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護摩供養の前は護摩法を行っていたわけだが、これは死体処理のために始まったもののようである。


建前上は神々への供養であるので、燃やすのに石油は使えない。


供養とは要するに食するということなので、使えるものは食べられるものだけであるからだ。


白絞油を使っていたようだが、弁当屋から調達したのだろう。



アストラル丹ヤソーマ、果物などが供養されていたが、あまりにも凄まじい火力なので消防車が何台もやってきて拡声器を使ってやいのやいの騒いでいたらしいが、そこはオウム真理教なので完全に無視して続行。


私有地でやっていることなので無断で立ち入ることも出来ず、建物が燃えているわけではないので手出しが出来なかったようだ。



という歴史を経て、道場の2階で護摩供養が始まるのである。


まあ、要するに、サマナたちが買い食いをせずに、こういうちょこちょこしたもので我慢しとけということだ。


五平餅なんか食べに走ってはいかんのである。


道場の向かいの雑貨屋でヨーグルトを買ってもいかんのだ。


ましてや、クルタを着たままコンビニで立ち食いなんぞ、もっての他である。



そんなこんなで、サマナたちにとっては、忙しいワークの合間をぬって、つかの間の楽しいひと時だったのだが、あるときから異変が起こり始める。(笑)

どろどろを供養するとき、その横にハエが卵を産みつけていることもある。


かろうじて立体的な構造を保っている部分に密着し、ひっそりと寄り添っている。



困るんだよねえ、こういうの。


オウムでは殺生を禁じているのですよ。


ゴキブリ同様、ハエの卵もどこかへ逃がしてやらなければならない。



なんでこんなことになるのかというと、お供物にはラップをかけることも網をかぶせることもゆるされないからである。


まあ、これは一般家庭の仏壇のお供え物と同じだと思う。


おまけにハエが飛んでいても殺虫剤を吹きかけるわけにもいかず、その存在を生ぬるく見守るだけである。




ということで思い出したんだけど、ハエや蛆虫というのはとても役立つ生き物である。


まあ、地球上の生き物というの何らかの形で役に立っており、地球という視点に立てば環境を破壊しているのは人間だけであるのだが。


人間というのは、自然の中に生まれたがん細胞のような存在であり、今も激しく増殖中である。


エボラやデング熱も、人間というがん細胞を抑制する、地球の免疫システムなのかとさえ思えてくる。


人を殺してはいけないと言いつつ、世界中で人が殺され続けているのも、そういう理由によるのかもしれない。



え~と、人間の事じゃなくて、ハエの話でした。


蛆虫には歯がない。


したがって固いものは食べられない。(笑)


食することが出来るのは、どろどろに柔らかくなったものだけである。



で、どろどろになっているということは、そこには様々な雑菌が繁殖している。


ではなぜ、蛆虫はそんな身体に悪そうなものを食べても平気なのだろうか。


ここに蛆虫の持つ特殊な、素晴らしい能力がある。



蛆虫は体内で天然の抗生物質を作り出し、それを口から吐き出してどろどろを殺菌してから食べているのだ。


蛆虫は雑菌を食べても平気なのではなく、雑菌を食べてはいないのだ。



観念の崩壊だよね~。


食物は、どろどろになっていることが悪いのではなく、そこに繁殖している雑菌が悪さをしているだけである。


食物自体はどろどろになって、消化吸収しやすくなっているだけである。(笑)



それにしても、人間や他の生物にとって有害な菌を殺菌してくれているなんて、なんて有難いんだ!


もし、蛆虫がいてくれなかったら、地球上は雑菌まみれの恐ろしい環境になってしまっていることだろう。



この蛆虫の持つ素晴らしい能力は医療にも応用されており、糖尿病で壊死した患部の除去に使われている。


繰り返すが、蛆虫には歯がない。


正常な細胞を全く傷つけることなく、壊死した部分だけを取り除き、無菌状態にしてくれる。


そして、食べる餌がなくなってしまった蛆虫たちは餓死するのである。


なんて悲しいんだ。

どろどろになった食物を食べたからといって、そうそう大事に到るようなことはないということはオウムでの経験上知っている。


実はこれにはちゃんとした理由がある。


見た目も、臭いも、味も、全部が普段と違っていたとしても、そこに有害な菌がいるとは限らないのである。



テレビなどでよく目にするO157やウェルシュ菌などは、味も臭いも、もちろん見た目も普段と何も変らない。


だから油断してしてしまうのであるが。



O157は非常に弱い菌なので、他に雑菌がいる環境では生存競争に勝てず、あまり増殖できない。


つまり、味や臭いが悪くなるような菌がいる環境には、O157はいないのである。


衛生管理の行き届いた、人間が作り出した雑菌のいない不自然な環境でなければ、O157はほとんど増殖できないのだ。



ウェルシュ菌もまた生存競争に弱い。


加熱調理されて他の雑菌がいないなった後でなければ、ほとんど増殖することが出来ないのだ。


ウェルシュ菌は他の味や臭いが変になる雑菌よりも熱に強いためにこんな事が起こってしまう。


まさに盲点である。



というわけで、見た目や味や臭いがおかしくなっていたとしても、大丈夫食べられるのである!(笑)



