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8月29日に電王戦の記者発表があるようですな。


http://live.nicovideo.jp/watch/lv187174538



さ~て、今回はどうなるんだろうなあ?


まあ、発表があるってことは、開催されることは間違いないと考えていいのだろうか?


さて、行法解説もあと残すはアパンクリアだけになってしまった。


オウムの行法は他にもたくさんあるのだが、全てを解説するのは面倒だし、またその必要もない。


肝心なことは真我の概念を理解することであり、そのためには3つの道があることは既に書いた。



信じること。


これがバクティーヨーガであるが、盲信の危険性がある。


理解すること。


これがジュニアーナヨーガであるが、高い知性が必要とされる。


体験すること。


これがクンダリニーヨーガであり、一般的な方法となる。


で、その体験をするために様々な行法があるのだが、その目的は真我の概念を理解するということであり、真我の概念を理解できる手助けになるのであれば、全ての体験は肯定される。




苦の詞章はマントラと同じ修行体系である。


10万回の課行を終了した後は、瞑想として行うことも出来る。



ひたすら詞章を唱えて、その中に没入する。


マントラと違って日本語なので、心の働きを利用しやすいという利点がある。


ここで役立つのが「苦の総量は一定である。」という考え方である。


それが事実であるかどうかはどうでもいい。


もし、その考え方を受け入れるのであれば、自分が苦しみを背負うことでこの世界の苦しみが減るということになる。


この心の働きを利用するということだ。




ひたすら苦の詞章を唱えてその中に没入すると、この世界はなんて苦しみに満ちているのだろうという思いが浮かんでくる。


そして、それがとても悲しい。


そこでこう考える。


「苦の総量が一定であるのなら、自分がその苦しみを背負いたい。」



すると、目の前に黒い霧のようなものが見えてくるだろう。


それがこの世界を覆う苦しみである。


それは自分の胸の辺りに吸い込まれていく。


苦しみがどんどん自分の中に吸い込まれていくことが、とても嬉しい。


まさに歓喜である。



ここからさらに、次の段階へと進む。


黒い霧を吸っても吸っても、後から後から湧いてくる。


そこでこう考える。


「自分の器がもっと大きければ、もっとたくさんの苦しみを背負えるのに。」


すると、自分の身体が大きくなっていく。


日本よりも、地球よりも、銀河よりも大きくなり、ついには宇宙と同じ大きさになってしまう。


ここで、全ての苦しみが、自分の内側に内在することとなる。


その素晴らしい歓喜状態を味わっていただきたい。

サイコパスの新編集版をやっているようだ。

まあ、「名前のない怪物」と聞くと「モンスター」を連想する人も多いかもしれない。


ヴァジラヤーナの考え方というか、麻原の思考パターンを理解できないのは、麻原が正常な人間だと考えているからなのだと思う。

自分ならこうするとか、自分ならこんなことはしないという、自分という正常なものを基準にしてしまっているのだ。


麻原に関しては、解脱と救済に特化したサイコパスだと考えてもらえれば、その思考パターンを知ることが出来ると思う。

サイコパスの思考パターンは、普通の人間の理解の範疇にはない。

しかし、知識があればそれを知ることが出来る。

麻原も同様に、その思考パターンを理解することが出来なくても、知識として知ることは出来るということだ。


麻原の思考パターンは最初から最後まで変わっていない。

チベット密教のタントラヴァジラヤーナという考え方を知って、それをオウムの教義に取り込んだというのは間違った考え方である。

麻原には、初めから狂気の考え方があったのだ。

ただ、それには名前がなかった。

その初めからあったものに、タントラヴァジラヤーナという名前をつけただけだ。

名前のない怪物は、最初からそこにいたのだ。


ペットを飼う場合、犬でも猫でも同じ事で、名前をつける前から存在している。

名前をつけた瞬間に、犬や猫が空中から湧き出してくるわけではない。

タントラヴァジラヤーナも同じように、初めからそこにあったのだ。

ただそれは、ペットのように可愛いものではなく、とんでもない怪物だったということだ。


