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法友(とも)へ

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詳しいことは知らないが、宗教法人の認証を受けるためには真理教に名前を変更しただけではダメで、活動実態やその他の用件が必要なのだろうと思う。


そのための拠点をどこに置くのかということになるのだが、それは富士山総本部道場でもなければ、世田谷の東京本部でもなく、なぜか亀戸だった。


土地と建物を取得しなければならないのだが、当然どこへ行ってもオウムだとばれたら売ってはもらえない。


そこで麻原はこの件に関する適任者を送り込むのだ。



このころ僕は出家してしばらく経った頃だった。


食事をしようと思って食堂へ行ったら、知り合いのサマナがテーブルについたまま、食事もとらずになんだかため息をついていた。


当時は法務部があったのかどうか分からないが、このサマナは信徒時代からの知り合いで、不動産の売買や登記に詳しかった。



話を聞いてみると、売買契約書を交わしに大内と一緒に亀戸へいったらしいのだが、「大師は凄い。自分は絶対あんな風にはなれない。」と言ってうなだれていた。


相手側は初めからオウムだと疑っており、最後の最後まで半信半疑だったらしい。


それで、最後に「あんた達、ほんとにオウムじゃないんだよね?」と念を押した。



それに対して大内は、驚いたように「なんですか、そりゃあ?」と答えたと言うのだ。


そのサマナは一瞬、大内が本当にオウムを知らないように見えたという。


オウムの人間がオウムを知らないはずはないのだが、サマナさえも錯覚する大内の見事な嘘。


これは上祐の理屈っぽい嘘とも井上のうさんくさい嘘とも違う、あまりにも爽やかな嘘。



まったく見事という他はない。


そして、麻原の人選もまた、見事という他がなかった。

個人的にはあまり興味のない内容なので記憶が曖昧なのだが、一応時系列で思いつくままに書いていきたい。



オウムは仏教の皮を被ったヨーガ団体である。


仏教は方便に過ぎず、麻原はただ仏教の解釈を行ったに過ぎない。


したがって、どこが方便でどこが教義なのか判断して、自分でもう一度組み立てなおす必要があるということはこのブログで今までに何度も書いてきた。


方便を教義だと思い込んでいるのは、麻原にマインドコントロールされているのに過ぎない。



僕がまだ信徒の頃だったように記憶しているが、麻原が説法で税務署が教団の帳簿を見に来たときの話をしていた。


税務署の職員が帳簿を見て「あれ?社長さんの給料がありませんね。」と言ったという。


それに対して麻原は「はい、私は給料をもらっていないんです。」と答えたということだった。



当時はまだ会社組織であり、麻原は社長ということになっていたと思う。


まあ、給料をもらっていないのは当然のことである。


なぜなら、オウムに入ってくる金は全額麻原のものであり、給料をもらう必要もなくすべて自由に使えるからだ。



で、麻原は給料をもらっていないことについて、信徒の皆さんのお布施を有効に使っているのだと言っていた。


そして、これが宗教法人になると、布施による功徳が無駄にならずにすむという話だった。



実は神仙の会から真理教になる時に、信徒の間でもかなりの人が反対しており、宗教になるのならやめるという人もかなりいた。


そこでの麻原の説明は、真理教になっても中身は今までと変わらないよ、今までどおりヨーガの修行をやるよというものだった。


これは考えてみれば当たり前のことで、真理教になった後もヴァヤヴィヤだのツァンダリーだのはそのまま継続されていくのである。

ニュースを見ていて、そういえば中華街に麻原のなじみの店があったなあ、と思って懐かしくなった。


これがその店、東光飯店。

http://r.gnavi.co.jp/g374500/


たしか、通りの向かい側は警察署。(笑)



奥の右側の丸テーブルの壁に背を向けて座るのが麻原の定位置だった。


その周りを正大師、正悟師が固め、隣のテーブルに師とその他のサマナたちが座った。



麻原は基本的に好き嫌いせずになんでも食べる。(笑)


なかでも外せないのが蟹玉だったように思う。



ある時、どういういきさつだったかは忘れたが、店主と話をする機会があった。


その店主が片方の目が見えないと言ったのを聞いた麻原が、「クリシュナナンダ、見てやってくれ。」と言った。


林 郁夫は、なんだか乗り気のしない感じで見ていたけど、当然だよねえ。


眼科じゃないもんねえ、専門は心臓外科だよねえ。



一応、軽く見るだけ見て、「治りません。」と麻原に報告していたけど。


これも当然。


店主が言うには、蓄膿の手術をした時に誤って目の神経を切ってしまったとの事。


誰が考えても治らないでしょそれは。



しかし、こんなことを書くと、次の休みには東光飯店は、元サマナとオウマーで賑わってしまうのではないでしょうか!

真我とは何かと問われたら、それは真我であるとしか答えようがない。


前回は数学の話だったので少し分かりにくかったかもしれないので、別の例で説明してみよう。



西村さんは誰ですか?


真我とは何か?というのはこれと同じような質問である。


無我とか非我というのは、西村さんは細川さんですか?


とか、西村さんはしるねこさんですか?というのと同じである。


西村さんは西村さんであり、細川さんでもしるねこさんでもない。



これを麻原ならこのように言うのだ。


新人類は、さとしでもメンヘラでもない!ニポポだ!



なぜこんな迷妄の中へ入り込んでしまうのかと言えば、それは問いが間違っているからである。


真我とは何かを知りたいのであれば、真我とは何かを問うのではなく、真我とは何かを知るためにどうすればいいのかを問うべきなのだ。


すなわち、何を実践するのか?である。



麻原は心の働きが全てであると言っていた。


その心の働きを、真我とは何かではなく、真我そのものへ向けたとき、その答えを知ることが出来る。


自分の心を何に使うのかは、全ての人に平等に与えられた権利である。


自分の心を何に使うのかは、全くの自由である。



あなたなら、自分の心を一体何に使うのだろうか?

麻原は口が上手い、というか話が上手い、というか言葉の使い方が上手い。



かつてテレビ出演していた時期があったが、てか、その後も悪いニュースでのみ何度も登場はしているのだが。(笑)


テレビタックルだったか何かでたけしと対談した時、ものの見事にたけしを手玉に取っていた。



とんねるずの番組では質疑応答を行い、宮沢りえのヌード写真集について聞かれたときには「脱ぎたい人は脱げばいい。」と答えて笑いを取っていた。



東大での質疑応答では真我についての質問が出た。


さすがはというか何というか、東大生らしくこんな質問が出た。



「真我は無我であるという説と、真我は非我であるという説がありますが、どちらが正しいのですか?」



この質問に麻原は、「無我でも非我でもない、越我である。」と答えている。


まったく見事だ。


この一言で理屈っぽい東大生を黙らせてしまったのだから。



実際には、真我は真我だとしか答えられないものである。


これは数学で考えてみれば分かりやすい。



1+1はいくつかということについて、それは3だという説と4だという説がありますがどちらが正しいですかという質問に対して、それは3でも4でもなく5だと答える。


答えは2なのだが、そのことが分からない相手にはこんな答え方をするのだ。


理解できる能力を持たない相手には正解を教えずに、ただ黙らせるためだけに方便を使う。


これが麻原 彰晃なのだ。