Vol.005|高度に発達した合理性は優しさと区別がつかない
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
一人称どうすべきか問題
これまで長きにわたって文筆を続けてきて、ずっと悩んでいることの一つに「一人称どうべきか問題」がある。
文筆以外のシーンでは、これといって悩むことはない。たとえばお堅めのビジネスシーンであれば「私」を用いるし、それほどお堅くないビジネスシーンかつ、特に相手が年上の場合は「僕」を併用する。シーン問わずある程度のくだけた関係性が築けているのであれば「俺」を用いる。あとはまれにメタ認知を強調する際は「自分」を用いるぐらいで、それらの使い分けに悩むようなことはほぼないかと思う。
ただ、これが文筆となってくると、話は変わってくる。若かりし頃は文筆でも一貫して「僕」を用いており、普段用いている「俺」とのギャップを多少感じつつも、目上のパイセンとかにも用いるわけだし、まあええかの精神で乗り切っていた。
けれども、あれから歳を重ねて、そろそろ中年に差しかかろうしている今となっては、もはや「僕」から放たれる幼稚臭さに耐えることは不可能である。よって「僕」は選択肢から排除される。
では、今でも普段から用いている「俺」はどうだろうか。文体を尖らせるという意味では、ありっちゃありなのかもしれない。が、文字に起こすと輪をかけて無礼な感じがして、どうしても違和感が拭いきれない。ラッパーかよ。ロックミュージシャンかよと。知り合いのみが読むのならいざ知らず、不特定多数が読むかもしれないプラットフォームに投稿する際に、やはり「俺」はふさわしくないだろう。というわけで「俺」も選択肢から排除。
大丈夫、まだわれわれには心強いあいつが残されている。一人称界のリーサルウェポンこと「私」である。初期の刃牙で言うところの愚地克巳ポジションにいるあいつだ。そこ、じゃあ微妙ではとか言わないように。誰がなんと言おうが、ダッシュで逃げ回ってからの闘技場のへりを利用した頭突きが愚地克巳の最大のハイライトである。異論は認めない。マッハ突きなんてなかった。
……盛大に脱線してしまった。これだから刃牙は困るんだ。無限に語りたいことが湧いてきてしまう。もうキャラ立ちとかいうそういう次元じゃないんよ。刃牙はわれわれに教えてくれる。本当にいい漫画には脇役など存在しえないことを。それゆえこのまま刃牙を語り散らかしても、それこそわたしは一向にかまわんッッのだけど、さすがにそれはフリースタイル文筆がすぎるので、ここらで話を戻すとしよう。
ともかく「私」ならばフォーマルな表現だし、性別問わずに用いることができる。先に挙げた「僕」や「俺」に比べると、格段に違和感は少ないといえる。
しかしながら、格段に少なくなったとはいえ、かすかにまだ違和感がある。違和感の正体を注意深く探っていくと、まさにそのフォーマルさにこそ違和感の源泉があることに気付く。
というのも、ご覧のとおりフォーマルとは無縁の文筆スタイルなので、どうしても「いや、かしこまるほどの文筆かよ」のセルフツッコミが抑えきれないのである。幼少の頃から病弱さと繊細さに振り回され続けた結果、誰に頼まれずとも絶えずセルフツッコミを繰り返す、悲しきメタ認知モンスターがここに爆誕してしまった。これが本当のメタモンである。
ここまで書いていて気付いた。おそらく文筆においては、一人称がもつ〝感じ〟が増幅されるんだな。「僕」がもつ幼稚臭さ、「俺」がもつ無礼さ、「私」がもつフォーマルさ、それぞれの一人称がもつ〝感じ〟が増幅される。そういう文筆特有の作用があって、文筆においてのみ一人称に悩むのかもしれない。
そんなことをあれこれ考えながら、最終的に候補として残ったのは「筆者」もしくは「自分」の二つで、「筆者」の場合は先述したセルフツッコミがそっくりそのまま適用されるので、今は「自分」を用いることにしている。自分の場合、自己との距離感が平均的な水準に比して、はるかに離れている自覚があるので、「自分」の一人称がもつメタ認知の〝感じ〟が増幅されても、そこまで違和感なく用いることができる。
こんな風に自分自身を指す一人称として用いる場合は「自分」、客体としての自分を指す場合は「自己」と使い分けることで、自分渋滞問題についても今のところ回避できている。
ちなみに関西圏では、相手のことを自分と表現する場合がある。「自分、そんなことしてたらあかんのとちゃうん」のように。自分も関西圏出身なので、こうした言い回しは日常的に用いてきたが、よくよく考えると変な言い回しだなと思う。相手のことを自分と呼ぶてなんやねん。こんなにも初手で間違うことある?もう対象を合わせにいく気すらないやん。相手は相手、自分は自分やろがい。