ヴァジラ・チッタ ナマ シヴァ ヤ


金剛心を持って、シヴァ大神に帰依し奉ります。



金剛心については前に解説した。


信じることではない。


正しいわけではない。


見返りを求めてはいない。



この金剛心を持った者が実践する道がヴァジラヤーナである。


何をやるにしても金剛心を持って行う。


その結果、最終地点にまで到達する最短の道、そういうことになっている。



しかし、この道は誰にでも実践できるわけではなく、金剛心を持たないものがうわべだけの実践を行うのは非常に危険である。


この実践に失敗すると、地獄へ落ちる。



グルを信じていたのに、裏切られた。


グルが正しいと信じていたのに、犯罪者だった。


グルについていけば解脱できると思っていたのに、出来なかった。



このように感じた弟子たちは、グルを裏切り、グルを批判し攻撃を始める。


これは、修行の基本である非暴力と真逆の実践であり、地獄のカルマとなる。


同じ状況で、金剛心を持った弟子が全く心が動かないのと対照的である。



しかし、よくもまあ、こんな理屈を考えたものだなと思う。


一般的な現代の日本人は、小さい頃から大抵次のような教育を受けて育つ。


人を信じることは素晴らしい。


正しいことをやりなさい。


頑張っていればいいことがあるよ。



ヴァジラヤーナはこれらのことを、真っ向から完全否定している。


日本人がオウムの教義を理解できないのは当然のことだと思う。


こんな当たり前と思えることを否定した思考パターンを、受け入れられるわけがないからだ。


人間は感情の動物であり、感情が思考の邪魔をして理解することを妨げる。


まあ、仕方のないことなのだろう。



グルが弟子を裏切り、見捨てる。


そして、あろうことか地獄へと落とす。


それを前提としているのがヴァジラヤーナである。



このようにグルから与えられる課題というものは非常に厳しいものである。


しかし、それを淡々とこなす。


それが無頓着の実践である。


なんて素晴らしいんだ!

オウムの教義では、麻原は救済者であるので、全ての魂をマハーニルヴァーナに入れてから、自分が最後にマハーニルヴァーナに入ると言っている。


なんて素晴らしいんだ。


ということは、当然来世はニルヴァーナには入らずに輪廻転生することになる。


オウムの教義ではカルマの法則は絶対なので、輪廻転生する限りはカルマの法則から逃れることは出来ない。


なぜなら、カルマの法則から逃れるということは、輪廻転生しないということを意味するからだ。



つまり、次の結論が導き出されることになる。


麻原は今生において大量殺人という殺生のカルマを積んだ。


よって、来世は地獄に落ちることになる。


弟子たちも同じく地獄のカルマを積んでいるので、当然のごとく地獄へ落ちる事になる。


方便に惑わされること無く、忠実にオウムの教義に従って考えるなら、これ以外の結論はない。



つまりヴァジラヤーナとは、弟子たちを地獄へと落とす教えだということになる。


これにタントラヤーナ、目的のためなら嘘をついてもいいという考え方が加わる。


弟子たちが自分が地獄に落ちることを理解した上で、グルの指示を実行に移すのなら、それはそれで仕方がない面もある。


しかしタントラヴァジラヤーナは完全な騙し討ちである。


そして地獄へ落ちて、文字どおり地獄の特訓を行うことになる。



麻原は全てを理解した上で、自分から地獄へ落ちるというのだから文句はあるまい。


しかし、事実を知らずに地獄へ落ちる弟子たちは、果たして納得できるのだろうか?



オウムの教義において、ヴァジラヤーナはひとつの生で最終地点にまで到達することを可能にする、最短の道であるとされる。


しかし、失敗すれば地獄に落ちるということになっている。


これは当然のことだろう。


地獄に落ちてからが修行の始まりなのだから、抜け出せるなら最短の道。


失敗すれば地獄に取り残されることになる。



これを厳しいと考えるかどうかは人それぞれだと思う。


まあ、それがタントラヴァジラヤーナのグルというものであり、地獄に落とすことがグルの愛だということになる。


ヴァジラヤーナにおけるグルの愛というものは、小乗や大乗の愛とはかけ離れているのだ。


つまり、小乗や大乗を基準に考えるのなら、ヴァジラヤーナにおいては、グルから弟子への愛は無いということになる。