていたが、今回受付にいたのは見慣れない顔だった。
まだ若く、幼さすら残っている顔立ち。後輩として育てていく事にやりがいを感じさせる対象だった。
居住証明書を含めた必要書類を差し出し、久々に見る真っ当で抜かりのない手続きの進行を見つめる。
現在の管理会社はマンションの内外を出入りする物事を人に限らず厳格に管理している。最近は私に関して雑になり始めていただけで、本来はこれが正しい。
「確認出来ました。すぐにお持ちしますね」
郵便物を一括で収集し管理している事務所の奥へ受付の新人が去って行く。507号室宛てに届いた荷を探し当てるのに少し手間が掛かりそうか。
「さて…」
脇に目を遣る。
そこには首を失った男が立っていた。彼は頭の無いままに意識だけ此方を見据えている。
「――お待たせし…何か、ありました?」
「いいや、何も無かったよ」
察しは良いけれど、安直にそれを口に出してしまう程度には未熟な新人従業員は10分ほどで荷物を抱えて戻って来た。
運ばれて来たのは複数社の全国新聞と市役所が発行する地方新聞、求めてもいないのに勝手に溜まるチラシ―――そして古ぼけたビデオテープが一つ。
「……」
私は傑作やB級に関わらずホラー映画は好きだ。日常コメディやサスペンスとして見応えがあるし、俳優に混じる“本物”を見つけると得をした気分になれる。
古い作品を観る為にビデオデッキも持っているが、私は今回そういった注文をした記憶は無い。
しかし、何処ぞの誰とも知れないその厚意は受け取っておくとしようか。
「あのっ、それは…!!」
「…?」
「っ……いえ、何でもありま、せん」
私がチラシを捨てて新聞を回収し、最後にビデオに手を伸ばそうとしたところで新人が顕著な反応を示す。私がその理由を理解しているように、彼女もそうなのだろう。
だが管理会社がマンションに住人を注ぎ続けるように、結果を見ない物事の流れを堰き止める権利は一従業員には無い。
「私以外ならそれは処分相当だよ」
「……え? あの、もしかし―――」
「何、勿論ビデオの話だ。次からは気を付ける事だね」
知識と智慧はアドバンテージだが、人は決して全能ではない。知っている程度で何もかも上手く事が運ぶなら私は苦労していない。
安易に手を伸ばしてはいけない。
仮に彼女がそうなったとして、私はその決定を覆すようなお人好しではない。けれど不要な不義理を働けるほどの人でなしでもなかった。
正直なところ、非情にも有情にもなれない中途半端が一番危うい。派手な壊れ方をする。
新人受付は動揺した様子で私を見る。揺れる瞳には怯えの感情すら読めた。
何となくその思考は読めるが、私は覆面でマンション住民に紛れた内部監査員などではないから安心して欲しい。
善意が価値と意味を持てる時間は少ない。差し伸べた手が噛み千切られたり、諸共に引き摺り込まれてからでは遅いのだから。
事務所を少し覗き込んだが、古馴染みの受付職員の姿は無かった。
円満に退職したか、異動になっただけだと思いたい。どちらにせよもう二度と会う事はなく、会ったとしてきっと私の事は忘れているだろう。
部屋に戻る途中、階段を上っていると必然的に他の階のあるフロアが目に入る。
3階フロアの2号室から清掃業者が出ていくのを目にした次――4階、そこにフロアと呼べる物はなく、扉すらないただのコンクリート壁面が塞いでいる。
ヒラタマンションの4階の事情は特殊だ。随分昔に放棄されている。
私が入居した時にはとっくにこの有様で、私はそこで起きた事に立ち会う事が無かった。
私は当初404号室に入居するつもりだったが、私が購入しようとした直前でその物件は売れてしまった。
あれよあれよと言う内に507号室で事件が起きて部屋が空き、それを購入した頃には4階は封鎖されていた。
ご丁寧に廊下だけでなく、4階居室の窓やベランダも今や完全に外部と隔絶され埋められていた。
4階については管理会社側も知らない事が多いようだ。でなければあらぬ噂が出回る事もないだろう。
噂の内容は壁の向こうから引っ掻く音がするだとか、助けを求める声がするだとかそういうものだ。
「暗い……此処から出して…助けて」
嗚呼、ちょうどこんな感じだ。タイムリーだね。
しかし外部から完全に隔絶され、電気ガス水道の全てを止められたフロアの中には例え生存者がいたところで全員干からびているだろう。
