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確かにねえ。


今どき解脱を目指して修行するなんていう、スポコンドラマ時代の生き残りみたいな御仁はいないとは思うのだが。


まあ、多少は修行をしてもいいかなと思っている初心者には、ヴァヤヴィヤとツァンダリーを指導する機会というものもあってもいいのかなと思ったりもする。



成就者については、お前たちは勝手に修行してろ!


ってことで、放っておけばいいのだが、ヴァヤヴィヤやツァンダリーのやり方を知らないのであれば、一度は学んでおくべきではないかと思う。



ヴァヤヴィヤをやるたびにダルドリーが起こる。


ポーン、ポーン、ポーンと何度も何度も飛び跳ねる。


まあ、これが上流師と呼ばれる存在なわけだ。



ツァンダリーをやるたびに白い光に没入し、歓喜状態となる。


まあ、これが到達光師と呼ばれる存在なわけだ。



当時僕は分類上は到達光師だったのだが、努力しだいで誰でもそこまでは行けると考えている。



別にかつてのセミナーや集中修行のような地獄の特訓みたいなことをやらなくても、行法指導をして完全に型をマスター出来るところまでいい。


そんな事が出来ないかなあ、とか思ってみるのだが、


のだが、


のだが、



そんな事をしたら、絶対週刊誌ネタになるよね。(笑)


まあ、夏の夜の夢ってことで。

不思議な事の様に思えるのだが、コメントを見ていると肉食動物は飢えて死ねばいいんだと考えている人が多いように思う。


中途半端な教義の理解の結果そうなっているのではないかと思うのだが、肉食動物にもまた生きる権利がある。


ただカルマによってそうなっているのであり、そこから抜け出すには修行する以外に方法がない。


目先の行為だけで善悪を判断することは無意味である。


善悪を判断するための基準となるのは、その行為の時の心の働きと、修行に向かっているかどうかだけだ。



と、まあ、修行者のものの考え方というのは、一般人には理解不能なのだが。(笑)




で、ヨトウムシを供養されて大喜びしているアシナガバチのお話なのだが。


「とても素敵なプレゼントを有難う。」


というアシナガバチの喜びの波動が伝わってくる。


小さな虫が人間に対して、喜びの感情を表すのはとても珍しいのではないだろうか。



これで子供たちに美味しいご飯をあげることが出来る。


母親達の愛情は、全ての生き物に共通なのだろう。



またしても、飛び立ちもしないのに羽を唸らせて、ぐるぐる回りながらアシナガバチが何かし始めた。


動きが早いので細かいところまではつぶさに見分けることは出来ないが、ヨトウムシを解体して肉団子を作っているようだ。

オウムというのは不思議空間なので、いろんな不思議なことが起こるのだが、誰も気に留めない。


大抵は、「へ~、そうなんだ。」


で終わりである。



そもそも、ダルドリーとか空中浮揚が起こるということが、既にして異常とも言える事態ではなかろうか。


深山さんのブログに何人かの空中浮揚の経験者がいるということが書かれていたが、僕も自分で経験した時は非常に驚いたものだ。


ただそれは勝手に起こったことであり、本人は空中浮揚をしようなどとは思ってもいないものだから、もう一度やれといわれてもどうやればいいのかが分からない。(笑)



まあ、オウムでは誰が凄いというよりも、みんなが凄かったというのが正しいのではないだろうか。


オウムには、才能を持った優れた修行者達が大勢集まってきていた。


そういうことなのだろうと思う。




それと、


声を聞くということについて。


大仏や虫はいいとしても、植物はどうなのか。



これも、声は出している。


しかし、動物とはかなり違っているように思う。



例えば、木の声を聞こうとして気のそばに立ったとしても、すぐにどうこうというのはない。


木の声というのは、人間の感覚と比べると、かなりスローペースに思える。


人間が、「あいうえお」と思考する間に、木は最初の「あ」の横棒一本すら引き終えていない。



だから、木の声を聞くには、じっくり相対する必要があるように思う。


木と同じように、アリや虫たちが身体を這い回っても動かずにじっとしていれば、その声が聞こえてくるのだろうと思う。


ただ、面倒くさいのでやったことはない。(笑)

