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最終解脱を達成する方法はふたつあります。


ひとつは麻原が弟子達に課したヴァジラヤーナによる方法。


この方法は酷いもので、関わりあった人間は問答無用でその流れの中に巻き込まれます。


この方法による最終解脱の達成は死後ということになります。



もうひとつの方法が弟子達ではなく、麻原本人が実践した方法。


こちらはヴァジラヤーナではありません。


当たり前のことですが、出家する必要すらありません。


そしてこのヴァジラヤーナではない方法が、弟子達が死後実践しなければならない修行となっています。


まあ、死んでからではなく、生きているうちに教わっておいたほうがいいかなとは思いますね。




それにしても不思議なものです。


なぜ麻原は僕に最終解脱する為の方法を伝えたんでしょうね?


誰か他にいなかったんでしょうか。(笑)



あるとき、麻原から電話がかかってきて、まあ特にどうということはない話をした後に、麻原から「今生、とりあえず最終解脱しろよ。」と言われました。


いやあ、びっくりしましたねえ。


それで、せっかくなので、どうすれば最終解脱出来るのかを聞いたわけです。


麻原はあっさりと答えてくれました。


それが麻原が実践した方法ということですね。

サマディに入るとどうなるのかを説明するのは難しいですね。


一言で言ってしまうと体験が消えるということになると思います。



それだけでなく、時間も消失してしまうようです。


僕自身サマディについてはほとんど経験がないので上手く説明できませんが、もしかしたら時間だけでなく空間も消えているのかもしれません。


しかし、空間が消えることでその空間の中にある自分の身体も感覚も消えてしまうために、空間が消えたことを知覚出来ない。


そんな感じです。



意識ははっきりしているのに、時間の経過が明らかにおかしい。


そして、時間の経過の不自然さはサマディから出た後でなければ分からない。



麻原は最低でも6時間はサマディに入れるようにしろと言っていたと思いますが、そのサマディについては導かれるものだと言っています。


自分の努力だけではサマディには入れない。


だからこそ、シヴァ大神に「御身の祝福をお与えください。」と祈る。



しかし、困りますよねえ。


この先はまだオウムの教義では説かれていないんですよねえ。


インドではグル探しを熱心に行うというのは、この先の答えを求めているということなのではないかなと思います。


まあ、一般的な日本人としては、ぼちぼちやっていくしかないかなという感じです。

オウムの修行で目指しているのが連続するサマディなので本来なら最終解脱だけがあればいいのですが、それだと目標が遠くにありすぎるために便宜的に近くの目標を設定したのが解脱と呼ばれる状態です。


これは一時的なサマディの状態を経験することで、そのための方法がラージャヨーガ、クンダリニーヨーガ、ジュニアーナヨーガの3種類です。


この3つの方法はどれを選んでもよく、結果に大差はありません、


オウムの教義では、一応グルが弟子に適した方法を選ぶことになっています。



ステージ順で見ればこの3つには差があるのですが、それは方便の部分であり教義においては差がありません。


ジュニアーナヨーガの代わりのマハームドラーというステージがありますが、これも方便です。



成就の全体の構造としては、クンダリニーヨーガの完成が大乗のヨーガの成就。


大乗のヨーガの完成が完全解脱の成就です。


麻原が言っていたのは、自分は最終解脱はしているがまだ大乗のヨーガの完成はしておらず、自分の修行はまだ途中であるということです。



サマディに関しては説法で語られることはほとんどありませんでした。


これについては麻原は、「君達のステージが低いままだから、法則を語りたくても語れない。」と言っていましたね。


それと、「私はまだ法則の半分も説いていない。」とも言っていました。



まあ、たしかにアストラルヨーガについてもコーザルヨーガについても、話は出ませんでしたからね。

あ~、書いててなんか懐かしいです。


「最終解脱の向こうへ」というのは本のタイトルです。


僕なりにオウムのことをまとめた内容の本が出せないかなと、考えていた時期がありましてね。


そのときに思いついたのがこのタイトルです。


まあ、結果的にそういうチャンスは巡って来なかったというわけですが、本だの実録ドラマだとになると制作者側の偏見で事実を捻じ曲げられてしまいますからね。


あくまでも淡々とブログを書いていくのがいいのかなと思います。



最終解脱の向こうというのは完全解脱のことを指しているわけですが、麻原の目指していたことが自身の完全解脱であり、そのために様々な事件を起こす必要があったということですね。


最終解脱で終わりなのではなく、まだその先がある。


まだ、その向こう側があるんだぞ、ということでこのタイトルにしたわけです。


自分ではこのタイトルをかなり気に入っているんですが、どうやらお蔵入りになりそうです。(笑)



オウムの教義において、解脱とは真我独存の事を指します。


その状態がサマディに入っているということであり、それぞれのサマディに対応した世界というものがあります。


解脱には三つの段階があり、それは解脱、最終解脱、完全解脱と呼ばれます。



解脱とは一時的なサマディであり、サヴィカルパサマディと呼ばれており、対応する世界はニルヴァーナです。


最終解脱とはサマディが連続する状態であり、ニルヴィカルパサマディと呼ばれています。


対応する世界は、マハーニルヴァーナです。


完全解脱とは、解脱と最終解脱が意識的であり努力をする必要があるのに対して、生まれながらに無意識にサマディが連続する状態を言います。


したがって、麻原は今生完全解脱を達成することは出来ず、死後それを達成することになります。


完全解脱に対応するサマディに名前は無く、対応する世界はマハーボーディニルヴァーナです。

オウムの教義の基本は、それがオリジナルだということですね。


名前をつけるなら麻原教とでもいうべきものです。



ヨーガや仏教、その他もろもろで使われる言葉が引用されてはいますが、基本的には麻原教とは関係が有りません。


例えば、ポアやヴァジラヤーナという言葉だけをとっても、麻原教と一般的な意味は違っています。


だから、教義を理解する上で必要なことは、麻原教での意味を知っておくことですね。



それともうひとつ重要なことが、オウムの教義にはその本体というべき部分と、カモフラージュのための方便の部分があります。


まあ、ここでいう方便もすでに一般的な意味と違ってしまっていますが。(笑)



オウムの教義をまったくか、あるいはほとんど知らない人は何も感じないと思いますが、ある程度オウムの教義の知識がある人は教義が(というか、教義に見える部分がということですが)矛盾していることに気づくと思います。


これは当然のことで、本体と方便が混在しているからです。


したがって、オウムの教義がどういうものかを理解するためには、どれが本体でどれが方便かを分類しなければならないということになります。



そして、その分類の仕方は人それぞれです。


多分、麻原ならこう言うでしょうね。


「それぞれの弟子達が、それぞれのカルマによって、それぞれの理解をする。」


「そして、それぞれの結果を得る。」



このブログでは、もちろん僕のブログなので、僕の個人的な理解ということになります。


まあ、僕の考え方に同意する人は少ないだろうなと思います。


人間というものは、結局自分の信じたいものしか信じないですからね。