ところが、これはこれで微妙な距離感を表現したい時に、便利な言い回しなのである。「お前」では近すぎるし、「あなた」では遠すぎる、そんな微妙な距離感で物言う際に重宝したりする。いかにも関西人らしい配慮というかなんというか、やはりその文化が残ってきたのには、それ相応の理由があるものだ。
AIオナニー
昨今、猛威を振るいつつあるディープフェイクポルノの話がしたいわけではなくて。それはそれで興味深い潮流ではある。われわれの技術はいつだってエロに支えられてきたのだから(俗説寄りの極論)。ただ、今回したいのはまた違った切り口の話で、もっと精神的な側面が強い。
ここ最近、文章を読んでいて「ああ、こいつAIでシコってんな~」と感じることが多くなった。
AIオナニーには、いくつかパターンがある。たとえば生成AIを用いて、とても自分だけじゃ書けないような、やたらと小難しい言い回しが多用された文章を、まるで自分が書いたかのように投稿する、なんてのは典型的なAIオナニーの一種である。
そんなものは読む人が読めば、さも高尚そうに見せかけているだけで、その実、ぺらっぺらの実存なき文章であることは一発で見抜けるのだけど、彼らにはそれがわからない。精神的に未熟な彼らには、それが恥ずべき行為であることがわからないのである。AIオナニーで気持ちよくなることしか頭にない。そんな人間から吐き出される文章に、読む価値などないことは論をまたないであろう。
生成AIを用いていることを公言していたとしても、AIオナニーは成立しうる。たとえば「生成AIとこんな議論をしたので共有します」パターンがそれだ。基本的にこれは悪手だと思ったほうがいい。やるならよほど部分的かつ自然な流れで取り入れるか、それができないならあくまで議論の末に至った洞察を、自分の言葉でまとめるべきである。たとえそれがどんなに拙いものであったとしても。
なぜか。生成AIによって出力された文章には、否応なく自意識が反映されるからだ。当たり前といえば当たり前である。問いを投げかけているのは自分自身で、その問いをもとにそれらしく答えるのが生成AIなのだから。よって、生成AIとの議論にはどうしてもその人の「こう見られたい」が反映されてしまう。「こう見られたい」自分を恥も外聞もなく公開し、一人悦に浸るのをAIオナニーと呼ばずしてなんと呼ぶのか、という話である。
大量に文章を読み込み、多くの実存と触れてきた人間であれば、絶対にその自意識漏れを見抜く。「なーにが有益な議論になったので共有しますだよ。自意識漏れてんぞ、精神パンパースはいて出直してこい」と、もうその瞬間に書き手としての力量が、ひいては人間存在としてのセンスそのものを見限られてしまう。
もちろんここまで言うぐらいだから、自分はあくまで自分自身の言葉で書いている。前提としている知識が正確かどうかをチェックしたり、たどりついた洞察をよりブラッシュアップさせるために、生成AIを用いることはよくある。し、自己理解を深めることを目的とした対話なんかもよくやっているが、生成AIが吐き出した文章をそのまま転載するようなことは一切ない。
生成AIを用いていくらでも流暢な文章が書けるこんな時代だからこそ、自分は「魂で書く」ことを大切にしている。尖ることを、歪むことを、逸れることを恐れずに、いついかなる時も文筆と本音で向き合うと、そう固く心に誓っている。
そして、それこそが生成AIには模倣できない人間が書く意味であり、価値であると信じている。
高度に発達した合理性は優しさと区別がつかない
もはやいたるところで擦られすぎて、クリシェ化している感は否めないので、説明するのも無粋というものではあるのだけれど、元ネタはご存知SF作家アーサー.C.クラークの「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」である。
文脈として必要なので、隙自語をさせてほしい。自分はよく優しい人と評される。特に知り合って間もない頃だと、まず間違いなくそういった方向性の印象をもたれる。それ自体は歓迎すべきことで、プラス属性の第一印象バフをまとうことによって、その後の展開が有利に働くことも少なくない。
ところが、いまひとつ自分にはこれがピンときていないのが本音で。というのも、当人の意識としては優しい人であろうなんてこれっぽっちも思っていないし、この人に優しくしようともまったく思っていないのである。
