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麻原とダイジとの間で、ババジについてどんなやり取りがあったのだろうなと思う。


結局パイロット・ババを紹介することになったわけだが、麻原はババジについてどう思っていたのだろうか?


ババジはまさにシヴァ神の直系。


麻原にとっては憧れの存在だったのではないかと思う。




麻原は過去の人物たちを自分の前世であると言っている。


徳川家光、朱元璋、ベンジャミン・フランクリン、イムホテップなどなどであるが、オウムに直接関係があるものと言えば、ナローパとパドマサンバヴァということになると思う。


いずれもシヴァ神の直系ということだが、シャカムニに関しては直系ではないからなのか、自分ではないと言っている。



本来なら、麻原はババジも自分であると言いたかったのだろうが、そうは出来ない理由があった。


ババジはその死後と言っていいのかどうか分からないが、その後も各地に何度も現れているのである。


ヨガナンダののグルのグルのときは確か100年ほど前ではなかったかと思うが、その後にも再びインドに現れ、その後にコスタリカ、その後に再びインドでダンテスダイジに会い、数年前にはアメリカに現れている。



不思議なことに、現れるときはいつも同じ姿形なのに、指導する内容がそのつど違っているのだ。


チベットの転生仏と逆のパターンだが、その時代、その国、その人に合わせた指導をしているということなのだろうか。

ダンテスダイジには悲しみがある。


そんな事を書くと、「ジャンブ州には悲しみがある。」を思い出してしまうのだが。(笑)


ダイジは苦しんでいる人を見て悲しみ、そこから救い出そうとした。


一般的に言うところの精神を病んでいる人について、ダイジは修行の途上にあると言っている。


修行者というものは、修行が進むと一旦おかしくなって、それを抜けて解脱するという考え方である。



実はこれ、麻原も初期の頃は同じ事を言っていた。


過去世において一生懸命修行なさって。表層意識を落として潜在意識に入っているから、おかしく見えているだけなのだということだった。



ダイジはこういった人たちを自分の傍において指導している。


もちろん本人がそれを望んだ場合だけなのだが、付きっ切りで指導して1年とか1年半とかかかる。


これをダイジは弟子とは言っていないし、お金も取っていない。


慈善事業じゃあるまいし、何を考えているんだまったく、である。



ところがオウムは全く違う。


金は取るのだが、一向に症状が改善しないのだ。


そして、最後は魔境だと言って切り捨てる。


自分が所属していた団体ではあるのだが、まったく酷い話だ。



それゆえに、教団最初の事故による死亡者が出てしまうのだが、その理由はオウムがそういう人たちに対する対処法を持ち合わせていなかったからである。


僕も比較的、教団の内部事情に詳しい方なのではないかと思うのだが、こういった人たちに対する対処の仕方や、効果があったという話は聞いたことが無い。



ダイジにしか救えない人々。


そういう人達は、今も大勢いるのだろうと思う。

さて、そろそろまた、書きかけの記事へ戻しますかね。


ダンテスダイジを片付けて、その後にアストラルテレポーター、そしてロシアツアーだな。



それ以外では、人物紹介シリーズで、早川のおやっさんの「ある雨の日に。」


アーチャリーの「右ストレート。」


ドゥルガーの「負けず嫌い。」


カーリーの「ハチミツがありません。」



んで、凄まじい闘いとも言える、極限修行の体験を描いた「心臓が止まりました。」


また、それとは違った、これまた凄まじい闘いを描いた「プルシャを落としました。」



教団を離れる時に麻原と話をしたのだが、そのときのことを書いた「最後の言葉。」



さらに、まだ全く手を付けていないんだけど、未解決事件。


坂本弁護士事件、村井刺殺事件、警察庁長官銃撃事件の3つについてなんだけど、これらは全て麻原がプロに仕事を依頼したというのが僕の見解。


警察庁長官銃撃については違うかなという気もするが、未解決事件ならではということで一緒にしておこう。


まあ、いつになったら始められるのか分からんのだが。(笑)

テレビを見ていたら、ブライダルソングの人気ナンバーワンはアナ雪ということだった。



ほぉ~お。


面白いもんですなあ。




ありのままの~。


なしのぱぱの~。



って、


なすがまま。


きゅうりがぱぱ。


って、やつなんですかね。(笑)

麻原は、修行者にとって大切なのは「性欲絶倫」であると言っていた。


しかし、まあ、こういう面白い内容の説法が表に出てこないのは、どういう訳だろう?



ここで重要な事は、「精力絶倫」ではなく、「性欲絶倫」であるということである。


オウムの修行において、クンダリニーというものは、重要であるというどころではなく、これなくして修行は有り得ないといってもいいぐらいである。



そして、そのクンダリニーとは生命エネルギーであるのだが、その本質は性エネルギーであり、すなわち性欲である。


性欲が弱いとは、クンダリニーのエネルギーが弱いということであり、そんな性欲の弱い奴にオウムの修行をする資格はないのである。



オウムの修行はまさしく性欲を強める修行であり、神をも恐れぬ性欲の持ち主こそが、偉大なる修行者なのである。


しかし、精力絶倫ではない。


人を超えた桁外れの性欲を持ちつつ、接することなかれ、触れることなかれ、なのである。



ある女子Aを見て、性欲発動。


エネルギー上昇、気持ちいぃ~。


また、他の女子Bを見て、これまた性欲発動。


エネルギーが回り、甘露が滴り、歓喜状態。



ということなのだが、麻原はひとりでこっそり精力絶倫になっておった。


なんてこったい!