Vol.027|らしさでまとう引力と斥力
『MONOLOGUE』は、エッセイのようでいてコラムのようでもある、そんな型に囚われない備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を、毎回3本まとめてお届けするマガジンです。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
自己への服従
本マガジン『MONOLOGUE』では、これまで折に触れて〝らしさ〟の重要性を訴えかけてきた。らしくあれ、それこそが自分だけでなく周囲をも幸福へと導く唯一にして最大の道なのだと。
何度引用してもしたりない言葉の一つ、米国の思想家エマーソンの「絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。それがもっとも素晴らしい偉業である」は、けだし名言である。所詮、自己から目を背けて為せることなど、たかがしれているのだから。
この有為転変の世界において、変わらないものとは何なのか。我思うゆえに我あり、すなわち自己そのものである。たとえ他の誰もがあなたのそばを離れようとも、自己だけは常にあなたと共にある。自己だけは絶対にあなたを裏切らない。自己を裏切るのはいつだってあなたのほうだ。
「自分らしくある」というと、どうにも安っぽい自己啓発上がりの印象を拭いきれないかもしれない。が、実は近代哲学の祖カントすらも似たようなことを説いている。カントの場合はもっと厳格で、カントは「自己へと服従せよ」という。be yourselfではなくobey yourself。服従という表現を用いるのは、いかにも規律を重んじるカントらしい。
われわれはすぐに自己から目を背けてしまうが、強い意志をもって自己へと服従せねばならないのである。いかなる世俗的権威にも服従してはならない。ただ自己のみに服従するのだ。それこそが宇宙最大の権威、すなわち神へと服従することにも繋がる。なぜなら、自己の深い部分は神へと通じているからだ。権威への服従はすべて誤りである。唯一、神を除いては、だが。
この「自己の深い部分は神へと通ずる」というのは、自分にとっては馴染みが深すぎて、もはや周知の事実といって差し支えないほど当たり前の感覚なのだけど、おそらく多くの人はピンときていないものと思われる。現状、ピンときているかどうかはさておき、なにも自分はとち狂って突飛な説を唱えているわけじゃないことだけは、知っておいてもらいたい。
たとえばインド哲学には「梵我一如」という思想がある。これは「梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)」と「我(アートマン:個人を支配する原理)」が同一であるとするものだ。
西洋においても、マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人体)の照応は、伝統的に説かれてきた。ヘルメス文書の一つエメラルド・タブレットに刻まれた「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし」という文章は、まさにこのマクロコスモスとミクロコスモスの照応を的確に表現している。
それこそ冒頭で引いたエマーソンもそう。エマーソンの思想的立場は超越主義(Transcendentalism)と呼ばれ、人はみな神聖な火花を内に宿していると説く。神は遠い存在ではなく、人間の直観・良心・創造性として働く内的原理であると考える。つまり、エマーソンもまた自己の深い部分は神に通ずると考えたわけだ。
近代科学の発展にともなって、こうした教説は単なるオカルトと切り捨てられ、人々から忘れ去られてしまったが、自分はまぎれもなく真実なのだと、そう捉えている。
自信の正体
「自分に自信がないんです」と悩む人は思いのほか多い。自信満々に振る舞う人を見ていると、あんな風に生きれたらと思う気持ちもまあわからなくはない。
しかしながら、みんな本当に自信とは何なのかをわかっているのだろうか。自分が見るに、真に自信のある人なんてそうそういやしない。世の自信満々風の人たちというのは、自分に言わせれば単なる勘違いである。その自信を支える根拠が吹き飛べば、脆くも崩れ去る儚い幻想でしかない。
なぜ勘違いだと言い切れるのかというと、真の自信をまとうためには、前項で述べたような自己と世界の照応を悟っていなければならないからだ。世の自信満々風の人たちが、それを悟っているとはとても思えない。
よく自信をつけるためには、成功体験を積み重ねなさいと言われる。これはもっともらしく思えるが、実は真の自信とは本質的に関係がない。
たとえばなんでもいいのだけど、起業してIPOなりM&Aなりでイグジットしたとしようか。間違いなく強烈な成功体験である。何かと経営者界隈が幅を利かせている昨今の社会情勢においてはなおさらそう。周囲もちやほやするだろうし、当人も一見すると自信があるように見えるだろう。
