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このブログの読者は、ほぼ全員が後から事件の事を知った人たちなのだろうと思う。


そのため、いつごろどういう順番で、何が起こったのかを把握するのは難しいかもしれない。



選挙期間中のある日の事、麻原から事務に電話があった。


電話を受けたのはTIであったと思う。



あの当時はサマナのほぼ全員が杉並道場に結集していた。


そのため、富士山総本部道場に残っている男性サマナは数人だけだった。


その男性サマナたち全員が呼び集められ、麻原からの伝言が伝えられた。



その伝言とは、「アングリマーラがサティアンに行っても、絶対に中に入れるな。」


というものだった。



当時サティアンの扉には全て鍵が掛けられており、サマナは誰も中には入れなかった。


一体どういうことなのか、さっぱり分からない。


大抵いつもそうなのだが、麻原からの支持は意味不明である。


その意味不明な部分を、それぞれの弟子たちが、それぞれ自分勝手な解釈をする。(笑)


そういうことになっている。




佐伯がサティアンにやって来るとはどういうことなのか?


これだけを聞く限り、何のことだかさっぱり分からない。


最初にこの伝言を聞いたとき僕が考えたのは、佐伯がサティアンにやって来たら中に入れてやってくれということなのかなということだった。


麻原が言ったことと逆になるが、これなら意味が通る。


なぜなら、サティアンには鍵がかかっており、もちろん中には入れないからだ。


麻原からの連絡がなくても、普通に考えて佐伯は中には入れない。



おまけにサティアンの入り口は道場の入り口と反対側にあり、道場を通らずに直接サティアンに向かわれたら、道場にいるサマナたちには気付きようがない。


これはどういうことなのか?


佐伯はやって来るなり、サティアンのドアをぶっ壊して侵入するとでもいうのだろうか?


そもそも、佐伯は何をしに富士にやって来るのだろうか?


あれこれ考えてみても、答えは出なかった。

は~、面倒くさいけど、西村さんから提案があったので書いておこう。


まあ、こういう細かいことをひとつひとつきちんと片付けるところが、我ながらステージ高いね。(笑)




元R師オフ会の参加希望者は誰でもオウムへ。


参加希望者が多ければ、伝達事項はアメンバー限定記事を使おうかなと考えています。


あくまでも参加希望者が多ければ、だけど。


まあ、ピグを使えば不定期にでも集まることは出来るので、それでいいんじゃないかという気もする。




いずれにせよ、個人的には興味はないのだよ。


私はオウマーでもなければ汚物でもない!


私は聖者なんだ!私は聖者なんだ!


なんて素晴らしいんだ!なんて素晴らしいんだ!

地元の図書館にようやくアーチャリー本が入った。


現在は貸し出し中である。


なので、予約をしてきた。




そこで思ったんだけど、


予約カードに著者名を書いていたら、名前が難しい。(笑)


めっちゃ画数多いやん!



この名前と一生付き合っていかなけりゃいけないなんて、アーチャリーも大変だなあ。


義務教育は満足に受けられなかったんだろうけど、小学生でこの名前を書くってことになったら相当苦労するだろうなあ。


僕が小学生の時だったら、絶対マス目からはみ出してると思う。(笑)

死刑囚の描いた絵についてのテレビ番組の感想。



まあ、それぞれ個性的な絵ではあると思う。


何かを表現したいというエネルギーのようなものは感じる。



が、しかし、本職の画家と比較すると、まあ、こんなものかという気もする。



佐伯は永岡さんから厳しい評価を受けていたようだ。


麻原ならおそらく、中途半端だと言うだろう。



謝罪を示したいのであれば徹底的に謝罪すべきであるし、絵を売って賠償に充てたいのであればもっと高い値段で売れる絵を描くべきである。


麻原なら、何億、何十億で売れる絵を描けと言うんだろうなと思う。

コメントにあったので、死の恐怖という事について解説。


これはコメントで書いた通りで、死の恐怖というものは存在していない。


いわゆる疑心暗鬼というやつで、暗闇はあってもそこには鬼はいない。



では一体、鬼を作り出しているのは何なのか?


ということになる。



これは心の働きである。


心の働きは各個人で違うために、鬼がいると思う人もいれば、そんなことを全く気にしない人もいる。



そして、心の働きというのは面白いもので、常にそうだという訳ではない。


現象に対して、心が動いた時にだけ、心の中に、本来いないはずの鬼が生ずる。


これを苦しみの生起と言う。



したがって、この心の働きを何とかできれば、苦しみはなくなるという事になる。


そのための、心の働きを止滅させる技法の集大成をヨーガと呼ぶ。


つまり、修行とは、心の働きを死滅させるための努力、ということになる。



この修行には、ふたつのアプローチの仕方がある。


ひとつはエネルギーによって解決する方法。


もうひとつが論理的に解決する方法である。



エネルギーによって解決する方法はひたすら行を行う。


どこまでやったら終わりというゴールは設定されていない。


しいて言うならば、爆発が起きるまでである。


オウムの修行においては、ヴァヤヴィヤなら1,000時間、ツァンダリーなら10万回という目安があるが、これは気にしなくていい。


死ぬまで修行を続けるという心構えがあれば、ヴァヤヴィヤなら500時間、ツアンダリーなら3万回あたりでとりあえず最初の爆発が起こるだろう。



論理的に解決する方法はこれらとは全く違う。


これはいわゆる四念処の瞑想と呼ばれるもので、ひたすらその原因を掘り下げていく。


井戸掘りと同じで、水が出るまで掘り続ける必要がある。


どんなに深く掘っても、水が出なければ全ては無駄に終わる。


そして、この深く掘る作業には、エゴが全力で抵抗をする。


答えに近づけば近づくほど、死ぬほどの苦しみを味わうことになる。



まあ、このふたつのアプローチは、どっちにしても大変なことであるので、真剣に取り組もうとするのは偉大な修行者だけということになる。