なぜこのような認識のギャップが生まれるのかを考えていて、仮説として浮かんだのが「高度に発達した合理性は優しさと区別がつかない」だった。優しい人間である自信はないものの、合理的な人間である自信はあるので、自分としてはこちらのほうがよほど納得感が強い説明である。
とはいえ、いかんせん抽象的すぎて、これを説明するのはとても難しい。さて、どういえば伝わるだろうか。
たとえば誰かといっしょに何かしらのビジネスをやることになったとする。そのビジネスパートナーが隙だらけで、やろうと思えばいくらでもカモれるような人だったとしよう。そもそもそんな愚鈍な人間と組んでどうすんだ問題は一旦脇に置くとして、それでも自分は絶対に詐欺を働かない。これはその人の立場になって思いやっているわけではなく、あくまでそのほうが合理的だからである。
仮に詐欺を働いて短期的に幾ばくかの金銭を得たところで、まったく持続可能性はないし、その人だけでなくあらゆる方面で信用を失う可能性が高い。当然ながら法的リスクもつきまとう。懲役に処されようものなら、お金よりもはるかに価値のある時間を失うことになる。
これより先は信仰の領域だけれども、もっといえばたとえそれらの社会的リスクがすべて払拭されたとて、そもそもわれわれが生きるこの世界システムは、そういう利己主義的な生き方が適合するようにはできていない。だからこそ、お互いがwin-winになる道を懸命に探ろうとする。なぜなら、そのほうが世界システムに沿っていて合理的だから。
つまり、自分はあくまですべてを構造的に捉えていて、その構造に適合するほうが自分も他者も幸福になることがわかっているからこそ、わざわざ詐欺なんて非合理な真似はしないだけなのである。倫理的にどうだとか、感情的にどうだとかいうよりも、あくまで構造的にアプローチしようとする。
そうして構造に適合することを「合理的」と表現しているわけで、合理性を突き詰めた生き方をしていると、結果的に他者のことを慮り、万人の幸福を願う優しい人として映るんじゃなかろうか、という仮説である。
実際に自分のことをよく知ってくれている人には、「優しいのに厳しい人」や「熱いのに冷たい人」といったように、極端な二面性を抱えて生きている人という印象をもたれている。これは自分がこれまで述べてきたような構造的アプローチをとるがゆえに、抱えている二面性なのだと思う。
とはいえ、そう映るであろうことを理解しているだけで、自分としては別にそれらが矛盾しているわけでもない。あまりにも極端なので、はじめてその両面に触れた人は驚き戸惑うものの、自分の中では別に二面性を抱えていると認識しているわけではなく、あくまでそれらは「構造への適合(合理性)」という一つの要素でまとまっている。
生来のASD傾向もまたそうした構造的アプローチを助長しているように思われる。幼少期を振り返ってみると、自閉的ですぐに自分の世界に閉じこもるような子どもだった。表情に乏しく、何かとこだわりが強かった。空気を読まなければいけない集団行動が苦手で、いつも感覚過敏に振り回されていた。
診断を受けたことはないが、まず間違いなくASD傾向があるのだろう。スペクトラムな概念なので、それがどの程度のレベルにあるのかはわからないが。
けれども、今となってはどうだろうか。もちろんそれらの傾向は今でも根強く残ってはいるものの、それでもコミュニケーションが上手だと評されることのほうが圧倒的に多くなった。長年をかけて何度も転んで傷だらけになりながら、社会で行われているコミュニケーション構造を学習して適応したからだ。
ASD傾向のある人間は、空気が読めないとよく言われる。結果、集団から排斥されてしまい、そのまま社不詰みルートへと分岐してしまいがちだが、自分に言わせればそんなのは単なる学習不足でしかない。ぐだぐだと社会に恨みつらみを言ってる暇があったら、もっと転びまくって死ぬ気で社会アルゴリズムを学習したらどうだと。
これは持論だが、高度に学習したASDは誰よりも空気が読める。実際には空気を読んでいるわけではなく、あくまでパターン学習による推察にすぎないのだけど、そんなことは他人にはわかりはしないし、空気などという曖昧模糊としたものを読もうするよりも、パターン学習による推察のほうがより確度の高いコミュニケーションがとれる。学習が進めば進むほどにその精度も上がっていく。
ASD傾向のある人間が、往々にして有している鋭い観察眼も強力な武器になる。その鋭い観察眼をもってすれば、表情や口調のわずかな変化に気づくこともたやすい。問題はその変化が指し示している意味がわからないことだ。何を指し示していて、どう対応するのが最適解なのか、これらはほぼパターン化できる。想像だにしなかった反応を示す人なんて、世の中そうそういやしないのだから。