私がヒラタマンションに来てもうじき6年になる。それほどの時間を人間は飲まず食わずで耐える事は出来ない。
ならばこそこの壁の向こうに誰かしらがいる事は疑わしく、また存在したとしてそれは壁を破壊して外に連れ出すべきモノではない。
墓穴を掘り返し埋没していた物を暴いたとして、それが生前と同じ姿をしていると期待する事は愚かだ。仮に本人を埋めても、掘り起こしたそれは生前とはかけ離れる。
墓穴の中には残骸か、死肉に巣食いそれを漁る何者かしかいないものだ。
コンコンと壁を叩く音がする。カリカリと壁を引っ掻く音がする。
徐々に存在を主張するように激しくなるそれらに背を向け、遂には殴りつけるような衝撃を伴い始めたコンクリート壁を離れて私は階段へ戻った。
「こんにちは、原敬草摩です」
そうだコイツがいた。
ただ階段を上って廊下を抜けるだけだと言うのに再び何やかんやあった私は部屋に戻っていた。
謝罪のリピートはbgmとして上等ではないので居間ではなく寝室にいる。例のビデオは壁に備え付けられた収納スペースに放り込んだ。早速中からカタカタ音がしているので、また今度視聴するつもりだ。
寝室は書斎も兼ねている為、寝床の隣には作業用の机がある。
ベッドと床の隙間の子供は室内灯に怯えて出てくる様子が無い。日光を浴びるほどの重篤な影響は出ない筈だが、寝起きの出来事がトラウマになって無条件に光を忌避してしまっているようだ。それは此方としては都合が良い。
「あ…うあ…ぅ」
「そのまま大人しくしているようにね」
暫しの平穏を得た私は全国新聞を広げた。
まず目に入る物は政治家のゴシップや芸能人のスキャンダル――正直あまり興味はない。掃いて捨てても次から次へとこういう物は湧き上がる。いつの時代も変わらない。
多くの場合で情報は人の意志を介して広がる。事実は目撃者と伝達者の意志を添加され真実として広まる。
そして人に事実は宿らない。
極論、あらゆる情報には意志がある。敵意も悪意も、殺意も正義も玉石混淆に込められている。
だから何だという話では有ったり無かったりする。場合によると言ったところだろう。
「…クジラの大量死」
裏金、不倫、汚職――そういった物事を流し見ていた果てに一つの記事に視線を留める。浜辺に打ち上げられた何頭ものクジラが映った写真。
―――太平洋沿岸各地で起きている鯨類の浅瀬への流入は少しずつ大きな騒ぎになっている。海底地殻変動が主要な原因だろう専門家は述べ……。
「海、海か……」
この星の生き物はかつて海から這い出した。今では少し遠ざかった物もいるかもしれないが、地上の物であっても最後は海に流れ還る。
きっと、今では地上から姿を消してしまったモノも深海で砂に埋もれて眠り続けているだろう。
――旧いモノたちが。
一通り全国新聞に目を通したが、クジラの件以外に特に目ぼしい物は無かった。
蝿印レストラン――少し奇抜だが私は気に入っている食事処の割引券が偶に挟まっている事があるのだが今回はハズレだった。
市役所で発行される地方新聞を手に取った。現在住んでいる場所という事もあり、全国新聞よりもこちらの方が実用的な情報を載せている。
「昨晩の行方不明者――17人」
ヒラタマンションのあるS県D市は夜間外出禁止令が出されている。それによって夜が昼とかけ離れ、私にとっては何も変わらない。
この街特有の事情により、市民は夜に深く息を殺して全てを無視している。誰も夜の監視者などやりたがらない。夜の出来事に関わりたくないのだ。
外部と繋がる鉄道や路線バスですら日没以降は市内に停車しなくなる。
市民はこの街に何が起きているのか、その原因となる過程はよく知らない。知ろうとしない。
それは夜闇に隠れている。しかし日が昇った時露わになる事、結果、末路、何が起きてしまうのかはよく知っている。
夜は人間の保有できる時間ではない。この街で人間は夜に敗北した。
しかし外部の人間はそういった事情を知る由も無い。逆にこの街の秘密を探ろうと自業自得に足を踏み入れる者もいるが、職責等によって昼に市内に入った者が大半だ。彼らの中には夜までに市外へ出る事が出来なかった者もいる。
S県D市にはホテルや旅館、民宿が多い。逢魔ヶ時を過ぎるまでにそういった場所に辿り着くと良いが、それ以降まで屋外に留まっていたり徒歩で市外を目指そうとした者もまた少なくはなかった。
逢魔ヶ時を過ぎれば、この街では警察も消防も眠りにつく。