霊というものについて誤解があるのだろうと思う。


霊というのは肉体がない、バルドーに入る前の人間のことである。


したがって、肉体がないだけで、それ以外は普通の人間との違いは無い。


ように思える。



よく霊能者が霊だの何だのと言っているのは念の事である。


この念というのは単なるエネルギーの事であり、それは生きている人間と死んでいる人間と両方に存在する。


とは言っても、念じたいは生きている間にしか形成されないのだが。



霊そのものは、別に生きている人間と違いは無いので、何の問題も無い。


ただ、その移動方法はテレポーテーションのようなものではないかと思う。


なぜなら、突然現れて、そして突然去っていくからだ。


しかも、あっさりと壁を通り抜けたりもする。



そういうことだとどこかで聞いたような話だと思う人もいるだろうけれど、これはまさにオウムでいうところの変化身が持つ能力と同じなのである。




あともうひとつ。


動物界における殺生について。


結論から先に言ってしまうと、これは悪業にはならない。


まあ、この辺の話は説法にもいくつか出てくるのだが。



なぜなら、それは生きていくために必要な事であり、許容範囲として認められているからである。


だから、一度動物界へと転生すると、何度も繰り返し動物界へと転生すると言われているのである。


これはつまり、殺生が地獄のカルマになっていないことを意味する。


動物界のカルマとは無智であり、その無智により動物の生を繰り返すのである。



つまり、アシナガバチが蛾の幼虫を殺生しても悪業にはならない。


悪業にはならないので、人間がアシナガバチに蛾の幼虫を供養しても同じく悪業にはならない。


人間にとって悪業になるのは、蛾の幼虫をアシナガバチに供養せず、自分で殺した場合である。

そういえば最近、朝早くヒグラシが鳴いている。


ヒグラシと言えば秋の夕暮れのイメージだから、なんとも季節はずれな気がする。



今日も朝、目が覚めた時に時計を見ると、まだ4時半だった。(笑)


窓の外ではヒグラシがけたたましい鳴き声を響かせている。



それが面白いことに、その鳴き声は段々と遠ざかり、5時を過ぎる頃にはまったく聞こえなくなってしまった。


この辺は田舎だけれど、今までにヒグラシの鳴き声は聴いたことがない。


これは一体どういう事なのだろうか?


そう言えば、ツクツクボウシの鳴き声も、ここ数年で前とは違う鳴き方になってしまっているから、虫の世界にも異常気象の影響が出ているということなのだろうか。




それはさておき。


オウム真理教の支部道場の、台所の流しの下の扉の中のスペースに置いてあるバケツの中に、馬鹿でかいタランチュラがいたというのは謎である。


そのバケツの中に入るには、支部道場の入り口を入り、台所のドアを開け、流しの下の扉をも開ける必要がある。


いくらでかいからといって、クモにそんな器用な真似が出来るとは思えない。



そして、アストラルを旅してやって来たとも考えにくい。


たしかにヒロヒトなら、富士山総本部道場の目の前に出現したのだから、それはそれでオウムにやって来たとする解釈は可能かもしれない。


しかし、支部道場の、しかもゴキブリのバケツの中に現れるなど、必然性が無さ過ぎる。(笑)



ということになると、誰か人間が道場の中にタランチュラを持ち込み、バケツの中に置いていったということになる。


一体誰が?何の為に?



もしかしたら、そのタランチュラを置いていった人物は、オウムで飼ってくれるのではないかと考えたのかもしれない。


もしそうなら、その思惑は見事に外れたことになる。


なぜなら、そのタランチュラはペットショップに引き取られていったのだから。(笑)