が、その自信はあくまで起業ないし経営の領域に限った話であって、一度も弾いたことのないピアノの演奏会においては何の役にも立たない。さらに言えば、起業ないし経営の領域に限っても、その後に手痛い失敗をして莫大な借金を背負おうものなら、その自信はたやすく吹き飛ぶだろう。何かしらの根拠ありきの自信とは、それぐらい限定的で脆いものなのだ。
多くの人が勘違いしているが、自信とは読んで字のごとく自分を信じること……ではない。真善美に満ち満ちたこの世界を受け入れることだ。世界を受け入れることで、世界を信じることができるようになる。そして、世界を信じることができるからこそ、その世界と照応している自己をも信頼することができる。自分という存在がこの世界から無条件に肯定されていることが、直観的に理解されるのである。
無条件の存在肯定による自信は、何よりも美しく、そして強い。これこそが真の自信であり、決して崩れることがないのは、そもそも根拠を必要としていないからだ。根拠がないのだから、崩れようがないのである。
らしさでまとう引力と斥力
ここで〝らしさ〟に話を戻そう。らしさには興味深い性質がある。らしさが発揮されればされるほどに、引力と斥力をまとうのである。ある種の磁場がその人を中心として形成される。
どういうことかというと、たとえば人間関係で考えればわかりやすい。らしさが発揮されていないうちは、引力も斥力もろくに働かないので、出会うべき人とは一向に出会うこともできず、自分と合わない人たちに囲まれ、周囲のご機嫌を伺って生きることになる。そのような生き方は不自然極まりないので、常にエネルギーは枯渇気味で、遅かれ早かれ精神を病んで人生が停滞してしまう。
他ならぬ自分自身がそうだった。今でこそご覧の有様だが、若かりし頃は常に自分を押し殺し、ひたすら周囲に合わせてなんとか日々をやり過ごしていた。自分が周囲に馴染めているかがいつも不安で、本来はらしさを発揮して自分が磁場とならなければいけないところを、らしさを抑制することで絶えず他者の未熟な磁場に絡めとられてしまっていた。
そしてある時、とうとう張り詰めていた糸がプツンと切れてしまい、誰も俺に触れてくれるなと言わんばかりに、物理的にも精神的にもひきこもった。
今振り返ってみると、あの時期は言わば再生の儀式とも呼ぶべきもので、自分にとっては必要なプロセスだったとわかるのだけど、現実問題としてその状態から這い上がるためには、長い時間と大変な労力を要した。そうした時代を経ているからこそ、誰よりもらしさの発揮の大切さが身に染みてわかっているし、誰よりもらしさの発揮にこだわるのである。
らしさが発揮されるにつれて、そのらしさの発揮に見合った人を引き寄せるようになる。ますますらしさを発揮していく上で、今の自分が出会うべき人と出会えるようになっていく。同時にらしさの発揮を阻害するような人は、自然と自分から離れていくようになる。こちらも近づかないし、相手からも近づいてこなくなる。
このようにらしさが発揮されるにつれて、それだけ強くはっきりと引力と斥力が働く。以前『人間関係の定期リセットは当たり前』のテーマで一本書いたことがあるが、これも今回の話と密接に関わっている。らしさを発揮していく過程で、その時その時に形成される磁場によって、自然と何度も人間関係はリセットされていくわけだ。
ちなみにこれはちょっとした余談だけど、世間で言われているところの「引き寄せの法則」の正体とは、このらしさでまとう引力と斥力に他ならない。らしさでまとう引力と斥力は、人間関係に限らずすべての領域で働く。それゆえ現実創造にもダイレクトに関わってくる。にもかかわらず、この文脈で説明できている人は、自分が知るかぎり皆無である。
正確に説明できる人がほぼいないので、多くの人はいかに脳を騙すか、いかに宇宙にオーダーするかみたいな、的外れなことを一生懸命やっている。当然ながらそんな的外れなことをやっていても、現実は一ミリも変わらないので、遅かれ早かれ疲弊して引き寄せの法則なんて嘘っぱちだと、界隈に背を向けることになる。
いい機会だからはっきり言っておくと、引き寄せの法則は真実である。ただし、世の多くの人が勘違いしているように、「使う」ようなものではない。今の自分がまとっている引力と斥力によって、引き寄せられる事象は自然と決まってくるからだ。つまり、引き寄せの法則とは結果論なのである。自分好みの未来をたぐりよせる方法論ではなく、過去の轍からそのたしかな働きを見いだす結果論。
よって、引き寄せの法則を「使う」ことはできない。その恩恵を受けたければ、引き寄せの法則なんてものは忘れて、今より一歩でもらしさを発揮できるよう生きることだ。そうすれば自分にとって必要なものは、自然とすべて引き寄せられる。