消えた17人がどれだけ声を上げようと誰にも聞こえなかっただろうし、誰も聞こうとはしなかっただろう。
「別に屋内だって安全とは言い切れないからね…」
ベッドの下で震える子供の方を見る。私はそれらを見て聞いて触れるからこそ、私の世界にそれらを存在させる。私が彼らに触れられるように、彼らも私に触れられる。
他者よりも深く広い知覚能力というのは諸刃の剣だ。それは誰かが埋めた秘密をその故が善意か悪意かに依らず掘り起こしてしまう。
気付かなくても良いものに気付かせ、在りもしなかった問題やとっくに解決した筈だった物事にも容易く私は遭遇してしまう。常人には取るに足りない幻覚が紛れもない現実となるのだから致し方無い。
この街の夜は昼間には見えていなかった物事を人々に見せる。その結果の一例が昨晩の17人だ。
「……」
続く記事は市内で見つかった遺体について。
より正確には人体の一部だが、このところD市では毎週のように切断された人の手足が見つかっている。
先週は河川敷で左腕、先々週は右足がゴミ捨て場、そして今週は小学校の鶏小屋で左足。まるで誰かが人間で封印されし者をやっているかのような事件だった。来週は右腕だろう。
遺体に腐敗は無く、鮮やかに血すら滴っていたらしい。警察は未だ生存している被害者から生きながらに切断された可能性があるとして調査を続けている。
私は探偵モドキのような事をする時もあるが、世の中に大々的に秘密を明かす事はしない。ホームズはキャラではないし、私はどちらかと言えば闇に葬る側だ。
その上で一つコメントさせて貰うなら――
「猟奇殺人という物騒な落ち葉を有耶無耶にするのに、この街以上に適した森は無いかな」
色々と人間以外の問題に富むこの街ではあるけれど、元来人間は無害とは程遠い生き物だ。
時間はただ一定に、平穏も脅威も無く冷徹に流れていく。
顔を溶かしつつ生き永らえた男、失意の学生、空室の新しい入居者、切り落とされる右腕――。
全ての意志と行動は直接的か間接的かに依らず波紋を広げて時間と共に周囲へ伝播する。広範に拡散するに連れて矮小になりつつもその振動は世界を巡るだろう。
鳥の羽ばたき、人の呼吸、水の流れ―――そんな一見些細な波紋ですら世界を表す巨大な振動の一部になる。
概念としてはバタフライエフェクトに近い。世界に属する物事は世界を構成すると同時に、世界を動かし世界に動かされる。
「████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████」
外側から私を揺るがす波紋の種類は決して多い物ではない。
「……っ」
頭蓋に穴を開けられ、脳を直接啄まれた事はあるだろうか。今私が感じている感覚はそれに近い。
鋭く甲高い耳鳴りのような感覚。私は失ったという事実を認識するけれど、そうして落ちてしまったものをすぐに見つけて拾い上げた。指に同じく、喪失は私にとって観測領域の変化でしかない。
それでも、嗚呼、結果を見れば元通りだが………
そうして私はその振動に突き動かされるように立ち上がって部屋を出た。
どこか遠くで羽ばたきが聞こえる。眼の奥で重なる感覚は痛みにも似ていた。
ヒラタマンション1階、管理事務所の奥、そこにはマンション入居者も一般人も決して立ち入れないスペースが存在する。
強固な防音扉と壁により周囲から切り離されたその空間は監視室、マンション内の監視カメラの映像を集約し管理している部屋だった。
室内に設置された4枚の大型モニター、そこに分割表示されるマンション中の映像を交代を挟みながら24時間体制で見張るというのもマンション警備員の重要な業務である。
「ふわぁ…」
しかし何かあっても困るのだが、これと言って変化の無い画面を眺め続けるというのにも相当に体力を使う。
この監視業務は連続して2時間までと定められているが、現在の担当の彼が時計を見てみるとまだ開始から40分ほどしか経過していない。
だと言うのに既に警備員は結構疲れていた。気力がすり減って欠伸も漏れる。
最近はAIの導入で監視映像に異常が確認された場合自動でアラートが鳴るようになっているが、それでも万全を期する為に人の目でも確認する事になっている。
“もう全部AIにやらせた方が確実なのでは?”という職務に対する微かな疑念もまた警備員の気力を余計に目減りさせていた。
「……お?」