一時期、オウム食を祭壇に上げて、十分に原形をとどめないほどにどろどろになってから供養するということを毎日行っていた。


繰り返すが、O157やウェルシュ菌による食中毒の心配はない。(笑)


見た目の形状はそれが元は何であったのかが分からなくなっているが、その色合いはかろうじてかつての面影をとどめている。


一般の人は一生食べることのない味と臭いではある。


手でつまんでも崩れ落ちてしまうので、生クリームでもすくう様にして指につけて舐めることになる。


まあ、猫じゃないので皿を直接舐めたりはしないのであるが。



で、この供養の時にまるで電気ショックのようなエネルギーを感じる。


英語で表現するなら「クレイジー」というやつである。



あの当時はもの凄いエネルギーが上がるなあ、などとみんなで言い合っていたのだが、よく考えてみると生命の危機に陥った場合の、単なる生体の反応だったのかもしれない。(笑)

コメントがあったのでこれも書いておこう。



護摩供養のお供物も様々で、まるごとの生野菜もあれば腐った果物もある。


だからこそ、麻原が腐ったぶどうは全部自分が供養するといって、何時間も黙々と食べ続けた。


そして、それを村井が真似をする。(笑)


なんて楽しいんだ!



まあ、普通に考えればまるごとの生野菜とか、腐った果物を祭壇に上げて神々に供養するなど、冗談にもほどがある。


なんでこんなふざけた事になったのかというと、買出しに行っていたVと石井、そして関係した幹部達全員が揃いも揃ってアホだったからに他ならない。


気付けよ!正気かよ?


と、僕などは思うのだが、そこはそれオウム真理教である。


なんて素晴らしいんだ!



しかし、まあ、色々食べてみたけど、そう簡単にはお腹を悪くすることはない。


いわゆるマニプーラが強いというやつである。



そうだ、ついでにこれも書いておこう。


日本の仏教というものは、大別すると葬式仏教かお払い仏教である。


お払い仏教は、怨霊だとか生霊だとか念だとかが得意分野である。


これはオウムの教義では低級霊域、スヴァジの世界である。


したがって、それよりも上のマニプーラの世界の火を使うことで調伏する。



串刺しで呪いとかいっても心配することはない。


まあ、護摩法を使い出したら覚悟をしてもらったほうがいいかもしれない。(笑)


麻原は護摩供養の前は護摩法を行っていたのだから、その作法を伝授されている弟子もいるかもしれない。



で、オウムの勢力が拡大するにつれて、既存の宗教からの妨害は当然起こってくる。


そのうちのひとつがA宗で、さんざん護摩法を使って呪いをかけてきたという話を信徒時代に聞いたことがある。


もちろんそんなものは、火よりも上のアナハタの風のステージにあるものには全く通用しない。


全部はね帰してしまうと大変なことになるので、相手に害が及ばないようにしていると麻原は言っていた。


で、このときにお腹が痛くなるスタッフが何人かいたということだ。


笑い話だねえ。

色々やりとりをしていて思うのだが、論点がずれたままですな。(笑)


まあ、人と人との言語によるコミュニケーションにおいては、よくあることではあるのだが。



ある単語や文章について、それぞれの人たちがそれぞれの理解をしている。


そして、他人の理解が自分の理解と同じだと勘違いをしている。


勘違いをしたままの人生を送ることが出来れば幸せである。


しかし、勘違いに気付いたとたんに、人生に不幸が訪れる。(笑)




まあ、いいか、そんなことは。


このブログで何度も書いてきたことだが、死ぬのが怖いと言っている人はそのままの意味で、「死ぬ」ことが「怖い」のである。


しかし、ほとんどの人にとってはそうではない。


「死ぬ」ことに関連する何らかの事がらが「嫌である」または「そうあって欲しくない」ということなのだ。



つまりは、大多数の人にとって、死ぬのは怖くないということになる。


しかし、一部の人にとっては、本当に死ぬのが怖いのだ。


死に関連することがどうこうというのではなく、純粋に死ぬことそのものが怖い。



ところが面白いことに、「死ぬのが怖い」人はもちろん「死ぬのが怖い」と言うのだが、死ぬのが怖いわけではなく「死ぬことに関連することが起こって欲しくない」人もまた、なぜか「死ぬのが怖い」と言うのである。


全く違う意味であるにもかかわらず、どういうわけか同じ言葉が使われているのだ。


まあ、世の中にはよくあることなのかもしれない。(笑)



これをオウムの教義ではタマスというのだが、とても曖昧なぼんやりとした状態である。


こんな区別もつかない様なことでは、到底オウムの教義など理解できるはずもない。


なんて悲しいんだ。