ヒラタマンションでは玄関の外に出てくる居住者というのは本当に少ない。いないと言い切ってしまっても良い。新しく入居者が現れても一週間もすれば完全な引き籠りになる。
そのせいで齎される変化しようのない絵面もまたこの業務のつまらなさを助長していたが、逆に言えば些細なものであれ変化が起きると一気に気力が回復する。
警備員が注目したマンション5階廊下の監視カメラ映像、そこには人影があった。
黒く長い髪、白い肌、鈍色の瞳、灰色のトレンチコート―――総じてモノトーンで構成された無彩色の外見。痩せてはいるが容姿の整ったその人物は507号室の住人だ。
同時にマンションの管理体制が現在の物となってから退去や失踪する事無く、今日まで平穏無事に過ごして来た最古参の居住者でもある。
無意識に――というより他に見る物が無いため――警備員はその姿をカメラの中で追っていた。
コート姿の住民は階段を下っていく。カメラを切り替えつつその様子を観察していた警備員が目にしたのは、ちょうど4階の踊り場へ降りようとする住民の姿。
「…えっ」
そして全ては唐突だった。
「っ!?」
自動検知AIが鳴らすアラートに我に返り、たった今見た映像を巻き戻して何度も見返す。
コートの住民が4階へ下る最後の階段を踏んで一歩踏み出す姿を何度も、同じ場面を撮影しているカメラ映像を巻き戻して別角度からも確認する。
間違いない。機材の故障ではない。
「
一本道、何処にも隠れる場所などない階段と踊り場の境界で住民の姿は幻だったかのように消えて無くなり、戻る事はない。
「――すぐに報告をっ!!!」
動揺しつつもマニュアルに沿ってその非日常に対応しようとした警備員、
そんな彼の耳に、聞き知らない男性の声が届く。機械を通した、マイクを介した若干の変調。それは未だに各階の監視カメラ映像を流し続けるモニターのスピーカーから零れていた。
「……」
動きが止まる。自動検知AIは何も言っていない。脅威ではない筈だ。――だが、何故か本能からモニターの方を振り向くのを躊躇った。
「っ!!」
けれど最後にはそこにある“何か”を見過ごす事の方が恐ろしくなり勢いよく警備員は振り返った。
「あ……」
『やっぱり聞こえてましたね。見てくれてありがとう』
それは5階廊下を映したカメラ映像、さっき507の住民を観察していた際には他の誰の姿もなかった筈の場所。
「逃げ」
『私は原敬草摩です』
白いTシャツに藍色のジーンズを履いた中年の男が廊下の半ばに立ち、画面越しにはっきりと警備員と目を合わせた。
即座に逃走を選択した彼は出入口の解錠キーを打ち込み、そして―――
キィと微かに軋んだ音を立てて、空っぽの監視室の扉が独りでに開いた。
監視室の扉は5分以上開放状態を維持すると自動で警報装置が作動する。他の警備員がその場に駆け付けた時、監視室の中に侵入・滞在の痕跡は一切無かった。
より綿密に確認すると扉の電子ロックは誰の干渉も無いままに独りでに解除されていた事が分かった。
―――“そういう事もあるのだろう”
最初は誰もがその程度の認識だった。ヒラタマンションで説明の付かない出来事が起きる事は珍しくなく、慣れによる弊害がそこに現れていた。
だがすぐにそうでない事が分かった。
監視室の勤務シフトは24時間隙間なく詰められている。交代の際には対面で直接会って引き継ぎを行う。極論この監視室が無人になる瞬間は無い。
だが現実として監視室は空だった。午前7時~9時までを対応していた警備員は続く9時~11時を誰に引き継いだのか言えなかった。引き継いだかどうかさえ曖昧だった。
そして勤務シフト管理表にも午前9時~11時と午後3時~5時の監視業務担当者の記載が無く、そもそも人員が配置されていなかった事が判明した。そしてその全ての状況が今の今まで見過ごされていた。
彼らの記憶と外部の記録は完全な一致を見せている。その中に隠されるでもなく放置されていた異常事態に対して、従業員たちは今この瞬間まで違和感を抱けなかった。
それは明らかに普通のミスでは有り得ない。そして嫌な既視感のある現象でもあった。
「これって―――」
誰かがその思考を言葉にしてしまう寸前、全員の業務携帯に彼らの上司からのメッセージが送り込まれた。
本件は“特殊消失事案”に認定されました。以後の調査、捜索は行われません。
全職員は対応チームの指示に従って下さい。
貴方方がそれ以上の事を知る必要はありません。
不必要な詮索は業務規約に基づき処罰の対象となります。